2026年8月2日 主日礼拝説教「義に飢え渇く人々は幸いである」東野 尚志 牧師
アモス書 第8章11~12節
マタイによる福音書 第5章1~12節④
先週の火曜日、7月28日の16時27分、九州の熊本地方を中心に、最大震度7の地震が起こりました。画面が大きく揺れる定点カメラの映像や、ショッピングモールの爆発の映像が何度も報じられ、目に焼き付いています。前回、熊本城に大きな被害が出た地震から10年を経て、新たな被害に胸が詰まります。とりわけ、このたびは、私たちの教会の佐藤正幸神学生が、長崎の佐世保東部教会で夏期伝道実習をされるということで、熊本と佐世保の位置関係なども考えながら、心配された方も多いと思います。地震の2日後には、ご夫妻で九州に発って、本日から派遣先での実習が始まる予定になっています。熊本と佐世保は、直線距離で100キロほど離れていますけれど、いろんな影響はあるかと思います。皆さまにも、ぜひ、覚えてお祈りいただきたいと思います。
今から40日程前には、ベネズエラにおいても、大きな地震が起こりました。死者が5千人を超えて、まだ被害の全容も分からないようです。地震が起こって1ヶ月ほどは、被害状況などがニュースで伝えられていましたけれども、熊本の地震が起こってからは、当然のこととはいえ、そちらに関心が移ってしまいました。しかし、忘れてはならないと思います。初めは、ベネズエラってどこの国かしら、と思った人も多かったのではないでしょうか。その地理的な距離は、心理的な距離にも影響を及ぼします。けれども、そこに自分の家族や友人がいるとなれば、その距離は一気に縮まります。「私の隣人とは誰ですか」と主イエスに尋ねた律法の専門家に対して、主イエスは、善いサマリア人のたとえ話をなさった後で、誰がその傷ついた人の隣人になったと思うか、と問い返されました(ルカ福音書10章36節)。私たちが愛するべき隣人をどこかに探すのではなくて、私たち自身が、助けを必要としている人の隣人になる、ということが求められています。大きな災害の報道に接する度に、私たちに何ができるか、ということを考えさせられます。役員会で相談して、改めて、募金の呼びかけをすることになるかと思います。祈りをもって、応じていただければと願っています。
ところで、大規模な災害が起こったとき、まず、大事なことは、水と食糧を確保するということになります。熊本地震の後も、自衛隊の給水車の前にタンクやボトルを手にして列をなしている人たちの映像が流れました。私たちの肉体の命をつないでいくために、最低限、どうしても水が欠かせないからです。私たち人間の体の60%ほどは水分だと言われます。そのうちの5%が失われると、脱水症状や熱中症の危険にさらされます。10%失われると、筋肉のけいれんや循環不全などの症状が出るそうです。そして、20%失われると死に至ることもあると言われます。まさに、水は命に関わります。喉の渇きを感じたら、もう遅いと言われます。渇きを感じる前に、こまめに水分補給をすることが求められるのです。渇きや飢え、ということについては、それを、実際に経験したことのある人と、経験したことのない人では、同じ言葉を目にし、また口にしていても、その重みが全然違ってくるのではないかと思うことがあります。
主イエスは言われました。「義に飢え渇く人々は、幸いである」。飢え渇く、ということを、切実に経験したことのない者たちにとって、この言葉を正しく理解するためには、想像力を働かせることが必要になります。生きるためには何とかして渇きを癒やさなければならない。渇きのために今にも死にそうになっている人が、水を求めるように、あるいは、何日も食事ができずに飢えて死にそうになっている人が、必死に食べる物を求めるように、それほどの切実さをもって、心から「義」を慕い求める人たちは幸いだ、祝福されている。主イエスは、そのように告げておられるのです。それは、私たちすべてに対する問いかけでもあります。飢えている人が食べ物を求め、カラカラに渇いている人が水を求めるように、それほどの真剣さ、切実さをもって、あなたは「義」を願い求めているか、と問われているのです。
