2026年6月28日 主日礼拝説教「心の渇きがいやされる」 東野 尚志 牧師
イザヤ書 第49章8~13節
ヨハネによる福音書 第4章1~15節
6月最後の主の日を迎えました。週末には、二つの台風が立て続けにやって来て、日本中にたくさんの雨を降らせて行きました。今朝は、まだその影響が残っているようです。梅雨の季節ですから、湿度が高いのは仕方のないことだと思います。じめじめと蒸し暑い日が続くことになります。こういう季節に大事なのは、こまめに、水分補給をすることだと言われます。私たちは、喉が渇くと水を飲みます。でも、本当は、喉が渇いてから飲むのでは遅いのだと言われます。喉が渇くということは、体の中の水分がもう足りなくなっているわけです。渇きを感じる前に、こまめに水分を取った方が良いのだそうです。
教会にも、ペットボトルやマイボトル、ご自分の水筒をもって来られる方が多くなりました。今は、日本中、どこへ行っても、水道が整備されていますから、蛇口をひねれば、あるいはレバーを上げるか下げるかすれば、水が出ます。そのままで飲める、きれいな水が出てくるわけです。でも、水道が無かった時代には、井戸が使われていました。時々、テレビのドラマの中で、昔の長屋の生活が描かれたりすると、路地の真ん中に共同の井戸が掘ってあって、長屋の住人が、代わる代わる井戸から水をくみ上げる様子を見ることがあります。大体、水を使うのは同じ時間帯ですから、井戸の周りに人が集まります。いろんな噂話に花が咲く、いわゆる井戸端会議が始まったりするわけです。飲み水だけではなくて、料理にも、掃除にも、体を拭いたり、着物を洗ったりするのにも水を使うわけですから、井戸は大事な場所であり、交わりの場にもなるわけです。
先ほどお読みした聖書の物語も、井戸の傍らで起こった出来事を記していました。イエスさまが、旅の途中で疲れを覚えて、井戸のそばに座って休んでおられたというのです。そこへ一人の女性が水を汲みにやってきて、主イエスと言葉を交わすことになります。その女性は、井戸の近くの町に住んでいました。恐らく毎日、この井戸まで水を汲みに来ていたのだと思われます。けれども、イエスさまは、旅の途中で立ち寄られたのです。この二人の出会いは、たまたま起こったことのようにも思われます。けれども、決して、偶然とは思われないような、意義深い出会いとなりました。イエスさまと出会ったことで、女性の生き方は大きく変えられて行くことになります。イエスさまは、この女性と出会うために、そして、この女性を救いに導くために、わざわざ、この町に立ち寄られ、井戸のそばで待っておられたようにも、思われるのです。
イエスさまが立ち寄られたのは、サマリアのシカルという町であったと記されています。そこへ立ち寄られる前は、ユダヤの地方で、弟子たちを集めて、伝道しておられました。弟子の数が増えていって、ユダヤ教の指導的立場にあったファリサイ派の人たちに目をつけられたようです。まだファリサイ派の人たちとぶつかるには早いと思われたのでしょう。イエスさまは身を退かれます。もちろん、いずれは対決しなければならなくなります。けれども、まだその時ではありませんでした。イエスさまは、いったんユダヤの地方から離れて、お育ちになったガリラヤの地方に退こうとされました。そのとき、サマリアの地方を通って行かれた、というのです。
聖書協会共同訳の聖書を使うようになって、一つありがたいことは、聖書の巻末に、カラー刷りのきれいな地図が付されていることです。全部で13枚の地図があります。その9番目「イエス時代のパレスティナ」という地図をご覧いただきたいと思います。後ろの方から開いて、9番目の地図です。左側は地中海ですけれど、内陸に二つの湖があります。下の方、つまり南にある細長い湖が「死海」です。そして、上の方、つまり北に位置しているのが「ガリラヤ湖」です。ガリラヤ湖から死海に向けて流れているのが、ヨルダン川です。死海の少し左、西側にえんじ色で「ユダヤ」と書かれています。ユダヤ地方です。そして、北のガリラヤ湖の西側にやはりえんじ色で「ガリラヤ」と記されています。ガリラヤ地方です。そのガリラヤとユダヤの間に、「サマリア」とあるのがお分かりと思います。そのえんじ色の「サマリア」の文字の少し下に、黒い文字で「サマリア」とあり、ゲリジム山の右に「シカル」とあります。ここが、今日の聖書の物語の舞台となった町です。
イエスさまは、ファリサイ派の人たちとぶつかるのを避けて、いったんは、ユダヤからガリラヤに退かれたわけです。地図で見たように、南の死海あたりのユダヤ地方から、北のガリラヤ湖あたりのガリラヤ地方に向けて移動しようとされました。ちょうどその間に「サマリア」があるわけですから、まっすぐ向かえば、当然、サマリアを通らざるを得ません。サマリアを通れば三日ほどで、ガリラヤに着くことができました。ところが、当時のユダヤ人は、ユダヤからガリラヤに向かうときには、わざわざエリコを抜けてヨルダン川まで出て、ヨルダン川に沿って北上するというルートを使っていたといいます。回り道をするわけですから、その分一日か二日余計に時間がかかることになります。そうまでして、サマリアを通ることを避けた、ということです。歴史的な事情から、サマリア地方には外国人が入り込んできて、混血が進んでおり、一緒に外国の宗教も持ち込まれていました。だからユダヤ人たちは、サマリア人を人種的にも宗教的にも汚れた民とみなして見下しており、付き合おうとしなかったのです。ユダヤ人がサマリア人の建てた神殿を異教的なものとして焼き払ったりしたので、両者の関係は険悪でした。だから、ユダヤ人は通常、サマリアを通らずに、わざわざ遠回りをするようにして旅をしたのです。
