2026年8月23日 主日礼拝説教「心の清い人々は幸いである」東野 尚志 牧師
詩編 第51編1~14節
マタイによる福音書 第5章1~12節⑥
一週間の夏休みをいただきました。8月13日の木曜日から、日曜日を挟んで19日の水曜日まで、ちょうど一週間の夏季休暇でした。先週16日の日曜日は、菊地信行先生に礼拝の司式・説教のすべてを担っていただきました。菊地先生をはじめ、役員の方たちに主日の務めを分担していただいて、また教会の皆さまのご理解とご協力に支えられて、主の日を休ませていただきました。日曜日の講壇に立つのは、2週間振りのことになります。2週間振りに講壇に立って、礼拝に集われた皆さまの顔を見て、改めて感じます。同じ信仰に生きる仲間たちと一緒に集まるということは、それ自体が大きな喜びであり励ましであるということ。一週抜けたからこそ、そのことをより強く感じるのだと思います。恐らく、皆さんも、主の日ごとに、信仰の仲間たちと顔を合わせ、言葉を交わすことを通して、大きな支えと力を得ておられるに違いないと思います。
しかしまた、それだけに、私たちが主の日ごと、何のために教会に集まるのか、ということを、いつも忘れないように心に刻む必要があるのだと思います。私たちは、主の日ごと、神の御前に集います。神を礼拝するためです。神を拝むためです。神をたたえる賛美を歌い、神への祈りを合わせ、神の言葉を聞くためです。目には見えなくても、私たちを礼拝へと招いてくださり、私たちと出会ってくださる神を仰いで、神の御名をほめたたえます。主の聖晩餐の食卓に連なって、終わりの日の祝宴の喜びを先取りしながら、救いの恵みにあずかります。共に集められた兄弟姉妹たちとその恵みを分かち合い、神の祝福を受けて、再びこの世の生活へと遣わされて行くのです。
七日ごとに神の御前に集まって、皆で一緒に神を礼拝するという生活は、旧約聖書の初めから、神が御自分の民に求められたことでした。もっとも、旧約聖書の時代は、週の終わりの日、七日目に集まって礼拝をしていました。神が六日の間に天地万物をお造りになり、七日目を休まれたことで、天地創造の御業が完成されたからです。神が七日目を安息日として聖別されたことを受けて、イスラエルの民は、週の終わりの日、すべての仕事を休んで、神を礼拝したのです。詩編の中には、そのような礼拝の際に歌われた歌がたくさんあります。先ほど、礼拝の初めに交読した詩編第24編も、礼拝の歌と言ってよいと思います。礼拝の司式者と会衆が交互に歌いながら、礼拝に集う者の資格、そのふさわしさを問うたのです。
初めに歌い交わします。1節と2節「地とそこに満ちるもの 世界とそこに住む者は主のもの。主が大海の上に地の基を築き 大河の上に世界を据えたから」。主なる神は、天地万物を造られたお方です。その神を礼拝するために、聖所に集うのです。礼拝に集う者の資格が問われます。3節「誰が主の山に上り 誰がその聖所に立つのか」。「主の山」というのは、エルサレムの神殿があったシオンの山を指します。新共同訳聖書では「どのような人が、主の山に上り 聖所に立つことができるのか」と訳していました。「誰が」「どのような人が」と問うて、神の御前に立つ礼拝者の資格を尋ねるのです。答えて歌います。4節「汚れのない手と清い心を持つ人。魂を空しいものに向けず 偽りの誓いをしない人」。これが、神の御前に立つ礼拝者に求められるふさわしさだと言うのです。
私たちは今、礼拝に連なっています。礼拝の場に共に身を置いています。主なる神の御前に出て、礼拝をしているのです。けれども、果たして私たちは、神の御前に立つにふさわしい「汚れのない手と清い心」を持っていると言えるでしょうか。確かに、手が汚れていれば、洗い清めることができます。もちろん、そこには実際的な意味だけではなくて、比喩的な意味が込められていると思います。洗っても落ちることのないような汚れた行いに手を染めてしまうということがあるかもしれません。しかし、それでも、汚れた業ときっぱり手を切るということはできるはずです。そうやって、神の前に出るふさわしさを整えようとすることは大事です。それならば、「清い心」についてはどうでしょうか。私たちは「清い心」を持っていると言えるでしょうか。いったい、どのようにしたら、自分の心を清くすることができるのでしょうか。