飢え渇くように義を求める、と言われても、私たちにはなかなかピンと来ないかもしれません。そもそも、「義」というのは何だ、ということになります。あまり日常的に使う言葉ではないので、分かりにくいかもしれません。簡単に言えば「正しさ」ということになるでしょうか。しかし、「正しい」という言葉も、法的な正しさもあれば、道徳的な正しさということもあり、捉えにくいところがあると思います。先ほどは旧約聖書のアモス書の言葉を合わせて読みました。預言者アモスは、また別の箇所で告げています。「公正を水のように正義を大河のように尽きることなく流れさせよ」(5章24節)。アモスは、紀元前8世紀、神さまの召しを受けて、北王国イスラエルに遣わされた預言者でした。経済優先で貧富の格差が広がる社会の中で、「公正と正義」を実現するようにと訴えたのです。豊かな者たちが権力を利用して、貧しい人たちや弱い立場にある人たちから搾取し、踏みにじる。買収や不正義が横行していたようです。それは、紀元前8世紀のイスラエルの問題に留まらないと思います。この世界は、不正や不公平に満ちています。不義のために苦しむ人たちがいるのです。正義と公正が実現されるように、飢え渇くように求め、またそのために労する人たちに、主イエスは祝福を告げておられるのです。
しかしまた、社会正義の実現という大げさな話ではなくても、自分自身の生き方において、正しく生きようとしている人たちに対しても、主イエスは祝福を告げておられると言ってよいのではないでしょうか。聖書における「義」というのは、神の戒めに従う正しさを意味します。主イエスは、旧約聖書のすべての掟、律法全体を要約するようにして言われました。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ。」(マタイ22章37~40節)。先週の日曜日の礼拝において、夏期伝道実習に出かける直前の佐藤正幸神学生が説いてくださった箇所でもあります。神である主を愛することと隣人を愛すること。それは二つ別々の戒めではない。切り離してはならない、ということも学びました。それが大事だと頭では分かっていても、まるで言い訳をするように「私の隣人とは誰ですか」と尋ねた律法の専門家のことにも触れられました。知識としては知っていても、それが行動に結びつかないならば、それは死んだ知識です。正しいことを行うために、怠惰で自己中心的な自分を奮い立たせて、主イエスの教えを生きようとするとき、主は祝福してくださいます。けれども、それによって、自分の義、自分の正しさを人に見せようとするような不純な思いが忍び込むとき、主イエスはその偽善を厳しく戒められました。そのことも忘れてはならないと思います。
社会正義の実現、あるいはまた、自分自身が正しく生きようとすること、そのすべてを支えているのは、神の御前における「義」、神の前での正しさです。それは、パウロが明らかにし、宗教改革者ルターが追い求めた「義」、神との正しい関係に生きることを意味します。ルターは、神の義を恐れました。私たちが、自分ではどれほど正しく生きようとしたとしても、それで神の義を満たすことはできません。神の義は、私たちの隠れた罪をも暴き出します。どれだけ熱心に祈り、断食し、また罪の告白を繰り返しても、自分の心から罪がなくなることはありません。ルターは、「神の義」という言葉を憎んだとさえ述べています。信仰の根底を揺さぶられ、自分は神から見捨てられたのではないかと感じる、絶望的な魂の苦悩の中で、ルターは決定的な回心を経験しました。それはまさに、コペルニクス的な転回であったと言えます。神の義は、罪を暴いて罰する正しさではなくて、信じる者に無償で与えられる恵みであると知るのです。そして、そのためにこそ、神は独り子を世に遣わして、御自身の義を貫いてくださったことを知ったのです。
