2026年7月12日 主日礼拝説教「天使たちのとりなし」 東野 ひかり牧師
マタイによる福音書 第18章10~14節
詩編 第34章6~11節
もう20年以上前のこと、鎌倉の教会におりましたとき、その教会の「出身教職のつどい」というような集まりが開かれたことがありました。何の拍子か、私ども夫婦とまだ保育園児でありました二人の息子たちも招かれまして、家族で出席させていただきました。その会の食事の歓談のときだったでしょうか、会の中心でいらした先生から、今でも忘れられないお話を伺いました。その先生は、男三人兄弟の真ん中でいらして、その三人兄弟の話題になり、こんなことをおっしゃったのです。「私たち兄弟は皆、自分が一番父親から愛されていたと思っているんです。」 それを聞いて私は大変驚きました。あり得ないことのように思ったのです。そして、確か後でだったと思うのですが、私どもの教会で長老をしておられた末の弟さんに確かめたのです。「お兄様がこんなことをおっしゃっていたけれど、本当ですか」と。弟さんはにこにこしながらうなずいて、「ほんとう、そう思っていた」とおっしゃって、私はすごいお父様だと、すばらしいお父様だとすっかり感心してしまいました。三人の息子たちが皆それぞれに、「自分が一番父親から愛されていた」と思っているなんてすごいことです。なかなかそんなふうに子どもたちを育てることはできないと思うのですが、この三兄弟のお父様は、息子たち三人が三人とも「自分が一番愛されていた」と思うような、そういう育て方、接し方をなさっていたということでしょう。普通ならば、どんなに親が気をつけて公平に子どもたちに接しても、子どものほうは、「いつもお兄ちゃんのおやつのほうが大きい、お兄ちゃんのほうが大事にされている」「弟ばっかり可愛がられている、えこひいきされている」などと、妬んだりひがんだりするものです。けれどこの三兄弟は、そういうことも多少はあったかもしれませんけれども、皆それぞれに「自分が一番お父さんから愛されている」と思っていた。私は、この話を思い出しますとき、このお父様は、まるで神さまが私たち一人ひとりを愛してくださるように、お子さんたちを愛されたのだと、そんなふうに思うのです。人間の父親にも、そういうふうに子どもたちを愛することができるのだと、思わされるのです。
今朝は、マタイによる福音書の第18章、「『迷い出た羊』のたとえ」と、小見出しがつけられているみ言葉を共に聴きました。先月6月、伝道月間の最初の主日に、私は、ルカによる福音書第15章にあります、今日の話とほとんど同じ主イエスの譬え話、ルカでは「『見失った羊』のたとえ」という小見出しになっていましたところから説教させていただいたばかりです。同じ譬え話のマタイバージョンを今朝は取り上げるわけですが、ルカ版では、「羊を見失った羊飼い」のほうに光が当てられていました。けれどこのマタイ版では、羊飼いのもとから「迷い出た羊」のほうに光が当てられている、そう言うことができます。そのように強調点が違っています理由のひとつは、主イエスの話を聞いている聴衆がルカとマタイでは違っているからです。ルカのほうで主イエスが語りかけておられた相手は、「徴税人や罪人たち」「ファリサイ派の人々や律法学者たち」でした。けれどマタイのほうでは、主イエスの話を聞いているのは「弟子たち」です。
来週は、尚志牧師がこの第18章の15節以下を説き明かします。今年度の私たちの教会の「年間聖句」が含まれるみ言葉を取り上げての説教となります。礼拝の後には年間聖句の学びの時も持たれます。先々週(6月26日)の週報に改めて載せましたが、5月末に行われた教会総会の『総会資料』巻頭言に、このマタイ福音書第18章は「古くから〈教会憲章〉と呼ばれてきた」とありました。マタイ福音書の第18章というのは、教会の歴史の中で独特な、また大切な位置を占めてきた、〈教会〉についての主イエスの教えです。ここで主イエスは、やがて教会の指導者となっていくことになる弟子たちに対して、集中して、「教会とは何であり、何をするのか」ということを、教えておられるのです。その中心に位置するのが、来週読まれる15~20節です。そして、その直前にあるのが、今朝与えられている「『迷い出た羊』のたとえ」であるわけです。今朝は、このマタイの文脈の中で語られた、「迷い出た羊」の譬えを中心に、み言葉に聴いてまいります。
