2026年5月17日 主日礼拝説教「心の貧しい人々は幸いである」 東野 尚志 牧師
詩編 第56編2~5節
マタイによる福音書 第5章1~12節
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」。御言葉は今日、私たちに幸いを告げています。「何と幸せなことか、心の貧しい人たちよ」と、私たちに語りかけているのです。私たちが、まるで自分は世界でもっとも不幸な存在であるかのように、暗く沈み込んでいるときに、人とうまくやれずに落ち込んでいるときに、主は幸いを告げてくださいます。日々の生活に疲れ果てて、惨めな思いを抱えている私たちに、主イエスは祝福を告げてくださいます。神の祝福そのものとして、主イエスが私たちのところに来てくださり、今、私たちと共にいてくださるからです。
マタイによる福音書の第5章以下、第7章の終わりまで、ひと続きの主イエスの説教が記されています。共同訳の聖書になって、見出しが掲げられるようになりました。5章の冒頭に、「山上の説教を始める」とあります。1節には、主イエスが「山に登られた」とあります。主イエスが山に登って、山の上で弟子たちに語られた説教。そういう意味で、「山の上での説教」、「山上の説教」と呼ばれます。5章、6章、7章と、3つの章にわたって、主イエスが山の上で語られた教えがまとめられているのです。
旧約聖書の時代から、山というのは、神の御心が示される啓示の場所でした。現在、木曜日の聖書研究・祈祷会では、旧約聖書の申命記を読み始めたところですけれど、まさに、モーセの物語と響き合うところがあります。イスラエルの民をエジプトの奴隷生活から導き出したモーセは、シナイ山の上で神の言葉を聞き、それを民に伝えました。山は、神の言葉が告げられる場所なのです。しかも、この後、マタイによる福音書の第5章を先まで読み進めて参りますと、主イエスは、かつてモーセを通して与えられた律法の言葉を取り上げながら、それを、新しい戒めとして語り直して行かれます。主イエスご自身も、シナイ山でのモーセの言葉を思い起こしながら、ガリラヤの山の上で、神の言葉を語ろうとしておられるのです。
今日の箇所の直前をご覧頂きますと、第4章において、主イエスが、ガリラヤ湖のほとりで、漁をしていた4人の漁師たちを最初の弟子としてお召しになったことが記されています。それから、弟子たちと一緒にガリラヤ地方を回って、神の良い知らせ、福音を語って行かれたのです。まだ伝道は始まったばかりでしたけれど、その成果には、目を見張るものがありました。主イエスの周りにたくさんの人たちが集まって来たのです。主イエスは、あちこちの会堂で教え、天の国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気を癒して行かれました。その評判は、あっという間にその地方全体に広まりました。とりわけ病が癒されるという噂は、いつの時代にも注目を集めます。病に苦しむ人たちは、わらにもすがりたい思いでいるのです。いろいろな病気や痛みで苦しみ悩んでいた人たちが、続々と主イエスのもとにやって来たり、連れて来られたりしました。そして評判に違わず、主イエスは病に苦しむ人たちを癒して行かれたのです。ガリラヤ周辺だけでなく、遠くの町や村からも、大勢の群衆がやって来て、主イエスの後に付いて行きました。
主イエスはこの大勢の群衆に目を留めて、山に登られたとあります。山の斜面の適当な場所に腰を下ろされると、弟子たちが近寄ってきて、主イエスの側近くに座りました。すると、主は口を開いて教え始められたのです。その場面を思い描いてみてください。小高い山、その斜面の一番高いところに主イエスが座っておられます。そのすぐ足下に、弟子たちが集まって主を見上げています。さらにその外側から、少し遠巻きにするように、大勢の群衆が主イエスに注目しているのです。主イエスは何をお話なさるのだろうか。集まった者たちが、固唾をのんで見守る中、主イエスは口を開いて、教え始められました。
