2025年12月21日 クリスマス礼拝説教「私たちの間に宿られた主」 東野 尚志牧師
創世記第1章1~15節
ヨハネによる福音書第1章1~5節、14節
主の年2025年のクリスマス、おめでとうございます。礼拝に連なるすべての方たちの上に、クリスマスの祝福をお祈りします。神さまの独り子であるイエスさまが、二千年前の最初のクリスマスの夜、この地上に生まれてくださいました。神の御子であるお方が、私たちと同じ人間のひとりとして、乳飲み子の姿で、この地上に生まれてくださったのです。それは2000年の時を経ても色あせることなく、決して古びることもない、驚くべき出来事です。
毎年、年末になると、今年の十大ニュースが数えられます。しかし、考えてみれば、神が人となられた、このクリスマスの出来事は、天地創造始まって以来、人類史上最大、最高のニュースだと言って良いと思います。このトップ・ニュース、ビッグ・ニュースに並ぶ出来事があるとしたら、それは、御子が再び天から降って来られる再臨の時しかあり得ません。神さまが造られたこの世界、神さまがお始めになった世界の歴史を完成するために、神の御子が、再び地上に来てくださる。そのときまで、人類史上のビッグ・ニュースとして、クリスマスに並ぶものはないだろうと、私は思います。
さまざまな出来事があったこの一年、世界中で、戦争、対立、争い、また地震や大火事もありました。ローマ教皇の逝去と初めてのアメリカ出身の教皇誕生もニュースになりました。また日本では、大阪・関西万博が話題を呼び、憲政史上初めての女性首相の誕生がニュースになりました。記録的な猛暑、米騒動もあり、年度後半に入ると熊による被害が深刻になりました。寒くなる前に冬眠するはずの熊が、12月になっても人里に現れて、ついには、今年の漢字に選ばれてしまいました。私たち一人ひとりの日常の生活においても、さまざまな出来事が思い起こされると思います。愛する家族を失って、大きな喪失感を味わっておられる方もあります。思いがけない怪我や、病で入院を余儀なくされた方があり、今、この時も入院中の仲間があります。病室で、また自宅で、クリスマスの時を過ごしておられる方がある。ともすれば、楽しいこと、うれしいことよりも、悲しいこと、辛いこと、苦しいことの方が多いような日々を送りながら、この一年を過ごしてきたのです。
その一年の終わりに、クリスマスを祝うことができるのは、何という大きな慰めであり祝福であろうかと思います。悲しみや嘆きの中にあり、無力さや絶望を味わっている者たちのところに、神の御子が生まれてくださいました。街中で、赤ん坊の姿を見ると、ホッと心が和みます。大泣きしていると親御さんのことが気の毒にもなりますけれど、無邪気な赤ちゃんの笑顔は周りの者たちを引き寄せます。誰も恐れることなく近づくことのできる存在です。神の御子は、そういう乳飲み子、幼子の姿で、この地上に現れてくださったのです。
今年は、ヨハネによる福音書の御言葉を通して、クリスマスの恵みを味わいたいと思いました。ヨハネは告げています。「言は肉となって、私たちの間に宿られた」。マタイとルカが描き出す降誕物語に慣れ親しんでおりますと、ヨハネの告げる言葉を前にして、少々戸惑いを覚えることになるかもしれません。ここには、私たちがクリスマスの物語として知っている情景描写はひとつも記されていないからです。
昨日の土曜日には、教会学校のクリスマス会が行われました。この礼拝堂で、教会学校の子どもたちによるページェントの礼拝が行われました。いわゆる降誕劇です。2020年にコロナ禍が蔓延するようになって以来、お休みしていました。このところは、朗読劇の形で行ったりしていました。今年は久しぶりに、子どもたちが衣装をつけて、小道具を手にして、クリスマスの降誕劇を演じたのです。親御さんたちも喜んで、ビデオ撮影、写真撮影をしておられました。こうして一緒にクリスマスを祝っている私たちの中にも、ページェントをご覧くださった方が何人もおられると思います。
しっかりした脚本ができていて、話は教会学校の分級の場面から始まりました。分級の中で、ひとりの児童が先生に最初のクリスマスについて質問します。それに先生が答えるという設定で、最初のクリスマスの様子が、再現されていくのです。本当にすばらしいページェントでした。天使、マリア、ヨセフ、そして、羊飼いたち、天の星たち、さらには、東の国から贈り物をもってやって来た博士たち、宮殿で博士たちを迎えたヘロデ王と律法学者たち、子どもたちが、それぞれの役回りを生き生きと演じていました。ヘロデ王は迫力がありました。これらはすべて、マタイによる福音書とルカによる福音書が伝えている御子の降誕の物語をもとにして、それを組み合わせるようにして降誕劇の台本が作られているのです。
