2026年4月12日 主日礼拝説教「神の国に生きる」 東野 ひかり牧師

ルカによる福音書 第9章57~62節
列王記上 第19章19~21節

 教会学校でよく歌うこどもさんびかに、「主にしたがいゆくは」という歌があります。教会学校の礼拝で一番よく歌われているさんびかなのではないかと思います。こういう歌詞の歌です。「1主にしたがいゆくは いかによろこばしき 心の空はれて 光はてるよ みあとをふみつつ ともにすすまん みあとをふみつつ うたいてすすまん。 2主にしたがいゆくは いかにさいわいなる あしき思いきえて 心はすむよ みあとをふみつつ ともにすすまん みあとをふみつつ うたいてすすまん。 3主にしたがいゆくは いかに心づよき おそれのかげきえて 力はますよ みあとをふみつつ ともに進まん みあとをふみつつ うたいてすすまん。」 明るく、元気よく歌うさんびかです。子どもも大人も、皆が大好きな歌です。このこのさんびかを歌うと、私もいつも元気が出てきます。心が曇っているとき、悪しき思いが心をふさいでいるようなとき、不安や恐れにとらわれて心が重くなっているとき、「主にしたがいゆくは」を歌うと、その歌詞のとおりに「心の空はれて光はてるよ」と思えてきて心が明るく晴れやかにされる思いがします。そして何よりも、「主にしたがいゆくは」と歌うとき、私たちの前を歩いていてくださるイエスさまの姿が見えてくるような思いになるのです。また同時に、主のみあとをふみつつ「ともに」進んでいく仲間たちのあることをも思い起こさせられて、励まされるのです。
 今朝与えられた聖書のみ言葉は、主イエスのエルサレムへの旅の始まりのところに置かれた、主イエスと三人の人との「主にしたがいゆく」ことを巡る対話です。最初の二人の人については、マタイによる福音書第8章18節以下にも記されていますが、マタイ福音書では、最初の人は「律法学者」、二人目の人は「弟子の一人」と記されています。けれどルカ福音書では、最初の二人についても、三人目の人についても、どういう人なのかは何も書かれていません。名前も肩書きも何もなく、ただ「ある人」とだけ書かれています。このように記すことによってルカは、ここを読む読者たちの誰もが、この三人の人たちと自分自身を重ね合わせて読むことを意図していると言われます。ここに登場する三人の人はみな、あなたのことなのですよと、ルカは言いたいのだということです。私たちは、このみ言葉をどのように聞くでしょうか。

 最初の人は、大変積極的に、「あなたがお出でになる所なら、どこへでも従って参ります」と、自ら申し出ました。すると主イエスは、この人にとても不思議な応答をなさいました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」「人の子」つまり主イエスご自身の、この地上の旅は、「枕する所もない」厳しい苦難の旅だと言われたのです。主イエスの地上の旅は、そのお生まれになった時から、「宿屋には彼らの泊まる所がなかった」「枕する所」のない始まりでした。30歳になられ、ガリラヤ地方で伝道を始められ、故郷ナザレにお帰りになって会堂で教えられたときには、主イエスの言葉に怒り狂った村の人々に崖から突き落とされそうになりました。そして、心定めてエルサレムへと向かう旅の最初で、サマリア人の村にお入りになると、そこでもサマリア人たちから歓迎されませんでした。主は「あなたがお出でになる所なら、どこへでも従って参ります」と言ったこの人に、「この私が行く所どこにでも従うということは、あっちへ行ってもこっちへ行っても枕する所がない、受け入れられない私の苦しみの歩みに従うということだ」と言われたのです。それでもあなたは私に従うかと、暗に問われたのです。
 二番目の人は、主イエスのほうから「私に従いなさい」と、召し出されました。しかしこの人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言いました。主イエスはこの人に、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。しかし、あなたは行って、神の国を告げ知らせなさい」と言われました。死者を葬ることは死者たちに任せておきなさい、死んだ人のことはもうかまわず、父親を葬ることよりも、「あなたは行って、神の国を告げ知らせ」なさいと言われたのです。父親の葬式を出すよりも主イエスに従って神の国の福音を告げ知らせることの方を優先させよと言われたのです。
 三番目の人は、「主よ、あなたに従います。しかし、まず、私の家の者たちに別れを告げることを許してください」と言いました。けれど主イエスは、「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」と言われて、家族を顧みることなく、主イエスに従うことを求められました。
 主イエスは私たちに、このような従い方を求めておられる。人としての当然のあり方や常識から大きくはずれ、家族の交わりを壊すような仕方で、主に従いゆくことを求めておられるように思われます。人々から受け入れられず、迫害されることも厭わず、父の葬りも家族との別れの挨拶も後にして、ある意味大変に厳しく、徹底した仕方で、主に従いゆくことを主はお求めになっておられる。このような主イエスのお言葉に、私たちは「よろこばしく主にしたがいゆく」どころか、ひるんで後ろに後ずさってしまうような思いになるのではないでしょうか。

