2026年5月3日 主日礼拝説教「主の呼びかけに応える」 東野 尚志 牧師

イザヤ書 第6章1~8節
マタイによる福音書 第4章18~25節

 「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。今から二千年前、主イエスは、ガリラヤの漁師たちをお召しになりました。そのとき以来、二千年にわたって、主は、ご自分に従う弟子たちを、召し続けておられます。「私に付いて来なさい」。その恵みの中へ、御業の中へ、主は私たちすべてを召しておられるのです。

 先ほど朗読した福音書の中に描かれているのは、最初の召命の出来事です。二千年前、パレスティナの北の方、ガリラヤ湖のほとりで起こった、最初の招きの記録です。イエスさまから声をかけられた4人の漁師たちが、主イエスにとって、最初の弟子となりました。この召命の出来事は、あまりにも素朴で単純です。主がお召しになる。すると召された者は、即座に、すべてを捨てて主に従い、付いて行きました。ある者は、持っていた網を捨てました。それは漁師としての仕事にとっては無くてならないものでした。ただちに経済的な支えを失うことを意味します。またある者は、舟と父親を後に残して、主イエスに従って行きました。家族の絆が何よりも大切にされていた時代のことです。しかし何のためらいもなく、父親と父から受け継いだ仕事を後に残して、主イエスに付いて行ったのです。
 この時以来、主イエスの召しを受けた者たちは、あるいは財産を捨て、家を捨て、家族を捨てて、主イエスに従って行きました。主イエスに従うということは、その最初の時から、「捨てる」ということと深く結びついた決断でした。後に、主イエスは言われます。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」(16章24節)。財産や家だけではなくて、究極的には、自分自身を捨てるということが求められているのです。

 私たちの生きているこの時代は、「自分を捨てる」とか「人に従う」ということが、あまり歓迎されない時代なのではないかと思うことがあります。私たちは、自分自身を確立することが大事だと教育されてきました。「自分探し」という言葉が流行ったこともありました。もしかすると「自分を捨てて、人に従う」という生き方の中に、いつか来た道への逆戻りを警戒する人がいるかもしれません。私たちは、体制に順応して生きることの危うさを知っています。すぐれた指導者に信頼しきって、自分の判断を停止して従うことは、ある意味でとても楽なことです。けれども、それこそが、この世界を悲惨な戦争へと巻き込んで行く原因のひとつになりました。歴史は繰り返す、と言われます。独裁者のもとで繰り広げられた、悲惨な歴史を思い起こして、同じ間違いを繰り返さないようにしなければならないのだと思います。
 しかしながら、現実には、今、世界中に相次いで、小さなヒトラーが現れて来ているのではないでしょうか。国家の指導者だけではありません。SNSを用いて、誰でも簡単に、情報を発信することができる時代になりました。フォロワーの数を競い合っています。何とかして、自分の意見に従う者の数を増やそうとします。スマホでは、一つの情報に関心を示すと、似たような情報が次々に表示されるようになります。そういうアルゴリズムが組み込まれているのだそうです。気づかないうちに、洗脳されてしまいそうで怖くなります。一人ひとりがしっかりと目覚めて、自分自身の意見を持つこと、自分の権利を守ること、自立的な精神を持って生きていくことが大切だと言われるのです。