ユダヤ人たちは「清さ」を保つことをとても重んじました。神の前に出るための「清さ」を確保するために、必要な手続きとしての儀式を整えました。そのくらい、真剣に、神の前に出るふさわしさを求めたということは称賛に値するかもしれません。けれども、手続きや儀式というのは、ともすれば形骸化してしまいます。形だけのものになってしまいます。定められた手続きを踏んで、断食をしたり、献げ物をして儀式を行ったりすれば、神の前に出るための清さを確保できたと思ってしまうのです。あるいはまた、そうやって自分が確保した清さが損なわれないように、汚れた人たちとは付き合わないようにする。掟によって、汚れた者とされた人には触れないように、汚れた病人や神を知らない異邦人とは付き合わないようにして、自分の清さを守ろうとしました。果たして、それは、本当に、神が求めておられる清さだと言えるのでしょうか。
私たちはむしろ、聖なる神の前に立とうとするとき、いやというほど、自分の罪深さ、自分自身の罪の汚れを思い知らされるのではないかと思います。神は、私たちの上辺だけではなく、心をご覧になります。たとえ上辺を整えることができたとしても、私たちは、自分で自分の心を清くすることはできません。神の御前に立つために、礼拝者に対して「汚れのない手と清い心」を持つようにと求められたとき、私たちはむしろ、そのふさわしさのない自分自身の罪の汚れを思い知らされます。そのような汚れのない清い心を持つことのできない自らの罪を悔い改めるようにと迫られるのです。私たちが、礼拝に集うとき、まず初めに、感謝と賛美だけではなく、悔い改めの祈りを献げるのはそのためです。罪にして罪に過ぎず、肉にして肉に過ぎない者、自分自身の罪深さを自分ではどうすることもできない者が、なお神の憐れみと赦しを求めて、悔い改めの祈りを献げるのです。
先ほど福音書の言葉に合わせて朗読した旧約聖書の詩編51編は、イスラエルの王ダビデの悔い改めの詩として知られます。ダビデ王は、自分の部下であるウリヤの妻バト・シェバに心惹かれ、これを自分のものにするために、策略をもって夫のウリヤを殺させます。激しい戦いの最前線に送って、敵の手で戦死するように仕向けたのです。そして、ウリヤの妻バト・シェバを自分のものにしました。そこに、預言者ナタンが神から遣わされ、ダビデの罪を指摘します。姦淫と殺人、それは十戒に背く明らかな罪です。ダビデは自分の犯した罪の大きさに恐れおののきながら、神の憐れみと赦しを求めて祈りました。ひと言の弁解をすることもなく、自らの罪を認めて、すべてを神に委ねるようにして祈りました。「神よ、私を憐れんでください あなたの慈しみによって。深い憐れみによって 私の背きの罪を拭ってください。過ちをことごとく洗い去り 私を罪から清めてください」(51編3~4節)。そのように歌い出します。さらに9節では、「ヒソプで私の罪を取り払ってください 私は清くなるでしょう。私を洗ってください 私は雪よりも白くなるでしょう」と歌います。自分で清くなるのではありません。神に洗っていただき、清めていただくことを願うのです。そして、12節で決定的な言葉を語ります。「神よ、私のために清い心を造り 私の内に新しく確かな霊を授けてください」。「清い心」、それは、神が新しく造ってくださるのでなければ、私たちには持ち得ないものだと告白するのです。
主イエスは言われました。「心の清い人々は、幸いである その人たちは神を見る」。それは、私たちとは違う、どこかにいる祝福された人たちの話ではありません。私たちに、この幸いを与えるために、主イエスは、私たちのところに来てくださいました。私たちを罪の支配から解放して、神に喜ばれる清い心に生きるものとするために、主は私たちのところに来てくださいました。私たちの罪をすべて背負って、十字架にお掛かりくださり、罪の贖いを成し遂げてくださいました。御子イエス・キリストの十字架のゆえに、神は私たちの罪を赦して、義としてくださったのです。そして、主イエスを死人の中から復活させて、永遠の命を生きる者としてくださいました。主イエスの十字架と復活によって、私たちが罪から解放されて、神の子として新しく生きる道が拓かれたのです。私たちが、この十字架と復活の主を、私の救い主と信じ、告白して、主とひとつに結ばれる洗礼を受けることによって、私たちは神の子として新しく造られます。神が私たちの内に、ひと筋の心で神を愛する清い心を造ってくださり、神を、アッバ父よと呼ぶ、御子の霊を授けてくださるのです。私たちは、私たちのために十字架にかけられ、死んで復活された主イエス・キリストにおいて、御自身を現わされた神を見るのです。
