2026年5月10日 主日礼拝説教「狼の中の子羊たち」 東野 ひかり牧師
ルカによる福音書 第10章1~12節
イザヤ書 第52章7~10節
「その後、主はほかに七十二人を任命し、ご自分が行こうとするすべての町や村に二人ずつ先にお遣わしになった。」今朝与えられましたみ言葉は、このように始まりました。イエスさまは、72人の弟子たちをご自分の使者として任命なさって、ご自分が行こうとしておられるすべての町や村に、「二人ずつ先に」、イエスさまに先駆けてお遣わしになったと、ルカによる福音書は伝えます。そしてそのときに、イエスさまはこの72人に向けて、壮行の言葉、はなむけのお言葉をお語りになりました。今日の箇所に改めて題をつけるとすれば、「主イエスの使者たる者の心得」とでも言えるでしょうか。主はお心を尽くして、この心得を72人の人たちにお語りになって、72人の弟子たちを送り出されるのです。今朝は、この72人を送り出すイエスさまのお姿を共に思い描きながら、主イエスが語られたお言葉を、ご一緒に思い巡らしてみたいと思います。
ところで今日は母の日です。母の日が教会発祥であることは、皆さまもご存知と思います。多くの教会で大切に覚えられています。滝野川教会でももう何年になるのでしょう、青年会が毎年「母の日の集い」を開いてくださいます。母の日、ということを思いまして、母の日にちなんだ幾つかの文章を読みました。その中に「母はいつも玄関で自分を見送ってくれた」という思い出を綴った文章がありました。それを読みながら、親というものはいつも子どもの後ろ姿を見送り続けているということを思いました。学校に送り出すとき、友だちと遊びに行くというとき、親はいつも「行ってらっしゃい」と送り出し、その後ろ姿を見送ります。中学・高校の受験の日、大学受験の日、様々な思いで、親は子どもの後ろ姿を見送ります。海外に留学するともなれば、空港まで見送りに行って、子どもが乗った飛行機が飛び立つところまで見送る、そんな経験をなさった方もおられるかもしれません。親というものは、いつも子どもの後ろ姿を見送っているような気がします。時には一緒について行きたいという気持ちをぐっとこらえて、その後ろ姿を見送るということもあるでしょう。そしてついに、子どもが親元を離れて家を出ていくときには、何とも言えない寂しさとともに、子どもの後ろ姿を見送ります。親が子どもの後ろ姿を見送るとき、いつもそこには、子どもを思う愛があり、子どもの無事を祈る祈りがあります。私自身もそのようにして親に見送られながら、親の祈りに包まれ支えられながら歩んできたことを、思い起こさせられます。
今日の聖書の箇所は、イエスさまが、新たに任命した72人の弟子たちを見送るという場面です。イエスさまは、ご自分の「行こうとされるすべての町や村」へ「先に」、72人の人たちを2人一組にしてお遣わしになりました。イエスさまは、後から行かれるおつもりなのです。イエスさまはこの72人36組の弟子たちの後ろ姿を見送られたのです。この72人の弟子たちは、自分たちの背中にイエスさまの愛のまなざしを受けながら、イエスさまの祈りを受けながら、イエスさまの使者として、そして神の国の働き手として、あちらの町こちらの村へと、散らされて行きました。
主イエスというお方は、「私に従いなさい」「私の後について来なさい」、そうおっしゃって、ご自分の背中をお見せになって、後ろについてくるようにと弟子たちを召し出し、先立って進んで行かれるお方です。「私の背中を見て、後ろからついて来なさい」と、イエスさまはいつも弟子たちの前を歩み、弟子たちを導いて行かれました。けれどそのイエスさまが、ここでは弟子たちの後ろに回って、弟子たちの背中を見つめて送り出しておられるのです。弟子たちは、イエスさまによって背中を押されるようにして送り出されているのです。「さあ行きなさい」と。主イエスは、主に従う弟子たちを、主がなさったのと同じ神の国の働きへと遣わされるお方でもあります。伝道のために、神の国の働き人として、遣わされます。今日のところのすぐ前の第9章60節で、主イエスはすでにおっしゃいました。「あなたは行って、神の国を告げ知らせなさい。」 主イエスは私たちの前を歩まれるお方です。私たちの「信仰の導き手」(ヘブライ12:2)です。そして同時に、私たちの後ろに立って、私たちの背中を押して、「行きなさい」(3節)と、私たちを送り出し、神の国のために働くようにと遣わすお方でもあるのです。
今日読みました旧約聖書のイザヤ書第52章は、「平和を告げ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ」「あなたの神は王となった」と告げるその使者の足はなんと美しいことか、と歌っていました。「神が王となられた、神のご支配が実現した」そう告げる、その使い・使者の足はなんと美しいことかと、喜びの叫びが響いています。そして12節にはこうあるのです。主なる神がこの平和を告げる使者たちの「前を行き、……しんがりとなる。」「しんがり」は、一番後ろで追い迫ってくる敵の攻撃を防ぐ人です。今NHKの大河ドラマで戦国時代のことをやっていますけれど、後の豊臣秀吉となる人が、危険な戦のしんがりを買って出て、自らの命を賭して主君織田信長を守り切った、という話がありました。主なる神さまは、使者たちの前を行き、そしてしんがりとなって、平和を告げるご自分の使者たちを、またご自分の民を、身を挺してお守りになる、そういう方なのです。
