2026年10月4日 主日礼拝説教「主が支えていてくださいます」 東野 ひかり牧師
詩編 第3編2~9節/第94編18~19節
今日は、急な司式・説教者の交代で、驚かれた方もおられると思います。礼拝の始めのところで申しましたように、尚志牧師がインフルエンザA型というのに罹患してしまいまして、急遽交代をいたしました。当初尚志は、以前コロナにかかった時にいたしましたように、別室から説教をして、皆さまには声だけで聴いていただく、ということを考えていたようですけれども、昨日は熱が高く、説教の準備は無理そうだということで、私が代わることになりました。昨日の午前中は、実は私も体調が思わしくなかったのですけれども、菊地信行先生が急なお願いにもかかわらず、聖餐の司式を快く引き受けてくださってほっとしたからでしょうか、回復してきまして、今朝はこうしてここに立つことができました。
礼拝への招きの言葉で、詩編第34編を読みましたけれど、その中に「主の使いは主を畏れる者の周りに陣を敷き、彼らを助け出した」という言葉がありましたが、皆さまのお祈りが、主のみ使いたちのように私どもの周りに陣を敷いて取り囲み、主の憐れみと助けが与えられたような思いでおります。皆さまの祈りと、役員さんたちのご奉仕による助け、信行先生のご助力、すべてが備えられて、今日のこの礼拝が整えられました。まことに、主の山に備えあり、ということを実感して感謝しております。
礼拝というのは、一期一会です。今日のこの礼拝は、私たちの人生で一度きりです。この礼拝が、地上での最後の礼拝となるかもしれない、来週はない、そういう方がおられるかもしれない。そのことを思いますと、かけがえのない今日という日の、この一期一会の礼拝が、このように整えられて、共に礼拝を守れますこと、まことにここに、主イエスが生きて働いていてくださり、主の憐れみと助けがあったことを思わずにおれません。
さて、今日は、そういうわけで、外の看板とは違う題の違う説教となります。
詩編のみ言葉を二箇所読みました。最初に読みました詩編第3編は、私にとって、思い出のある詩編です。今から31年前になりますが、夫の英国での留学から、私の方がひと足先に、日本に帰国しました。その時、私はお腹に長男を宿しておりまして、安定期の7カ月を迎えたところで帰国して、そしてすぐに、実家に預けていた荷物を鎌倉の教会の牧師館に運んで、鎌倉での生活を始める計画になっていました。ところが、帰国した翌日、私は大出血を起こしてしまいまして、お腹の子どもも危ないというようなことになって、即入院、絶対安静となってしまいました。幸いにして、お腹の子どもは早産を免れ、落ち着いたのですけれど、鎌倉に移る計画は延期となり、私はしばらく埼玉の実家で静養をすることになりました。尚志よりも一足先に帰国して、鎌倉での生活を整え、教会員の皆さまとも早く親しくなって、尚志の帰国を待つ計画が、すべて頓挫しました。子どもは無事で、順調に育っていることを喜びながらも、とても落胆していました。
そういう中で、私は、詩編を毎日1編ずつ読み、祈る、ということを始めました。その頃は、今私たちが使っている聖書協会共同訳の聖書ではなくて、新共同訳聖書を使っていましたので、その翻訳で読んでいました。そしてこの第3編を読みました時、新共同訳聖書の4節の言葉に、深く心を動かされたのです。新共同訳聖書の言葉で、2~4節をもう一度お読みしたいと思います。「主よ、わたしを苦しめる者は/どこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい 多くの者がわたしに言います/「彼に神の救いなどあるものか」と。 主よ、それでも/あなたはわたしの盾、わたしの栄え/わたしの頭を高くあげてくださる方。」
