2026年3月15日 受難節第四主日礼拝説教「天に顔を向けて」 東野 ひかり牧師

ルカによる福音書 第9章51~56 節
申命記 第1章29~33節

 先日NHKで放送していました「テミスの不確かな法廷」というドラマの最終回を観ました。このドラマの最終回の最後のところで、主人公の裁判官と女性の弁護士さんが交わした会話をはじめにご紹介したいと思います。主人公の安堂裁判官は、発達障害という特性を持つゆえに、よく転びます。歩いていても、興味をひかれるものがあるとそれに気を取られて転んでしまう。その主人公と弁護士さんが、ドラマの最後にこんな会話を交わしました。弁護士さん:「安藤さん、どうしたんですか、ボーっとして」。安堂さん:「ぼーっとしていましたか。人間の歩行について考えていました。人間の歩行は、犬や猫、馬とはずいぶんと違うんです。二本足で歩くということは、バランスを崩しては止める、という運動の連続だと言われています。つまり、人間は、転びながら、転びそうになりながら、歩く。」 弁護士さん:「転びながら、転びそうになりながら、歩く。なんか、いいですね。」 安堂さん:「はい、なんか、いいんです。ぼくは、これからも転びます。転びそうになります。でも、それでも前を向いて、歩いていきます。」こういう会話です。
 「人間は、転びながら、転びそうになりながら、歩く。ぼくは、これからも転びます。転びそうになります。でも、それでも、前を向いて、歩いていきます。」このセリフを、私も、「なんか、いいですね」と思いました。私たちは皆、「転びながら、転びそうになりながら、でも、それでも、前を向いて、歩いていく。」そんなふうに、自分の人生という旅を、この二本足で歩いていると思います。転んでけがをして、すり傷を作って、また転びそうになって、それでも前を向いて歩いていく。私たちは、そうやって、自分の人生の「旅」を歩いている。そんなふうに思いながらテレビを消しました。

 今朝は、ルカによる福音書の第9章51~56節、短い箇所が与えられています。ルカによる福音書は、今日の第9章51節にひとつの大きな区切りがあり、ここから新しい区分が始まるということは、どの解説書も口をそろえて申します。天に上げられる日が満ちたので、イエスはエルサレムに向かうことを決意された。」(9:51)「天に上げられる日が満ちた」は、文字通りには「天に上げられる日々が満ちつつあった」ですが、これは、主イエスの十字架の死と復活と、そして天に上げられる昇天の日、これらの日々が満ちつつあった、近づきつつあった、という意味です。
 ルカによる福音書を少しさかのぼってみますと、この福音書は第4章14節から本格的な主イエスのお働き・活動を記しています。第4章14節から今日の箇所の直前の第9章50節までが、ガリラヤでの主イエスのお働きとして記されております。ルカ福音書は、主イエスがガリラヤ地方を巡り歩いてなさった数々のお働きを記しまして、この第9章51節で、主イエスの「天に上げられる日々が満ちつつあった」と書くわけです。主イエスの十字架の死と復活、そして天に上げられる昇天の日が、刻一刻、一日一日と満ちてきた、近づいてきた。だから主イエスはここで、心を定めて「エルサレムに向かうことを決意された」と言うのです。この「エルサレムに向かうことを決意された」というのは、直訳的には、「エルサレムに向かう顔をしっかり固定した」というように訳せます。主イエスはこの時、確固たる決意をもってエルサレムに顔を向け、その顔を定められた。ルカはそのように書くのです。

 もちろんガリラヤでの活動の日々においても、主イエスのみ顔は常にエルサレムに向けられていたでしょう。ご自身の死と復活、そして天に上げられることを目指して歩んでおられたでしょう。しかしここで、その「時」がいよいよ満ちつつあるのです。そしてこの時に、主イエスは、確固として、苦しみと十字架の死が待つエルサレムへと顔を向けられたのです。その顔をエルサレムに向かってしっかりと固定なさった。エルサレムへ、行くべき方向へ、前へと、主は顔を向けられました。
 「顔を向ける」という表現は、元々は、旧約聖書の言葉であるヘブライ語に由来する言い方と言われます。それは、顔だけを向けるということではなく、その全存在を、その全身全霊を傾けて、向かうべき方向に向かっていく、ということを意味します。そのように主イエスは、エルサレムに向かって顔を向けられた、全身を向けられたのです。そしてこの第9章51節から第19章27節まで、約10章にわたって、ルカによる福音書は、主イエスのエルサレムに向かう「旅」を記していきます。主イエスが、エルサレムに顔を向けて歩いていく、歩みを進めていく姿を描いていきます。そこで何を語られたか、なにをなさっていかれたかを描いていくのです。