主イエスのお姿は、この父なる神さまのお姿と重なります。主は先立って道を歩まれ、「私に従いなさい」と招き、その背中を見せて弟子たちを導かれます。そしてまた、弟子たちの後ろに回り、「さあ行きなさい」とその背中を押して、主のお使いとして神の国の仕事をするようにと送り出すのです。愛のまなざしを注ぎながら、弟子たちの背中を見つめて祈りながら。そして、しんがりとなってくださって、身を挺して送り出した者たちの最後尾を守ってくださる。弟子たちの働きの後始末をもつけてくださるのです。私たちの主はそのようなお方であることを、この72人を派遣する主イエスのお姿は表しています。
この「七十二人」というのは、どういう人たちなのでしょう。もしかすると皆さまの中には「いったいいつの間にイエスさまのお弟子は72人に増えたのか、12人ではなかったのか」というように思っておられる方もあるかもしれません。イエスさまに従っていた人たちは、よく知られている12人の弟子たち以外にも、女性たちも含めて、他にも大勢いたのです。
この「七十二人」について、ルカ福音書は「主はほかに七十二人を任命し」と記しています。この「ほかに」というのは、第9章の始めのところで、イエスさまが特別に呼び集め、主ご自身の力と権能をお与えになって派遣された12人の弟子たち、「12使徒」とも呼ばれる12人の弟子たちとは別に、12人の「ほかに」、ということと理解できます。12人の使徒たちがイエスさまの力を授けられて伝道へと派遣されたということは、マタイやマルコの福音書も記しています。けれどもルカ福音書は、その12人の派遣とは別に、「ほかに」、この72人の弟子たちの派遣の記事を大切にここに記しました。ルカは、イエスさまに特別に選ばれた12人・12使徒だけではなくて、イエスさまに従っていた72人の無名の弟子たちもまた、12人の使徒たちと同じように、神の国の働き手としてイエスさまに用いられたことを、大切に記録したのです。
多くの信仰者たちが、この72人を自分たちのこととして読んできました。ここに書かれているのは、使徒と呼ばれるような特別な人のことではない、それはまさしく自分たちのことだと、多くの信仰者たちが、ここに自分の姿があると、理解したのです。私たちもそのようにここを読むことができます。ここには私たちの姿が描かれているのです。私たちもまたイエスさまに呼ばれました。イエスさまに従う弟子とされました。何か特別な力を与えられているわけではありません。ただイエスさまが呼んでくださった、そしてその呼びかけに応えてイエスさまを信じて従っている、それだけの者たちです。けれどそのような72人をも、私たちをも、イエスさまは神の国の働き人として、お遣わしになるのです。
この「七十二人」という数が意味することについては様々な理解があるようです。その中で多くの人が指摘するのは、これは創世記の洪水物語を背景に持つ、当時の人々が考えた世界全体の民族の数だということです。創世記第10章には、洪水の後に全世界に広がっていったノアの子孫の系図が記されています。そこに記されている諸民族の数を数えると70ないしは72になるというのです。つまり、主イエスがここで72人を任命して派遣された「すべての町や村」というのは、まさに主イエスご自身が「行こうと」しておられた全世界の「すべての」町や村を意味している、ということです。預言者イザヤは、「地の果てのすべての者が、私たちの神の救いを見る」(イザヤ52:10)と告げました。ルカによる福音書は、「地の果て」にまで至る、すべての民・すべての人を救おうとする神さまのお働き、「収穫の主」(2節)のお働きを、主イエスがここに、この72人に託してお始めになったということを、ここに大切に書き記したのです。
この72人の派遣の出来事は、今この日本に生きる私たちにまでつながるものだと言えます。そしてさらに言えば、今ここに、イエスさまに召し出されてイエスさまを信じ、イエスさまに従う弟子として教会に生きている私たちは、この72人が託された、主イエスの使者の働き・地の果てにまで至る神さまの救いのお働きを引き継ぐ者たちでもあるのです。主イエスは、この72人を全世界に向けて、まさに「すべての町や村に」お遣わしになります。地の果てに至るまで、神の国の福音を告げ知らせようとなさっておられるのです。平和の王のご支配を告げ広めようとなさっておられるのです。そしてその平和の使者たちに、心を尽くして、その使者たちの「心得」を、「伝道の心得」を語られたのです。