ヨハネによる福音書は、その冒頭において、言である神が肉をとって私たちの間に宿られたと歌いました。マタイやルカとは違った独特な言葉づかいで、クリスマスの出来事を描きました。「言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1章14節)。そして、この賛歌の結びのところで告げて言います。「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(同18節)。確かに、私たちは、肉の目で神を見ることはできません。けれども、独り子である神、主イエス・キリストにおいて、大切な御子を救い主として遣わしてくださった神を仰ぎ見る。愛する独り子を十字架の死に引き渡してしまうほどに、それほどに私たちを愛し、私たちを求めてくださる父なる神を知り、神を見るのです。
主イエスは言われました。「心の清い人々は、幸いである その人たちは神を見る」。それは、礼拝への招きの言葉だと言ってよいと思います。礼拝における神との交わりへの招きです。そして同時に、究極の礼拝を指し示す言葉でもあります。後半の約束の言葉、「神を見る」という動詞は未来形で書かれています。この約束は、終末論的な響きを帯びているのです。終わりの日の約束です。使徒パウロはコリントの教会に宛てた手紙の中で歌いました。「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります。私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります」(1コリント13章12節)。昔の鏡は、今のようにはっきりと映し出すことはできなかったようです。そこに映るのは、おぼろな影のようなものでした。それと同じように、私たちが地上に生きている間は、神の言葉を聞いていても、神のお姿をはっきりと見ることはできません。おぼろに見ているだけです。けれども、その時、すなわち、終わりの日には、顔と顔とを合わせて見ることになる、というのです。
神から特別に愛されたあのモーセでさえも、主なる神の顔を見ることはできませんでした。確かに、出エジプト記の33章を見ると、「主は、人がその友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた」と告げられています(11節)。しかし、顔と顔とを合わせて語られたと言われながらも、モーセは神の顔を見ることはできませんでした。そのすぐ後で、主はモーセに言われます。「あなたは私の顔を見ることはできない。人は私を見て、なお生きていることはできないからである」(20節)。さらに、主はモーセに言われました。「私の栄光が通るとき、あなたを岩の裂け目に入れて、私が通り過ぎるまで、私の手であなたの上を覆う。私が手を離すと、あなたは私の後ろを見るが、私の顔を目にすることはない」(22~23節)。モーセは、主の後ろ姿を見ることを許されました。主なる神の顔を目にすることはありませんでした。しかしながら、終わりの日には、顔と顔とを合わせて見る、と約束されているのです。
私たちは今、その終わりの日の約束を先取りするようにして、主なる神の現臨に触れられています。私たちの前に備えられた聖餐の恵みを通して、終わりの日の喜びの食卓の前味にあずかろうとしています。主の十字架と復活の恵みによって、キリストの教会は、復活を記念する週の初めの日に集うようになりました。礼拝において、神の言葉と主の食卓が備えられています。この食卓にあずかることを通して、私たちのすべての罪が洗い清められたことを味わい知り、清い心を持って、私たちに注がれる父なる神の愛のまなざしに触れるのです。終わりの日の完成を望み見ながら、今も、私たちに愛の御顔を向けてくださる神に、私たちの身も心も、すべて委ねて歩みたいと願います。主が告げてくださる祝福を受けて、新たな週の歩みへと遣わされて行くのです。

