2026年9月13日 主日礼拝説教「必要なことは一つだけ」 東野 ひかり牧師
ルカによる福音書 第10章38~42節
申命記 第33章1~3節
主イエスは、マルタを深くいつくしみ、マルタの名を二度重ねてお呼びになっておっしゃいました。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」(41-42節) 主は、はっきり、間違いなく、「必要なことは一つだけ」だとおっしゃいました。この物語において、この「必要なただ一つのこと」が何であるのかも、はっきりしています。それはマリアが選んでいることです。すなわち「主の足元に座って、その話を聞」く、ということです。文字通りには「主の足元に座って主の言葉を聞き続ける」ということです。主イエスは、このマリアが選び取っていることこそ「良いほう」であり、無くてはならぬもの、必要なただ一つのことだと言われました。それはマリアにとってもマルタにとっても、そして私たちの誰にとっても、取り上げられてはならないもの、無くてはならないただ一つのこと、必要なただ一つの「良い」ことだと、主イエスは、このマルタとマリアの物語において、はっきり、間違いなく、語っておられます。
今朝共に聞いておりますマルタとマリアの物語は、教会の中で大変よく知られ、親しまれている物語です。私たちはこの話を聞きますと、教会の中のあの人はまるでマルタのよう、あの人はマリアのよう、そんなふうに思うことがあるのではないかと思います。マルタとマリアは私たちの教会の中にもいるような二人、私たちの姿を映し出しているような、とても身近に感じる二人ではないかと思います。
古くから、この物語を読みますときにこの二人に二つの人間のタイプを読み取る、そういう読み方があります。マルタは積極的に奉仕をする人、体を動かして奉仕することが性に合っていて、よく気配りができてリーダー的存在、みんなを引っ張っていくタイプのお姉さんタイプです。実際マルタのほうが姉で、マリアは妹、一般的にそう理解されています。姉のマルタは、体を動かし手を動かし、奉仕をすることを通して神さまに仕え、周りの人に一所懸命仕えて、喜んでもらうことが何よりも嬉しい、そんな人です。妹のマリアは聖書を読んで学ぶことが好きな物静かなタイプ。あまり周囲のことには気が回らず、ちょっと気が利かないかもしれないけれど、聖書の学びにはとても熱心で、よく祈る。物静かでおっとりした信仰深い妹。この物語から、そんな二つのタイプの人の姿を読み取るのです。確かに、この物語から、そんなマルタとマリアの姿が浮かび上がってきます。そしてこの物語を読む私たちは、この二人に自分たちの姿を重ねて、ほんとうに親しい、いとおしいような思いで、この二人の物語を愛しているのではないかと思います。教会の中で、自分はマルタタイプだとか、あの方はマリアタイプねとか、この物語を引き合いに出しながらそんな話をすることもあると思います。教会には、男性女性問わず、マルタタイプの人とマリアタイプの人がいる、そんなふうに言われますと、教会のあの方この方のお顔が浮かんできて、妙に納得したりいたします。
中世の時代にあったこの物語の読み方には、ここに〈活動的な生活〉、すなわち世俗の中に出て行き神のため人のために奉仕する生活と、それに対してあらゆる奉仕活動から離れて修道院に入り、ただ聖書の言葉を聴き、黙想と祈りに集中する〈受動的な生活〉とが示されている、そのように読む読み方もあったそうです。一所懸命奉仕に生きる生活・マルタタイプの生き方も、黙想と祈りに集中する生活・マリアタイプの生き方も、両方とも神と人に仕える、大切な生き方だということを、この物語から読み取った、というのです。
私たちも、この物語を読みますとき、しばしばこんなことを思います。「マリアタイプの人ばかりでは教会の働きは成り立たない、みんなが「座って聖書のお話を聴き続ける」ことだけをしていたら、教会は立ちゆかない。あのことやこのことを担う、奉仕をする人がいてくれなければ教会は立ちゆかない。マルタがいなければ教会は困ってしまう。だから、マルタの働きも必要であり、無くてはならない。」そして、マルタもマリアも両方ともが教会には必要だ、という結論を導き出すのです。そういう読み方・とらえ方をすることがあると思います。私自身も以前の教会で、婦人会の集まりのときに、マルタもマリアも両方とも教会には必要、両方ともそれぞれの仕方で、「主の足元に座って」主に仕えているのだと、そういう話をしたことがありました。そういう話をしてしまった、と言ったほうがよい、少し苦い記憶があります。
