2026年7月5日 主日礼拝説教「柔和な人々は幸いである」 東野 尚志 牧師
詩編 第37編7~22節
マタイによる福音書 第5章1~12節③
新しい月、7月を迎えました。6月伝道月間の豊かな恵みを感謝しながら、その恵みに応える歩みを刻んでいきたいと願います。今朝は、久しぶりに、5月の終わりまで読んでいた、マタイによる福音書の御言葉に戻って来ました。主イエスの山上の説教が記された第5章を読んでいます。週報には、本日の聖書箇所として、「マタイによる福音書第5章1~12節」のあとに③と書いてあります。3回目ということです。主イエスが、山上の説教の冒頭で語られた、祝福の宣言をひとつずつ取り上げてきました。「幸いだ」「幸いなるかな」と告げる言葉が、同じ形式で8回繰り返されているので、「八福の教え」と呼ばれることもあります。祝福の宣言が8回繰り返されているのです。その3つ目になります。
八福の第1は「心の貧しい人々は、幸いである」でした。2番目は「悲しむ人々は、幸いである」と告げられました。いずれも、そのままではすんなりとのみ込めないような逆説的な言葉でした。普通に考えれば、とても幸いだとは思えないような状況に置かれた者たちに、主イエスは幸いを、祝福を告げて来られたのです。それは、主イエスだからこそ言える言葉でした。普通の人が言ったら反発を招くだけかもしれません。貧しいことも、悲しむことも、そのままでは、決して幸いとは思えないからです。けれども、貧しさや悲しみのすべてをご自身に引き受けて、私たちをそこから救い出し、恵み深い神さまの支配のもとに置いてくださる主イエスであればこそ、この宣言を語ることができた、そう言って良いのだと思います。
1ヶ月以上の間が空きましたけれど、今日はその続き、3番目の祝福の言葉に、聞いて参りたいと思います。マタイによる福音書の5章5節、「へりくだった人々は、幸いである」。先ほど、ここを朗読したときに、違和感を覚えられた方も少なくないのではないかと思います。私たちがかつて聞いてきた言葉と違っているからです。聖書をよく読んできた人たちにとっては、説教題に掲げた言葉の方が、耳に馴染んでいるのではないでしょうか。「柔和な人々は、幸いである」。かつてはそう訳されていました。これは、文語訳の時代からそうだったのです。5章の5節は、文語訳聖書では、「幸福(さいわい)なるかな、柔和なる者」と訳されていました。続く口語訳聖書でも「柔和な人たちは、さいわいである」と訳されていました。新共同訳聖書においても「柔和な人々は、幸いである」、やはり「柔和な」と訳したのです。
少し系列が異なる福音派の教会の人たちが用いる新改訳聖書でも、「柔和な者は幸いです」と訳しています。けれども、新改訳の引照付きの聖書では、欄外に「あるいは『へりくだった者』」という注がついていました。聖書協会共同訳では、その立場が逆転したのです。本文の方が「へりくだった者」となって、注として「別訳 柔和な」と記してあります。聖書協会共同訳になって、急に違った訳が用いられるようになったというわけではないのです。聖書学の学者たちの間では、「柔和」という日本語では十分に表わしきれない、原語のもっているイメージを受けとめながら、より適切な訳語を求めて来たと言ってもよいのだと思います。
皆さんは、「柔和な」という日本語の言葉で、どのようなイメージを思い浮かべられるでしょうか。日本語の辞書の標準、広辞苑を見ますと、「性質・態度がやさしくおとなしいこと」と説明されています。私たちは、さらに進んで、「柔和」という言葉で、弱々しくて軟弱なイメージを抱いてしまうのかもしれません。「柔和」の「柔」の漢字を訓読みすると、「やわらかい」となります。でも、同じ漢字を用いて「柔軟」と言えば、弱々しさよりも、むしろ、しなやかな強さを表わす言葉になります。「柔よく剛を制す」という慣用句もあります。このやわらかさは、単なる弱さとは違うのです。