自分の努力や精進によっては、神の義を満たすことのできない、罪にして罪、肉にして肉に過ぎない私たちのために、父なる神は、御自身の独り子を私たちと同じ人間のひとりとしてこの世に生まれさせてくださいました。私たちのところに来てくださった主イエスは、私たちの罪をすべて背負って、その贖いのため、償いのために、十字架にかかって死んでくださいました。まことの神であられるお方が、私たちの罪の赦しのために、苦しみを味わい、御自分の命を犠牲として献げくださったのです。そのようにして、神の義、神の正しさが貫かれました。神の義が貫かれるというのは、普通に考えれば、正しい者はその正しさによって救われ、罪ある者は裁かれ滅ぼされるということであるはずです。そのようにしてこそ、この地上に神の正義が行われることになります。しかし、もしも神が、そのような仕方で御自身の義を貫かれたならば、真っ先に滅びるべきは、私たちであったのではないでしょうか。それは、まさしく、ルターが真剣に思い悩んだ通りです。ルターほどに真剣に悩むことない私たちは、どこか自分の罪に開き直って生きているのかもしれません。けれども、その私たちの罪を、私たちよりも真剣に問題にされたのは、義なる神さまでした。その義なるお方が、愛される資格のない私たちを愛してくださいました。私たちが、自らの罪のために滅びてしまうことのないように、愛する独り子を遣わす決断をされたのです。
「義に飢え渇く」という言葉を、改めて、真剣に受けとめたいと思います。ここまでの流れを受けとめれば、「義」は「救い」と言い換えてよいかもしれません。私たちは、飢え渇くほどに救いを求めているでしょうか。飢え渇くほどに、私たちを生かす命の言葉を求めているでしょうか。イエス・キリストの十字架によって、私たちの罪は赦された。私たちは義とされたのだから、あとは、もうすべて神さまにお任せしておけばよい。飢え渇くように、目をギラギラさせて私たちが頑張る必要はない。そんなふうに思ってしまうのかもしれません。確かにそうです。私たちが救われるために、私たちがなすべきことは何もありません。私たちが義とされるために必要なことは、すべて主イエスが満たしてくださったのです。しかし、だからこそ、私たちは、義とされた者として、救いをいただいた者として、私たちの周りに、またこの世界に、神の義、神の御心が行われるために、祈り求めて行くのではないでしょうか。試練に満ちたこの地上の命の間、悩みや苦しみに襲われる中でも、諦めることなく、神の義を求めて生きるのです。
礼拝の初めに詩編の言葉を交読しました。詩人は歌います。「鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように 神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。神に、生ける神に私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか。昼も夜も、私は涙を食物とする。人は日夜私に言う『あなたの神はどこにいるのか』と」(詩編42編2~4節)。この詩人は、嘲りに取り囲まれています。お前の神はどこにいるのか。どこにもいないではないか。苦しんでいるお前のことを助けてくれないではないか。周りの人から嘲られるだけではありません。自分自身の心の中にも疑いや迷いが生まれます。神はどこにおられるのか、神はこの私の嘆きを聞いておられないのか。この私の苦しみを見ておられないのか。どうして、今すぐ、私を助けてくださらないのか。大きな災害に巻き込まれたとき、突然の病や試練に襲われたとき、私たちの中にも、嘆きの言葉が溢れてくるかもしれません。まさに、神の言葉、神の答を飢え渇くように求めることがあるのです。そのとき、私たちは、主の力強い宣言を思い起こすことができます。「義に飢え渇く人々は、幸いである その人たちは満たされる」。私たちの嘆き、呻き、助けを求める叫びは、空しく宙に消えていくのではありません。「その人たちは満たされる」、そのように約束してくださった方が、御自身の命によって、神の義を満たしてくださり、今も、私たちと共にいてくださるからです。
私たちは、諦めることなく、神の義、神の救いが満たされることを信じて祈ります。「私の魂よ なぜ打ち沈むのか、なぜ呻くのか。神を待ち望め。私はなお、神をほめたたえる 『御顔こそ、わが救い』と。わが神よ」(詩編42編6~7a節)。祈りましょう。

