2026年8月9日 主日礼拝説教「憐れみ深い人々は幸いである」東野 尚志 牧師

申命記 第4章25~31節
マタイによる福音書 第5章1~12節⑤

 主の日の礼拝に先立って、午前9時から、この礼拝堂で、教会学校の礼拝が行われています。滝野川教会の教会学校では、以前からずっと、福音主義教会連合の「教会学校教案」を用いています。三年サイクルのカリキュラムになっていて、「イエス・キリスト」「聖書」「教会」という三つの主題が、繰り返し順番に取り上げられるのです。今年度は、3年目の「教会」が主題です。「教会」を主題にするといっても、いろいろな取り上げ方ができますけれど、今回は、「三要文に学ぶ」という副題がついています。「教会―三要文に学ぶ」、これが、2026年度の年間主題です。「三要文」、普段はあまり耳にすることのない言葉であるかもしれません。三つの重要な文書、と書いて「さんようもん」と呼びます。「さんようぶん」ではなくて、「さんようもん」と呼ぶことになっています。何だか呪文のような響きに感じられるかもしれません。

 「三要文」は、教会を建て上げていくときの柱となる文書として、特に、16世紀の宗教改革以来、大切にされてきました。教会を建てるだけではなくて、私たちの日々の信仰生活を支え、導く三つの言葉、そう言ってもよいと思います。皆さんは、三つと言われて、何を数えるか、すぐに思い浮かべることができるでしょうか。私たちにとって、最も身近な言葉として、誰もがすぐに思い浮かべるのは「主の祈り」だと思います。今朝もご一緒に祈りを合わせました。主イエスが弟子たちに口移しするように教えてくださった大事な祈りの言葉であり、祈りの中の祈りと言ってよいと思います。続いて、聖書の信仰のエッセンス、私たちの信仰の基本を言い表した言葉として「使徒信条」が挙がります。これも、毎週の礼拝において、聖餐にあずかった後、みんなで一緒に告白しています。3番目は、少し頭を悩ませるところかもしれません。言われてみれば、ああなるほど、という感じでしょう。「主の祈り」「使徒信条」ときて、もう一つは「十戒」です。私たちの教会では、礼拝で十戒を唱えることがありませんので、あまり馴染みがない言葉のように感じられるかも知れません。しかも、旧約聖書の言葉であり、律法ですから、距離を感じてしまうのかもしれません。

 私が以前、牧師をしておりました鎌倉雪ノ下教会では、毎週の礼拝の中で、十戒を唱えていました。これは、私が始めたのではなくて、前任者の時代に、教会全体で、十戒を深く学んだ上で、毎週、礼拝の中で唱えることにしたのです。恐らく、今も変わっていないと思います。三要文をすべて礼拝の中に位置づけて、礼拝の柱としたのです。決して、新しいことを始めた、というわけではありません。先ほどは、特に、宗教改革以来、三要文が重んじられるようになった、と申しました。ローマ・カトリック教会から分かれて、新しい教会を建てていこうとするときに、「十戒」「使徒信条」「主の祈り」、三要文を学ぶことを大切にしたのです。カトリック教会で幼児洗礼を受けていた人たちが、プロテスタントの教会に移って、信仰告白をする。そのための準備の学びを導くために、信仰問答、教理問答と呼ばれる文書が書かれました。その基本スタイルは、問答形式で、三要文を説き明かしていったのです。

 スイスで改革を進めたジャン・カルヴァンは、信仰問答書を書いただけではなくて、礼拝式文の基礎を築いたことで知られます。カトリック教会のミサとは異なる、プロテスタント教会の礼拝式文を作ったのです。その中に、最初から十戒を位置づけました。しかも、礼拝の比較的初めの方で、罪の告白をうながす神の言葉として、十戒を唱えるように教えました。神の戒めの言葉によって、その戒めに従うことのできない私たちの罪が暴かれます。私たちが、罪にして罪、肉にして肉に過ぎない者であることを、どこで自覚するのかと言えば、まさに、神の言葉である戒めに直面することによるのです。カルヴァンは、毎週の礼拝の中で十戒を唱えるとき、戒めが一つ読まれるたびに「キリエ・エレイソン」と祈ることを求めました。十の戒めが、一つずつ読まれるたびに、「キリエ・エレイソン」、「主よ、憐れみたまえ」と祈ることを教えたのです。「キリエ・エレイソン」、これは、もとはカトリック教会のミサの中で唱えられた祈りの言葉でした。それをカトリックのミサと一緒に捨ててしまうのではなくて、神の戒めへの応答とすることで、罪の告白・懺悔をうながしました。神の憐れみと赦しなしには、神の前に立つことのできない罪人であることを告白したのです。