恐らくそこには、安心感と共に、ある種の緊張感があったと思います。私も、この説教壇に立って、説教の第一声を発するときには緊張します。それは独特な感覚です。皆さんもまた、ほんの一瞬ですけれども、最初の言葉を待って、緊張されるのではないかと思います。身構えると言ってもよいでしょう。説教の最初の言葉というのは大事なのです。説教の最初の一文が説教全体の行方を決める。神学校で学んだ説教学の先生は、そんな意味のことを言われました。だから、「おはようございます」なんて、のんきな挨拶で説教を始めてはいかん、と教わったのです。
もちろん、説教者によっては、説教冒頭で、にこやかに「おはようございます」と言って、話し始める人もいると思います。そういう呼びかけをもって、まず聞き手との関係を作る。それも、一つの方法かもしれません。しかし、私自身は神学校卒業してから37年間、説教の始めに「おはようございます」という挨拶を口にしたことは一度もないと思います。神学校の教師の教えが呪縛になっているというよりは、それが、自分自身の説教のスタイルになっているのだと思います。
さて、それならば、主イエスの説教の最初の言葉は何であったでしょうか。2節と3節に記されています。「そこで、イエスは口を開き、彼らに教えられた。『心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである』」。「心の貧しい人々は、幸いである」。これは日本語の自然な流れとしてはそうなるのでしょうが、聖書の原文、もとの言葉で見ると、「幸いだ」という言葉が最初に語られています。古い文語訳の聖書が、その雰囲気を良く伝えています。「幸いなるかな、心の貧しき者」。冒頭の「幸いだ」という言葉には、動詞がありません。つまり、語り手の思いが溢れる感嘆詞のような響きです。それを表すとすれば、「ああ、何と幸いなことでしょう、心の貧しい人々よ」という感じでしょうか。主イエスの山上の説教は、「何と幸いなことか」という、溢れるような祝福の宣言から始まったのです。神の独り子が地上にお出でになり、その御言葉を聞こうと集まった者たちに対して、開口一番、「おめでとう」とおっしゃったのです。
「おはよう」ではなくて「おめでとう」。これならよいかも知れません。主イエスの説教は、祝福の宣言から始まった。これは、私たちの心に深く刻んで良い事柄ではないでしょうか。「ああ、何と祝福されていることか」、「ああ、何と幸せなことか」、そう言われたのです。最初に言われただけではありません。この「おめでとう」「幸いだ」という言葉を、今日読んだ箇所だけで、9回も繰り返しておられます。動詞を用いない感嘆詞のような祝福の宣言は8回繰り返されているので、「八福の教え」と呼ばれることもあります。用いられている言葉は違いますけれども、ちょうど、天使がマリアのもとを訪れて、男の子が生まれるのを告げたときに、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と告げたのに似ているかもしれません。私たちの日常の生活の中に、神さまからの「おめでとう」が飛び込んで来るのです。
主イエスの山上の説教は、「幸い」を告げることから始まりました。祝福の宣言から始まりました。しかも、結びの12節では、「喜びなさい。大いに喜びなさい」と告げられています。それは、今から二千年前、ガリラヤの湖を見下ろす山の上で、弟子たちに、また群衆に向かって語られた言葉です。もとは漁師であった弟子たちは、仕事の道具であった網も舟も後に残して、家族も置いて、すべてを捨てて主イエスに付いて来ました。もともとガリラヤの貧しい漁師でしたが、今は、もう何も持っていません。取り囲んでいる群衆もまた、病気を抱えた者たち、貧しい生活に喘いでいる者たちでした。生活の苦しみや悩みを抱えながら、主イエスにすがるしかない、そんな思いで付いて来たのだと思います。そういう人たちを見つめながら、その人たちの現実を受けとめた上で、主は「あなたがたは幸いだ」と言われたのです。自分たちが幸せだなどとは、思いもしないような、不幸のどん底にいる人たちに向かって、主イエスは「幸い」を宣言されたのです。
