2026年9月20日 主日礼拝説教「地の塩、世の光として」東野 尚志 牧師
イザヤ書 第60章1~3節
マタイによる福音書 第5章13~16節
今日は、かねてよりご案内して参りましたように、この礼拝に引き続いて、夏期修養会の振り返りと分かち合いが行われます。今年の夏期修養会は、今から40日程前、8月9日の日曜日から11日の火曜日まで、東洋英和女学院の軽井沢追分寮において開催されました。夏期修養会は、かつては教会全体修養会と呼ばれていました。私が滝野川教会の神学生であった頃―もう今から40年も前のことになります―、当時は、8月の終わりの金曜日から日曜日までの2泊3日のプログラムで、日曜日には、滝野川教会全体が、軽井沢の女子聖学院短大のセミナーハウスに大移動したような趣がありました。子どもも入れて、100人を超える人たちが参加して、セミナーハウスの講堂で日曜礼拝を行ったのです。
今から7年前、2019年に、神学校卒業以来、ちょうど30年振りに、牧師として滝野川教会に戻って来ました。その年の夏の教会全体修養会の参加者は40数名でした。主題は「キリストのからだ―教会の交わりにある一致と分担―」でした。ところが、その翌年から、新型コロナウイルスによるパンデミックのため、3年間、夏の修養会はお休みせざるを得ませんでした。4年振り、2023年の夏に開催した教会全体修養会は、参加者26名。もはや教会全体修養会と呼ぶにはおこがましいサイズでしたが、主題として「礼拝共同体としての教会―主にある交わりの再建―」を掲げました。その次の年からは、参加できない人たちが多くなる中で、事前に半日修養会や、学びの会を設けて、夏の2泊3日の修養会自体は、夏期修養会と呼ぶことにしました。2024年は、教会創立120周年の節目の年であることを意識して、「キリストの弟子として生きる―祝福を担う群れ・教会」という主題を掲げました。ディサイプルス教会としての始まりを意識したのです。翌年、2025年の夏期修養会の主題は、「新しい神の民―恵みと祝福のうちに生きる―」。そして、今年の主題は、「主の名によって集まる」と続いたわけです。
お気づきでしょうか。私が、滝野川教会に牧師として赴任してから、途中、コロナのための3年間のブランクはありましたけれど、夏の修養会で掲げた主題はすべて、教会とは何であるか、私たちは何をするのか、ということを取り上げて来たのです。もう一度、主題だけを並べてみます。「キリストのからだ」「礼拝共同体としての教会」「キリストの弟子として生きる」「新しい神の民」「主の名によって集まる」。教会とは何であるのか、教会として集められた私たちは何者とされているのか、教会において新しく与えられたアイデンティティを問いながら、教会としての働きが何であるかを問い続けてきたのです。
その意味では、今日、私たちに与えられた聖書の言葉もまた、教会に生きる私たちのアイデンティティとその働きを明確に告げている言葉だと言ってよいと思います。主イエスが、山上の説教の中で語られた言葉です。主イエスは、大勢の群衆が押し寄せる中、山に上って腰を下ろし、周りに座った弟子たちに向けて、さらには弟子たちを遠巻きにしている群衆に向かって、教え始められました。主イエスの説教は、印象深い祝福の宣言から始まりました。幸いを告げる言葉が、8回繰り返されたのです。「心の貧しい人々は、幸いである 天の国はその人たちのものである」。この力強い宣言から始まりました。8つの祝福はすべて、「これこれの人々は、幸いである」というように3人称で語られていましたけれど、それはすべて、弟子たちに向けて告げられた言葉でした。なぜ、敢えてそれを3人称で語られたのかと言えば、そこに、語っておられる主イエス御自身の姿が浮かび上がることを意識しておられたのかもしれません。主イエスと教会はひとつなのです。教会はキリストの体であり、キリストの御心を行う群れです。
最後、8番目の祝福において、そのことは、言葉の上でもはっきり現わされました。「義のために迫害された人々は、幸いである 天の国はその人たちのものである」。この宣言に続けて、さらに説明を加えるようにして、主は言われました。「私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである」。はっきり、「あなたがた」と言われました。そしてこれもまた、主イエス御自身が辿られた道であったことは、言うまでもありません。主イエスは、罵られ、迫害され、悪口を浴びせられ、ついには十字架にかけられ、殺されたのです。その後に続いて行くべき者たちに、親しく「あなたがた」と呼びかけながら、祝福を宣言されました。主の歩まれた後を辿るようにして、主に従い行く教会に向かって、御自分が地上で始められた業を引き継ぐ群れとして、愛と信頼をもって、主イエスは語り続けてこられたのです。この世から選び出され、主とひとつに結ばれ、この世へと遣わされた群れである教会が、どのようなものであり、何をするのかを告げられるのです。