ところが、ヨハネによる福音書には、私たちがマタイとルカが伝える降誕物語を通して知らされている要素は一切出て来ません。ヨセフとマリアの姿はありません。生まれてすぐ飼い葉桶に寝かされた乳飲み子の様子が描かれているわけでもありません。天使のみ告げを受けて、生まれたばかりの救い主のもとに駆けつけた羊飼いたちも出てきませんし、東の国から、まことの王として生まれた方を拝みに来た博士たちも登場しません。けれども、ヨハネもまた、紛れもなく、ヨハネ独自の視点から、独特な角度から、クリスマスの出来事を告げているのです。私たちが、クリスマスの物語として、美しい絵画のように心に思い描いている情景を、ヨハネは、短く、鋭い言葉で、端的に証ししました。「言は肉となって、私たちの間に宿られた」。それは、言ってみれば、信仰によって捉えられたクリスマスの中身であり、クリスマスの真実、クリスマスの意味を説き明かしている言葉だと言ってよいと思います。
「言は肉となった」。何か神秘的な響きさえ感じられる表現です。「言の受肉」と呼ばれます。「受肉」、肉を受ける、と書きます。「言」が肉を受けて、私たちと同じ肉体を持つ人間になった、ということです。ここで言われている「言」というのは、私たちが通常用いる「葉っぱ」の字がついていないことからも、特別な印象を与えます。人の噂話を告げるような、ひらひらした「言の葉」ではない、ということです。それは、このヨハネ福音書が最初から証ししている「言」です。福音書の冒頭、1章1節に、こう記されていました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」。ヨハネは、クリスマスの出来事を語る際に、神の創造の御業を思い起こしています。旧約聖書の一番初め、創世記の冒頭に記されている天地創造の物語を思い起こしながら、この世界と人間の創造以前に思いを馳せたのです。天地万物が造られる前に、永遠に神と共にあり、創造の御業を担った神の言が、肉となった。それが、クリスマスの出来事の本質的な中身である、と証ししたのです。
「言は肉となった」。もう少し分かりやすく言い換えれば、「神が人となった」ということです。もちろん、そのように言い換えたからといって、事柄そのものが分かりやすくなるわけではありません。いったい、神が人となったというのは、どういうことか。いったい、何のために、神が人となったのか。問いはさらに膨らんで行きます。けれども、大事なことは、クリスマスの出来事は、神から始まったと言うことです。だから、神さまの側から見なければ、その本当の意味と目的は分からないのです。
「言は肉となって、私たちの間に宿られた」。ヨハネは、今から2000年前に、ユダヤのベツレヘムで起こった出来事を、地上にいる私たちの側から見える光景として描くのではなくて、神さまの側から、永遠の側から跡付けようとしています。世界と私たち人間をお造りになった神である言が、造られたこの世界の中に、私たちと同じ人間の一人として宿られた。だからこそ、私たちは、クリスマスの出来事の中に、神さまの栄光を見ることができるのです。ヨハネは言いました。「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。
しかしながら、ヨハネが指し示している栄光は、誰の目にも明らかであったわけではありません。目に見える現実としては、家畜小屋の中の薄汚れた飼い葉桶に寝かされた無力な乳飲み子の姿があるだけです。この世からは完全に無視され、排除されたような貧しさの中に、神さまの独り子はお生まれになったのです。ヨハネは、この幼子の姿を、信仰の目をもって見つめました。神さまの側から捉えました。だからこそ、この貧しさの中に、父なる神さまの独り子として栄光を見ることができたのです。
