2026年9月6日 振起日礼拝説教「義のために迫害された人々は幸いである」東野 尚志 牧師

エレミヤ書 第20章11~12節
マタイによる福音書 第5章1~12節⑧

 新しい月、9月を迎えました。このところ、自然災害のニュースが続いており、皆さまも心痛めておられることと思います。最近は、地震だけではなくて、集中的な豪雨による洪水の被害が、日本各地で起こっています。どこで線状降水帯が発生するか分からない状況にあります。今週前半も雨の予報が続いており、新学期早々出鼻を挫かれた人たちも多いのではないかと思います。被災地の復旧、一日も早い日常の生活の回復を祈ります。
 新学期早々、という言葉を用いましたが、かつて日本の教会では、9月の第一主日を「振起日」と呼ぶ習慣がありました。「振るい起こす日」と書いて、「振起日」と読みます。「振るい起こす」と言っても、自分で自分を奮い立たせるというわけではありません。聖霊なる神が、私たちの間に、また私たちの中に力強く働いてくださり、私たちの霊を振るい起こしてくださるのです。
 学校の新学期の始まりに合わせて、教会もまた、夏の休みを終えて、伝道の秋を迎えようとしています。天気はすっきりしない日が続いていますけれど、新しい季節を迎えます。今月は、聖学院教会との講壇交換、来月は、神学校日礼拝、11月には教会創立122周年記念礼拝、さらにはクリスマスを目指して歩んで行くことになります。聖霊によって振るい起こされ、志を新たにして、主の日から主の日へ、礼拝から礼拝へと恵みの時を刻んで行きたいと願います。

 振起日の礼拝にあたって、本日、私たちに与えられた御言葉は、「八福の教え」の最後の箇所になります。主イエスは、ガリラヤ地方を中心にして伝道を開始されたばかりでしたけれど、権威ある教えと力ある癒やしの業は瞬く間にユダヤ全土に伝わりました。ユダヤ全土から、またヨルダン川の向こうからも大勢の群衆がやって来て、主イエスについて行ったといいます。そこで、主イエスは押し寄せてくる群衆を見て、山に登られたのです。主イエスが山の斜面に腰を下ろされると、弟子たちが主イエスのそばに来て座りました。恐らく、主イエスよりも高いところに座る人はいなかったと思います。主イエスを頂点にして扇形に、あるいは半円状に、弟子たちを遠巻きにするように、群衆も山の裾野に広がるように腰を下ろして、主イエスの教えを聞こうとしたに違いありません。マタイによる福音書の5章から始まって7章の終わりまで、5章、6章、7章と、3つの章にわたって、主イエスの教え、主イエスの説教がまとめられています。山の上で語られた設定ですから、「山上の説教」と呼ばれてきました。かつては「山上の垂訓」と呼ばれたことを、懐かしく思い起こす方もあると思います。
 山の上で語られた説教の冒頭で、主イエスは、印象深い宣言をなさいました。先ほど聖書が朗読されるのをお聞きになって、非常にリズミカルに、祝福を告げる言葉が繰り返されているのに気づかれたと思います。「心の貧しい人々は、幸いである」という言葉から始まりました。聖書の原文で見ると、「幸いだ」という祝福の宣言が最初に来ています。文語訳聖書のように、「さいわいなるかな、心の貧しき者」と言った方が、原文の勢いがよく伝わるかもしれません。主イエスは「幸い」の宣言から始まる同じような言い回しを8回繰り返されたのです。それで、8つの祝福という意味で「八福の教え」と呼ばれることになりました。これまで、礼拝の中で、その祝福の宣言を一つひとつ取り上げて参りまして、すでに7つまでを読み終えました。今日は、最後、8つ目の祝福の言葉を味わおうとしているわけです。