 私たちは、ここで主が求めておられるような従い方をするのは、自分のような一般信徒ではない、特別に召し出された「献身者」と呼ばれる人たちだと思うかもしれません。ここに登場する三人の人たちと自分は違う、この話は自分とは関係のないことだと、割り切ってしまうかもしれないとも思います。しかし先ほども申しましたように、ルカ福音書は、この三人の人たちについて、「律法学者」とか「弟子の一人」とかという特別な肩書きは何もつけていないのです。言ってみればこの人たちは三人とも、「ただの人」なのです。ですから、やはりここで、私たちすべての者が、主に従いゆくその従い方を問われているのです。主イエスは私たちに、「あなたがたはどう私に従うのか」と問うておられるのです。
 ルカ福音書は、この三人の人たちが結局この後どうしたのか、主イエスに従って行ったのかどうかを何も記しません。この三人は、主に従ったのか、それとも主のもとを去っていったのか、それは分からないままなのです。このような書き方が、私たちへの問いとなっています。ここを読む私たちみなが問われているのです。「あなたはどうするのか?」と。主に従うのか従わないのか、その応答は、ここを読む者一人ひとり、私たちそれぞれに委ねられているのです。

 その意味では、この主イエスと三人の人たちとの対話は、聖書協会共同訳・新共同訳が付けている小見出しのように、「弟子の覚悟」を問うていると言えるのかもしれません。けれども、少し考えてみますと、私たちの側で確固たる覚悟を決めれば、ここに求められているような徹底した仕方で、主イエスに従いゆくことができるようになるのだろうか、とも思うのです。主の一番弟子のペトロは、最初の人とよく似たことを言いました。「主よ、ご一緒になら、牢であろうと死であろうと覚悟しております。」(ルカ22:33) 捕えられようが殺されようが、どこまでもあなたについて行きますと、立派にその覚悟を言い表したのです。しかしペトロのこの覚悟は、数時間後にはもろくも崩れ去りました。ペトロは十字架の死に向かう主を裏切ってしまいました。私たちの側の覚悟など、実に頼りないものでしかないのです。
 ある人はこう言います。「ここで、固く覚悟を決めておられるのは、まず主イエスのほうだ」と。主イエスが固く覚悟を決めて、「私に従いなさい」と、私たちを呼んでおられるのだと言うのです。先ほど歌いました讃美歌124番の1番では、「みくにをも宝座(みくら)をも あとにすてまして くだりにしイエス君を うくる家あらず」と歌いました。確かに、主イエスのほうがまず先に、ご自身の天の家をうしろに捨ててくださったのです。天の父の家をあとにして、人の子として地上に降って来てくださった。固く覚悟を決められたのは、まさに主イエスのほうなのです。すぐ前の51節には、「イエスはエルサレムに向かうことを決意された」とあります。主イエスは、その御顔をエルサレムへ、十字架の死へと、固く定められ、十字架に向かってまっすぐ進んで行く、さらには復活、そして天に帰られるその道を進んで行く、その覚悟を決められたのだと記されているのです。主は、鋤を手にして、後ろを振り返ることなく、ひたすら神の国の仕事を続ける覚悟を決めておられる。神の国・神のご支配を実現していく働きを、徹底して貫く覚悟を決めておられるのです。十字架の死に向かって行かれる。さらには甦らされて罪の赦しと贖いを成し遂げ、神の恵みのご支配を実現する、その覚悟をしっかと固めておられるのです。主イエスは、ご自身の命を捨てる覚悟をもって、私たちすべての者を神の国・神の支配の中に生かすのだと決意して、呼ばれるのです。「私に従いなさい」と。