間違えてはならないと思います。主イエスは、決して、祝福を勝ち取るための方法を教えてくださった、というのではありません。どうしたら、幸いな者になれるのか、どうすれば、大いに喜んで生きられるようになるのか、そのための秘訣や方法を教えようとしておられるのではありません。「今は不幸かもしれないけれど、こうすれば、あなたがたは幸いになれる」と言われたわけではありません。「心の貧しい人々は、幸いである」と言われたのは、幸いになりたいなら、心の貧しい者になれ、ということではないのです。心の貧しさ、それが幸いを得るための条件だというのではありません。主イエスの言葉、幸いの宣言をよく理解するためにも、私たちは、「心が貧しい」というのはどういうことなのか、その意味を考える必要があるのだと思います。
普通に考えれば、「心が貧しい」という言葉は、決してほめ言葉として通用するものではありません。例えば人間関係において、「あの人は心が貧しい」と言われる場合、心が狭い、愛がない、がめつい、他人のことを考えずに、自分のことばかり考えている、そういう人のことを批判的に言い表す言葉だと理解されます。そんな人たちが祝福されるというのは、納得がいかないわけです。聖書解釈の歴史の中では、主イエスの言葉を、納得できる言葉として受けとめたいと思うあまり、「心が貧しい」というのが、「謙遜な、へりくだった人」、「欲のない人」という意味で、解釈された時代もあります。そうすれば、「謙遜な人々は幸いだ」ということになって、なるほど、と納得できるかもしれません。それなら分かる、と言いたくなります。しかし、そうなると、謙遜というのは一つの美徳とされますから、謙遜を身に着けることによって、神さまの祝福にあずかろう、と考えるようになってしまいます。謙遜である、ということが、神さまの祝福を得るための拠り所になり、自分の誇りになるかもしれません。それは、心が貧しいというよりは、むしろ、心豊かに生きる道になってしまいます。
ここで、主イエスが口にされた「貧しい」という言葉は、何も持っていない、無一物だということを意味するとても強い言葉です。お金がなくて生活に余裕がないということを意味する言葉は別にあります。そうではなくて、自分自身には何もない、だから、自分には頼りになるようなもの、誇りうるようなものは何もない、ということを意味しているのです。しかも、心が貧しいというのですから、自分の心の中には、自分の拠り所になるような確かなものが何もないということになります。私たちは、生活がどんなに貧しくても、あるいは、病気を抱えていたり、体が不自由であったりして、日々暮らしていくことに大きな困難や苦痛が伴うとしても、心が豊かであれば、耐えていくことができると考えるのではないでしょうか。ところが、「心の貧しい人々」というのは、そういう心の豊かさがない人です。自分の中に、自分の支えとなるような拠り所、これがあるから大丈夫、と思えるような誇るべきものが何もないということを意味するのです。
私たちが今、礼拝で用いている聖書協会共同訳の聖書の前に、新共同訳という聖書がありました。私たちの教会では、新共同訳を飛ばして、口語訳から聖書協会共同訳に切り替えたのですけれど、なぜ、新共同訳というのか、疑問に思われたことはないでしょうか。新共同訳聖書が世に出たのは、1987年ですから、もう今から39年前のことになります。しかし、実は、新共同訳聖書の前に、共同訳という聖書が出たのです。カトリック教会とプロテスタント教会が共同で訳した一番最初の聖書でした。1978年に新約聖書が出たのですけれど、これはあまり普及しませんでした。固有名詞などは聖書の原語の発音に忠実にということで、イエスさまは「イエスス」、マタイは「マタイオス」、ヨハネは「ヨハンネス」というので、馴染まなかったと思われます。けれども、この共同訳聖書は、画期的な翻訳であったと言ってよいと思います。大胆に意訳をしたのです。つまり、時代の違いや文化の違いで読んでも分かりにくい言葉を、意味の通る言葉に直しました。これは、当然、解釈が入りますから、議論の分かれるところです。結局、教会には受け入れられずに、わずか9年後に新共同訳聖書が出ることになりました。
実は、私が洗礼を受けたのは今から45年前、1981年のイースターでした。共同訳が出て3年目の年です。受洗のお祝いとして、大阪教会からいただいたのが、共同訳の聖書でした。今でも大事に持っています。その聖書は、大胆に分かる言葉に意訳していると言いましたが、今日のところをこんなふうに訳したのです。「心の貧しい人々」というのでは、意味が通じないと判断したのです。「ただ神により頼む人々は、幸いだ」。心の貧しい人というのは、自分には何もない、自分には頼れるもの、誇れるものは何もない、その自分が生きていくためには、神さまにより頼むしかない、そういう自分の霊的な貧しさを知っている人たちということ。まさに、主イエスのもとに集まって来た人たちは、そういう貧しさを抱えた人たちだったと言って良いのだと思います。