このマタイ版の譬えで、まず目を引かれますのは、この譬え話が主イエスから弟子たちへの「問いかけ」として語られているということです。12節「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残して、迷い出た一匹を探しに行かないだろうか。」主イエスは弟子たちに、つまり「教会」に問いかけておられるのです。私たちも主に問われています。「あなたがたは“この譬え話を”どう思うか?」私たちはどう思うでしょうか。皆さん一人ひとり、私たち一人ひとり、主イエスから聞かれているのです。「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残して、迷い出た一匹を探しに行かないだろうか。」「あなたがたは、どう思うか?」
「当然、捜しに行きます」、そう迷いなく答える方もあるかもしれません。けれど私たちの心の中には、こんなふうな思いも起こってくるのではないでしょうか。「いやいや、先生、どう考えても、99匹を山に残して、勝手に出て行った1匹を探しに行くなんて、そんなことは理不尽です。不合理です。羊飼いは責任をもって100匹の羊を世話してきたのでしょう。誠実にやってきたのでしょう。迷い出て行った1匹は、自分勝手に出て行ったんです。魅力的な外の世界に心惹かれてしまったのす。心が弱いんです。残った99匹は正しい、しっかりした良い羊たちだ。残った羊たちをこそ大事にするべきだ。残った羊を守って大事にすることこそ、羊飼いの責任というものです。迷い出た羊は自業自得。かわいそうかもしれないが、放っておけばよい。」これはおそらく正論でしょう。多くの人がこのように思うのではないでしょうか。主イエスから「あなたがたはこの話をどう思うか」と問われて、私たちもこう答えたくなるのではないかと思うのです。そういう私たちに、主イエスは問うておられるのです。「あなたがたは(この話を)どう思うか。」
ルカ版の譬えには、いなくなった羊をどこまでも捜す羊飼いの姿、そしてついに見つけ出して大喜びで肩に担いで父の家に連れ帰る、そういう「良い羊飼い」の姿が、鮮やかに描き出されていました。見失った者を見つけた羊飼いの喜び、大きな大きな「天の喜び」が語られていました。天の喜びの大きさは、見失った羊に向けられた父なる神さまの愛の大きさを表します。これは神さまの愛の物語です。父なる神のもとから失われてしまった「一人」に注がれるまことに激しい神の愛・熱愛の物語です。マタイ版も基本的メッセージは同じです。マタイ版も同じように、「一人」に向けられる神さまの激しい愛を語ります。13節「よく言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。」「よく言っておく」という言い方は、「アーメン、私はあなたがたに言う」という、主イエスが大切なことを言われるときの重々しい言い方です。これはほんとうのことだと、真実だと宣言する言い方です。主イエスはおごそかに真実を告げられました。迷い出た一匹を見つけ出したなら、羊飼いは、「迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。」 主イエスは、この羊飼いの譬えを通して、天の父なる神さまがこの迷い出た「一人」の存在をどれほど重く見ておられるか、迷い出た一人に天の父はどれほど激しい愛を向けておられるか、それは「迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶ」ほどだと告げておられるのです。私たちには理解しがたいほどの、常識はずれの、「迷い出た一匹」「迷い出た一人」に向けられる、神さまの、主イエスの愛の物語を語っておられるのです。