ところが、イエスさまは、わざわざ、トラブルが起こるかもしれないサマリアを通って行く道筋を選ばれました。聖書には「サマリアを通らねばならなかった」と書かれています。神の必然を表わす特別な言葉が用いられています。イエスさまがサマリアの町を通られたのは、ユダヤ教の当局者たちの目を逃れるために道を急いだとか、あまり余計な日数をかけたくなかったとか、そういう現実的な理由ではなくて、神さまの救いのご計画に従って、神が備えられた道として、サマリアを通らなければならなかったのです。そこで一人のサマリアの女性と出会い、この人を救いに導くために、イエスさまは、あえて、危険を冒して、サマリアに赴かれたのです。
サマリアの町シカルに、「ヤコブの井戸」と呼ばれる井戸があったといいます。「井戸」と訳されていますけれど、もとの言葉は「泉」を意味します。人々の生活圏である町の辻に掘られた井戸ではなくて、町の外にある泉であったと思われます。人々は、毎日町から出て、この泉まで水を汲みにやって来たのです。少し離れていますから、一日に何度も来ることはできません。恐らく、一日の初め、朝早く涼しいうちに、大きな水瓶を抱えて泉にやって来て、低いところにある泉の水を、持って来た器で汲んで水瓶に満たすと、重い水瓶を頭に載せて、家まで運んだのだと思われます。あるいは、もし足りなくなれば、夕方、涼しくなってから、また水を汲みにくることがあったかもしれません。
イエスさまは、旅に疲れて、井戸のそばに座って休んでおられました。正午頃のことであったといいます。そこへ、一人のサマリアの女性が水を汲みにやって来ました。太陽が照りつける昼間に、一人で大きな水瓶を抱えてやって来たのです。明らかに人目を避けて、誰も水汲みに来ない時間を狙って来たのだと思われます。いろんな事情を抱えていたのです。町の人たちと顔を合わせたくない。みんなには分かってもらえない、顔を合わせれば、嫌みの一つも言われそう。今日の続きのところを読むと、この女性には過去に五人の夫があって、今一緒に暮らしているのは夫ではない、とあります。愛されたいと思いながら、満たされない、そんな中で結婚と離婚を繰り返していたのです。身持ちの悪い、ふしだらな女と見られて、距離を置かれていた。自分からも距離を置いていたのかもしれません。みんなの輪の中に入れない孤独を覚えながら、なおも満たされない思いを抱えていたに違いありません。そういう意味では、喉の渇き以上に、心の渇きを抱えていたのではないかと思われます。愛されたい、認められたい、と願いながら、思い通りにならない現実を寂しく生きていたのです。
「水を飲ませてください」(7節)。水を汲みに来た女性に、イエスさまは声をかけられました。弟子たちは町に食べ物を買いに行っていて、イエスさまは一人で泉のほとりに残っておられたのです。いや、この女性が来るのを、待っておられたのです。声をかけられて、女性はびっくりして言いました。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(9節)。ここには、二つの驚きが表れています。当時、ラビと呼ばれる律法の教師は、公の場で女性に声をかけることはなかったのです。律法の教師が、女である自分に親しく声をかけて、水を飲ませてくださいと頼むことなど、普通は考えられませんでした。もう一つの驚きは、イエスさまはユダヤ人であり、自分はサマリア人だということでした。先に触れたように、当時、ユダヤ人とサマリア人はお互いに敵意を抱いており、口もきかなかったからです。けれども、イエスさまは、社会的な立場や民族の違いという壁を越えて、一人の人として、この私と向かい合ってくださる。直感的に不思議な温かさを感じ取っていたのではないでしょうか。驚きながらも、心開かれつつある女性に対して、イエスさまはさらに語りかけて言われました。
「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水をください』と言ったのが誰であるかを知っていたならば、あなたのほうから願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」(10節)。イエスさまは、一歩踏み込んで、「神の賜物」「私は誰であるか」、また「生ける水」という言葉を投げかけます。けれども、女性の頭の中には、単なる飲み水のことしかありませんから、イエスさまが何を言っておられるのか、さっぱり分からなかったのではないでしょうか。少しとんちんかんな言葉を返します。「主よ、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生ける水を手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え、彼自身も、その子どもや家畜も、この井戸から飲んだのです」(11~12節)。女性の言葉は、イエスさまが語られた言葉と少しもかみ合っていません。「生ける水」をくれると言っても、井戸から水を汲むには器が必要なのに、あなたはそれを持っていないではないですか。いったい、どうやって、その「生ける水」を私にくれると言うのですか。この女性は、あくまでも、井戸から汲む水のことを考えているのです。
