2026年8月30日 主日礼拝説教「平和を作る人々は幸いである」東野 尚志 牧師
詩編 第122編1~9節
マタイによる福音書 第5章1~12節⑦
8月の最後の主の日を迎えました。主イエスの山上の説教、その冒頭に記された8つの幸いの教え、いわゆる「八福の教え」を読み続けてきました。先ほどは、マタイによる福音書第5章の1節から12節まで、「八福の教え」の全体を朗読しましたけれど、今日は、その7番目、9節の言葉に思いを深めて参ります。主イエスは言われました。「平和を造る人々は、幸いである その人たちは神の子と呼ばれる」。ぎりぎり8月という月の中で、この御言葉を聞くことの意味を、改めて深く思います。
今から81年前、1945年8月15日、日本は、敗戦という厳しい現実を突きつけられました。敗戦という形で、長く続いた悲惨な戦争を終えました。そして、戦後は、新たに制定された日本国憲法のもとで、平和を求める国として歩みを始めたのです。私たちの国、日本は、戦争の放棄を明言した平和憲法のもとで、戦争をすることなく81年の歩みを刻んで来ました。日本は平和だと言われます。けれども、世界から戦争が無くなったわけではありません。いやむしろ、いまだかつて、この地上に戦争の無かった時代はありません。今も、パレスチナで、またロシアとウクライナの間で戦闘が続いています。そういう現実の中で、私たちは、聖書の言葉を聞くのです。
私たちは、平和という言葉を聞くとき、どのような状態を思い浮かべるでしょうか。恐らく、多くの人たちは、戦争がない状態、争いごとがない穏やかで静かな状態を考えるのではないかと思います。確かに、それも大事な平和の側面、一つの側面であると思います。けれども、聖書が語る平和は、単に戦争をしていない状態を指すだけではありません。新約聖書はギリシア語で書かれていますけれど、その背景には、ヘブライ語の「シャローム」という言葉があります。「シャローム」という言葉は、確かに、平和と訳されることが多いと思います。けれども、本来の意味は、もっと広いのです。全く欠けたところのない調和のとれた状態を指します。命が充実して、完全に満たされた状態を指すのです。だから、「平和」と訳されるだけではなくて、「平安」「健康」「繁栄」「祝福」といった意味をも含みます。自分自身の中に分裂がない状態です。周りの人たちとの関係も正しく整えられており、何よりも、神さまとの関係が正しく結ばれている状態を指します。
それは、旧約聖書の創世記の初めに描かれた、祝福された状態によく現れています。神が、この世界とそこにある万物をお造りになったとき、一つひとつの創造の業の区切りにおいて、繰り返し告げられた言葉があります。「神は見て良しとされた」。神はすべてを良きものとしてお造りになりました。そして、すべての創造の業を終えられたとき、創世記は第1章の結びのところで、改めて告げているのです。「神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった」。神と人との間にも、人と人との間にも、さらには、人と自然の間にも、完全な調和があり、平和がありました。しかし、私たちは、創世記の1章と2章、天地万物と人間の良き創造の物語の後、続く第3章において、その平和が破られてしまう物語を読むことになります。罪が入り込んで来たたからです。罪が、神と人、人と人、人と自然の間の良い関係を引き裂いてしまいます。神の言葉に背いてしまったとき、アダムとエバは神から身を隠すようになりました。自分で犯した罪の責任を負おうとせずに、それを相手のせいにしてしまい、果ては神のせいにしようとします。さらに、アダムとエバの子どもたち、カインとアベルの間では、妬みによる殺人が起こります。カインは弟アベルを殺してしまうのです。そして、それ以後も、人々は互いに争いを始めます。最初の満たされたシャローム、神が造られた良き世界の平和は、人間の罪によって破られてしまったのです。
私たちは、誰もが平和の大切さを知っています。平和を求めています。平和を愛していると言っても良いと思います。主イエスが、「平和を愛する人々は、幸いである」と言ってくださったのであれば、誰もがその幸いにあずかることができると思います。けれども、主イエスは「平和を愛する人々」「平和を願う人々」に対して、祝福を告げられたのではありません。「平和を造る人々」を祝福されるのです。私たちは、求め願っている通りに平和を実現することは、決してたやすいことではないと、繰り返し思い知らされます。平和が大切だと知りながら、なぜ、平和を造ることができないのでしょうか。それは、私たちの中に、いつも自分を中心にして考えてしまう罪の性質が染みついているからではないかと思います。対立が起こったときには、まず「自分は悪くない、自分は正しい」と考えます。「自分のせいではない。相手が悪い、相手が間違っている」と考えるのです。そして、自分は相手によって傷つけられた被害者の立場に身を置きます。お互いがそのように考えていると、対立はどんどん深まって行くのです。
