2026年5月24日 聖霊降臨主日礼拝説教「聖霊を受ける喜び」 東野 尚志 牧師

イザヤ書 第61章1~4節
コリントの信徒への手紙一 第12章1~3節

 ペンテコステ、聖霊降臨主日を迎えました。二千年前のこの日、主イエスの弟子たちの上に聖霊が降りました。この日の出来事は、聖書の中に詳しく記されています。使徒言行録第2章です。教会生活を長く続けておられる方たちは、恐らく、ペンテコステのたびに、何回も、何十回も開いてこられたところではないかと思います。「五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした」(使徒言行録2章1~4節)。
 冒頭の「五旬祭」という言葉が、もとのギリシア語では、「ペンテーコステー」と書かれています。直訳すれば、「第五十日」という意味の言葉です。五十日目のお祭りという意味で「五旬祭」と呼ばれました。五十日目というと、私たちはすぐに、イエスさまの復活を祝うイースターから五十日目、と考えます。もちろん、それは間違いではありません。けれども、元来は、ユダヤ教のお祭りとして、主イエスが復活される前から、いや主イエスがお生まれになる前から、イスラエルの民が大切に祝っていた祭りでした。ユダヤ人にとって、最も大切なお祭りであった過越祭から五十日を数えたのです。

 過越祭というのは、イスラエルの民が、エジプトでの奴隷生活から解放されたことを記念する祭りでした。紀元前13世紀頃のエジプト脱出の出来事に由来します。毎年、ユダヤの暦でニサンの月の14日から、一週間にわたって、特別なお祝いがなされました。五旬祭は、この過越祭から五十日を数えたのです。古くは「刈り入れの祭り」と呼ばれて、小麦の収穫を祝う春の祭りであったようです。後には、エジプトから解放されたイスラエルの民が、モーセに導かれて荒れ野へと出て行き、ホレブの山、シナイ山の麓で神から律法を授かったことを祝う記念祭として守られるようになりました。イスラエルは神と契約を結んで、神の掟としての律法を与えられ、神の民としての歩みを始めたのです。そのユダヤ教の祭りにかぶせるようにして、新たな意味づけが与えられることになりました。
 主イエスは、過越祭の大事な安息日の前日、十字架にかけられ、死んで墓に葬られました。そして、安息日が明けた週の初めの日の朝早く、墓の中からよみがえられました。それによって、もとはユダヤ教のお祭りであった過越祭が、キリストの復活を祝うイースター、復活祭として、キリスト教の祭りへと上書きされました。さらには、その過越祭から五十日目、イスラエルが律法を授かり、神の民としての歩みを始めた記念の祭りであった五旬祭は、主の弟子たちの群れに聖霊が降った記念の日、聖霊降臨祭として、キリスト教の祭りへと上書きされることになりました。

 使徒言行録によれば、復活された主イエスは、四十日にわたって弟子たちに現れ、神の国について教えられたとあります。食事を共にしているとき、主は弟子たちにお命じになりました。「エルサレムを離れず、私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼を受けるからである」(使徒言行録1章4~5節)。また、約束して言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる」(同8節)。そして、話し終えられた後、弟子たちの見ている前で、天に上げられました。「昇天」と呼ばれます。「昇天」と言っても、死んでしまったということではありません。耳で聞くと、音が同じで区別がつかないかもしれません。私たちは、教会の仲間が亡くなると、「天に召される」と書いて「召天」と言います。けれども、主イエスの「昇天」は、「天に昇る」と書く「昇天」です。私たちは、自分で天に昇るのではなくて、地上の命を終えて天に召されます。けれども、主イエスは、主イエスだけは、その復活のお体をもって、この地上から天へと昇られたのです。
 主イエスは、復活されてから四十日を経て、天に昇られました。復活された主のお体は天に移されました。だから、この地上で生きている私たちは、今、主イエスのお姿を肉の目で見ることはできません。けれども、主が天に昇られてから十日後、ユダヤ教の祭りであった五旬祭の日に、父なる神と主イエスのもとから、聖霊が遣わされました。集まっていた弟子たち一同の上に、聖霊が降り、聖霊に満たされた弟子たちは、いろいろな国の言葉で、福音を語り始めたのです。この聖霊の働きによって、弟子たちは、目には見えなくても、主イエスがいつも共にいてくださることを信じて、主の十字架と復活による救いを宣べ伝えるようになりました。そして、この地上に、キリストを信じる者の群れである教会が生まれました。こうして、ユダヤ教のお祭りであった五旬祭は、聖霊降臨記念の日として祝われると共に、教会の誕生日と呼ばれるようになったのです。