先ほどは、親が子どもを見送るときの話をいたしました。親が子どもを「行ってらっしゃい」と送り出すとき、親が言うことは大抵決まっています。「持ち物確認」をするのです。「忘れ物はない?あれは持った?これは持った?ちゃんと持ったね。よし、行ってらっしゃい。」 大抵の親は、そんなふうに子どもを送り出します。イエスさまも、72人を送り出すときに、言わば「持ち物確認」をなさいました。けれどもイエスさまの持ち物確認は「あれは持った?これは持った?」ではなく、「あれも持つな、これも持つな」でした。「財布も袋も履物も持って行くな。」(4節) さらに「誰にも道で挨拶をするな」とも言われました。3節では「私があなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り込むようなものである」とおっしゃっています。狼の中に小羊を送り込むようなそんな危険な旅に、愛する弟子たちを遣わす、というのであれば、「あれもこれも持って行け、道で出会った人には誰にでも愛想よくにこやかに挨拶をして仲良くなっておきなさい」とでも言いそうなものですけれども、主イエスが言われたのは「何も持つな、身を護るための何も持つな、履物さえ履くな」ということでした。履物がなければ狼から逃げるときに早く走れなくて困ってしまうでしょうに、と思います。おまけに「道で誰にも挨拶するな」では、小羊たちは守ってくれる味方も得られないではないか、と思います。けれども、それでよいのだと主は言われるのです。主イエスの使者たち・小羊たちは、ただ、羊飼いである主イエスに頼り、父なる神に頼り、信頼して進んで行けばよい、ということです。主の使者たちの心得として、主イエスは、必要なものを全て備えてくださる父なる神への信頼を教えておられるのです。
それでも、「私があなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り込むようなものである」と聞きますと、私たちは不安を掻き立てられます。弟子たち・私たちが遣わされて行くのは、歓迎してくれる心優しいあたたかい人たちの中ではなく、「狼の中」だというのです。「狼」は複数形ですから「狼の群れ」と訳す聖書もあります。そんな危険なところへ、イエスさまは、弟子たちを、私たちをお遣わしになるのか、小羊が狼の群れの中に入れられたら咬み殺されるではないか、そう思います。しかし主は、この危険な旅に、小羊を一匹だけで送り出したのではありませんでした。72人を二人一組にして送り出されました。
二人一組、そこにも様々な意味があると言われますが、今日私たちが覚えたいのは、今年度の私たちの教会の年間聖句として掲げられているマタイ福音書の言葉です。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」(マタイ18:20) 二人一組で遣わされる小羊たちは、二人で共に主の名によって祈ることができる二人組です。そこには主イエスが必ず共にいてくださると約束されています。この二人組の小羊たちは、共に祈りながら進んで行きます。そしてそこに、主イエスがいつも共にいてくださるのです。「小羊」は弱い者です。しかも主が送り出す小羊たちは、身を護るものを何も持たないのです。弱小の二人組です。けれどもこの二人はいつも共に祈ります。そこには、羊飼いである主イエスがいつも共にいてくださるのです。そうであれば、この二人組は最強の二人組と言ってよいのです。
小羊たちが送り込まれる「狼の群れ」は、私たちの周りのこの世界を指しています。そこには、私たちの親しい人たちが生きています。私たちの愛する人たちが生きています。それを「狼の群れ」と言うのはちょっとひどいのではないか、そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。けれども、私たちの生きるこの世界に、主の使いである小羊たちが送り込まれ、そこで小羊たちが精一杯に主に倣って「神の国は近づいた」、平和の神のご支配はもうここに来ている、始まっていると告げるとき、そこに、神の国・神のご支配を受け入れようとしない強情な狼たちの姿があらわになってしまうのではないでしょうか。小羊たちが遣わされるところが、狼たちの群れとなってしまうのです。
「狼の中」というのは、単にこの世は弱肉強食の残酷で厳しく危険な世界だという意味だけではないでしょう。そこには神の支配に強情に反逆する世界がある、ということを言っているのではないでしょうか。まことの王・平和の王のご支配を受け入れない世界は、人間らしさを失った野獣の世界、狼たちの世界だと、そういう意味で、主は「狼の中へ」と言われたのではないかと思うのです。