私たちの愛するこのマルタとマリアの物語、この話は、しかし単に信仰者の二つのタイプの話というのではないのです。そして、両方のタイプが教会には必要だという話でもないのです。そういう側面からだけこの話を捉えるのでは、この物語をちゃんと読んでいないことになる、そう言わなければならないのです。最初に申しましたように、このマルタとマリアの、私たちにとって大変慕わしい物語において、主イエスははっきりと、「必要なことは一つだけ」と言われました。主イエスの足元に座って主の言葉を聞き続けたマリアの在り方を、主は「良いほう」と言われました。主の言葉は〈あれもこれも〉ではないのです。マルタの在り方もマリアの在り方も両方とも必要だとは、主は言っておられないのです。主イエスのお言葉には〈あれかこれか〉という厳しさがあります。「必要なことは一つだけ」「無くてならないものはただ一つ」。けれども私たちは、この主イエスの言葉の厳しさを何とかして和らげようとする解釈、捉え方をしたくなってしまいます。マルタタイプ、マリアタイプというように読むこともそのような読み方のひとつかもしれません。マルタのほうにだって「良さ」がある、そもそも必要なことは「一つ」ではない、たくさんある、あれもこれも必要な大事なことではないかと、イエスさまに抗議したくなります。
皆さまの中には、この箇所を以前の口語訳聖書の言葉で覚えておられる方もおられるでしょう。口語訳聖書では、42節はこう訳されていました。「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。」「無くてならぬものは多くはない」となっていたのです。この翻訳ですと、〈必要なこと、無くてならぬものはいくつかある、あれもこれも必要だ、けれどもその中の一つだけが最も必要だ〉という理解も可能になります。口語訳聖書が元にした写本が、「無くてならぬものは多くはない」と訳せるものだったのです。このことは、古い写本の時代から既に、主イエスの言葉の厳しさを和らげようとする読み方があった、ということを示します。けれども、新共同訳聖書や聖書協会共同訳は、「必要なことは一つだけ」となっている写本に基づいています。こちらの方がより理解が困難で、厳しい言葉です。けれども恐らくは、この厳しい印象を与える言い方のほうが主イエスの語られた本来の言葉だと判断されたのです。
私たちもまた、この主イエスの言葉の〈あれかこれか〉的厳しさに、どうしても引っかかってしまう。その厳しさを和らげる捉え方、解釈をしたくなってしまいます。無理やりにでもマルタの在り方も必要だという、〈あれもこれも〉必要だという結論に持って行きたくなるのです。しかし、主イエスはそうではなくて、「必要なことは一つだけ」と言われたのです。
しかしそれならば、主イエスはここで、「必要なことは一つだけなのであって、その他のことはすべて不必要なことだからしなくていい」と、マルタの奉仕を一切「要らない」「要らないからする必要はない」と切り捨てておられる、ということなのでしょうか。もしもそんなふうに読むとしたら、それもまた、主の言葉の真意を捉え損なっているのではないかと思います。
ルカによる福音書は、この物語を主イエスとその一行がエルサレムに向かって旅を続けている、その途上で起こった出来事として記しています。しかもエルサレムに向かう旅が、まだ始まって間もないときの出来事のように記しています。主イエスが「その時が来た、時が満ちた」と、ガリラヤから出てエルサレムへ、十字架へと歩き始められたのは、第9章51節でした。第10章のこの位置では、まだエルサレムにそれほど近づいてはいないと思われる。けれどもルカは、この位置に、主イエスがマルタとマリアの姉妹の家を訪れた、という話を置きました。ヨハネによる福音書の第11章にも、このマルタとマリアの姉妹が登場しています。ヨハネ福音書では、この二人にはラザロという兄弟がいたことも記されています。そしてヨハネ福音書によれば、このマルタ、マリア、そしてラザロのきょうだいの家は、ベタニアというエルサレムにほど近い村にあったと記されているのです。主イエスの一行がこの時点でもうベタニアに至っているとしたら、この後の旅の話とつじつまが合わなくなってしまう。それくらい、ベタニアはエルサレムに近い村です。それで、ルカはここでベタニアという地名を出さずに、「ある村」と書いたのだとも説明されるのですが、いずれにしても、なぜこの位置に、主イエスとマルタ・マリアの姉妹の物語が置かれているかということが、この物語を読み解いていく上でのひとつのポイントになります。