 二千年前の五旬祭、ペンテコステの日に降り、地上に教会を生まれさせた聖霊は、弟子たちの間に力強く働いて、教会の伝道の業を導いて行かれました。その最初の教会の働きを記しているのが、使徒言行録ということになります。かつては、使徒行伝と呼ばれました。使徒行伝は聖霊行伝と言われたことを思い起こします。使徒の時代から二千年にわたって、聖霊なる神は、教会のうちに、教会を通して働き続けておられるのです。その意味では、私たちにとって、最も身近なところで働いておられるのが、聖霊なる神だと言っても良いのだと思います。そうであるにもかかわらず、父・子・聖霊なる三位一体の神、という言い方をするとき、一番分かりにくいというか、捉えどころが無いように思われるのが、聖霊であるのかもしれません。
 洗礼を受ける前の人たちの学び、いわゆる求道者会や受洗準備会と呼ばれる学びにおいても、しばしば、聖霊が分からない、という質問を受けることがあります。福音書の中に描かれている御子イエス・キリストのことは何とか分かります。天の父なる神のもとから降ってこられ、私たちと同じ人間の一人として、この地上に生まれてくださった方です。私たちと同じように、肉体を持ってこの地上を歩まれ、私たちがこの地上で味わう、喜びや楽しみだけでなく、苦しみや悲しみ、痛みについても、私たちと同じように経験されました。主イエスがなさったこと、主イエスが語られたことを、新約聖書に記された四つの福音書が丁寧に伝えてくれます。それだけに、私たちにとっては、最も親しく覚えるお方だと言ってよいと思います。そして、この主イエスが「アバ父よ」、「私のお父さん」と呼んで、祈りをささげられた神さま、さらには、私たちにも「父」と呼ぶように教えてくださった方、天地万物を造られた父なる神のことも何とか分かります。けれども、聖霊なる神については、もう一つ、捉えどころが無いと思われるのかもしれません。

 聖霊を受ける、というのは、どういうことなのでしょうか。聖霊を受けることによって、何が変わるのでしょうか。そのことを明確に告げているのが、コリントの教会に宛てた、使徒パウロの手紙です。先ほどは、コリントの信徒への手紙一の第12章1節から3節までを朗読しました。その3節をもう一度お読みします。「そこで、あなたがたに言っておきます。神の霊によって語る人は、誰も『イエスは呪われよ』とは言わず、また、聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできません」。「イエスは主である」というのは、恐らく、最も簡潔に言い表された信仰の告白の言葉であると言ってよいと思います。聖書のもとの言葉を見ると「キュリオス・イエースース」。たった二つの単語をつないだだけです。
 実は、ここで「イエスは主である」という信仰告白の正反対に位置する言葉、「イエスは呪われよ」というのも、二つの単語からなっています。「アナテマ・イエースース」。「アナテマ」というのは呪いの言葉です。「アナテマ・イエースース」と「キュリオス・イエースース」。呪いと信仰、どうして、こんな極端な話になるのでしょうか。それは、主イエスの十字架を見ているからだと思います。主イエスは、十字架にかけられ、殺されたのです。私たち教会は、この十字架を救いのしるし、信仰のしるしとして掲げます。教会の屋根の上に十字架を立て、礼拝堂の正面に十字架を掲げます。けれども、本来の十字架は、このようなスマートで美しいものではありません。十字架は、ローマ帝国による処刑の道具です。十字架にかけられた犯罪人は、木の上にさらされたまま衰弱して死を迎えます。苦しみながら死を迎える。最も残酷な処刑方法でした。しかも、ユダヤ人たちは、神から与えられた律法の中に「木に掛けられた者は、神に呪われた者」(申命記21章23節)とあるのを根拠に、十字架刑に処せられた主イエスは、神の呪われた者とみなしました。だからこそ、神に呪われた者を、神の子、救い主として宣べ伝える教会を迫害したのです。

