2025年12月24日 クリスマス・イヴ讃美礼拝説教「神に栄光、地には平和」 東野 尚志牧師
ルカによる福音書第2章8~20節
クリスマス、それは、神さまの栄光が現わされた出来事です。救い主がお生まれになった。神の独り子が、私たちと同じ人間のひとりとなって、この地上に生まれてくださった。それは、天の栄光が地上に降り注ぐような驚くべき出来事でした。けれども、最初のクリスマスの夜、この栄光を見ることができたのは、選ばれたわずかの者たちでした。神の独り子を託された、ヨセフとマリアの若い夫婦を別にすれば、御子イエスの誕生を最初に知らされたのは、野原で野宿しながら羊の群れの番をしていた羊飼いたちであったといいます。
救い主イエスさまは、いにしえの預言者が告げていた通り、ユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。今から2030年ほど前のことになります。残念ながら、その正確な日時を知ることはできません。生まれた御子は、飼い葉桶の中に寝かされたと言いますから、それは宿屋の中ではなく、外の家畜小屋であったと想像されます。馬小屋と言われることも多いのですけれど、馬がいたとは思われません。当時、馬は戦争のための軍馬として使われたのです。街中の宿屋の外の家畜小屋には、荷物を運ぶために使うロバや牛がつながれていたのではないかと思います。改革者ルターは、これを牛小屋と記しました。そこへ、天使のみ告げを受けた羊飼いたちが、駆けつけてきたのです。
羊飼いたちは、野原で夜通し、羊の群れの番をしていました。自分たちの羊ではありません。羊の持ち主である主人にわずかな給金で雇われて、休む間もなく羊の群れの世話をしていたのです。羊は、ユダヤ人にとって、とても身近な動物でした。神さまへのいけにえ、犠牲の動物としても用いられました。ユダヤ人の先祖は、もともと遊牧をしながら移動する羊飼いたちでした。そうであればこそ、神さまと自分たちの関係を、羊飼いと羊の群れのようにたとえた歌も作られました。けれども、定住して農耕生活をするようになると、財産を蓄えて豊かになる者と、その日暮らしをする者と、貧富の差がどんどん広がっていきました。
やがて、羊飼いというのは、貧しく、卑しい仕事として、蔑まれるようになりました。動物相手の仕事ですから、決まった休みを取ることもできません。ユダヤ人にとって大事な掟であった安息日を守ることもできませんでした。七日目は休みの日、一切の仕事を休んで、神さまに礼拝を献げる日として定められていたにもかかわらず、羊飼いたちは休むことができなかったのです。大事な律法を守らない罪人たち、いつも羊と一緒にいて、羊の臭いが染みついた、汚くてくさい者たち、宗教的にも、社会的にも差別された、底辺の人たちとして、見下されていたのです。
世の中では、ローマの皇帝の命令で、住民登録が行われていました。貧しいヨセフとマリアもまた、住民登録のために、長旅を強いられていたのです。家族ごとに数を調べて、すべての人を登録するのは、もれなく税金を徴収するためです。それぞれ出身地、先祖の町へ行って登録することが命じられました。お金も時間もかかります。多くの犠牲を強いながら、ローマ帝国の支配に対して従順に従うことを求めたのです。マリアはすでに身重になっていたにもかかわらず。ガリラヤの町ナザレから、ヨセフの先祖、ダビデの町として知られたベツレヘムまで、直線距離でも100キロを超える長旅を強いられました。今日のような交通手段はありません。山あり、谷ありの危険な道を、徒歩で行くしかありませんでした。どんなに急いでも、4、5日はかかる旅です。マリアはせめて、途中、ロバに乗ることができたかもしれません。さらに時間がかかったことと思います。ようやくベツレヘムにたどり着いたときには、宿屋にはもう泊る場所がなかったわけです。けれども、そうやって、理不尽なローマ皇帝の命令を用いるようにして、いにしえの預言者が告げたメシア誕生の地、ベツレヘムに導かれました。