第10章1節以下には、主イエスが72人の弟子たちを「ご自分が行こうとするすべての町や村に二人ずつ先にお遣わしになった」という記事があります。ある人は、マルタとマリアの話はこの出来事の続きとしてここに置かれているのだと指摘します。つまり、72人の弟子たちのうちの二人が、このマルタとマリアの家にも「神の国は近づいた」と、喜びの福音を伝えており、マルタとマリアは、主イエスの使者たちを家に迎え入れ、その福音を聞いて信じた、既に信仰を与えられていたと、そう考えるのです。この物語が置かれている位置は、そういうことを示している、というのです。ですから、いよいよ主イエスが自分たちの村に来られたときに、マルタが主イエスを「家に迎え入れた」(38節)というのは、単に旅人をもてなしたということにとどまらない、マルタが信仰をもって主イエスを受け入れた、そのマルタの信仰的決断を伴う行為を表していると言われる。マルタが主イエスを家に迎え入れてもてなしたのは、主イエスに対する信仰に基づくもてなし・奉仕だったということです。
ルカは、とても注意深く、このマルタとマリアの短い物語の中に「主」という言葉を3回も用いています。39節で、「マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた」と記します。40節では、マルタは主イエスを「主よ」と呼んでいます。そして41節に「主はお答えになった」と記します。ルカは、主イエスをマルタとマリアの「主」として、ここに注意深く描き出しています。そのようにして、マルタとマリアが主イエスを「わが主、私たちの救い主」と受け入れていることを、丁寧に描き出していると言えるのです。
私たちは、マリアのほうが信仰深く、主の足元に座って主の言葉を聴き続けていた人と、そのように思い込んでいて、ともするとマルタの信仰ということには思いが及ばないのではないかと思います。マルタは信仰深い人・信仰の人というよりも、奉仕の人。食事の世話やもてなしにもっぱら心を遣う活動的な行動の人、そんなふうに思ってしまっています。けれども、ルカは38節ではっきりと、ここで主イエスを家に迎え入れたのはマルタだと記すのです。マルタ、という名前は、〈家の女主人〉という意味の名前だそうです。まさにその名のとおり、その家の女あるじとして、主体的な信仰的決断をもって、マルタは主イエスを自分の家に迎え入れて、主イエスを「私の主」として受け入れたのです。そして、旅の途上にある主イエスを、心を込めてもてなした。その汚れた足を洗い、きれいな衣服と十分な水と食事を提供し、旅の疲れを癒やして差し上げようとした。主イエスが、このマルタの信仰による精一杯のもてなし・愛のわざを、喜ばれなかったはずがありません。あなたの奉仕は不要だなどと言われるはずはないのです。
さらに言えば、このマルタとマリアの物語のすぐ前にあるのは、主イエスが律法の専門家にお語りになった〈よきサマリア人の譬え〉です。ユダヤ人と敵対する立場にあったサマリア人が、傷つき倒れている旅人を深い憐れみの心をもって介抱し、できる限りのことをしてその傷ついた旅人の「隣人となった」という譬え話を、主イエスは語られました。主は、このサマリア人こそ、「隣人となる」というまことの隣人愛に生きたのだと教えられました。思いやりと愛をもって、傷ついた旅人に深い憐れみを示したサマリア人の姿を語られた主イエスは、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。その主イエスが、旅人主イエスに対して、まさにサマリア人と同じように「隣人となる」愛のわざ・信仰に基づく愛の奉仕を献げているマルタに対して、その愛のもてなしを一切不要なことだ、などと言うはずなどあり得ません。主イエスは、マルタの信仰と愛と奉仕を退けられたわけではない。マルタという存在を否定されたわけでもないのです。
ただ、マルタは、この主への愛のもてなしを献げる中で、最も大切なただ一つのことを失ってしまった。「必要なことは一つだけ」と言われた主イエスの言葉の厳しさは、マルタが失った「一つのこと」に目を向けさせようとする、その厳しさです。マルタが失ってしまったこと、それは、主イエスを真実に「私の主」とする、ということです。マルタは「主よ」と、主イエスをお呼びしながら、真実には「私の主」とはしていないのです。
40節にそのマルタの姿が描き出されています。「マルタは、いろいろともてなしのために忙しくしていたが、そばに立って言った。「主よ、姉妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」」 「いろいろともてなしのために忙しくしていた」。もてなしと訳されている言葉は、もとのギリシア語そのままで言いますと「ディアコニア」という言葉です。後に教会の中で大切に用いられるようになった言葉、「奉仕」と訳される言葉です。神と人に仕える様々な奉仕、神への愛と隣人への愛をもってする愛のわざを意味する言葉です。マルタは主のために仕える愛のわざにいそしんでいました。けれどもその奉仕に「忙しくしていた」。この「忙しくしていた」と訳されました言葉は、「周りに引っ張られる」という意味の言葉です。マルタは色々なたくさんの奉仕に心が引っ張られ、忙しくして、思い煩い、心を乱していたのです。