神さまの独り子であるイエス・キリストについて、世々の教会が大切な信仰箇条として掲げてきた告白の言葉があります。「まことに神、まことに人」と言います。これもまた謎のような言葉として響くかもしれません。しかし、とても大事な信仰の真理を言い表しています。イエス・キリストは、ただ一人、まことの神であり、まことの人である方、と告白するのです。神は、この世界と私たち人間をお造りになった方です。人間は神によって造られたのです。造り主と造られたものとの間には、質的な違いがあります。神は永遠なる存在であり、私たちは、時間と空間の制限の中に生きています。だからキリスト教信仰においては、神と人との連続的なつながりというものは存在しません。仏教の教えにおいて、人間は死んだら仏になると言われるのと同じように、人間が神になるということはないのです。むしろ、造られた者であり、限りある存在に過ぎない人間が、絶対者である神のようになろうとすること、あるいは、神のように振る舞うことは、最も大きな罪であり、あらゆる罪の根っこであると言っても良いと思います。それこそは、最初の人、アダムとエバが陥った罪でした。
最初の人は、サタンの巧みな言葉に乗せられ、神のようになるという魅力的な誘いに負けたのです。そして、神から食べるなと命じられていた善悪の知識の木の実を、食べてしまいました。神の言に対する不従順の中には、自らが神のようになりたいという傲慢が潜んでいます。この不従順のゆえに、神と人との関係は壊れてしまいました。神に向かう人間の存在はゆがんでしまった。そして、そのとき、互いに最もふさわしい助け手として、愛し合い、支え合うパートナーとして造られた男と女、人間同士の関係もまた、ゆがんでしまいました。神の大いなる祝福のうちに、よき交わりに生きるように造られた人間同士が、互いに争い合い、いがみ合い、やがては殺し合うようになってしまった。そこには、神に背いた人間の罪の悲惨があります。そういう私たち人間の悲惨な歴史のただ中に、神が人としてお生まれになったのです。まことに神である方が、まことに人となられた。神の言が、肉を取られたのです。
ヨハネが、クリスマスの出来事を、「言の受肉」として描くとき、「肉」というのは、単純に人間性を表しているだけではありません。何の色付けもない「肉体」という意味の用語が用いられているわけではないのです。むしろ、ここで言われる「肉」とは、神に逆らう肉、交わりを損なう肉です。霊に逆らう、生まれながらの罪に満ちた人間を表します。その肉を、神の御子がご自分の身に受けてくださった。そこにすでに救いがあります。この受肉した言は、私たちの間に宿られました。罪に傷つき、闇に閉ざされたこの世界に宿られました。そして、神に背いた人間の罪のゆえに、傷つけられ、侮られ、ついには殺されたのです。受肉の出来事はまた、御子イエスの受難の生涯の始まりでもありました。神さまの独り子が、この地上においでになり、しかも罪深い人間の肉を取られたのは、御子の肉において、罪が罪として裁かれ、滅ぼされるためであったからです。
本来ならば、神によって裁かれ、滅ぼされなければならないのは、神に背いた私たち人間です。神に造られた者でありながら、造り主に背を向け、自らが造られた者であることさえ忘れてしまっていたような私たちです。造り主である神を侮り、神などいないとうそぶいて、自らの罪の重みで転がり落ちていくしかなかった者です。神よりも隣人よりも自分のことを優先し、自分が快適な生活を追い求めていくその反対側で、犠牲になり傷ついている世界と隣人たちのことに気づこうともしませんでした。罪が生み出す憎しみと争いの中で、世界全体をさえ滅ぼすほどの破壊力を抱え込んでしまったのです。神のもとから迷い出して、隣人との関係もずたずたになり、世界の中で孤立し、自分が何ものであるのか、何のために生きているのかも分からずに、ただ流されていくしかなくなっていました。しかし、神さまは、そういう私たち人間をお見捨てにならず、私たちを憐れんでくださり、私たちを救い出すために、私たちの罪をすべて御子の肉に負わせて、十字架の上で滅ぼし尽くされたのです。神さまの独り子は、ご自身には罪がなかったにもかかわらず、私たちすべての罪を代わって背負うほどに、私たちと同じ者になられた。それが、クリスマスの出来事でした。
