2026年5月31日 主日礼拝説教「悲しむ人々は幸いである」 東野 尚志 牧師
イザヤ書 第51章12~16節
マタイによる福音書 第5章1~12節②
「悲しむ人々は、幸いである」。本日の説教題は、マタイによる福音書の第5章4節から取りました。主イエス・キリストが語られた言葉です。先週の日曜日から一週間にわたって、教会の外の掲示板に、この説教題が掲げられていました。昨日の朝早く、教会の外周りの掃き掃除をしていると、大通りの側の掲示板の前で、立ち止まっている人がいました。朝の散歩の途中のようでした。しばらく掲示板を見ておられたので、声をかけようかと思いましたが、タイミングを逃してしまいました。先週から、次の日曜日の説教題だけではなくて、6月伝道月間のチラシも貼ってあるので、チラシの方を熱心に見ておられたのかもしれません。
女子聖学院の角と聖学院小学校の角にも、教会の小さな掲示板が立てられています。そこには、説教題だけが記されています。道行く人が、この説教題を目にしたとき、どんなふうに感じられたか気になりました。「悲しむ人々は、幸いである」。それだけでは、何を言っているのか、よく分からないかもしれません。いやむしろ、何を言いたいのか、どうしてそんなことが言えるのか、疑問を抱かれるかもしれません。すんなり納得できる言葉ではないからです。普通に考えればそうだと思います。幸いでないからこそ悲しんでいるのではないでしょうか。不幸な出来事、辛い出来事に直面しているからこそ、悲しんでいるのです。それなのに、どうしてそれを、幸いだなどと言えるのか。もしかしたら、この言葉を読んで、腹を立てる人がいるかもしれません。悲しんでいる人に、あなたは幸いだなどと言うのは、あまりにも思いやりに欠けた、人を馬鹿にした言葉だと思う人も、いるのではないでしょうか。
「悲しむ人々は、幸いである」。「幸いなるかな、悲しむ者」。これは、主イエスが、ガリラヤ地方の山の上で、弟子たちと群衆に告げられた言葉です。山の上の説教、山上の説教と呼ばれます。マタイによる福音書の第5章から第7章まで、3つの章にわたって、主イエスが山の上で語られた説教がまとめられているのです。その説教の冒頭、主イエスは、幸いを告げられました。「幸いだね」「おめでとう」「何と祝福されていることか」。とてもリズミカルに、幸いの宣言を8回繰り返しておられます。8回の祝福宣言ということで、「八福の教え」などと呼ばれます。「幸いだ」「幸いだ」と繰り返して語られたのです。しかも、かつての文語訳聖書が、原文の順序に忠実に訳して、「幸いなるかな、悲しむ者」と記した際、「幸い」という言葉は、「幸福」と書いて、それを「さいわい」と読ませています。あなたがたは幸福だ、幸せだ、と告げられたのです。
ところが、8つの祝福の宣言のうち、少なくとも、最初のいくつかは、私たちの常識に逆らうような、逆説的とも言える言葉が続いています。前回は、一番目の「心の貧しい人々は、幸いである」という言葉を味わいました。「心の貧しい人」というのは、心の中に、つまり、自分自身の内には、頼れるような、誇れるようなものを何も持たない人です。何の良いものもない、惨めさと空しさに打ちのめされている人たち。幸福とはほど遠いところにいる人たちです。主イエスは、そのような人たちに、幸いを宣言されたのです。そして、今日は、二番目です。「悲しむ人々は、幸いである」。「悲しむ」ことと「幸い」。本来ならば、結びつくはずのない言葉が、つながれています。どうして、今、悲しんでいる人たちが、幸せだと言えるのでしょうか。
振り返ってみれば、私たちは、これまで生きてきた中で、どれほど多くの悲しみを経験して来たことでしょうか。この世に、悲しみを知らない人は一人もいないと思います。私たちは、それぞれの人生を生きて行く中で、さまざまな悲しみを味わいます。まず、最も身近なこととして、日常生活の中で味わう悲しみがあります。自分自身に関わる悲しみです。勉強がうまく行かなかったり、仕事で失敗したりして落ち込みます。思いがけない怪我をしたり、重い病気が見つかったり、あるいは、家族や親しい人の死に直面したとき、深い悲しみを味わうのです。さらにはまた、テレビやネットの報道で、凶悪な事件が起こって被害を受けた人たち、熊に襲われた人たち、大きな地震や火事、また津波や洪水で被災した人たちのことを知らされると、心に悲しみを抱きます。同情とか共感と言われる感情が働いて、他人のことであっても、悲しい気持ちを味わうのです。
あるいはまた、自分自身の罪に対する悲しみもあります。私たちには、たとえ、この世の法で裁かれるような罪がなかったとしても、神の前に、神の律法で裁かれる罪があります。確かに、主イエスの十字架の贖いによって、私たちの罪は赦されたはずです。それなのに、この肉の中に生きている限り、なおも罪は私たちに絡みついてきます。私たちの思いにも、言葉にも、また行いにも、罪が絡みついているのです。心の内に、罪の闇を抱えているからこそ、それは、時に、言葉となって口から出て、人を傷つけてしまいます。神の前に罪とされることを行ってしまいます。神さまを信じており、主イエスの言葉に従いたいと願いながら、なおも罪に引きずられてしまう自分自身の弱さを深く悲しむ。自分の罪を悲しむ者は、他の人たちの罪をも悲しみます。私たち人間の罪が、今もこの世界に争いを引き起し、数々の悲惨な出来事を生み出しているのです。私たちは、その現実に心痛めます。その悲惨な現実が、さらに多くの悲しみをもたらし、悲しむ人々を生んでいることにも、心痛めずにおれないのです。