宗教改革者のカルヴァンは、人生の目的と人間の最上の幸福を問うて言いました。「人生の目的は、神を知ること。人間の最上の幸福もそれと同じ」だと。神を知ること、それによって人間は初めて、本当に人間になるのだと言いました。そして、「もし神を知らないのであれば、人間は獣にも劣る、獣よりも不幸だ」と言いました。小羊たちが「神の国・神の支配」を告げるとき、その世界は、神を知らず、神を拒む世界であること、獣と化してしまっている世界であることが暴かれてしまうのです。私たちの周りにも、残念ながら、強情に神の支配を受けいようとしない人たちがいます。そしてそのような私たちの周りの人々を見るとき、私たち自身も、かつては神を知らず、神の支配など受け入れようともしない、強情な狼たちのひとりであったことを思わないわけにはいきません。
小羊たちはしかし、その狼の群れの中へと送り込まれて、そこで共に祈りながらひたすら「平和」を告げるようにと、その心得を授けられます。「誰にも道で挨拶をするな」と主が言われた、この「挨拶」というのは、中東でなされるとても長い、形式ばった挨拶を指すようです。そういう挨拶ではなくて、平和を告げる平和の挨拶をしなさいと主イエスは言われました。「この家に平和があるように。」 主はこの平和の挨拶を、口移しに教えてくださいました。この平和の挨拶は、「神の平和のご支配があなたの上にあるように」という挨拶です。こう挨拶することで、「神の国・神の恵みのご支配・神の平和のご支配が、今あなたと共にある」と告げているのです。そして、あなたもこの神のご支配を受け入れてほしいと告げているのです。
少し前のことですが、木曜日の祈祷会で、ある方が祈りの中でこういうことを言われました。「私たちは、支配という言葉が好きではありません。誰かに支配されるということを好みません。」それを聞きながら、本当にその通りだと思わされました。自分もそうだと思いました。私たち自身も私たちの周りの世界も、誰かに支配されることを好まないのです。私たち人間は、神のご支配を受けることさえ、喜べないのではないでしょうか。どこまでも自分が王さまでいたいからです。誰にも支配されたくない、自分が支配したいのです。しかしその貪欲が、人間を狼にしてしまいます。人間ではなく、獣にしてしまいます。その獣の世界の中で、そういう狼の群れの中で、平和を告げる挨拶をしなさいと、主イエスは小羊たちにその挨拶を口移しに教えてくださったのです。小羊たちは、実に力のない、小さい、弱い者たちです。狼の群れの中に入れられたら、食われてしまうよりほかないような弱い者たちですけれども、主イエスが授けてくださった平和の挨拶を、その狼の群れの中で、ただひたすらに、一所懸命に告げるのです。
主イエスは、弟子たち・私たちに、何も持たない弱い小羊であることを求められます。強いライオンとなって、武器を取り、戦うのではなくて、何の戦う手だて持たない小羊として、ただひたすらに平和の挨拶を告げることを求められるのです。主イエスの使者の仕事は、それだけなのです。神の平和のご支配がここに来ているということを告げる。「この家に平和があるように。」ここに、この家に、神の平和のご支配が来ている。小羊たちはこの平和の挨拶を告げ続けます。どんなに拒まれても、いじめられても、挨拶の言葉ひとつ受け入れられなくても、ただひたすら、神の平和の支配を告げ続ける。
その小羊たちに、主はこうも言われました。もしその挨拶を拒まれたならば、いつまでもそこにとまっていなくてもよい、足の埃を払って去ればよい、と言われました。そしてそのときに、こう言って去ればよいとおっしゃいました。「しかし神の国が近づいたことは知っておけ。」 この主イエスの言葉は、ルカによる福音書だけが伝える主の言葉です。弱い小羊には似合わないような、実に強い、堂々とした言葉を主イエスは小羊たちに与えてくださいました。「しかし神の国が近づいたことは、神の平和のご支配がもう来ていることは、知っておけ。」 なぜ主イエスは、このような言葉をお与えくださったのでしょう。それは、まことの王・平和の君である主イエスご自身が、後から来てくださるからです。しんがりをつとめてくださるからです。後のこと、つまり拒んだ町のことも拒んだ家のことも拒んだ人々のことも、主が引き受けてくださる、ということです。後から、平和の王主イエスが、来られるのです。ですから、小羊たちは堂々と言うことができる。「しかし神の国が近づいたことは知っておけ。」
私たちは、この世界に、私たちの周りの人々のところに、主イエスによって遣わされている小羊たちです。弱い者です。何も持ちません。けれど共に祈りながら、かつて私たちもその中のひとりであった狼たちの中で、ひたすらに平和の挨拶を告げます。「神の平和のご支配が、愛の支配が、恵みの支配が、ここに来ています。私たちの平和の王は、私たちと共にいるのです」と。主イエスの愛のまなざしを背中に浴びながら、主イエスの祈りを受けながら、そしてすべてを主に委ねながら、後始末までも主に委ねながら、力強く「神の国が近づいたことは知っておけ」と、喜びの知らせを告げるのです。教会は、この世にあって、平和の挨拶を告げ続け、神の国の働きをし続ける、小羊たちの群れなのです。