貧しいヨセフとマリアでさえ、住民登録をしなければなりませんでした。ローマの皇帝によって、全領土のすべての民に命じられたのです。ところが、その数にさえ入らなかったのが、羊飼いたちでした。恐らく、強いられたところで、税金を払う余裕もなかったのだと思います。登録を求められることもなく、いつものように、野原で羊の群れの番をしていました。世の中からは、住民登録の数にも入らない、見捨てられた存在のように、野原で夜を過ごしていたのです。けれども、神さまは、その羊飼いたちに目を留めてくださり、真っ先に、救い主の誕生を知らせてくださいました。ローマ皇帝が数える「すべて」の中には入らなかったとしても、神さまの愛によって捉えられる「すべて」は、文字通り、すべての者に及びます。社会の片隅で、うち捨てられた者たちのところにこそ、神が共にいてくださる。「インマヌエル」と呼ばれる救い主の誕生の知らせは、羊飼いたちに届けられたのです。
羊の群れの番をしていた羊飼いたちのもとに、突然、天使が現れました。夜の闇の中に、天の栄光が現わされました。恐れる羊飼いたちに天使は言いました。「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである」。天使は、「すべての民に与えられる大きな喜び」を告げました。そして、羊飼いたちを名指しするように、「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げました。数にも入らない、見すてられた存在であった羊飼いたちに、その「あなたがた」、いや「あなた」のために、救い主が生まれてくださった、と告げたのです。
しかも、この救い主のしるしは、「飼い葉桶に寝ている乳飲み子」だというのです。家畜の餌を入れる飼い葉桶の中に寝ているというのです。飼い葉桶が置かれているのは、家畜小屋です。もしも、救い主メシアが、王の宮殿や大祭司の家で生まれたとしたら、羊飼いたちは知らせを受けても心動かされることはなかったかもしれません。自分たちとは関わりのない、雲の上の存在です。家に近づくこともできなければ、ましてや、家の中に入ることなどできません。けれども、飼い葉桶のある家畜小屋ならば、羊の臭いが染みついたままの姿で、恐れることなく近づくことができます。羊飼いたちが、遠慮も恐れもなく近づくことのできる場所、暗くて、くさくて、汚い場所で、救い主はお生まれになったのです。だからこそ、この後、羊飼いたちは、ベツレヘムの家畜小屋を目指します。そして、自分たちのために生まれてくださった救い主を探し当てるのです。
ところで、天使が羊飼いたちに、喜びの知らせを告げたとき、夜空に大きな賛美の歌が響き渡りました。突然、天の大軍が現れ、天使と一緒になって、神を賛美して歌いました。「いと高き所には栄光、神にあれ 地には平和、御心に適う人にあれ」。「いと高き所には栄光、神にあれ」。先ほど、聖歌隊が賛美してくださった歌です。「グローリア・イン・エクセルシス・デオ」。ローマ皇帝が支配する世界においては、皆が、皇帝の栄光をたたえるように命じられました。誰もローマ帝国の絶対的な権力に逆らうことはできませんでした。しかし、天使たちは、本当にたたえられるべきなのは、人間ではなくて、天におられる神さまであると歌いました。そして真実に、神に栄光が帰せられるときにこそ、地上に平和が実現すると歌ったのです。
なぜ、この世界には、いつまでたっても、平和が実現しないのでしょうか。それは、まことの神を神として崇めないで、人間が神のように力を奮い、他者を支配しようとするからです。造られた者である人間が、自らの造り主である神を仰がず、神に背を向けて、自分を神として生きることを、聖書は罪と呼びます。人間は、神に愛され、神と向かい合う存在として、造られました。神から呼びかけられ、神に答えることのできる者として、神との交わりに生きる者として造られたのです。ところが、悪魔にそそのかされて、神の言葉に背いてしまい、神と人との良い関係は引き裂かれてしまいました。罪というのは、関係を引き裂く力だと言って良いと思います。神と人との関係が引き裂かれたことで、人と人との関係もまた引き裂かれました。共に愛し合い、助け合い、仕え合うものとして造られた人間同士が、自分を神として、隣り人を利用し、支配しようとするようになりました。罪はまた、人間と自然との関係も引き裂きました。人間は自分の快適な生活のために、自然を利用し、支配し、破壊してきたのです。