この世界は、多くの悲しみに満ちています。私たちには、さまざまな悲しみがあります。主イエスは、その悲しみを、幸いな悲しみと不幸な悲しみに分けようとしておられるわけではありません。悲しい出来事の中にも、私たちの成長や悔い改めにつながるような意味を見いだして、だから幸いだと言っておられるのでもありません。一切の説明を抜きにして、宣言されたのです。「悲しむ人々は、幸いである」。そこには、こういう考え方をすれば、とか、こういう意味づけをすれば、といった留保は全くありません。この世界と、私たちが抱えている悲しみのすべてを引き受けるようにして、幸いを宣言されるのです。それは、誰にでも語れる言葉ではありません。主イエスだからこそ、まさに、神に背を向けたこの世の悲惨のただ中に宿られたお方、すべての悲惨を十字架において引き受けてくださったお方であるからこそ、語ることのできる言葉なのだと思います。
第二イザヤと呼ばれた無名の預言者は、私たちの身代わりとなって、私たちの罪を背負い、自分の命を犠牲にして救いの道を開く苦難の僕について預言しました。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 痛みの人で、病を知っていた。人々から顔を背けられるほど軽蔑され 私たちも彼を尊ばなかった。彼が担ったのは私たちの病 彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて 苦しめられたのだと」(イザヤ53章3~4節)。最初のところを口語訳聖書は、次のように訳しました。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた」。救い主としてこの地上に来られた主イエスは、まさに、悲しみの人でした。私たちの悲しみを知っておられ、私たちの罪を悲しんでくださり、世のすべての悲しみを背負ってくださったのです。
私たちの救い主である十字架の主が語ってくださいます。「悲しむ人々は、幸いである その人たちは慰められる」。悲しむ人々は、なぜ幸いだと言えるのか。それは、その人たちは慰められるからだと、主は言われます。主イエスは、まさに、その慰めを与えるために、主が与えてくださる慰めによって、確かな幸いを作り出すために、私たちのところに来てくださったと言ってよいのです。しかし、間違えてはならないと思います。今、悲しんでいる人たちが慰められるのは、その悲しみの原因が取り除かれて、抱えていた問題や困難が解決されるからだというのではありません。いやむしろ、その悲しみの現実は変わらないかもしれないのです。依然として、厳しい状況は続きます。病による痛みやだるさ、悲しみと嘆きは変わりません。慰められるというのは、その悲しみのもとがなくなることではなくて、むしろ、その厳しい現実のただ中で、その悲しみを背負いながら、忍耐して生きることができるようになることです。悲しみによって押しつぶされてしまうことなく、立ち上がって、再び歩みを進めていくための勇気と力を与えられることです。悲しみを担いながら、生きていく力が与えられるのです。
ここで「慰める」と訳されている言葉は、使徒パウロが好んで用いた言葉でもあります。日本語で「慰める」というと、「慰み」という言葉もあるように、少し後ろ向きのように感じられてしまうかもしれません。けれども、聖書のもとの言葉には、もっと広い意味があります。同じ言葉が、聖書のほかの箇所では「励ます」と訳されています。また「勧告」というときの「勧」の字を使って「勧める」と訳されることもあります。もっと強く「願う」と訳されているところもあります。慰めるというのは、悲しみの中で動けなくなって、うずくまっている人を励まして、立ち上がらせ、前に向かって歩いて行くことができるように力づけることをも意味するのです。
それならば、そのような「慰め」また「励まし」はどこから来るのでしょうか。「慰められる」と受け身の形で告げられているのは、慰めを与えるのが人ではなく、神であることを暗示していると言ってよいと思います。神は、どのようにして、悲しむ者を慰め、励ましてくださるのでしょうか。「慰める」「励ます」「勧める」と訳されているもとの言葉は、「パラカレオー」というギリシア語です。「パラ」は「傍らに」、「カレオー」は「呼ぶ」という意味です。つまり、慰めると訳される「パラカレオー」は、言葉の成り立ちから言えば、「傍らに呼ぶ」という意味になります。悲しみの中でうずくまってしまって、全世界の不幸を一人で抱えているかのような深い絶望と孤独の淵に沈んでいる者を、傍らに呼んでくださる方があるのです。「傍らに呼ぶ」は、「傍らで呼ぶ」という意味にもなります。遠くから、おいでおいで、とご自分の方に来るよう呼んでおられるというよりは、むしろ、神さまの側から私たちのところに来てくださって、私たちの傍らに寄り添って、私たちのために祈ってくださり、支えてくださるのです。