8つの祝福において描かれた教会の姿をまとめるようにして、主イエスは、今日の箇所で弟子たちに告げて言われます。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」。もちろん、ここでの「あなたがた」は、直接には二千年前、主の周りに集まった弟子たちの群れを指しています。しかし、同時に、弟子たちを取り囲む群衆も聞こえるように、さらには、二千年の歴史を貫いて、主のもとに招かれ集った者たち、私たちすべてに向けて語られているのです。「地の塩になりなさい」「世の光になりなさい」というふうに、努力目標のように告げられているのではありません。むしろ、目標のように言われた方が、気が楽であったかもしれません。今はそれにふさわしい者ではないことの言い訳ができるからです。けれども、主イエスは、「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」。断定するようにきっぱりと言われました。私たちが、何か特別な力を得たから、あるいは、模範的な立派な人間になったから、というのではありません。私たちが、主イエスのもとに集い、主に従う弟子たちとされたその瞬間から、私たちはすでに、「地の塩」であり、「世の光」とされているのです。それは、私たち自身から出たものではなくて、主が私たちに与えてくださった新しいアイデンティティです。この世にある私たちの存在を言い表す言葉なのです。
それならば、「地の塩」とは何を意味するのでしょうか。古代世界において、塩は現代以上に、とても価値のあるものとされていました。昔、ローマの兵士たちは、当時高価であった塩を買うための手当として給料を受け取っていました。給与を意味する「サラリー」という言葉は、ラテン語で塩を意味する言葉から生まれたと言われます。健康を維持するために、塩は欠かせません。汗をかく夏場は、水だけではなく適度に塩分も補給しないと熱中症になってしまいます。もっとも、現代では、塩分の取り過ぎが体に良くないとも言われます。私は血圧を下げる薬を処方されるようになってから、夏場に塩飴を食べないようにと医者から厳しく注意されました。塩は一日6グラムまでと制限されて、最近は薄味に慣れてきたように思います。いずれにしても、塩なしに、人は生きていくことができません。塩は、命をつないでいくために、欠かせないものということになります。
それだけでなく、今、薄味と言いましたように、塩は料理の味付けに欠かせません。塩気の足りない料理は味気なくて、美味しく感じられないと思います。料理全体からすれば、塩はほんのわずかな量でよいわけですけれど、そのわずかな塩が利いて、料理の味を引き立たせ、美味しいものにするのです。また、塩は昔から、食べ物の腐敗を防ぐために用いられました。魚を塩漬けにしたり、肉類も大量の塩で包んだりして、保存食として用いられました。スーパーで売っている「コンビーフ」も、正式には「コーンド・ビーフ」、塩漬けの牛肉という意味から来ているそうです。塩漬けにすることで、腐敗を避けて保存性を高めたわけです。そのつながりもあるのだと思います。塩は清めの儀式にも用いられてきました。
以上のような「塩」の特性から考えると、「地の塩」としてのキリスト者は、この世に神の恵みの味付けをしたり、この世の腐敗をとどめる働きをしたりするということだと思います。罪によって歪んでしまったこの世は、そのまま放っておけば、モラルや精神がどんどん腐敗の方向へと向かっていきます。自己中心的になり、憎しみや争い、偽りや不誠実が蔓延しそうになる中で、キリスト者の存在が、社会の腐敗をとどめる塩の働きをするというのです。
主イエスは言われます。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられようか。もはや、塩としての力を失い、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(マタイ5章13節)。純粋な塩は化学的に安定していて、味を失うことはないようです。けれども、当時のパレスチナ地方で採取された岩塩には、多くの不純物が混じっていました。湿気などのせいで塩分が溶け出して流れてしまうと、後に残るのは、塩の形をした、ただの泥や砂になります。見た目は塩なのに、全くしょっぱくない。そうなると、使い道はありませんから、外に投げ捨てられて、人々に踏まれるしかなくなるのです。これも、ひとつのたとえです。もしも、この世に神の愛の味付けを施し、社会の腐敗や堕落を防ぐ役目を負った信仰者が、この世の中で周りに同調して、この世の価値観に完全に同化してしまったならば、キリスト者としての味わいを失い、この世と共に堕落していくことになります。塩としての力を失い、存在の意味をなくしてしまうのです。
神に背を向けて、垂直次元のつながりを失ったこの世界は、その罪によって死がもたらされ、最後には滅びるほかなくなりました。けれども、この世にキリストが来てくださり、キリストに結ばれたキリスト者がいるから、この世にあって、垂直次元のつながりが今も保たれているのです。神の愛に応えて、神を礼拝する者たちがいることによって、世界は滅ぼされずに済んでいます。キリスト者の存在が、この罪の世界を神に対して執り成しているのです。私たちは、神を失ったこの世のただ中で、神の愛の支配を信じて、損得を超えた愛に生きることを通して、私たちはただ生きているのではなくて、生かされており、生きることには意味がある、ということを証しして行くのです。私たち一人ひとりをかけがえのない存在として愛してくださる父なる神の愛を伝えて行くのです。すべてが空しくされてしまうようなこの世界のただ中で、生きることの喜びを現わして行くのです。