家庭においてもそうではないでしょうか。夫婦の間で、親子の間で、また兄弟姉妹の間で、小さな言葉の行き違いや誤解から始まって、修復できないような対立に行き着いてしまうことがあります。一緒に生活していても、言葉を交わさない。視線も合わせない、というようなことがあります。地域の交わりにおいても、ゴミの出し方や挨拶の仕方一つで、自分が不愉快な思いをさせられると、敵意を募らせることになります。いわゆるご近所トラブルに発展するのです。学校でも会社でも、人間関係のあるところ、どこでもトラブルは起こり得ます。教会もまた例外ではありません。私がいつも申し上げることですが、教会は、決して、聖人君子の集まりではありません。教会もまた罪人の集まりです。ささいなことで誤解が生じたり、意見の食い違いから嫌な思いをしたり、傷つけられたりするのです。
そんなとき、お互いの人間関係において、なるべく嫌な思いをしないように、何とか表面的な平和を守ろうとして、見て見ない振りをすることがあるかもしれません。意見が対立するような問題については、争いが起こらないように話題を避けたり、課題を先送りしたりしてしまうことがあります。本当は、それでは何の解決も得られません。現実には、本音で話し合わなければならないところで、ぶつかることを恐れて逃げてしまうのです。自分の本音を隠して上辺だけ話を合わせることもあります。相手の間違いに気づいても、それを咎めて逆恨みされたりしたら大変なので、気づかない振りをすることもあるのではないでしょうか。不機嫌そうな人がいたら、顔色をうかがいながら、地雷を踏むことのないように距離を置いたりします。家族の間でも、学校や会社、また地域社会においても、さらには、教会においても、そんなふうに周りに気を遣って、疲れてしまうことがあるのではないでしょうか。確かに、表面的には争いにならず、平和が守られているように見えるのかもしれません。しかし、それはあまりにも偽善的なことと言わなければなりません。自分の中に、本音と建て前がくっきりと分かれてしまって、自分自身の中で平和が失われてしまうのではないでしょうか。
確かに、争いを避けるための知恵や配慮は必要だと思います。平和を保とうとする努力も大事だと思います。けれども、主イエスは決して、争いを避けること、表面的な平和を保つことを求めておられるのではありません。「平和を造る人々は、幸いである」と言われました。かつての口語訳聖書では、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」と訳されていました。争いを避けて平和を保つ、というような消極的なあり方ではなくて、むしろ、積極的に「平和をつくり出す」ことが求められているのです。「平和を造る人々」「平和をつくり出す人たち」、英語の聖書では、「peacemakerピースメーカー」と訳されています。まさに文字通り、平和のないところに、平和を造って行く人が求められているのです。確かに、平和を守る、平和を維持する、という意味における「peacekeeperピースキーパー」という役割も大事だと思います。けれども、ここで求められているのは、平和が破られてしまっている現実の中で、平和を造って行く人たちなのです。
振り返ってみれば、全きもの、良きものとして、完全なシャロームの状態に造られた世界に、対立や争いがはびこるようになったのは、神の言葉に背いた人間の罪のゆえでした。罪のゆえに、神と人との平和が破られ、人と人との平和も壊され、人と自然との平和・調和が破壊されたのです。そうであるならば、その壊された平和を造る作業は、和解という形で成し遂げられることになります。壊れた関係を修復して、平和を回復する道を求めることになるのです。そのことにいち早く気づいておられたのは、神さま御自身でした。だからこそ、神と人との究極的な和解を目指して、初めのよい関係を引き裂いた私たちの罪を取り除くために、御子イエス・キリストを遣わしてくださったのです。御子は、私たちと同じ人間のひとりとして、この地上に生まれてくださり、私たちすべての身代わりとして、私たちの罪をすべて背負ってくださいました。そして、十字架に掛かって、私たちの罪の償いを完全に成し遂げてくださったのです。
使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の中で証ししています。少し長くなりますが、ローマの信徒への手紙第5章6節から11節までお読みします。「キリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためなら、死ぬ者もいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。このキリストを通して、今や和解させていただいたからです」。神に背いた私たちの罪によって、神との関係は引き裂かれてしまいました。しかし、ただひとり罪のないお方である主イエス・キリストの犠牲によって、私たちの罪は赦され、神と和解させていただいたのです。だから、同じ5章の1節でパウロは宣言しました。「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています」。「平和を造る人々は、幸いである」と語られた主イエス御自身が、まさしく、平和を造る人、まことの「ピースメーカー」として、この世に来てくださったのです。