「生ける水」、「生きた水」というのは、どういう意味で使われているのでしょうか。いくつかの意味が重なっているように思われます。一つには、川や泉のように流れている水を意味すると考えられます。通常の井戸の水というのは、深く掘った穴にたまった水です。溜まっている水よりは、流れている水の方がきれいです。それは清めの儀式などに用いる貴重な水ということになります。洗礼式の水も、流れのある川で行うか、あるいは、洗礼槽に水を溜める場合も、少し水を流しながら「生ける水」として行う。そこにこだわる先生もいました。さらに言えば、「生ける水」は、人を生き生きと生かす水、ということにもなります。この女性は、先祖のヤコブが与えてくれた井戸の水で、自分たちは代々命をつないできた、まさに、この井戸、この泉の水こそ、自分たちにとっての「生ける水」であった。その水よりもさらに良い水があるというのか、そんなふうに尋ねたかったのだと思います。自分を本当に生かしてくれる神の力を、おぼろげながら感じ始めていたと言って良いのかも知れません。
イエスさまは、この女性に、驚きと問いを抱かせることによって、イエスさまだけが与えることのできる、真実の「生ける水」を求めさせようとされたのだと思います。そして、ついに、決定的な恵みの言葉を告げられます。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(13~14節)。この言葉を聞いた女性は、弾かれたように答えて言いました。「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください」(15節)。イエスさまとサマリアの女性との対話が始まったときから考えると、その立場が逆転していることに気づきます。最初はイエスさまの方から「水を飲ませてください」と声をかけられたのです。けれども、今や、この女性の方が、自分から「その水をください」と求めることになりました。
確かに、サマリアの女性は、イエスさまが与えてくださる「生ける水」が何であるのか、本当のところはまだよく分かっていません。もう渇くことがなくなって、毎日、人目を避けて水を汲みに来なくてもよくなるような「生ける水」、不思議な泉の水を欲しがっているだけかもしれません。けれども、イエスさまが、この女性を救おうとして、わざわざサマリアを通って、泉のほとりで女性を待ち、言葉をかけ、出会ってくださったときから、もうすでに救いが始まっています。この女性は、やがて「生ける水」とは何であり、自分に水を求めた方が誰なのかを知ることになるのです。私たちも、今、このようにして、イエスさまのもとに集まって、主の言葉を聞いていく中で、イエスさまとの出会いに招かれているのです。
イエスさまは、一人の女性の心の渇きに目を留められました。誰にも言えない苦しみを理解してくださいました。誰にも愛されず、まともに相手にされない孤独、その痛みをイエスさまは受けとめてくださいました。そして、同じように、イエスさまは、今日、私たち一人ひとりに目を留めてくださり、私たちの満たされない渇き、疲れた心、渇いた魂を受けとめてくださいます。喉が渇いたら、水を飲めば癒やされます。でも、またすぐに喉が渇くように、私たちがこの世で手に入れる楽しみや成功、人間関係における喜びや満足も、一時的なものでしかありません。時が過ぎれば、また状況が変われば、渇きを覚えることになります。私たちはいつも、貪欲に、もっと欲しい、満たされたいという終わりのない渇きを抱えて生きているのです。けれども、イエスさまが与えてくださる「生ける水」、「命の水」は、決して枯れることのない泉、尽きることのない命の恵みです。この水は、神さまからの無条件の愛、赦しの愛であり、永遠の命と呼んでもよいと思います。神の霊が、私たちの内に宿ってくださり、私たちの霊の命を満たしてくださるのです。
同じ福音書の少し先のところで、イエスさまは言われます。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる」(7章37~38節)。主が与えてくださる「生ける水」は、私たちを潤し、私たちを満たすだけではありません。私たちから溢れ出て、流れ出るようにして、私たちの周りの者たちをも潤す愛となって働きます。私たちが、主のものとされるとき、私たちは、主の御業のために用いられ、主の愛を証しするものとされるのです。