 確かに、私たちは歴史から学ばなければならないとしても、主イエスの呼びかけの言葉は、決して古びることがありません。いやむしろ、こういう時代であるからこそ、新しい新鮮な響きを持って、私たちに迫ってくると言ってよいのではないかと思います。聖書は、素っ気ないと言ってもよいほどに、淡々と記して行きます。一切の贅肉をそぎ落としたかのように、出来事の中心を際だたせています。主イエスと弟子たちとの出会いを、くっきりと描き出すのです。主イエスは、湖で網を打っているペトロとその兄弟アンデレとを招かれました。「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。すると彼らは、何も言わず、すぐに網を捨てて主イエスに従ったのです。「すぐに」です。そこには、人間的な迷いや、ためらいの入り込む余地はありません。
 ヤコブとその兄弟ヨハネの場合も基本的に同様です。主イエスが二人をお呼びになると、この二人もまた、すぐに、舟と父親とを残して主イエスに従いました。いろんな説明を加えずに単純に描かれているだけに、この物語を読んだ者は、誰でも自分自身に問うことになります。果たして自分はどうであろうか。今この時、私たちは、共に礼拝に連なっています。その理由や動機はそれぞれです。自分で望んで来たわけではないという人もいるでしょう。その表面的な理由はさまざまであっても、その根底には、主イエスによる招きがあります。主イエスが私たち一人ひとりを召しておられるのです。いろいろな手段やきっかけを通して、私たちは今、主イエスのもとに集められました。私たちがもしも、ペトロであり、アンデレであったらどうでしょうか。ヨハネやヤコブの立場であったらどうでしょうか。果たしてすべてを捨てて、「すぐに」主イエスの後に付いて行くことができるでしょうか。話の筋が単純であるだけに、私たちは鋭く問われることになります。

 私が伝道者となることを志したときに、また今牧師であり続けている中でも、大きな問いとして意識させられる人物がいます。12世紀から13世紀にかけて生きたアッシジのフランチェスコという人です。ご存じの方も多いと思います。イタリアのアッシジの裕福な織物商の家に生まれて、若い頃は放蕩三昧を経験しました。しかし、ある戦争に参加して捕虜になったことをきっかけに、病を得て回心に至ります。崩れかけたサン・ダミアーノの礼拝堂の中で、十字架のイエス像の前で祈るうち、不思議な幻の中で、主の召しを受けます。主イエスはフランチェスコに言われた。「私の教会が崩れかけている。建て直しなさい」。この時から、フランチェスコは父親の仕事も財産も一切を捨てて、文字通り裸一貫で、サン・ダミアーノを手始めとして各地の教会堂の修復に当たるようになりました。石をひとつずつ積み上げていくような地道な努力を重ねていったのです。
 はじめは頭がおかしくなったと思われて、誰も相手にしませんでした。けれども、次第に、その献身的な姿勢に共感を覚えた若者たちが集まりはじめ、やがてはあのフランシスコ会という修道会が生まれるまでになるのです。時は、中世カトリック教会の爛熟期でした。最も権勢を誇った、教皇インノケンティウス3世の時代です。教会が力を誇る一方で、その内部的な堕落が進んだ時代でもあります。そんな中にあって、フランチェスコは、まさに、教会を建て直したのです。崩れた会堂の石を組むという地道な作業を通して、まさに、中世の教会そのものを霊的な意味でも建て直したのです。気負って改革に着手したのでもなければ、最初から自分の意に叶う修道会を作ろうとしたのでもありません。むしろ、修道会が大きくなることに戸惑いをさえ覚え、真剣に悩んだ人です。ただひたすら、主イエスを慕い、主イエスに従うことを貫いて、ついには、主イエスが十字架で受けられた傷と同じ聖痕を身に受けたと言われます。

 私は今から45年前、大学2年の春、イースターの礼拝において、大阪教会で洗礼を受けました。同時に教会学校の教師をするようになりました。実は、その年の教会学校の夏期学校のテーマが、このアッシジのフランチェスコだったのです。そのとき初めて、この人の存在を知りました。教会学校の教師ですから、夏期学校の準備のために何冊もフランチェスコの伝記を読みました。ヨルゲンセンのものから、エングルベール、下村寅太郎、カザンツァキにいたるまで、何冊も読みながら、すっかり一夏フランチェスコの虜になって過ごしました。その生き方にあこがれました。大学を卒業して東京神学大学に編入学するときにも、この人のことが頭にありました。一切の持ち物を捨てて、家族の絆さえ断ちきって、全く自由に主イエスに従い抜いたその身軽さに憧れました。手と足に、主イエスの十字架の傷と同じ傷跡を受けるほどに、主イエスとの深い交わりに生きた、その姿に憧れたのです。
 神学大学の寮に入るとき、たくさんの書籍と好きだったステレオその他をすべて処分して、布団袋と身の回りのものを詰めた2、3箱の段ボール箱だけで新しい生活を始めました。けれども、だんだん持ち物が増えていくのです。神学の勉強のための書籍も増えていきました。引っ越しをするのがおっくうになるくらい書物が増え、教会に赴任して、家庭を持つようになると、家具も増えました。牧師の働きを続ける中で、書物はさらに増えて、牧師館の中には収まりきらず、牧師室や牧師室前の戸棚の中にも並べています。自分の体重も増えました。数年先には、最後の引っ越しをすることになるかもしれませんが、大変な思いをすることは目に見えています。そういう生活をしながら、アッシジのフランチェスコのことを思い起こすのです。主イエスに従うための身軽さを思うのです。