そしてマタイ版では、主イエスは弟子たちに、「あなたがたはこの羊飼いの、迷い出た一匹に向けられるこの常識はずれに大きい愛をどう思うか」と、問うておられるのです。主イエスは、弟子たちに、そして教会に、99匹を残して1匹を探しに行く羊飼いの愛の振る舞いを「どう思うか」と問われるのです。
恐らくマタイ版では、ルカ版からさらに一歩踏み込んで語られている、と言ってよいのでしょう。ここでの100匹の羊は、「激しく愛され、見つけ出され、天の喜びを受けた」一匹一匹が集められた100匹でしょう。その100匹の羊の内の一匹がまたいなくなった、自分で「迷い出た」、何かに惑わされてふらふらと出て行ってしまった、あるいは何かにつまずいて信仰から離れてしまった、信仰を捨ててしまった、そういう事態を想定できる譬えになっていると言えるでしょう。主イエスはここで、何かに誘われたかつまずいたかして、父の家を自ら出て行った、「迷い出た」一人に対する神の愛を語っておられるのです。そして弟子たちに対して「あなたがたは、この話をどう思うか」と問うて、父の家・教会を出て行ってしまった一人に対する〈教会の愛〉を問うておられるのです。
主イエスが、ここで願っておられることは明らかです。主イエスは、弟子たちに対して、教会に対して、この羊飼いの愛に生きてほしいと願っておられるのです。この譬えに示されている神の愛を、あなたがた教会は生きてほしい、教会は神の愛に倣う愛に生きるべきだと言っておられる、迷い出た一匹の羊を軽んじてはならない、と言っておられるのです。10節で主は言われます。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」 そして14節ではこう結論づけておられる。「そのように、これらの小さな者が一人でも失われることは、天におられるあなたがたの父の御心ではない。」 主イエスは、教会に求めておられます。弟子たち・教会が、「天におられるあなたがたの父の御心」を行なうことを求めておられる。教会が、つまり私たち一人ひとりが、羊飼いの愛に倣い、「これらの小さな者が一人でも失われること」がないように、滅びることがないようにしてほしいと願っておられるのです。迷い出た羊を、迷い出ていない99匹よりも重く見る、この常識はずれ羊飼いの愛を、教会は生きるのだと、この愛を行なうのだと、主イエスは求めておられるのです。
この第18章は〈教会憲章〉だと言いました。主イエスはここで教会のことを語っておられます。教会とは何か、何をするのかを語っておられます。この第18章は、最初「子ども」の話から始まります。18章をたどってまいりますと、この「子ども」が「自分を低くする者」(4節)と言い換えられ、、6節では「私を信じるこれらの小さな者の一人」と言い換えられる、そのように展開します。
6~9節は、この「私を信じるこれらの小さな者の一人」つまり主イエスを信じる教会の仲間の一人をつまずかせることへの大変厳しい言葉となっていますが、ここから読み取れるひとつのことは、「これらの小さな者」、つまり主イエスを信じる者たち・教会に生きる者たちは、「つまずき」の危険にいつもさらされているつまずきやすい者たち、そういう「小さな者」だということです。「つまずき」という言葉は、スカンダロンというギリシア語で、スキャンダルという言葉の語源でもありますけれど、マタイにおいてこの「つまずく」という言葉は、しばしば「主イエスにつまずく」というふうに用いられます。つまずくとは、つまりは主イエスを否定してしまうこと、主イエスを否定し主イエスから離反すること、それが「つまずき」(いちばんのスキャンダル・醜聞)なのです。6~9節は、その「つまずき」、主イエスを否定すること、主イエスから離れることへの大変厳しい警告が語られています。このつまずきは「この世」の力によってもたらされる、そして「この世の力」に惑わされ巻き込まれて、もし「小さな者の一人」をつまずかせてしまうなら、そのつまずかせた者は「災いだ」と厳しく告げられます。ここには、つまずかせた者は滅びる、つまり失われることが警告されています。ですから、つまずかせる者になってはならないと、大変厳しく言われています。つまずかせる者のほうも失われてしまう、滅びてしまうからです。6~9節の大変厳しい主イエスの言葉は、主イエスを信じる者たちはつまずきやすい「小さな者」、また同時に、つまずきをもたらす力に巻き込まれてつまずかせる者にもなってしまう者、その意味でも「小さな者」だということを告げているのではないかと思います。