試みに、AIに尋ねてみました。「日本語の柔和の反対の意味を持つ言葉を挙げてください」。すると、するするっと答が出ました。実に便利です。「柔和の反対語(対義語)は、文脈や表現したいニュアンスによっていくつか存在します。代表的な反対語は以下の通りです。『粗暴』性質や言動が荒々しく、乱暴であること。『頑な/頑固』自分の考えを曲げず、融通がきかないこと。『辛辣』言葉や態度が厳しく、とげとげしいこと。『険悪』雰囲気や表情がとげとげしく、激しいこと。『冷酷』思いやりがなく、冷たいこと」。なるほどなあ、と思いました。柔和な人の反対は、傲慢で、争い好きで、我が強い人ということになるでしょうか。そういう人は、力で他人をねじ伏せ、状況を変えようとします。自分はいつも正しくて、自分が変わる必要はない。相手を変えようとする。それに対して柔和な人は、自分自身を誇ることをしません。だから、「へりくだった人」という訳にも通じるのだと思います。争うことを好まず、耐え忍んで、平和を求める。突っ張って相手を変えようとするのではなくて、自分自身を変えることができる柔らかさを持っているということになるのだと思います。
実は、この第三の幸いの教えは、旧約聖書の詩編の引用がもとになっている、と言われます。引照付きの聖書を持っている人は、注のところを見ると、真っ先に、詩編37編11節とあります。本日、合わせて朗読した旧約聖書の箇所です。そこには、「苦しむ人が地を受け継ぐ。彼らは豊かな平和を楽しむ」とあります。引用元の方では「苦しむ人」となっていて、また悩みが増えてしまうかもしれません。ちなみに、この箇所を、新共同訳聖書では「貧しい人は地を継ぎ 豊かな平和に自らをゆだねるであろう」と訳しました。口語訳聖書では「しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる」となっていました。いろんな日本語の言葉を用いながら、聖書のもとの言葉の持っている豊かな意味合いを伝えようとしているのです。
もともとこの詩編で用いられているヘブライ語の単語には、「おとなしい、控え目の」といった意味や「抑圧された、貧しい」といった意味があります。そのヘブライ語の単語が、ヘブライ語聖書をギリシア語に訳した「七十人訳聖書」において、「柔和」を意味するギリシア語に訳されたわけです。もちろん、もとの単語と訳語が一対一で対応するわけではありませんから、翻訳によって抜け落ちてしまった意味合いがあるかもしれません。ヘブライ語聖書から日本語に訳したものと、ギリシア語訳の聖書から日本語に訳したものとを比べると、話はさらに複雑になります。しかし、大事なことは、「柔和な」と訳され、あるいは「へりくだった」と訳された言葉の背後には、もとの詩編37編11節に記された「貧しい」あるいは「苦しむ」という意味合いも含まれているということ、そのことを弁えて良いのだと思います。
主イエスは言われました。「へりくだった人々は、幸いである その人たちは地を受け継ぐ」。へりくだった人々、貧しい人々、あるいは、柔和な人々、苦しむ人々、そのような人たちが、地を受け継ぐと約束されたのです。「地を受け継ぐ」というのは、聖書の独特な表現です。もともとは、神さまがアブラハムを選んで、その住んでいた土地から召し出されたところから始まります。創世記の12章に記される出来事です。アブラハムが、まだアブラムと名乗っていた時代、神さまはアブラムをその生まれた地、父の家から連れ出して、私の示す地に行きなさい、といわれました。この出来事は、後に、「行く先を知らずに出て行った」と表現されるようになります。アブラムが神さまに召し出され、示されたのがカナンの地、今のパレスチナの地でした。神さまは、アブラムと契約を結んで、そのカナンの地、パレスチナを、アブラムとその子孫に永久に与える、と約束されました。土地を受け継ぐということは、単なる資産としての土地を相続する以上の深い意味を持ちました。それは、神さまの祝福を受け継ぎ、神から託された使命を受け継ぐことを意味したのです。
だから、詩編37編9節では、次のように記されます。「悪をなす者は絶たれ 主に望みを置く人こそが地を受け継ぐ」。また22節「主に祝福された人は地を受け継ぎ 主に呪われた者は絶たれる」。これらをつなぎ合わせると、神さまの祝福を受け継ぐのは、自分自身を頼ったり、誇ったりするのではなくて、主に望みを置く人だと言うのです。なぜ、わざわざ、そんなことを言わなければならなかったのでしょうか。世の中を見れば、神さまに従わずに不正を行っている者たちの方が栄えており、神さまに従って正しく生きようとしている自分たちが、貧しく苦しめられている。そういう現実があったからです。神さまに頼らずに、自分でうまくやって、富み栄えている者たちのことがうらやましくなって、いっそのこと自分たちも、悪をなす者たちと同じように、自分が得する道を選んで、豊かさを追い求めた方が良いのではないか、そんな思いが突き上げてくるのです。