 主イエスを信じて生きる、神を信じて生きる、信仰をもって生きる。それはこの主イエスに従うということです。信仰者の歩み・生き方は、主に従うという生き方です。その従う歩みは、私たちの側の覚悟によって、確かなものとなるというのではないのです。主イエスが私たちに問われる、徹底して主に従う歩みは、私たちの覚悟によって可能となるのではなく、主イエスの確固たる固い覚悟・主イエスの決意によって支えられるのです。私たちの従い方は、ただ主イエスが覚悟をもって招いていてくださる、その招きに真剣に応える、ということでしかないのです。
 今日のこの箇所について「従うことの真剣さについて」という題をつけている翻訳があるそうです。「弟子の覚悟」と言うよりは、こちらのほうが良いように思われます。主イエスがここで私たち皆に問うているのは、主の真剣な覚悟に応える、私たちの真剣さ、なのでしょう。私たち皆が、主御自身の確固たる覚悟、十字架と復活そして天へと向かう確固たる覚悟に応えて、真剣に、徹底的に、この主に従いゆく、主のみあとをふんで進んでゆく、そのように従いゆくことを求めておられるのです。主は、その命を捨てる覚悟をもって、私たちを招かれます。主が命を捨てて実現してくださった神の国・神の恵みの支配の中に、私たちも生きるようにと、真剣に招いておられる。ここにこそ、あなたが真実に生きる道があるのだと、招いておられる。この主の招きにどう応えるのかと、問われるのです。

 さてもう一度、二番目と三番目の人の姿を見てみたいと思います。二番目の人は、主イエスのほうから「私に従いなさい」と召し出されました。ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネが召し出された時と同じように、ただ、主イエスのほうから目を留めてくださって、恵みをもって選び出されました。けれどもこの人は、主イエスの一方的な恵みの召し出しに条件をつけます。「主よ、まず、父を葬りに行かせてください。」「父の葬りを済ませたなら、あなたに従います。」この人が付けた条件は、至極常識的なものです。人として、子どもとして、当然なすべき、そして最優先にすべき務め・義務である父の葬りをまず済ませてから、あなたに従いますと言ったのです。私たちの国にも忌引きという制度がありますように、どこの国でも、親の葬式のために仕事や学校を休んでそれに専念することは認められます。戒律の厳しいユダヤ教の社会でさえ、「父を葬ることはすべての宗教上の義務をしのぐ」と認められていたそうです。
 けれども、主イエスは言われたのです。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。しかし、あなたは行って、神の国を告げ知らせなさい。」死んだ人のことは死んだ人に任せておけ、と言われた。つまり「放っておきなさい」と言われたのです。そして、「あなたは行って、神の国を告げ知らせなさい。」と言われました。私たちの常識からすれば、本当に驚くほかない、つまずきに満ちた主のお言葉と言わざるを得ません。聞きようによっては、親の葬儀などどうでもよい、あなたは伝道しなさいと言われたようにも聞こえます。熱狂的な新興宗教が言うのと同じことが言われている、というようにも思えてしまいます。

 主イエスの、この全く常識はずれの言葉を、私たちはいったいどう聞けばよいのでしょう。ここで大事なのは、「まず」という言葉だと思います。この人は「まず」父の葬りに行かせてほしいと言いました。三番目の人も、「まず私の家の者たちに別れを告げることを許してください」と言います。自分にとって、今「まず」しなければならないのはこれらのことなのだと、この二人は言ったのです。二人ともごく当然の、常識的なことを言いました。けれども主イエスは、二番目の人には「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言われた。つまり、死んだ者のことは、もうあなたの手に負えることではない、死者のことは、もうあなたの手には負えないのだから、父なる神と私に任せておけばよい、ということです。そして、あなたが「まず」最優先にするべきことは、「行って、神の国を告げ知らせる」ことだ、と言われたのです。主イエスがここで問うておられるのは、あなたは「まず」何を第一にするのか、ということなのです。
 主イエスはこの二番目の人に、どこへ「行け」と言われたのでしょうか。主イエスに従って「行く」ところ、とはどこでしょうか。それは、主イエスが行かれたのと同じ、「罪と死の力に支配されている世界のただ中」でしょう。そして、この人にとってその「罪と死の力に支配されている世界」とは、まず、自分の父の葬儀の場ではなかったでしょうか。主イエスは、死の力が充満する葬儀の場に行って、罪と死の力に勝利する神のいのちの支配・恵みの支配を告げ知らせよと、おっしゃったのではないでしょうか。主イエスは決して、父親の葬儀などどうでもよいから伝道しなさいなどと言われたのではないのです。あなたがまず最優先にすべきなのは、主イエスに従って、罪と死の力が支配している葬りの場で、そこで「神の国」すなわち、神のいのちの支配・恵みのご支配を告げることだとおっしゃったのではないでしょうか。そこでこそ、罪と死の力が支配しているのではない、神の恵みが、神のいのちの力が、私たちを支配している、私たちは神の国・神の支配の中に生きているのだと証言しなさいと言われたのではないかと思うのです。そのようにして、あなたは「まず」、主イエスと同じように、神の国・神の支配に生きなさいと言われたのではないでしょうか。