 律法を熱心に学んだユダヤ人サウロもそうでした。主の教会を荒らし回り、キリスト信者を捕らえて牢に入れていました。ところが、ダマスコ途上で、復活のキリストの声を聞き、キリストと出会ったサウロは、回心を経験します。サウロは、復活者キリストの声を聞き、聖霊なる神の導きを受けて、呪いの十字架こそが、私たちの救いであると知ったのです。キリストは、十字架にかかって、本来ならば私たちが受けるべき呪いをすべて引き受けて、私たちを律法の呪いから解放してくださった。復活のキリストと出会う前は、サウロもまた「イエスは呪われよ」と叫んでいたに違いありません。しかし、キリストと出会い、聖霊を受けたとき、「イエスは主である」との信仰に導かれたのです。呪いの十字架こそが、私たちの救いであると知らされて、主の前にひれ伏したのです。
 ユダヤ名のサウロは、まさに律法に従って、教会を迫害していました。けれども、回心を経験して、キリストを宣べ伝える者となり、やがて地中海世界を旅しながら教会を建てていくとき、ローマ帝国の市民権を持つ者としてラテン名のパウロで知られるようになります。フィリピの教会に宛てた手紙の中で、キリストを賛美する歌を引用して歌いました。「キリストは 神の形でありながら 神と等しくあることに固執しようとは思わず かえって自分を無にして 僕の形をとり 人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ へりくだって、死に至るまで それも十字架の死に至るまで 従順でした。このため、神はキリストを高く上げ あらゆる名にまさる名を お与えになりました。それは、イエスの御名によって 天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが 膝をかがめ すべての舌が 『イエス・キリストは主である』と告白して 父なる神が崇められるためです」(フィリピ2章6~11節)。

 信仰は、私たちが自分で造り出すものではありません。あるいは、私たちが、自分で頑張って勉強し、修行を重ねて勝ち取るものでもありません。聖書によれば、信仰は与えられるものです。聖霊の働きによって、聖霊の導きによって与えられるものです。もちろん、信仰を言い表すとき、信じるのは自分ですから、「私は信じます」ということを、明確に述べる必要があります。誰かが代わりに述べてくれるわけではありません。自分の言葉で、「私は信じます」と告白するのです。けれども、その信じる内容について語るとき、信仰の中身を証しするときには、主語が変わるはずです。自分を主語にして語り続けることはできなくなります。そうではなくて、神が何をしてくださったか、神がどのように私を導いてくださったか、神を主語として、私の上に現わされた神の御業を語り、また歌うことになるのです。
 神が主語になる。神を主語として語るというのは、文字通り、神を主とすることです。神が主となって、私の人生の中に働きかけていてくださることを認める、それが信仰です。かつては、自分を主語にして、自分が主人となって生きてきた人生を、神さまを主語として捉え直し、言い換えていくのです。私たちが教会に来るようになったことには、それぞれにさまざまな理由があると思います。信仰を求めたい、聖書の話を聞いてみたい、あるいは、生きることに絡みついている苦しみから救われたい、確かな人生の導きを得たい・・・。いろいろな思いを抱いて、信仰を求めて教会に来たのだと思います。けれども、今、神を礼拝する者となって、振り返って考えてみれば、実は、さまざまな出来事や出会いを通して、私たちを教会に招き、導いてくださったのは神であった。すべては、神の霊の導きと働きの中にあった、ということを知らされるのです。

 今日は、この後、お二人の方の信仰告白式が行われます。幼い日、両親の信仰と教会の祈りに支えられて、幼児洗礼を授けられたお二人です。洗礼を受けたとき、上のお子さんは6歳、下のお子さんは1歳でした。6歳であれば、多少の記憶があるかもしれませんが、1歳の赤ん坊には覚えもないでしょう。けれども、幼児洗礼を授けられることによって、神の家族に加えられました。滝野川教会の未陪餐会員として、教会員名簿の中にその名が記されました。本人の信仰が確かめられるまで、聖餐にあずかることはできませんけれども、両親と教会の祈りの中で覚えられ、子どもの礼拝に連なって、神さま、イエスさまのことを学んできました。しばらく教会から離れた時期もありましたけれど、その魂には幼い日に、主イエスの名が記されていました。そして、それぞれに成長して、人生の転機を迎えようとするとき、改めて、自分の歩みを振り返りながら、信仰告白をしたいと願いました。幼い時からずっと、神さまはこの二人に目を注ぎ、守り続けて来られました。そして、ふさわしい時を備え、信仰の言葉を与えてくださったのです。
 これこそまさに、聖霊降臨日の礼拝にふさわしい大きな祝福であると思います。聖霊が、お二人の人生に働きかけて、「イエスは主である」と告白する信仰を与えてくださいました。「イエスは主である」と告白するとき、私たちは聖霊の力強い働きの中に捕らえられており、確かに、聖霊を受けているのです。目には見えなくても、私たちは今共に、聖霊なる神の祝福の中に置かれています。これからも、聖霊の導きを受けて、教会に招かれ、信仰へと導かれる者たちが起こされて行くことを、望み見ることができるのです。  今、この礼拝において、聖霊のお働きを目の当たりにし、聖霊に導かれながら、信仰の告白を共にしつつ、感謝と賛美を献げたいと思います。主はその霊において、これからも、そしていつも、私たちと共にいてくださり、私たちを助けてくださいます。主の御名が崇められますように。アーメン。