私たちが、主イエスにならって、「ピースメーカー」になろうとするならば、まずは、キリストの十字架のもとに立って、主の犠牲のゆえに、神と和解させていただき、神との平和をいただくことから始めることになるのだと思います。罪は、神さまとの関係を引き裂き、隣人との関係を引き裂き、自然との調和も引き裂きました。垂直次元の平和が破られたことで、水平次元の平和も壊れてしまったのです。だからこそ、この地上に、まことの平和を回復し、平和をつくり出すためには、何よりもまず、垂直次元の関係回復から始める必要があります。使徒パウロがコリントの教会に宛てて語った福音を聞きましょう。「これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストに代わって使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです」(2コリント5章18~21節)。さらに、エフェソの教会の信徒たちに告げています。「キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し、数々の規則から成る戒めの律法を無効とされました。こうしてキリストは、ご自分において二つのものを一人の新しい人に造り変えて、平和をもたらしてくださいました」(エフェソ2章14~15節)。
主イエスは、平和を造り出すために、私たちと同じ者になってくださいました。神の独り子であるにもかかわらず、私たちと同じ者となって、私たちのもとに来てくださいました。だから、私たちも、自分の思い通りに相手を変えようとするのではなくて、相手のもとへ出かけて行き、自分自身が変えられることを通して、キリストの平和を証しすることができるのだと思います。それは、主イエスが御自身の姿をもって示してくださったように、十字架を負う道なのだと思います。苦難を味わう道です。関わりを持たなければ、傷つくこともありません。そこに留まりたいという誘惑と戦い、その見せかけの平和から外へ出て、真実の平和を造り出すために、重荷を負っていくことになります。けれども、主がその重荷を共に担ってくださることを信じて、主の助けを祈り求めながら、一歩を踏み出していくのです。それは、小さな一歩でしょう。苦しんでいる人に手を差し伸べ、その隣人となろうとすることから始まります。忍耐をもって相手の言葉に耳を傾け、その痛みや苦しみを受けとめていくことから始まります。私たちの罪が、人と人との関係をも引き裂いていく現実の中で、主に結ばれて、罪赦された者として、人と人とをつないでいくために祈り仕える。そして、何よりも、その人を主イエス・キリストにつないでいくために、愛し、労するとき、そこに平和への道が拓かれていくのです。さらには、自然との対立ではなく、共生の道も拓けてくるはずです。「平安」「健康」「繁栄」「祝福」が約束されているのです。
私たちは、紛争や戦争の絶えない世界の中に生きています。国と国との対立や、民族間の争い、社会の分断、自然破壊、神の平和が破られた現実を前にするとき、自分の無力さを感じざるを得ません。けれども、主イエスは、まず、私たちの身近なところに平和を造ることを求めておられるのだと思います。家庭で、学校で、職場で、地域社会で、そして、教会で。その小さな平和を造る働きを、神が大きく用いてくださるのです。主イエスは言われました。「平和を造る人々は、幸いである その人たちは神の子と呼ばれる」。私たちが、神の独り子である主イエスの業にあずかることを通して、神の子たちと呼ばれるようになります。神が私たちを御自身の子と呼んでくださるのです。神御自身が、御子イエスによる和解の業を始めてくださいました。キリストこそが私たちの平和です。神の子たち、平和の子たちとして、神の御業に仕えて行きたいと願います。主なる神が、私たちに、そのための勇気と愛を増し加えてくださいますように。
祈ります。主イエス・キリストによって、私たちに平和を与えてくださったことを感謝します。争いに満ちたこの世界、誤解や対立に満ちた日々の歩みの中に、どうか、主イエスによる赦しと和解を証しして行くことができますように。私たちをあなたの平和で満たしてください。それぞれの家庭において、学校や職場において、また地域社会の中に、そしてまた、教会の中にも、真実の平和を造る者とならせてください。あなたが私たちを神の子たちと呼んでくださることを、心から喜び、それにふさわしい歩みを刻んで行くことができますように。そして、どうか、この世界に、あなたの平和が実を結びますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