 マタイによる福音書第5章の10節になります。主イエスは言われました。「義のために迫害された人々は、幸いである 天の国はその人たちのものである」。この後に続く11節と12節は、この8番目の祝福を分かりやすくするために説明を加えた言葉だと読むことができます。迫害されて、苦しむことが幸いだ、ということについて、さらに言葉を重ねるのです。そのままでは分かりにくい言葉だと思われたからかもしれません。確かに、誰も、周りの人たちから迫害されて、幸せだと思う人はいないでしょう。それは、私たちの常識的な感覚に逆らう言葉だと言ってよいと思います。けれども、今から二千年前、最初にこの福音書を読んで礼拝をしていた人たちにとっては、とても切実な問題であったと思われます。文字通り、厳しい迫害にさらされる生活を送っていたからです。迫害に悩まされ、苦しめられ、命を落とすことになるかもしれない。そういう毎日を送っていたのです。そういう中で、迫害される者たちへの祝福を告げる主イエスの言葉は、どれほど大きな支えになったことであろうかと思います。迫害を受けている者たちに、天の国が約束されているのです。主イエスの言葉から、迫害に立ち向かう勇気を与えられたに違いないのです。信仰者にとって、その生き方に関わる大事な事柄であればこそ、さらに言葉を重ねて、幸いを説いたと言っても良いのです。
 主イエスが、山上の説教をお語りになったのは、紀元30年頃のことと考えられます。けれども、福音書記者マタイが、主イエスの教えや業を福音書としてまとめたのは、紀元70年以降のことだとされています。紀元70年、ローマ帝国によって、エルサレム神殿が破壊され、エルサレムの都が陥落した出来事を知っていると思われる記述が福音書の中にあるからです。70年以後、一世紀の終わりにかけて、ローマ帝国による迫害が激しさを増していくことになります。主イエスの直弟子たちは、次々、迫害の中で命を落としていきました。目撃証言として、礼拝の中で、主イエスの言葉を伝え、その業を証ししてくれる第一世代の信徒たちがどんどん世を去って行きました。そういう中で、主イエスの教えや業を福音書としてまとめることが求められたのです。礼拝の中で、書かれた福音書が読まれ、その言葉を通して、主イエス・キリストの教えや業に触れながら、生ける主の現臨に触れて、信仰の命を養われました。そして、イエス・キリストだけが唯一の主であり、まことの神であるという信仰の告白に真実に生きようとしたために、ローマ帝国の迫害にさらされることになりました。ローマ帝国が、皇帝を神として崇め、礼拝することを求めたからです。

 主イエスこそが、まことの神の御子であり、唯一の主である。この信仰に堅く立った信徒たちは、ローマ皇帝を神として礼拝することを拒否しました。それは、ローマに対する忠誠を拒むこととみなされ、反逆罪とされました。「ローマ皇帝は主です」と認めさえすれば、それぞれの宗教に生きることは比較的自由であったようです。ローマの宗教政策は案外緩やかであり、それぞれの信仰が許されていました。ところが、キリスト者たちは、「この世界を本当に支配しているのは、イエス・キリストにおいて現わされた神おひとりである」。この信仰を誠実に貫いたために、ローマ帝国から迫害を受けることになりました。ローマの平和を乱す反逆者として、捕らえられ、命を奪われたのです。コロッセオと呼ばれる円形競技場で、キリスト者たちが猛獣の餌食にされたり、十字架にはりつけにされたキリスト者に火を付けて、松明代わりにしたりする残虐な迫害が行われました。最初のうちは見せしめの意味もあったでしょうけれど、そのうち、退屈した民衆の娯楽として、見世物にされたりしたのです。そのため、元来は「証人」、「証し人」を意味するギリシア語の「マルトゥス」という言葉は、「殉教者」という意味で用いられるようになりました。キリストの証人となることは、その信仰のゆえに命を落とすことを覚悟しなければならなくなったのです。
 そのような迫害は、決して、古代ローマだけの話ではありません。確かに、紀元4世紀の終わりには、キリスト教はローマ帝国の国教になって、やがてヨーロッパ社会全体がキリスト教化されていきました。しかし今度は、純粋に信仰を貫こうとする人たちが、国家と一体になった教会によって迫害を受けるということも起こります。さらに時代が下って、宗教改革が起こると、改革者たちは異端と見なされ、カトリック教会からの迫害を受けて、対立するようになりました。カトリック陣営とプロテスタント陣営の間で戦争が起こり、双方に多くの殉教者が出ました。信仰に忠実であろうとすることで迫害を受け、多くの血が流されるという悲惨な歴史を経て、お互いの信仰を認め合う宗教的な寛容の精神が生まれることにもつながりました。けれども、一歩、キリスト教世界から外に出れば、異教的な環境の中で、なおもキリストを信じる者たちは迫害を受けることになります。日本における江戸時代のキリシタン禁制下での迫害の厳しさは、遠藤周作の『沈黙』という小説の中にも生々しく描かれています。さらにはまた、先の世界大戦においては、日本の支配下に置かれたアジアの国々で、また日本国内においても、天皇を神とする国家神道のもとで、キリスト者は厳しい迫害にさらされました。主の日の礼拝の最初に、皇居の方向に向かって拝礼する「宮城遙拝」が行われたり、礼拝の中では、いわゆる特高の刑事がメモを取りながら、説教の内容をチェックしたりしていたといいます。そういう中で、天皇を神として拝むことを拒否すれば、捕らえられ、厳しい拷問を受けて、殉教する牧師や信徒もいたのです。それは、わずか80数年前のこの国とアジアの歴史的現実なのです。