私たちも同じではないでしょうか。私たちに誇りうるものがあるでしょうか。豊かな生活、学問上の功績、それは、人の前では一時的に誇ることができたとしても、すべては過ぎ去るものです。私たちが生きている間は、多少なりとも頼りになったとしても、私たちの死ぬ時、そんなものは何の頼りにも誇りにもなりません。つまり、神の前では無に等しいということです。自分自身の中には何もない。誇れると思っていたものも、年齢を重ねていくうちに、ひとつずつ剥ぎ取られて行きます。仕事を誇りにしていた人ほど、リタイアした後、厳しい現実に直面することになるのかもしれません。頼れるものは何もない、無一物、ゼロならまだしも、マイナスではないのか。自分自身の貧しさを突きつけられる。そのとき、私たちには何もなくても、いやむしろ、罪と死の力に引きずられて、マイナスに追い込まれているとしても、その私たちのところに、イエスさまが来てくださり、私たちの貧しさを祝福してくださるのです。
ある人が、心が貧しいというのは、自分自身に絶望している人のことだ、と説明しています。自分の中に何の良いものも見いだせない。自分の力に頼ることができない。自分の惨めさを知っている人のことだと言うのです。自分の弱さと貧しさと悲しみと惨めさを持て余して、どうすることもできない絶望の中にある人間の姿がここにあらわれているのです。神から離れ、神なしに生きようとしてきた人間が、自分の力で幸いを造り出すことができない惨めさをさらしているのです。それは一人ひとりの人間の問題にとどまりません。この悲惨さにおいてこそ、社会の破れと悩みが現れているといってもよいのではないでしょうか。自分の今の幸せが、誰かの不幸の上に築かれているような不公平な社会。飽食と飢餓が同時に起こる時代です。そのような現実に耐えられず、私たちが少しでもいい人になろうと努め、人と人との心の絆にあこがれを抱きながら、心の豊かさを求めようとするとき、聖書はむしろ、私たちの足下の惨めさをえぐり出すのです。あり地獄のように、もがいてももがいてもそこへ落ちてくる、底なし沼のような人間の惨めさを容赦なくえぐり出すのです。その惨めな現実を、ごかますことなく見つめさせます。なぜでしょうか。まさにこの私たちの惨めさの中に、主イエスが来られたからです。私たちの貧しさの中にこそ、主イエスが来られたからです。私たちの悲しみの現実の中に主は来られ、私たちの惨めさの中に、主は宿ってくださいました。
「心の貧しい人々は、幸いである」。これは、主イエスだけが語ることのできる言葉です。私たちの貧しさを引き受けてくださった方だけが語りうる言葉です。人間の悲しみと惨めさ、とりわけ罪の惨めさ、死の悲しみをその身に背負ってくださった方、豊かであったのに、私たちのために貧しくなられた主だけが語りうる言葉です。ただ神にのみより頼り、十字架への道を選び取り、私たちのためにその命まで捨てて、主イエスは貧しさの極みを味わわれました。主の十字架こそは、貧しさの極みだと言って良いと思います。しかし、神は、御子イエスを死人の中から復活させて、神の愛による支配を貫いてくださいました。復活された主イエスにおいて、天の国、神の支配が私たちのところに来ているのです。
私たちが自分の惨めさ、無力さにうちひしがれている、まさにそのところで、主イエス・キリストは私たちと出会ってくださいます。そして、私たちに祝福を告げてくださるのです。そして、主が幸いを宣言なさるとき、そこに幸いが造られます。私たちが自分自身とこの世界の有り様に絶望してため息をつく現実のただ中に、主に従い行く幸いな道を造り出してくださるのです。神の子として、天の国の住民として、神の民の一員となって、主イエスとひとつに結ばれ、神の祝福を生きる道が拓かれています。空っぽの器に、主を愛と恵みを満たしていただきましょう。そして、その恵みを、私たちの周りにいる人たちと分かち合って行きたいと願います。