ヨハネによる福音書は、「パラカレオー」という言葉は用いていませんけれども、この「パラカレオー」という言葉から生まれた「パラクレートス」という言葉を印象深く用いています。この言葉は、ヨハネによる福音書に4回、ヨハネの手紙一に1回だけ出て来ます。ヨハネ福音書の14章16節で、主イエスは言われます。「私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。ここで、弁護者と訳されているのが、「パラクレートス」という言葉です。「弁護者」と訳すと、法廷論争のような印象を受けるかもしれません。同じところを、かつての口語訳聖書は「助け主」と訳していました。新改訳の聖書では今も「助け主」と訳しています。「慰め主」と訳されたこともあります。慰めを与え、助けを与えてくださる方であり、終わりの日の裁きにおいては、私たちの弁護者となってくださる方です。主イエスはここで「もうひとりの弁護者」と言われたように、まずは、主イエスご自身が、私たちの助け主であり、弁護者なのです。しかし、主が去って行かれた後、父なる神のもとからもうひとりの弁護者が遣わされると言われました。同じヨハネによる福音書14章の少し後、26節ではこう言われます。「しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。もうひとりの弁護者、助け主、慰め主というのは、聖霊なる神のことだと言われたのです。
先週の日曜日、私たちは、聖霊降臨主日の礼拝を行いました。ペンテコステです。それは、十字架にかけられ、死んで葬られた主イエスが、三日目に復活されてから50日目の出来事でした。復活された主イエスは40日にわたって、弟子たちにご自身を現わされ、神の国、神の支配についてさらに教えられたと、使徒言行録は記しています。そして、40日目に、弟子たちの見ている前で天に昇られた主が、その10日後、約束通りに、弟子たちの上に聖霊を送ってくださったのです。神が、私たちを慰めてくださるということは、この地上に、私たちと同じ人間の一人として生まれてくださった主イエス・キリストにおいて実現し、主イエスが父なる神のもとから送ってくださった聖霊によって、今、私たちにも与えられているのです。それは、今日、マタイによる福音書と合わせて読んだ、旧約聖書のイザヤ書第51章12節以下の言葉からも分かります。
主なる神は、預言者イザヤを通して、ご自身の約束を告げられました。「私、この私が、あなたがたを慰める者」。この父なる神の宣言は、イスラエルの民の中に遣わされた、御子イエス・キリストにおいて実現しました。イザヤはまた「インマヌエル」の預言を残したことでも知られます。「インマヌエル」、神我らと共にいます、と告げたのです。マタイはこの言葉を、第1章、主イエスの誕生の場面で引用しました。神の慰め、神の救いは、御子イエス・キリストとして、地上に宿ったのです。主イエスは、十字架にかけられる前の晩、弟子たちに言われました。「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」。確かに、十字架にかけられ、殺された後、主イエスは復活して、弟子たちのもとに戻って来られました。しかし、さらに言えば、復活の体をもって天に昇って行かれ、天に帰られた後も、父なる神のもとから遣わされた聖霊において、主はいつまでも私たちと一緒にいてくださるのです。どんなに深い悲しみと嘆きの中にあっても、私たちは、決して孤独ではありません。一人ぼっちではありません。霊なる主が、いつも私たちと共にいてくださいます。そこに、確かな慰めがあります。慰め主であり、助け主であり、究極の弁護者である聖霊が共にいてくださるのです。だからこそ、私たちは、どのような悲しみの中にあっても、慰めと力を与えられ、悲しみをもたらす困難や痛みを抱えたままで、慰めにあずかり、望みをもって祈ることができるのです。
使徒パウロは、ローマの教会に宛てた手紙の中で言いました。「霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです」(ローマ8章26節)。復活された主イエス・キリストは、天に昇られ、今も天において、父なる神の右に座して、私たちのために執り成していてくださいます。そして、この地上にあっては、主が遣わしてくださった霊なる神が、いつも私たちの傍らにあって、言葉に表せない切なる呻きをもって、私たちのために執り成していてくださるのです。どのような大きな、また深い悲しみがあっても、決して、悲しみに呑み込まれてしまうことはありません。助け主であり、慰め主である方が傍らにいて、私たちをしっかりと捕らえていてくださるからです。私たちは今、主の大いなる慰めの中にあるからこそ、恐れずに、悲しむことも許されているのだと思います。悲しんで良いのです。嘆いて良いのです。絶望の淵に落ちていくことのないように、霊なる主が傍らにいてくださるからです。私たちは、主が共にいてくださるという確かな慰めにあずかり、この慰めの中で生きて行くことができるのです。
「悲しむ人々は、幸いである その人たちは慰められる」。改めて、この約束と宣言を、私たちの救いの言葉として、深く味わいたいと思います。