 確かに、現代においては、キリストの教会が、ローマ帝国のような、あるいは、戦前戦中の日本のような、厳しい迫害にさらされることはなくなりました。けれども、二度とあのような時代を繰り返すことはないとは言い切れません。最近の日本だけではなく、世界各国で、右傾化の兆しがあります。自国ファーストのグループが政権を握ったり、市民の支持を得て発言権を増したりしていることに、不安を覚えることがあります。いつの時代であっても、意見や立場の違う相手を認めようとせず、異質なものを排除することで、自分たちの安全を守ろうとする社会が、迫害を生むのです。力を握ったグループが、自分たちに同調しない相手の権利を踏みにじり、その存在を脅かすことが、まさしく、現代的な迫害の形だと言って良いかもしれません。同調すれば、迫害を受けることはありません。もしかすると、今、私たちがこの社会の中で、迫害を受けずに生きていられるのは、迫害する必要がないほどに、この世と同化してしまっているからではないのか、そのように、自らに問い直してみる必要があるかもしれません。教会は、この世にとっての脅威ではなくなり、真剣に相手にされていないのだとしたら、迫害を受けないことで安心しているわけにはいきません。この世にとって、全く、無味無臭となってしまったとすれば大いに問題でしょう。マタイによる福音書は、続く段落で、キリスト者は、地の塩であり、世の光であると語られています。私たちが、味を失った塩になっていないか、光を失っていないか、私たち自身の信仰を問われる思いがするのです。
 しかし、今、表だっての迫害を受けることはないにしても、誤解や陰口に悩むことはあるかもしれません。主イエスは続けて言われました。「私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである」。10節では「義のために迫害された人々」と言われていました。「義のため」、つまり、正義のため、正しいことを貫くため、言い換えれば、信仰を貫くため」ということになると思います。それを主イエスは11節で、「私のために」と言い換えておられます。しかも、10節では「人々」という3人称で語られたのに、11節では「あなたがた」と2人称で呼びかけておられます。もちろん、最初から、決して、他人事ではなくて、聞いている弟子たち自身のこととして語って来られたはずです。けれども、最後の最後で、主イエスは、聞いている弟子たちの顔を覗き込むようにして、「あなたがた」と語りかけておられるのです。そして、そこで受ける迫害の内容についても、命を奪われるほどの切羽詰まったことではないとしても、主イエスを信じていることのゆえに、周りの人から罵られたり、誤解による中傷を受けたりすることを引き合いに出しておられるのです。先ほど、聞いている弟子たちの顔を覗き込むように、と言いましたけれど、さらに突っ込んで言えば、主イエスは、私たち一人ひとりに身を向けて、私たちに語りかけておられると言ってよいのではないかと思います。

 最近は、「ひとごと」というのをわざわざ書かれた漢字のままに「たにんごと」と読んで、それと対比するように「自分ごと」という言い方をするのを耳にするようになりました。昔は、「自分ごと」という言い方は聞いたことがなかったと思います。AIに尋ねてみると、この「自分ごと」という言葉は、2000年代以降にビジネスシーンや教育現場で使われ始めて、2010年代以降に爆発的に広まったとされているのだそうです。まさに、ひとごとのように感じてしまっている人たちに、当事者意識を促す便利な言葉として定着が進んでいるそうです。迫害という言葉も、うっかりすると、現代に生きている私たちは、遠い昔の話、下手をすると自分とは関わりのない「ひとごと」のように聞き流してしまうかもしれません。しかし、主イエスは、身を乗り出して、私たちの顔を覗き込むようにして語られます。「私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである」。私たちが、主イエスの言葉を「自分ごと」として捉えることができるように、主イエスは語調を変えて語ってくださったのではないでしょうか。
 自分の身を振り返ってみれば、命を脅かされるような迫害を受けたことはないとしても、主イエスを信じ、主イエスに従って生きようとする中で、陰口を言われたり、身に覚えのないことで悪口を言われたりするようなことは、日常的に経験しているのではないかと思います。家族の中で、自分だけがキリスト者であるとき、日曜日の家族と一緒に過ごさずに、ひとりで礼拝に出かけることで、気まずい思いをすることがあります。そうかと思えば、家族や友人から、「それでもお前はキリスト者か」と罵られたりします。こういうときだけは、英語の響きをそのまま用いて、「クリスチャンのくせに」などと言われたりするのです。その場合の「クリスチャン」という言葉には、それぞれが思い描いている本人にとって都合の良いイメージが伴っています。いつも穏やかで、何を言われても腹を立てず、喜んで損を引き受け、みんなの犠牲になって、ひとのために生きる。そんなイメージでしょうか。しかし、私たちは決して、洗礼を受けたからといって、聖人君子になったわけではありません。私たちもまた自分ではどうすることもできない罪を抱えた罪人のひとりです。けれども、主イエスと出会うことによって、その罪を赦していただいたのです。私たち自身においては、罪や弱さを抱えた存在なのですから、キリスト者になったといっても、足りないところや欠けたところがあります。それを理由にして、悪口を言われるのでは立つ瀬がないと思われるかもしれません。けれども、世の中の人たちが、教会に行っている人たちには、自分たちとは違うところがある、と感じるのは、あながち思い込みのせいだけではないはずです。