主は続けて言われました。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、灯をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家にあるすべてのものを照らすのである」(マタイ5章14~15節)。「地の塩」よりも、「世の光」の方が、直感的に分かりやすいと思います。暗闇を照らすために、光が用いられます。塩が溶け込んで、形をなくすのに対して、光は目立たなければ意味がありません。私たちキリスト者には、罪に支配された暗い世を、神の愛の光で照らし出す役割が与えられているのです。神に背を向けたこの世には、絶望、孤独、不安といった闇がうごめいているのです。罪というのは、光よりも闇を好みます。闇の中に自分の存在を隠して、そこで自分の好きなように生きようとする。もしかすると、私たちは、闇の中にいる方が自由だと思い込んでいるのかもしれません。けれども、闇の中には混乱と争いしかありません。闇の中では、愛も希望もありません。そのような混沌とした世界に、神が光を照らしてくださるのです。
しかし、問題は、あなたがた、すなわち、私たちが「世の光」だと言われているところにあります。私たちが、燭台の上に置かれるようにして、周りのすべてのものを照らすというのです。私たちは、それぞれが遣わされた場所で、それぞれが置かれた場所で、隠れキリシタンであることは、許されていません。「地の塩」は、隠し味のように、隠れて働く面があったかもしれません。その働きはまた、この世の腐敗をとどめるという消極的な働きでした。けれども「世の光」は、隠してしまったら意味がないのです。もしも、私たちがこの世において、信仰者である自分を隠して、波風立てず、目立たないように、ひっそり生きようとしているなら、それは、「世の光」であることをやめてしまうことになります。私たちは、今すでに「世の光」として遣わされているのです。
続く16節で、主は言われます。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである」。自分の光を人々の前に輝かせるとか、自分の立派な行いを見せる、などと言われると、尻込みしてしまいます。しかし、勘違いしてはならないと思います。自分自身を輝かせて、自分を誇るのではありません。自分の光を輝かせて、私たちの上に現わされた神の御業を照らし出すのです。だからこそ、私たちの立派な行い、これは単純に、良い行い、と訳すことのできる言葉です、あるいは、美しい行い、と訳しても良いと思います。主イエスに結ばれて、神の霊を注がれているがゆえの美しさ、神の子として美しさ、と言ってもよいかも知れません。神の子としての美しく、良い行いとは、父である神をほめたたえ、神に栄光を帰することです。だから、主イエスは言われるのです。人々が、私たちの良い行いを見て、天におられる私たちの父である神を崇めるようになるためだ。私たちがほめられるのではなく、神がほめたたえられる。そのために、私たちの存在と行いが用いられるのです。
「世の光」というなら、本来は、主イエス・キリストを指す言葉であったはずです。主イエスは言われました。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ」(ヨハネ8章12節)。私たちは、「世の光」である主イエス・キリストに照らされ、主の光を映し出すことによって「世の光」とされているのです。その光は、私たちから出たものではありません。交読した詩編の言葉の中にもありました。「命の泉はあなたのもとにあり あなたの光によって、私たちは光を見ます」(詩編36編10節)。世の光であるイエス・キリストをしっかりと仰ぎ見ながら、キリストの光に照らされているとき、私たちも「世の光」とされるのです。
「地の塩」「世の光」。それは、この世における教会の働きをよく示している言葉だと思います。主の日ごとに集められて、神への礼拝を献げているところに、「地の塩」「世の光」としての教会の姿が良く現れています。そして、それはまた同時に、教会の枝である私たち一人ひとりが、それぞれの生かされている場所で、すなわち、家庭で、職場で、学校で、また地域社会において、あるいは教会の交わりの中でも、「地の塩」「世の光」として生きることを支えます。ギスギスした人間関係の中に恵みと慰めに満ちた隠し味を添える「塩」として、また、人を貶めるような言葉、悪口や批判が絶えないところで、その腐敗をとどめる「塩」として、さらには、悩みや苦しみの中にある人たちのかじかんだような心を暖め、明るく照らす「光」として、主が私たちを用いようとしておられるのです。主が共にいてくださいます。主が私たちを遣わしてくださいます。主が私たちの上に輝き出てくださり、主の栄光を現わしてくださいます(イザヤ60章1~3節)。主に結ばれた者の幸いを深く味わい知ることができますように。私たちは、主の名によって集められ、主の名によって、遣わされていくのです。