そして10節では、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と言われるのです。つまりこの「これらの小さな者」というのは、つまずきやすい弱さを抱えている者、また世の力に惑わされて仲間をつまずかせてしまう、そういう「小さいな」なのです。そして、この「小さな者の一人」が、譬えの「迷い出た一匹」。そういうふうに、主イエスは話を重ねていっておられるのです。そして来週読まれます15節以下では、この「小さな者の一人」「迷い出た一匹」が、「罪を犯したきょうだい」と、そのように展開していくのです。主イエスは、この「小さな者の一人」「迷い出た一匹」を軽んじないように、と言われる。「迷い出る」という言葉は、惑わされる、という意味もあります。「つまずく」と通じる言葉です。何かにつまずいて、何かに惑わされて、主イエスを信じる信仰から離れてしまう、主イエスから、教会から、父なる神の家から、離れてしまう。神を否定し神から離れるという罪を犯してしまう。主イエスは、この第18章の最初から、教会に集められた者たち・私たちは、そのような「小さな者」だと言っておられるのです。神のみ前に「偉い、大きい、いつも正しい」者なのではなく、「小さい、低い」者たち、つまずきやすく、惑わされやすく、間違いを犯しやすい、罪を犯す者たちの集まりだと、ずっと語っておられるのです。教会は、偉い者、大きい者、正しい者、罪を犯さない者の集まりなのではない、つまずきやすい者、世の力に巻き込まれてつまずかせてしまう者、迷いやすい者、罪を犯しやすい者の集まりなのだと語っておられるのです。
そして、来週読まれます15節以下では、「迷い出た一匹」が「罪を犯したきょうだい」として語られていくのです。迷い出たきょうだい、罪を犯したきょうだいを、どうしたら取り戻せるか、その手段・方法が丁寧に説かれていくのです。
主イエスは、弟子たち・教会に、この小さな者の一人、迷い出た一匹を「軽んじないように」と言われます。教会は、決して正しく迷い出ない者たち、罪を犯さない者たちの集まりなのではない。迷い出てしまった一匹は「きょうだい」(15節以下)であり「仲間」(28,29,31,33節)なのです。その一匹を弱い小さい羊だと軽んじるのではなく、取り戻すために全力を尽くす。そのようにして、迷い出てしまった一匹を追い求める神の愛に倣い、その愛に生きる。主イエスは、教会はそういうところだと示しておられるのです。
私たちは、皆それぞれに言うことができると思うのです。「私は、自分が一番神さまに愛されていると思う」。私たちは皆、この迷い出やすい一匹だからです。教会というのは、「私は、自分が一番お父さんから、神さまから愛されていると思う」と言う人たちの集まりです。そして、きょうだいが、「ぼくも、私も、自分がお父さんから一番愛されていると思う」と言うのを聞いて、「そうだよね」と喜び合う交わりなのではないでしょうか。教会というのは、最初にお話した三人兄弟のようなものなのです。にこにこしながら「自分が一番お父さんから愛されていると思う」と言い、そして、きょうだいが同じように「自分が一番お父さんから愛されている」と言うのを聞いて、やはりにこにこしながら、「ほんとうに、ぼくたちそう思うよね」と喜び合っている、そういう交わりなのです。
しかし私たち一人ひとりは、迷いやすい、惑わされやすい、罪を犯しやすい、小さい弱い者です。ですから、主イエスは10節後半に不思議な言葉を語ってくださいました。「言っておくが、彼らの天使たちは天にあっていつも、天におられる私の父のみ顔を仰いでいるのである。」 ここには「アーメン」という言葉はありませんが、これも「アーメン、私はあなたがたに言う」という、主イエスの厳かな宣言に似た言い方になっています。「私はあなたがたに言う」そう言って、主イエスは「彼らの天使たち」の話をなさったのです。小さい者たち、つまずきやすく迷い出やすい者たちの天使たちが、「天にあっていつも、天におられる私の父のみ顔を仰いでいる」。