 キリストを信じていない、この世の人たちと、キリストを信じて洗礼を受けたキリスト者と間には、確かに違いがあるのです。それは、私たちキリスト者は、この世がすべてでではないことを知っているということです。死ですべてが終わるのではなくて、死の向こうに、死を突き抜けて、復活の命の約束があることを信じているのです。しかも、それはただ、この世の後に来るあの世、ということではありません。罪と死に打ち勝った復活の命が、今すでに、私たちの中に始まっていることを信じているのです。それは、罪と死の力を打ち破った神の力、神の支配と言ってよいと思います。私たちは、この世に生きておりながら、この世の支配から、神の支配へと移された者たちなのです。だからこそ、主は「義のために迫害された人々」に幸いをつげて言われます。「天の国はその人たちのものである」。「天の国」、それは、死んだ後に行くと考えられている「天国」とは違います。「神の国」と言い換えても良いし、さらに語源にさかのぼっていえば、「神の支配」ということです。つまり、主イエスのゆえに、主イエスに対する信仰に生きているゆえに味わう迫害は、私たちが、この世にありながらも神の支配の中に生きていることを証ししているのです。この世の支配、ローマ皇帝の支配や天皇の支配、国体の支配の中にあるのではなくて、天の父なる神のご支配の中に生きているのです。
 だからこそ、主は言われます。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」。ここで言う「報い」というのは、私たちが努力して、忍耐して、信仰を貫いたことに対する正当な報酬ということではありません。私たちの働きに釣り合うようなものではない、それを遥かに超えた恵みです。この世を頼みとするのでもなく、自分自身を頼りとするのでもなく、ただ神にのみ寄り頼み、神のご支配が貫かれて、完全な神の国が現れることを待ち望むのです。私たちが、現れる神の国の民として、神の愛の支配によって生かされる御国の一員とされる。その約束であり、望みなのです。そして、これは、決して、空しい望みではありません。主イエス御自身が、この望みの保証人だからです。

 私たちは、ここに至るまで、八つの祝福を聞いてきました。「心の貧しい人」「悲しむ人」「へりくだった人」「義に飢え渇く人」「憐れみ深い人」「心の清い人」「平和を造る人」「義のために迫害された人」。そこには、神さまの祝福を受けるべき人の性質が、さまざまに描かれてきたように見えます。一見、すんなりとはのみ込めないような逆説的な表現をも含みながら、八つの特徴が描かれてきました。改めて、これをひと続きに読むとき、そこには、ひとりの人の姿が浮かび上がってくるのではないでしょうか。私たちのために貧しくなられた方であり、私たちの罪と滅びを悲しむ方、へりくだり、義に飢え渇き、憐れみ深く、心清く、まことの平和を実現してくださる方。そして、旧約聖書以来、神の真実を語ったゆえに迫害された預言者たちが待ち望み、指し示した苦難の僕としての十字架の主イエス・キリストのお姿です。主が告げてくださった祝福は、何よりもまず、主イエス・キリスト御自身において実現しています。そして私たちが、主に結ばれて、キリストの名をもって呼ばれる者とされたとき、私たちもこの祝福に連なる者とされるのです。
 「天の国はその人たちのものである」。この確かな宣言は、八つの祝福の最初と最後において、全く同じ言葉として繰り返されています。この祝福全体の枠組となっているのです。欠け多い罪人である私たちが、主イエスの十字架と復活によって罪赦され、洗礼を受けて、神の国に連なるひとえだとされているのです。終わりの日の御国の完成を目指して、苦難と試練の中でも共にいてくださる十字架の主を仰いで、信仰を貫く歩みを刻んで行きたいと願います。「振起日」です。志新たに、主に従って行きたいと思います。