当初の計画通りに鎌倉に行くことができなかった、ということは、私にとって大きな落胆であり、苦しみでさえありました。「彼に神の救いなどあるものか」「お前に神の救いなどない」という声、「神はお前を見放したのだ」という声は、外から言われる声というより、自分が自分に言う声として、私の中に響きました。けれども、この詩編詩人はそこで言ったのです。「しかし」と。それを、新共同訳聖書は「それでも」と訳しました。この「それでも」という言葉が、本当に心に迫りました。「主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高く上げてくださる方。」 私は自分で自分に言ってしまっていました。「お前に神の救いなどあるものか」「お前は神から見放されたのではないか」。けれどそこに、詩編詩人の声が響きました。「主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高く上げてくださる方。」この「それでも」という言葉が、私を強くとらえたのです。「主よ、それでも」。どんなに、自分の中の声が、「お前に神の救いなどあるものか」「神はお前を見放したのではないか」と叫んできても、どんなに深く落胆しても、自分自身に絶望しても、「主よ、それでも」と言う信仰がある。この詩編は、深く沈み込んだ私の心を、高く引き上げてくれました。
私たちには、自分の計画がうまく行かなかったとき、最善だと思って立てた計画が頓挫してしまったとき、計画が失敗してしまったというようなとき、自分の内側からも、また外側からも、「神はお前を見放したのだ、お前に神の救いなどない」と言うような声が聞こえてしまうことがあるのではないかと思います。神さまへの信頼を、私たちの信仰を、揺さぶってくるような声が、自分の内側からも外側からも聞こえてしまう、ということがあるのではないでしょうか。しかしそこで、「主よ、それでも」と言う。言うことができる。この詩編は、どんなに神を疑わせるような声、「お前の神は何処にいるのだ、神などいやしないじゃないか、神はお前を見放しているではないか」そう言う声がどんなに大きく響いても、そこで「主よ、それでも」と言う、「主よ、それでも、あなたはわたしの神」と言う信仰を、私に教え、与えてくれました。
詩編には、落胆してしまう私たちの心を、深く沈み込んでしまう私たちの信仰を、再び立ち上がらせる、神へと引き上げ、起き上がらせる、神へと向けさせる、そういう言葉がたくさんあります。詩編はまさに、祈りの書です。
今日の週報に、来週の神学校日の午後の集まりの案内が載っています。本郷中央教会で行われる「神学校日のつどい」は、尚志牧師も責任を持っています、東京神学大学の東京北地区後援会が主催するつどいです。そこで、東京神学大学の田中光(ひかる)先生によって「詩編の言葉に親しみ、詩編の言葉で祈ろう」という講演が行われることになっています。田中先生のお招きの言葉に、「詩編は『聖書の中の祈祷書』」というボンヘッファーの言葉が紹介されて、「詩編は、神の言葉でありながら、同時に教会の祈りの言葉としても与えられています」と、書かれています。
私はこの7月まで、月に一度、平日聖研という集まりで、詩編を説いていました。そこでも繰り返し「詩編は祈り」ということをお話しました。祈り、また歌、詩である詩編は、私たちの心を、神へと向けさせてくれる言葉に満ちています。平日聖研では、「詩編は学ぶ、というより、祈るもの、歌うべきもの」繰り返しそうお話していたのですけれども、でもそう言いながらも、聖書研究ですから「学んで」いました。どうしたら、詩編の言葉を祈るように学ぶことができるかと、ずっと問い続けていたので、田中先生がどんなお話をしてくださるのかと、とても楽しみです。
詩編はまた、イエスさまの祈祷書、とも言われます。イエスさまもまた、詩編の言葉で祈り、詩編を歌われました。詩編に親しむことは、イエスさまの肉声を聞くようなこと、平日聖研の学びの中で、繰り返しそう思わされてきました。詩編を読み、詩編に親しむとき、私たちはそこで、イエスさまの祈り、イエスさまの思い、イエスさまの賛美、イエスさまの信仰に触れることができるのです。
さて、もう一つお読みしたのは、詩編第94編18-19節です。聖書を開いてこの詩編の冒頭をご覧になられると、もしかしたらぎょっとする方もおられるかもしれません。「報復の神、主よ。報復の神よ、輝き出てください。」と始まる詩編です。いきなり神さまを「報復の神」と呼ぶのは、詩編の中でも、この94編だけです。報復の神に向かって、「高ぶる者たちに報復してください」と祈り、「悪をなす者たちは報復の神によって滅ぼされる」、そう歌う詩編です。詩編の中には、〈復讐の詩編・報復の詩編〉と呼ばれる、「敵を滅ぼしてください」というように祈る詩編があります。それは、私たちをつまずかせるものでもあると思いますし、聖書のこういう激しい言葉に触れると私たちはびっくりして、「旧約聖書って怖い」と思ってしまうかもしれません。けれども、そのような激しい詩編は、ありのままの正直な思いを神さまにぶつけていく、そういう祈りであり、神さまとの深いかかわりの中に生きている信仰者の叫びであるのです。