マルタの言葉の中の「主よ、姉妹は私だけにおもてなしをさせていますが」は、直訳しますと、「私の姉妹は、私一人を後に残して奉仕をさせていますが」となります。この言葉について次のように解説しているものがありました。〈主イエスが到着してその足を洗って差し上げ、一息つかれたとき、最初はマルタもマリアと一緒に主の足元に座って主の言葉を聴いていたのかもしれない。しかしマルタは、他の多くの奉仕に心を引っ張られた。そして立ち上がって台所に行って忙しく立ち働き始めた。そういう状況だったのではないか。〉そうだったのかもしれません。マルタも最初はマリアと一緒に主の話を聞いていた。ところがマルタは、あの奉仕、この奉仕、あのこともしなければこのこともしなければと、心が引っ張られて、心がちりぢりに分かれて心がバラバラになって、だんだんイライラし始めた。腹が立ってきた。「どうしてマリアは私だけに、主のおもてなしをさせるのか。私だけが、私一人が、こんなにあたふたと忙しくして、こんなに大変な思いをしている。イエスさまもイエスさまだ。どうしてマリアに一言、『マルタを手伝っておやり』と言ってくださらないのか。私だって、主のお話を聞きたいのはやまやまなのに。」このマルタの気持ちは、私たちにもよく分かると思います。
するとマルタは、主の「そばに立って」主イエスにその気持ちをぶつけるのです。この「そばに立って」という言葉は、そっとそばに立って、というような、そんな穏やかな言葉ではないのです。言葉の成り立ちからすると「上に立つ」という意味を含みます。ある説明では、この言葉には〈攻撃の意図を持って襲う〉という意味があり、「暴れ込む」とか「飛び込んでくる」と訳される場合もある、とありました。この説明を読みまして、いったいこのときマルタはどんな形相で、どんな様子でマルタは主イエスのところに「暴れ込んだ」のか、もしかしたら片手に包丁を握りしめたまま「暴れ込んだ、飛び込んできた」のか、という想像もしてしまいました。とにかく主イエスのそばにつかつかと近づいて、そして上からイエスさまを叱りつけるように言ったのです。「主よ、私の姉妹は、私一人だけにあなたのためのもてなしをさせている。何とも思わないのか。彼女に言いなさい。私のために手伝うように!」
マルタは、「主よ」と主イエスを呼んでいますけれど、ここで「主」となっているのはマルタのほうです。マルタは、自分が主、自分があるじになっています。まさにその名の通り「女主人・マルタ」です。上から主に命令しています。マルタの言葉の中には「私」という言葉が3回用いられています。「私の、私だけ、私のため」。マリアのことを、名前ではなく「私の姉妹」と呼んでいます。最初は二人で一緒に主の足元に座って話を聞いていたのだとするならば、二人は共に、主の弟子の姿勢をとっていたということになります。「足元に座って話を聞く」というのは、元来弟子が先生の話を聞くという姿勢です。マルタにとってマリアは、主イエスを信じるようになった時点で、共に主の僕・主の弟子となっていたはずなのです。けれどこの時、マルタにとってマリアは「私の言うことを聞いて私を手伝うべき私の姉妹・私の妹」なのです。マリアもイエスさまも、マルタ一人を、「私だけ」を後ろに残して、私だけに奉仕させている。イエスさまは「私のため」に何も言ってくれない。マルタにとってはイエスさまも、私のために動いてくれる「私のための」主でなければならないのです。この時のマルタは、自分が主、「私」がすべての中心になっているのです。
そのようなマルタに、主イエスは、マルタの「主」として答えて言われたのです。41節「主はお答えになった。」主が、真の「主」としてマルタにお答えになりました。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」 主イエスの言葉にはマルタに対する叱責というより、深いいつくしみが、愛があります。主イエスはマルタのことをよく見ておられます。マルタの名前を二度呼んで言われました。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。」「思い煩う」という言葉は、元々は、心が別れる、分裂する、という意味があると説明されます。「いろいろななと」たくさんのあのことこのことに心を引っ張られて、心がちりぢりに分かれてしまっている、それが思い煩いです。合わせてここには「心が乱れる」という意味の言葉も使われています。心が騒乱状態、そういう意味の言葉がここに重ねて使われているのです。主イエスはマルタに対して、「あなたは、思い煩って心がバラバラになって、心が乱れて暴れている」、そう言われたのです。心が大暴れしている、そのマルタの心の状態が、主イエスのところに「暴れ込む」ように近づいた、という姿に現れたのでしょう。思い煩って心が大暴れのマルタは、主イエスの上に立ってしまったのです。心がバラバラに乱れた結果、自分が「主」になってしまい、本来「主」とすべきお方を自分の下にしてしまった。「私、私、私」と、「私」を中心にしか考えられなくなってしまったのです。