 三番目の人に対して言われたのも同じことです。「主よ、あなたに従います。しかし、まず私の家の者たちに別れを告げることを許してください」と言った人に、主は言われました。「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない。」主イエスは、神の国・神の恵みのご支配の中に生きている者にふさわしく生きよ、と言われたのです。
 先ほどお読み頂いた旧約聖書列王記上に出てきた預言者エリヤは、畑を耕していたエリシャに自分の外套を投げかけて彼を弟子として呼び出しました。エリシャは言いました。「どうか父と母に別れの口づけをさせてください。それからあなたに従います」」それに対してエリヤは答えました。「「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか」」(19:20)。エリヤは、エリシャが家族に別れを告げることを許しています。それが常識的なことでしょう。けれども主イエスは、それをお許しにならないのです。なぜなら、今はもうすでに、主イエスによって、神の国・神の恵みのご支配が始まっているからです。今はもうすでに、主イエスが、鋤に手をかけ畑を耕し、み言葉の種をまいて、神のご支配を告げておられるのです。主イエスはこの人にも、家族のことはこの神の恵みのご支配に委ねればよい、とおっしゃったのではないでしょうか。あなたは前を進む主イエスに従い、家族のこともこの主の恵みの働きに委ねればよいのだと言われたのではないでしょうか。主はこの人にも、「あなたはまず、私に従いなさい、神の国・神の恵みの支配の中に生きなさい」と言われたのです。

 ある説教者がこの箇所の説教でこういうことを語っていました。「私たちにとって、家族の葬りや、家族に別れを告げることは、家族の交わりを大切にする、人として当然なすべきことでしょう。それは当然優先されるべきことだと、私たちは考えます。しかし私たちは、そういう、当然優先されるべきことを他にもたくさんかかえています。この世を生きる者として、この社会の一員として、家庭の中で、いろいろな責任を負っている者として、これは大事だ、これは優先にしないと、ということがいくらでもあるのです。そういう現実の中で私たちは、主イエスに従おうと思いつつも、いつしかそれを二の次三の次四の次にしてしまう。放っておけば必ずそうなるのです。主イエスのこの厳しいみ言葉は、そのような私たちに、本当に最終的に第一とすべきことは何なのかを問うています。」主イエスは私たちに問うておられるのです。あなたは「まず」何を第一のこととして生きていくのかと。何を最優先にして生きていくのかと。
 私たちは何を第一のこととして生きるのでしょう。私たちは、まず何を一番大切なこととして生きるのでしょう。私たちは、色んな優先しなければならないことを抱えているのです。マタイの福音書の主の言葉を思い起こします。主は言われました。「まず神の国と、神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。」(マタイ6:33) 私たちは、色んな優先すべきものを抱えて、まず先にやるべきことは何かと考えて、そのことでも思い煩います。しかし主は言われます。「あなたは行って、神の国を告げ知らせなさい。」「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない。」主は、覚悟を決めて言われます。「後ろを振り返らず、前を向いて、私に従いなさい。後ろのものはすべて天の父なる神に委ねればよい。天の父は、空の鳥も、穴ぐらの狐も、養ってくださるお方なのだ」と。天の父の愛のご配慮に、先立つ主イエスの恵みのご支配に、私たちは、私たち自身のいのちも、私たちの家族のいのちもすべて委ねて、主イエスの後に従うことができるのです。

 主に従いゆくことを第一のこととするとき、私たちは、罪と死の力に支配される恐れから、その心の曇りから、暗さから、解放されます。主イエスの後に従うこと、このことを二の次三の次四の次にしないで、まず第一に主に従いゆくとき、私たちは、いのちと恵み、赦しと愛のご支配の中に生かされる。家族のことも、心にかかるあらゆることを、父なる神とみ子主イエスの愛のみ手に委ねることができる。そして解き放たれて、よろこばしく、はれやかに、心強く、生きて行けるのです。主に従いゆくこと、主が行かれるところどこへでもついて行くということは、その行くところどこにでも、どこまででも、主が共にいてくださる、主から離れることはない、ということです。これほど心強きことはないのです。主イエスの、覚悟をもった真剣な招きに、私たちも真剣に応え、先立ち行くみ子主イエスに、ともに、続いて行きましょう。「みあとをふみつつ ともにすすまん。 みあとをふみつつ いさみてすすまん。」 私たちの前を確固たる覚悟をもって進み行かれる主イエスを見つめて、晴れやかな心で、神の国に生きる道をともに進んでまいりましょう。