ヨハネは証しして言いました。「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。神さまの独り子が、私たちと同じ人間のひとりとして生まれてくださり、私たちの罪をすべて、その身に引き受けてくださいました。神に裁かれ、死ぬべき罪人としての肉を身にまとい、罪に対する裁きとしての滅びを身に受けてくださいました。それほどに、神は私たち人間を愛してくださいました。その愛を受ける資格のない者に、一方的な恵みとして救われる道を備えてくださったのです。御子イエスの命によって、私たちも、神の子としての祝福にあずかる者とされました。主イエスは、私たちと同じものになることによって、ご自身の父である神さまを、私たちもまた、父と呼ぶことができるようにしてくださいました。世界と私たち人間の造り主である方を、父と呼ぶことによって、私たちは、自分が何ものであるか、ということを、改めて、深く味わい知る恵みに招かれているのです。この世界の中で、孤立し、流されていく根無し草ではなくて、私たちの存在の根拠は、造り主である神によって保証され、支えられています。神の子として新しく生まれる道が開かれました。この恵みを知ることによって、私たちは、神さまのまなざしの中にある自分自身の存在を、正しく知ることができるようになったのです。
神さまが私たち人間をどのように見ておられるか、その真実を教えるために、主イエス・キリストは、私たちと同じ人間の一人として、この世に来られた、そんなふうに言っても良いのだと思います。私たちは、この御子キリストにおいて、私たちに対する神さまの御心を知るのです。そして、神さまの御心を知るとき、初めて、私たちは、私たちがこの地上に生きることの意味を、正しく受けとめることができるようになるのだと思います。神さまの愛を知ることを通して、神さまに愛されている自分自身の真実に向き合うのです。
私たちは、気が付いたら舞台の上にあげられていて、自分の人生というドラマを生きていました。しかしながら、それがまさに一つのドラマであり、私たちをこの世界という舞台の上に置いてくださった方がある、ということに気づかないまま、目に見える世界の中だけで、戸惑いながら生きてきました。けれども、そのただ中に、永遠の言であり、創造の言である神の独り子が肉を取って、宿ってくださったのです。私たちは、このお方を通して、永遠へと思いを上げ、造り主である神へと心を向けることを教えられました。神と人間のドラマは、神の御心によって導かれています。天地創造から万物の完成にまで至る、この壮大なドラマの脚本を書いて、すべてを導いておられるのは、神さまです。脚本家や監督の考えやねらいが分からなければ、本当にふさわしく演じることはできないのではないでしょうか。子どもたちの演じるページェントと同じです。
そういう私たち人間に、監督である神の御心を知らせるために、律法が与えられ、預言者が遣わされました。そして、遂には、神ご自身が、この舞台の上に降り立たれたのです。キリストは、この舞台の裏側から、私たちのところに来てくださいました。キリストこそは、舞台の監督であり、また演技の指導者、いや、実演者です。その意味で、まさに私たちのお手本なのです。しかも、それだけではありません。長年の罪に縛られた不自由さのために、ゆがんでしまい、ぎこちない動きしかできない私たちの手を取り、脚を取って教えてくださるトレーナーでもあります。私たちの抱えている重荷をすべて取り去り、関節の固さやコリをほぐし、ゆがみを直して、この舞台の上で、私たちが、神の子として、生き生きと自由に振舞えるように導いてくださるのです。愛に生きることを、身をもって教えてくださったのです。
キリストを通して、私たちに対する神さまの究極的な愛の御心を信じるとき、私たちは、絶望せずに、この世界の不条理や、自分の抱える闇と戦っていくことができるようになるのだと思います。クリスマスは、まことに神である方が、まことに人として私たちの間に宿ってくださったときです。まことに神であり、まことに人であるイエス・キリストを通して、父なる神の、私たちに対する愛の御心が、はっきりと示されたのです。
このあと、信仰告白式が行われます。新しく、クリスマスの恵みに捕えられたひとりの姉妹が、神と教会の前に、信仰を言い表します。自分に与えられた幼児洗礼の恵みを自覚的に受けとめながら、神の恵みと真理に満たされて、信仰告白式に臨みます。そして、初めて受ける聖餐の食卓に連なります。神の独り子である方が、私たちのために人となって、切り開いてくださった救いの恵みに、共々にあずかりたいと願います。この救いの道に、さらに多くの人たちが続いてくださることを心から願っています。この礼拝に連なるすべての方たちの上に、クリスマスの祝福が豊かに宿りますように。そして、造られたすべての者たちに、この祝福が伝えられ、証しされることを願います。