ある説教者は、この「思い煩って、心が乱れている」という状態は、〈心が色んなことでいっぱいになって、それゆえの思い煩いでいっぱいになっているということだが、それは心が空虚であるということだ〉と、説いていました。私たちは、あのこともこのこともしなければいけない、あの奉仕をしなければいけないこの奉仕をしなければいけないと、心があちこちに引っ張られて、心がバラバラになって、思い煩いでいっぱいになると、空しさを感じるのではないでしょうか。たくさんの奉仕を抱えて、一所懸命に奉仕をしても、誰も自分の奉仕を顧みてくれない、評価してくれない、自分だけが頑張っている、そんな気持ち・思い煩いが心を占めると空しくなってきてしまう、そういうことがあると思います。「こんなに一所懸命にやっても誰もそれを評価してもくれない、気づいてもくれない。」空しくなる。マルタもそうだったと言うのです。
そういうマルタに、またそういう私たちに、主イエスは言われたのです。「必要なことは一つだけである。マリアは、良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」 マリアがしていたことは、一筋の心で、「思いを一つに」(詩86:11)して、主を主として畏れ敬い、主の言葉を聴き続けていた。それだけです。主のそばに暴れ立つような姿勢ではなくて、身を低く、主の足元に座って、あれやこれやと心引っ張られることなく、思いを一つに、一筋の心で、主の言葉をひたすらに受けていた。それは、主イエスをまことに「私の主」として心から愛する姿を示しています。マリアの姿は、一つ心で主を愛する姿です。主を礼拝する姿です。主イエスは、このマリアに対して「良いほうを選んだ」と言われました。「良いほう」と訳されていますけれど、これは、マリアはマルタに比べてより良いほう・ベターなほうを選んだ、という意味というよりむしろ、ベスト・最善・最も良いもの、最も良い「受けるべき分け前・受け継ぐべき分」を選び取ったという意味です。マリアは「最善の、ベストの受け継ぐべき分け前を、しっかりと選び取った」、主はそう言われたのです。そしてそれは、誰も、どんな人も、マリアから取り去ってはならないものなのだと、主は言われたのです。
この物語のすぐ前には、よきサマリア人の譬えがあることは先ほど触れました。このよきサマリア人の譬え話を主イエスがお語りになるきっかけを作ったのは、一人の律法の専門家でした。その人は主イエスにこう質問したのです。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 この「受け継ぐ」という言葉が、「良いほう」と訳された言葉と内容的につながります。何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるのか。受けるべき最善の分け前を受け継ぐことができるのか。主イエスは、その答えを示されました。「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。」
マルタが失っていたのは、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛」するということ、思いを一つに、主をまことに主として愛し仕える、この欠くべからざる最善の、ただ一つのことだったのです。それゆえに、一所懸命主のためにもてなしの奉仕をしながらも、思い煩いに心が乱れ、どうして私だけが、という空しさにさえ捕らわれてしまったのです。
主は、マリアが座っている場所に、マルタを、そして私たちを、招かれます。「どうして私だけが」というような思い煩い、空しい思いから解き放たれ、軽やかな心で、主を愛し隣人に仕える、真実に「隣り人となる」隣人愛に生きる道が拓かれていく所、主の足元に、主はマルタを、私たちを、招いてくださいます。主の足元に座り、心を一つに、主を愛し、主の言葉を受け続ける、この礼拝の場所から、マルタが本来したかった、本当はしようとしていた、主へのひとすじの愛をあらわす奉仕を献げて生きる道が拓かれます。主を愛し隣人に仕える「命を得る」道が、拓かれていくのです。