 「キリエ・エレイソン」、「主よ、憐れんでください」。礼拝式文の中で、リタージの言葉として口にすることはあっても、私たちの日常の生活の中では、あまり口にすることはないのかもしれません。日本語の「憐れみ」という言葉に、どこか相手を自分よりも下に見るようなニュアンスが感じられるからではないかと思います。私たちが、誰かを憐れむ、というとき、確かに、その人の置かれた悲惨な状況に対して心を痛めながらも、自分自身は傷つくことのない安全なところにいて、困難や痛みの中にいる人のことを、気の毒に思う、可哀想だと思う、そんなイメージがつきまといます。むしろ、他の誰かを憐れむ、というのは、相手に対して失礼なことではないかと感じる人も多いのではないでしょうか。相手のことを「思いやる」と言い換えても、やはり、思いを「やる」のであって、相手を下に見ているように感じる人もいるでしょう。「同情する」と言い換えれば、本来ならば、同じ思いになるという意味なのですから、対等であるはずですけれど、「同情される」ことを嫌がる人もいるのだと思います。そのくらい、私たちは、相手のことを思う、心にかける、ということが、なかなか上手にできないところがあるのかもしれません。逆の立場だと、引け目を感じてしまうことの裏返しなのだと思います。

 けれども、聖書が「憐れみ」という言葉を用いるとき、そこには、私たちが自分では表せないような深い意味が込められているように思います。主イエスは言われました。「憐れみ深い人々は、幸いである その人たちは憐れみを受ける」。「憐れみ」という言葉が繰り返されていますけれど、最初の「憐れみ深い」と訳されている言葉は、新約聖書の中であと一回しか出て来ません。ヘブライ人への手紙の中で用いられています。「それで、イエスは、神の前で憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を宥めるために、あらゆる点できょうだいたちと同じようにならなければなりませんでした。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(ヘブライ2章17~18節)。イエス・キリストは、神の独り子として、父なる神と共に天におられました。その高い天から、地上でうごめき、苦しんでいる私たち人間を見下ろして、天に身を置いたままで、大祭司として執り成しをしておられる、というのではありません。主イエスは、私たちが呻いている地の底にまで降って来てくださり、私たちと同じ人間の姿をとって、私たちと同じ苦しみを味わわれました。主イエスが「憐れみ深い」方と呼ばれるのは、私たちと同じようになるということの中で現わされたのです。

 新約聖書で「憐れみ」と訳されている言葉を、旧約聖書の背景にまで遡ると、さらに事柄がよく見えてきます。旧約聖書において、「憐れみ」にあたる言葉の一つが「ヘセド」です。この「ヘセド」という言葉は、日本語では「慈しみ」と訳されることが多いのですけれど、主イエスの言葉として記されたギリシア語の「憐れみ」にあたります。この「ヘセド」という言葉は、親切や愛といった一般的な意味と共に、「忠実さ」「誠実さ」という意味をも含みます。その忠実さは、「契約に対する忠実さ」として現わされるのです。神はイスラエルの民と契約を結んで、イスラエルの神となられ、イスラエルは神の民となりました。契約の一方の相手であるイスラエルが、幾たび神に背いて、契約を踏みにじっても、神の側では、イスラエルを決して見捨てず、御自身の契約を誠実に守り抜いてくださり、どこまでも変わることなくイスラエルを愛されました。そういう神の変わることのない愛、揺るぎない愛を表わします。その印象深い用例が、詩編106編43節以下にあるのでご紹介します。「主は幾たびも彼らを救い出したが 彼らはたくらみを抱いて反抗し 自分たちの過ちによって没落した。それでも、叫びを聞かれたとき 主は彼らの苦しみを顧み 彼らのために契約を思い起こし 豊かな慈しみにふさわしく憐れみ 彼らをとりこにした者が皆 彼らに憐れみを示すようにした」(詩編106編43~46節)。民の背きにもかかわらず、主は契約を思い起こして、豊かな慈しみにふさわしく憐れんでくださった、と歌うのです。