 召命とか献身という言葉を使うと、それは、いわゆる伝道者だけのことのように思われるかも知れません。しかし、そうではないと私は思います。主イエスに従うキリスト者は、すべて主の召しを受けた者たちです。献金は私たちの献身のしるしと言われるように、すべてのキリスト者が献身者なのです。二千年前、ガリラヤの湖畔で響いたと同じように、今日も主の招きの声が聞こえます。「私に付いて来なさい」。私たちはその後に付き従うことができるでしょうか。ペトロのようにアンデレのように、あるいはヤコブのようにヨハネのように、あるいはフランチェスコのように。付いて行きたいのは山々です。しかし、私には仕事がある。家族もある。それら一切を捨てて、主イエスに付いて行くことができるでしょうか。
 真剣に問えば問うほど、身軽になるというのは、決して簡単なことではないということを思い知らされます。結局のところ、福音書に記された召命の物語は、社会的な責任もあり、常識もある私たちには縁遠い物語なのでしょうか。むしろ、一部の非常識な新興宗教が、純粋な若者たちを取り込んで、社会問題を引き起こして来たことを、私たちは知っています。親も捨て学校も捨て、教祖に従って修行に走った若者たちが、反社会的な行動を起こして世間を混乱させたことがありました。ただ無批判に付いて行くというのは危険なことではないか。もっと目を開いて、よく確かめなくてはならない。この世の生活を犠牲にすることはできないから、付かず離れずくらいがちょうど良いのだ、と考えたりします。あるいは、教会生活がしんどくなってきたら、教会に行かなければ良いだけのことだ、と思ったりします。

 結局のところ、私たちはいろいろな言い訳をしてしまうのではないでしょうか。主イエスは何も、現実にすべてを捨てて付いて行くことを求めておられるわけではなくて、弟子の理想像を掲げておられるだけではないか。そう考えて少し自分を慰めます。私たちはこの物語から、主の召しに答える具体的な行動の仕方を学ぶというのではなくて、その精神を学び取ることが大事なのではないか。イエスに付いて行くというのは、何も本当にすべてを捨てて付いて行くことではなくても、その教えを聞いて、戒めを守って、倫理的な生活をすればよいのではないか。そして少しでも自分を清めて、理想的な弟子の姿に近づいて行けばよいのだ。主イエスの要求の過激さは、しばしば私たちを惑わせ、いろんな言い訳を考えさせるのです。
 中世のカトリック教会においては、文字通りすべてを捨てる修道院の生活を制度化することによって、修道士や修道女と一般の信徒の生活の間に線を引きました。二重の倫理を設けたのです。主イエスの過激な言葉は、修道士や修道女のためのものであって、一般の信徒はそこまでできなくて良いと考えました。プロテスタント教会においては、職業召命感という言い方で、むしろ世俗的な職業においても神の召しに従って生きることができると教えました。まじめに働くことによって得られる富の蓄積もまた神の祝福のしるしとして、経済的な生活を認めるのです。それも大事なことだと思います。けれども、そうやって、何か理屈をつけて、自分の生活を正当化しようとしているのかもしれません。すべてを捨てて従うことのできない現実について、自分自身に言い訳をしようとするのです。

 ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、そしてフランチェスコも、すべてを捨てて主に従いました。それはまず、このような言い訳や自分自身に対するこだわりを捨てたということではないでしょうか。何とかして、自分自身の中に、頼りになるものや拠り所を確保しておこうとするこだわりから自由になったということではないかと思います。私たちを不自由にしているのはこのこだわりなのです。それは究極的には自分自身に対するこだわりです。主に従った弟子たちは、その自分に対するこだわりから解き放たれたのです。自分の存在を遙かに越えて、私たち自身よりも、私たちのことをよく知っておられる方、私たちが求めるよりも先に、私たちに必要なものを知っておられ、すべてを与えることのできる方、そのお方のまなざしに出会ったのです。
 私はこのマタイによる福音書第4章18節以下の物語を読んでいて、この召命の物語を貫いているのは、主イエスのまなざしであることに気づきました。私たちはすぐに、声をかけられた弟子たちがどうしたかということに目を奪われてしまいます。そして不安になったり、感心したり、嫉妬したり、落ち込んだりする。それほどに人間中心的な考え方に染まっているのです。自分を中心としたものの見方に縛られています。けれども、聖書ははっきりと記しています。まず主イエスが、ガリラヤの漁師たちのことを「御覧になった」、さらに「御覧になり」と繰り返して書かれています。主イエスのまなざしが注がれたのです。ガリラヤの漁師たちをして、立ち上がらせ、歩き出さざるを得なくさせた主イエスのまなざしがあるのです。二千年前と同じそのまなざしが、今、私たちの上にも注がれています。私たちが頑張って、無理をして、歯を食いしばって、主イエスに付いて行くというのではありません。あるいは自分にはできないと言って、諦めてしまうのでもありません。主イエスのまなざしが私たちを動き出させずにはおかないのです。

 主イエスは、弟子たちを召し出すに先立って、言われました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。天の国というのは、ある領域を指すような静的な言葉ではなくて、神の支配という動的な、ダイナミックな言葉です。主イエスにおいて、今や、神の支配がこの世界に、私たちのところに来ているのです。それは一面において、病を癒し、悪霊を追い出すような、圧倒的な力として現わされます。そのような力ある神の王としての支配が、主イエスと共にやって来たのです。だから、主イエスの呼び声は、人を従わせる力を持った権威ある言葉です。あの天地創造の時に響きわたった、神の創造的な言葉です。神が光あれと言われた。すると光があった。主イエスが付いて来い、と言われた。すると、従い行く者が造られる。新しい創造が起こるのです。
 けれども、主イエスはその圧倒的な力によって、無理矢理に人を従わせることをなさいませんでした。この力と権威に満ちた王は、同時に、ご自分を低くして、私たちに仕えてくださる王でした。私たちを力づくで支配するのではなくて、私たちを罪と死の支配から解放して自由にしてくださる救い主なのです。私たち一人ひとりを愛してくださり、私たちのために、ご自分の命を捨ててくださいました。主イエスの国、主イエスの支配は、まさに愛による支配なのです。そのために、主イエスは十字架への道を選び取ってくださいました。主イエスが十字架の主であるがゆえに、従う者は、自分を捨て、自分の十字架を負って従うのです。主イエスの圧倒的な支配の力は、有無を言わさぬ強さにおいてではなくて、愛において示されたからです。十字架から注がれる愛に包まれるとき、自分自身に対するこだわりから解放されて、主に従う自由を得るのです。

 主イエスは言われます。「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。主イエスの愛によってすなどられた者が、今度は、すなどる者となります。罪の赦しの福音によって、主のみもとに招かれている者は、また、罪の赦しの福音を生きて、その恵みを証しする者とされるのです。洗礼を受けて、主イエスとひとつに結び合わせられることによって、主の体である教会のひと肢として養われます。主の食卓に連なって、救いの命にあずかり、救いの恵みを証しする者として、この世へと遣わされて行くのです。ここに召しの目標があります。遣わされるということです。日常生活のただ中から召し出されて、礼拝に連なり、この礼拝の中から、日常の生活のただ中へ再び遣わされて行くのです。私たちは今日、主によって礼拝へと召し出されました。そして、主の恵みを豊かに受けて、遣わされて行きます。学校で、家庭で、また職場で、主のまなざしに捉えられ、主の呼びかけを聞き、主の愛の支配の中で生かされている者として、主に従う歩みを刻んで行くのです。