正直者が馬鹿を見る、そんな世の中で、正しく生きようとしても損をするだけだ、そんな考えに誘われてしまうのです。それは、旧約の詩人が生きていた時代だけではありません。主イエスが地上を歩まれた時代もそうでした。さらに二千年を経て、私たちが生きている現代も同じ呻きを抱えているのではないでしょうか。旧約の詩人は、そのようにして悩み苦しむ人たちに向かって、悪をなす者を見ていらだってはならない、と告げます。その怒りや憤りを捨てて、主の前に沈黙して、主を待ち望めと言うのです。なぜなら、苦しむ者、貧しい者、柔和な者こそが地を受け継ぐからだ。神の祝福を受けるのは、この地上においては、虐げられ、苦しめられ、貧しくされ、それでも、神を信じ、神に望みを置き、神に従い抜く者たちだと告げるのです。
主イエスは、詩編の言葉を踏まえながら、宣言されました。「へりくだった人々は、幸いである その人たちは地を受け継ぐ」。「柔和な人々は、幸いである その人たちは地を受け継ぐ」。むしろ、柔和さとは正反対、「粗暴」で「頑固」で、「辛辣」「険悪」「冷酷」な人たちが、周りを傷つけながらもお構いなしに、自分の思い通りに生きている。SNSには、他人を批判したり傷つけたりするトゲに満ちた言葉が溢れています。政治の世界から子どもたちの世界にまで、攻撃的な相手を貶めるような言葉が溢れているのです。私たちも、巻き込まれそうになります。気がついたら、自分も、人を批判し、嘲るような言葉を口にしてしまっていたりする。周りを攻撃していないと、自分がやられてしまいそうになる。そんな社会の中で、私たちはどうしたら、怒りや憤りに支配されることなく、いらいらさせられることもなく、柔和に生きることができるのでしょうか。
「柔和な」あるいは「へりくだった」と訳されているもとの言葉は、新約聖書全体の中で4回用いられています。しかも、そのうちの3回は、このマタイによる福音書の中に出て来ます。5章の5節では、「へりくだった」と訳されましたけれど、同じ言葉が、「柔和な」と訳されているところがあります。11章29節です。主イエスは言われます。「私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる」。柔和な者、へりくだった人々の幸いを告げられた、その主イエスこそは、まさに、柔和でへりくだったお方なのです。当時の多くの人たちは、ローマ帝国の支配を力で打ち破って、イスラエルの主権を取り戻してくれるような猛々しいメシアを求めていました。それは、熱心党と呼ばれたテロ集団の選んだ道でもありました。けれども、主イエスは、力を奮って悪を打ち倒すというのではなくて、私たちの罪をすべてその身に負ってくださり、口を開くことなく、黙って十字架への道を歩まれました。軍馬に乗って敵も味方も蹴散らすようなやり方ではなくて、小さな子どものロバの背に乗って、十字架への道を進んで行かれる、柔和で、へりくだった王としてエルサレムに向かわれたのです。
主イエス・キリストは、まことに柔和なお方として、私たちのために、へりくだって、十字架の死に至るまで歩み通してくださいました。その主イエス・キリストを、父なる神は、死人の中から復活させ、永遠の命を生きる者としてくださいました。復活された主イエスは、天に昇られ、父なる神の右の座に着いて、私たちとこの世界のすべてを支配しておられます。柔和なへりくだった王が、まことの支配者となって、地を受け継ぎ、地を支配しておられるのです。「柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」。この祝福の宣言は、主イエスご自身において実現されました。主は、ご自分の言葉の真実を貫いてくださったのです。
主が再び地上に降ってこられ、その支配を完成してくださる時まで、地上においては、なお戦いが続きます。悪事を謀る者が栄え、主に従う者が苦しめられるような出来事がしばしば起こります。けれども、目に見える現実に欺かれるようなことがあってはならないと思います。この世の悪に惑わされてはなりません。私たちは、主が与えてくださった祈りを毎日祈りながら、終わりの日を目指して、主に従う歩みを刻んでいくのです。御国が来ますように。御心が行われますように。私たちを試みに遭わせず、悪からお救いください。怒りや苛立ちに振り回されることなく、沈黙して主を仰ぎ、主に望みを置いて、柔和な者として歩みたいと願います。