 また、礼拝の初めに交読した詩編103編の8節にも「主は憐れみ深く、恵みに満ち、怒るに遅く、慈しみに富む」と歌われています。主が、憐れみ深いこと、恵みに満ちておられること、慈しみに富んでおられることは、一つなのです。合わせて朗読した旧約聖書の申命記4章の記事の中でも、イスラエルの悪に対する神の怒りと厳しい裁きが告げられた上で、それでもなお、散らされた先で、主を探し求め、心を尽くし、魂を尽くして主を求めるならば、主を見いだすことができる、と約束されています。主は、変わることなくイスラエルに身を向けておられるからです。そして、告げられます。「これらすべてのことがあなたに臨んであなたは苦悩に満ちるが、終わりの日には、あなたは、あなたの神、主のもとに立ち帰り、その声に耳を傾けるだろう。あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも、あなたを滅ぼすことも、先祖に誓われた契約を忘れることもないからである」(申命記4章30~31節)。主なる神が、憐れみ深い神であり、契約を忘れずに守り続けていてくださるからこそ、立ち帰ることができるのです。主は、いつまでも、御自身の民の立ち帰りを待っておられる、それが神の憐れみ深さなのです。

 そして、ヘブライ人への手紙が告げていたように、主なる神の憐れみ深さが、まさに、形をとって現れたような御子イエス・キリストにおいて、契約とは無関係であった私たちも、主の憐れみにあずかる者とされました。主イエスの流された血による新しい契約に招き入れられたのです。私たちのゆえではありません。御子イエス・キリストのゆえに、その十字架と復活の御業のゆえに、私たちも憐れみを受けて、神の民に加えられたのです。主イエスが、私たちに向かって、「憐れみ深い人々は、幸いである その人たちは憐れみを受ける」と言われるとき、私たちは、神の憐れみを抜きにして、神の憐れみにあずかっている者であることを忘れて、この言葉を聞くことはできないのだと思います。私たちが、神の憐れみを受けているということは、私たちの側で神さまとの関係を忘れてしまったとしても、神さまの側では、決して、私たちを見捨てず、御自分のものとして愛し抜いてくださるということなのです。そこで、私たちは、改めて問われることになります。すでに、この変わることのない神の慈しみと憐れみに生かされている者として、私たちも当然、お互いに憐れみをもって生きようとするはずではないのか。

 同じマタイによる福音書の18章に記された主イエスのたとえ話を思い起こします。今年度の年間聖句に続く箇所です。赦しに関わる話。一万タラントンの借金を帳消しにしてもらった家来の話です。1万タラントンというと、1タラントンが6千デナリオンですから、6千万デナリオンになります。一日の労働者の賃金が1タラントンと言いますから、6千万日分の給料に相当します。一年に300日働いたとして、20万年分の賃金です。途方もない額の借金を全額赦してもらったのです。ところが、その家来は、自分が百デナリオン貸している仲間から、それを取り立てようとして、捕まえて牢屋に入れたというのです。20万年分の借金を帳消しにしてもらった帰り道で、わずか百日分の借金をしている仲間を締め上げるなんて、あり得ないと思われるかもしれません。あり得ないことをしているのが、私たち罪人なのです。主イエスは、そのことを分からせようとして、このたとえを語られたのです。主イエスは、この家来に対する王である主君の言葉を告げられます。「不届き者。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(マタイ18章32~33節)。主イエスが、「憐れみ深い人々は、幸いである」と言われるとき、私はこのたとえを思い起こします。自分自身が、自分では到底支払えない大きな罪の負債を免除されたことを知っているなら、誰かを赦さないということはありえないはずだ、主は、そう言われるのです。誰かを赦せない、と思ってしまうとき、私たちは、自分自身が神によって赦された者であること忘れてしまっているのだと思います。私たちの赦しのために、神の独り子が、どれほど深く私たちを憐れんでくださり、私たちを義として、生かすために、御自身がすべての罪を引き受けて死んでくださった。その神の憐れみ、神の愛の真実が、身に染みるほどによく分かってはいないのです。

 私たちは、自らの愛と憐れみの貧しさ、乏しさを嘆かざるをえません。「主よ、憐れんでください」と祈らざるを得ません。この祈りを祈りながら、十字架の主を仰ぐとき、また一歩、主の憐れみを深く味わわせていただくのです。一週の初めの日、聖餐の恵みにあずかり、主の憐れみ深さを噛みしめながら、私たちも小さな憐れみの業を始めたいと願います。憐れみの心をもって、身近な者たちとの間に、赦し合い、仕え合い、執り成し合う、主の御旨にかなう交わりを築いていくことができますように。