この箇所はカトリック教会で言う「守護天使」の聖書的根拠となっているところとされます。宗教改革者たちは、この「守護天使」という考えを手放していったと言われます。けれどもあるプロテスタントの説教者は、これは〈まことに美しい言葉。聖書の中の数ある心に残る言葉の中でも、珠玉のような、まことに美しい言葉〉だと言います。私たちのひとりひとりに天使がついている。私付きの天使、あなた付きの天使がいて、「いつも」天の父の御顔を仰いでいる。たとえ私が天の父のみ顔を仰ぐことを忘れても、神さまを仰ぐことができなくなっても、私の天使は私の代わりに「いつも」神さまの御顔を仰いで、とりなしの祈りをしていてくれるというのです。これは、まことに慰め深い、そして美しい主の言葉。確かにそう思います。主イエスはこのような天使の話をなさって、私たち一人ひとりがどんなに小さい弱い者であるかを語っておられるのです。私たちは皆、一人ひとり天使がついていて、とりなしていてくれなければならないほどに、小さい弱い者なのです。そしてそうであるからこそ、私たち一人ひとりは、神さまにとって大きい、尊い、重い者、激しい愛を注がれている者なのです。
この天使の話を、ある方は、よりプロテスタント的に、と言いましょうか、私たち一人ひとりがきょうだいのための天使となり得る、というように説き明かされました。小さな者である私たち一人ひとりにとりなしの天使がついていてくれる、これは、教会の交わりを言ってるのだというのです。つまり、私たち一人ひとりが教会の仲間、主にあるきょうだいのための天使となり得る、というのです。きょうだいの一人が迷い出てしまったなら、私たちはそのきょうだいのとりなしの天使になって、神さまのほうを向いてきょうだいのために祈る。教会は、とりなしの天使たちの群れだということです。そのようにとりなし祈りながら、教会は、あの羊飼いの愛に、神の愛に生きるのです。
今日の旧約聖書は詩編34編6節以下、聖餐のときに読まれる言葉を含む詩編を読みました。詩34:6「主を仰ぎ見る人は輝き/辱めに顔を伏せることはない。」 私たち一人ひとりが、何よりも聖餐の食卓から迷い出てしまっているきょうだいのために、とりなしの天使になって「主を仰ぎ見る」。私たちは、この聖餐の食卓に集うとき、とりなしの天使の祈りをささげざるを得ないと思う。そしてここでこそ、私たちは主イエスから問われているのではないでしょうか。「あなたがたは(この私の譬えを)どう思うか」と。「味わい、見よ、主の恵み深さを」と、共にこの食卓に招かれて共に主の恵みに与っていたきょうだい・仲間が、この恵みの食卓からいなくなっている。ここで、私たちはそのきょうだいを思い起こさざるを得ないのです。この恵みの食卓につくときこそ、私たちは、あの羊飼いの愛、神の愛に生きるように求められていることを思わざるを得ません。私たちは、この聖餐の食卓を囲むときにこそ、あの羊飼いの愛に生きる教会の愛を問われ、求められるのです。
詩編は、「主の使いはその周りに陣を敷き」と歌います。弱く小さい、罪を犯す私たちの周りを、私たちの天使たちが、陣を敷いて囲んでいてくれます。私たち一人ひとりも、迷い出そうになる、迷い出てしまう、小さい者です。この私の周りにも、教会のとりなしの天使たちの祈りがあることを思います。そして今ここで、共に主の命の食卓につく私たちは、つまずき倒れ、迷い出そうになる、迷い出てしまったきょうだいの周りを、とりなしの天使の祈りをもって囲むのです。そしてこの恵みの食卓から、羊飼いの愛・神の愛に生きる教会として、とりなしの天使たちの群れとして、天の父の御心を行なう歩みへと歩み出て行く。そういう教会でありたいと願うのです。共に祈りの陣を敷き、とりなし祈る群れに、主イエスが共にいてくださいます。勇気をもって、羊飼いの愛を生き、行なっていく、主の教会であることができますように。