罪の力は、私たちの中に染みついて、私たちの周りの良い関係を壊していきます。私たちを孤独な王にしようとします。しかし、神は、ご自身に背いた私たちをなおも深く愛してくださり、引き裂かれた関係を回復するため、私たちの罪を取り除くために、愛する独り子を、この地上に送ってくださいました。神の独り子であるにもかかわらず、私たちと同じ人間のひとりとして生まれてくださった主イエスに、私たちの罪をすべて背負わせ、御子の十字架の死によって、罪を完全に裁き、私たちを罪から解放してくださいました。それが、ダビデの町ベツレヘムに生まれた神の御子がたどるべき救い主の道として定められたのです。
飼い葉桶に寝かされた御子によって、神と私たち人間の間を引き裂いた罪が取り除かれ、神との和解が与えられるとき、私たちは、神のもとに立ち帰って、心からの讃美を神に献げます。神に栄光を帰することによって、神との間に平和を得るのです。罪が取り除かれることによって、神の御前で、人と人も和解し、人と自然も和解する。そのとき、この地上に、本当の平和が実現するのです。
まことの神である神の独り子が、私たちと同じ人間のひとりとして、しかも、誰もが恐れることなく近づくことのできる小さく無力な乳飲み子として生まれてくださいました。まことに神である方が、まことに人となって、神と人との仲立ちとなって、和解の道を開いてくださいました。神との間に平和を得たならば、私たちは、共に生きる隣り人との間にも、平和を造り出して行く者とされるのです。神に愛されている者として、互いに愛し合い、仕え合う者として生きることができる。神に造られた自然の一部として、この世界の中に、破壊ではなく、回復と調和を求めて行くようになる。私たちは、その歩みを、今日、ここから始めるのです。
天使は羊飼いたちに告げて言いました。「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。天使が告げた「今日」は、確かに、イエスさまが地上に生まれて、羊飼いたちがその知らせを聞いた「今日」ということです。けれども、それはまた、神の永遠の言葉として、今宵、クリスマス・イヴの讃美礼拝に集った私たちの「今日」をも意味しているのではないでしょうか。今日、私たちは、救い主誕生の知らせを受けて、神の救いを信じて、神を神としてたたえることができます。そのために、御子イエスは、貧しく無力な姿で、私たちが恐れることなく近づくことのできる姿で、私たちのところに来てくださったのです。
天使の言葉に従って、救い主イエスさまを探し当て、イエスさまとお会いした羊飼いたちは、神との平和を得て、野原に帰って行きました。いつもと変わらない日常の中に戻っていきました。なおも、貧しいままであり、人々から蔑まれる日々が待っていたに違いありません。けれども、羊飼いたちは、「神を崇め、賛美しながら帰って行った」とあります。見捨てられた者のように、望みを失っていたかも知れません。けれども、自分たちのところに来てくださった救い主と出会うことによって、神の平和に包まれて、神を崇め、賛美する者となったのです。
天使は歌いました。「いと高き所には栄光、神にあれ 地には平和、御心に適う人にあれ。」
皆さまの上に、クリスマスの祝福と平和を祈ります。
愛する天の父なる神さま、あなたの聖なる御名を賛美します。救い主イエスさまが、私たちのために人としてお生まれてくださったことを心から感謝いたします。今日、イエスさまの救いを受けることが出来る恵みを感謝します。私たちは、心から、栄光が主なる神さまにあるようにと主の御名を賛美し、ほめたたえます。私たちの心を、神さまを知る喜びで満たしてください。
また私たちは、神さまとの平和を与えられている者として、地の上に平和があるようにと祈ります。神さま、世界中が神さまの平和で満たされ、神さまの愛で満ち溢れますように。そのために私たち一人ひとりの心を神さまの平和で満たし、平和が成し遂げられるように祈る者としてください。私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