この94編は、神が正しい・義なるお方であり、その神の正しさを貫かれるお方であることを、深く力強く、信頼して歌っている詩編です。神は、悪をなすものに対して断固として立ちはだかってくださる、義なる正しい神は、ご自分の民を決して見捨てず、神の民のひとりであるこの私を決して見放さない、助けてくださる、その深く力強い信頼が歌われています。その中に、お読みした、この美しい言葉があるのです。「私が「足がよろめく」と言ったとき/主よ、あなたの慈しみが私を支え 思い煩いが私の内を占めるときも/あなたの慰めが私の魂に喜びを与える。」
そしてこの詩編の言葉にも思い出があるのです。鎌倉の教会で数年を過ごした頃だったでしょうか、この言葉を愛唱聖句としているという方を知りました。その方は、交通事故に遭って、補助具なしには歩けない、いわゆる身体障がい者となっておられた方でした。絶えまない痛みも抱えておられました。けれども、いつも穏やかにほほ笑んで、不自由な身体で電車に乗り、礼拝に来続けておられました。その方の愛唱聖句が、この言葉だと知った時、穏やかなほほ笑みの中に、「足がよろめく」という思い、「思い煩いが心の内を占める」という思いを抱いておられたのだと知らされたように思い、はっとさせられたのを覚えているのです。その方は、交通事故に遭って、厳しいリハビリの入院生活をしておられた時、加害者の方のお見舞いを受けたことがあったそうです。そして、たまたまそこに居合わせた教会の仲間に、加害者の方を「この方は、私のお友だちです」と紹介されたというのです。後で、その人が交通事故の加害者だと知った教会の仲間は、本当に驚いたそうです。自分に生涯負い続けなければならない痛みと不自由さを与えた人、普通であれば憎んで恨んで当然の人を、「この方は、私のお友だちです」と紹介した、その信仰者の姿と共に、私は、この詩編の言葉を思い起こすのです。「私が「足がよろめく」と言ったとき/主よ、あなたの慈しみが私を支え 思い煩いが私の内を占めるときも/あなたの慰めが私の魂に喜びを与える。」
私がとても好きで、しばしばご紹介する方ですが、カトリックのシスターで渡辺和子さんという方がおられます。もう亡くなられて10年になりますが、その渡辺和子さんのいくつかの本の中に、こういう言葉が出てまいります。「人生には、穴があくことがあるのですよ。」また、別の方ですが、こう言われた方もあります。「人間は一生のうちに何度かは、魂から底の落ちる経験をする。」人生に穴があく。「魂から底が落ちる経験」をする。魂から底が落ちる、というのは、おもしろい表現ですけれども、魂の底が抜けてしまう、魂が落っこちてしまう、そう言うほどの、大きな試練や、困難な出来事に見舞われる経験、ということでしょう。
「私が「足がよろめく」と言ったとき」という、「足がよろめく」という言葉は、新共同訳聖書よりもさらに前の、口語訳という古い翻訳では、「足がすべる」となっていました。ある人は、この「足がよろめく」「足がすべる」というのは、かたい地面の上を歩いていて、ちょっとめまいがしてクラクラっとよろけるとか、あるいは雨の日に濡れた地面で足がすべったとか、この「足がよろめく、すべる」というのは、そういう程度のことではないと言います。そうではなくて、ここで言われているのは、歩いている地面そのものが、足もとから崩れ落ちて、深い奈落の底に落ちていく、すべり落ちていくという、そういう経験を言っているのだと言うのです。この「足がよろめく」というのは、人生に思わぬ穴があいて、深い苦しみ悲しみの底に落ちてしまったというような、「魂から底が落ちる」というような、しかも底なしの奈落の底に落ちるというような、そういう経験を言っているというのです。
私たちは皆、誰もが、それぞれに、こういう経験をしてきているのではないかと思います。最善だと思った計画の頓挫もそうでしょう。生涯にわたって痛みを負い、不自由な身体で生きていかなければならなくなるような大きな事故に遭うことは、そのような経験であったに違いありません。病気になる、ということもそうでしょう。家族が重い病気になることもそうでしょう。仕事の失敗や、学生であれば試験の失敗ということもあるでしょう。人間関係の破綻ということもそうでしょう。そして、かけがえのない愛する人の死は、私たちにとって、人生に穴があく、魂から底が落ちる、足元が崩れ落ちる、そんな経験となり得ます。私たちは、それぞれに、そういう、大変に厳しい試練に遭うことがあります。
しかし詩編は、足がすべり、よろめき、転んで、人生に大きな穴があいて、その穴に魂の底が落ちてしまったような人が、その自分を「主よ、あなたの慈しみが私を支え」る、と言うのです。「主よ、それでも、あなたはわたしを支えていてくださる」そう言うのです。心が思い煩いに、悩みに、苦しみに占められて、悲鳴を上げているような時も、「あなたの慰めが私の魂に喜びを与える」と言うのです。
渡辺和子さんはこういうことも言われました。「深い井戸の底の水には、昼間でも、星影が映るといいます。深い穴の底でしか、見えないものがあるのです。」この言葉を読んだとき、ほんとうに昼間でも井戸の水に星が映るのかと不思議に思ったのですけれど、実際に、深い深い井戸の底の水には昼間でも星が映るのだそうです。不思議なことです。明るい昼の人生を歩んでいるときには見えない星の光です。人生に深い穴が開いて、魂から底が落ちるというような経験をして、深い穴の底に落ち込んでしまったとき、そこでしか見えない、きらめく星影がその深い井戸の底に見える。交通事故に遭って、不自由な身体となってなお、加害者の方を「私のお友だち」と言い得た方は、足がよろめいて崩れ落ちてしまったような深い穴の底で、この星影を見たのではないかと思うのです。魂が落ちてしまった、その深い底で、「私を支える」主の慈しみ、深く落ち込んだ私の魂に与えられる主の慰め、という、そのきらめく星影を見たのではないかと思うのです。
詩編第3編の詩人は、こうも歌っていました。「私は身を横たえて眠り、目覚めます。/主が私を支えておられるから。」 新共同訳ではこうなっています。「身を横たえて眠り/わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。」思い煩いに疲れ果てて、沈み込んだ魂を抱えたままで、身を横たえて眠る。そういうときが、私たちにはあるでしょう。意識を失う眠りは、「死」の象徴でもあります。その眠りの間も、主が支えていてくださる。疲れ果て、深い闇の底に眠る時も、主が支えていてくださる。その中で、私はまた、目覚める。主が目覚めさせてくださる。新しい朝の光を与え、命を与えてくださる。
主イエスが、これらの詩編を読み、祈り、歌われたということを思いますとき、深く落ち沈んだ私を支えていてくださるのは、十字架につけられ、お甦りになった主イエス・キリストの慈しみ、そのみ腕、永遠のみ腕だと思わされます。旧約聖書の申命記第33章27節に、口語訳聖書の言葉ですが、「下には永遠のみ腕がある」という言葉があります。神のとこしえのみ腕は、下から、私たちを、私を支えていてくださる、と言うのです。どんなに深い井戸の底に落ち沈み込もうとも、「それでも」主が、十字架と復活の主イエスの永遠のみ腕が、下から、私たちを支えていてくださる。そして、その深い穴の底でしか見ることのできない、輝く星の光を見せてくださる。とこしえにいます神の変わることのないいつくしみを、どのような人間の言葉にもまさる神の慰めを、見せてくださる。底が抜けてしまった魂にも、喜びを与えてくださるのです。
私たちの人生には、ほんとうに、「穴があく」というようなことが起こります。足元が崩れ落ちる、というような経験をすることがあります。魂から底が落ちて、深く深く沈み込み、落胆し、絶望してしまうことが起こります。しかし、それでも、その深い底から、下から、「主が支えていてくださいます。」変わることのない主の慈しみのみ腕が、永遠のみ腕が、私たちを下から支えていてくださいます。
今週一週間も、皆さまの歩みを、主が支えていてくださいますように。疲れ果てて床に就き眠りに落ちるときも主が支えていてくださり、主が、新しい朝に目覚めさせてくださいますように。「主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高く上げてくださる方」と、深い淵の底から、主を振り仰ぐ信仰に、生きることができますように。