 古今東西、と言ってよいと思いますけれど、私たちの人生はよく「旅」にたとえられます。一般的には、人生の旅は、生から死へ向かい、死が終着点ということになるのでしょう。聖書もまた、信仰者の歩み・人生を「旅」として描きますが、信仰者の旅は生から死へ、そして死を超えた命へ、天の故郷へと向かって行きます。そのような信仰者は、この世にあっては「旅人」「滞在者」「寄留者」だと言われます。私たちは皆、この地上を、この世を、旅する旅人。尚志牧師が説き明かしてきたペトロの手紙も、「あなたがたはこの世では寄留者であり、滞在者なのですから」(Ⅰペトロ1:11)と記しました。ヘブライ人への手紙でも、信仰者は、「天の故郷」にあこがれて、地上でははるかにそれを望み見て旅をする「滞在者」・旅人だと語っています(ヘブライ11:13以下)。使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙の中で「私たちの国籍は天にあります。」(フィリピ3:30)と述べて、やはり信仰者は、この世にあっては天の故郷を目指して旅する旅人だということを語ります。
 聖書における旅は、歩くものです。2000年以上も昔のことですから、旅と言えば歩くのです。生きていくこと、生活していくことも「歩く」と表現されます。2000年前でなくても、現代でも、生きるということは歩く、ということだとつくづく思います。自分の足で歩いていくのです。自分の、私の人生を、他の誰かの足が歩いてくれることはないのです。どんなに辛いことがあっても、自分の人生は、自分の足で一歩一歩進んでいかなければなりません。どんなに子どもを愛していても、その子の人生を親が代わりに歩いてあげることはできません。そうやって私たちは、自分の人生の重荷を、自分で担って歩いていかなければなりません。その私たちの歩みは、バランスを崩しやすい二本足の歩行で、よく転ぶ、転びそうになるのだと思います。でもそれでも、私たちも、前を向いて歩いていきたいと思うのです。死に向かって、ではなく、死を超えた命に向かって、天の故郷に顔を向けて、歩いていきたいと思う。

 そうやって歩いていく私たち信仰者の前には、いつも、主イエス・キリストが歩いていくお姿があるのです。十字架に向かって、復活に向かって、そして天に向かって歩みを進められる、旅をされる主イエスのお姿があります。主イエスこそが、まず最初に、ご自分の道を、死と復活と天の故郷に向かって、天の父のもとに向かって旅をしてくださった、歩んでくださいました。主イエスは、そのみ顔を、苦しみから背けることなく、死の恐れからも背けることなく、十字架に向かって、エルサレムに向かって顔を定めて、父なる神から与えられたご自分の道をご自分の足で、その二本の足で、歩んで行かれたのです。私たちの人生の旅の前に、私たちの前には、主イエスの旅する姿がある。これは、何と心強いことでしょうか。
 ルカによる福音書の特徴は、この第9章51節から始まる、いわゆる〈旅行記事〉と呼ばれる部分が、その福音書の中央に置かれていることだと言われます。ある聖書学者は、ルカ福音書が描く主イエスを「旅空に歩むイエス」と呼びました。主イエスの地上の歩みは「旅」であった。十字架と復活と、天に上げられる日を目指した、そして、天の父のみもとに帰ることを目指した旅であったと言い表します。主イエスもまた、バランスを崩しやすい二足歩行で、旅を続けられたのです。その足が痛むことも、傷ついたことも、転んだことも、転びそうになったこともあったことでしょう。疲れ果てて立ち止まることもあったことでしょう。けれど主イエスは、顔を前に向けて、その顔をご自分の死と復活、そして天へと定めて、この地上をその足で歩まれました。私たちの前には、この主イエスの歩みがあるのです。まことに心強いことです。

 主イエスのみ顔は、その全存在は、いつもエルサレムの方を、前を向いていました。主はその顔を、エルサレムから、苦難と死から、背けることはありませんでした。そこから、その顔を動かすことはありませんでした。51節の元の言葉にある「顔」という字は、実はこの51節だけではなく、52節にも53節にも、用いられてあります。とても短いところに3回も、「顔」という言葉が用いられているのです。51節から53節を、元の言葉を生かすように訳すと、このような感じになります。51節「主イエスは、エルサレムへとしっかりとその顔を向けて固定し、」52節「その顔の先に、使いの者を遣わした。彼らは出かけて行って、イエスのために準備を整えようと、サマリア人の村に入った。」53節「しかし、イエスの顔がエルサレムへと進んでいたので、サマリア人はイエスを歓迎しなかった。」
 「顔」というギリシア語は、プロソーポンと言います。これがラテン語でペルソナという言葉になり、英語のパーソンになり、「人格」を表す言葉、その人そのものを表す言葉になりました。ここに3回も、「顔」という言葉が用いられるのは、主イエスの、その全存在が、全力でエルサレムへと向かっている、ということを表そうとしているのです。主イエスが、全存在をもってエルサレムに乗り込んでいく、ということをとても強調して言い表しているのです。それは裏返して言えば、主イエスのエルサレムへの旅がそれほどに並々ならぬものだということを強調している、ということでしょう。主イエスのエルサレムへの旅は、それほどに、厳しい旅だとルカは語っているのです。
 主イエスにとってエルサレムへと顔を向けるということは、ご自分の「死」に、しかも十字架につけられて殺されるというその死に、全存在を向けるということです。最も残酷な刑罰と言われた十字架、そして、神に呪われた者がかけられるものとされていた十字架につけられて死ぬ。罪人として、神に呪われた者として死ななければならない。それがどれほど恐ろしいことであったか、それは、主イエスにしかほんとうには分からないことです。けれども、主イエスは、その恐ろしい裁きの死、呪いの死、滅びの死から、顔をそらすことはなさらなかった。まっすぐに、その苦難と死へと向かって行かれました。

 私たちの人生の旅の前にはこの主イエスの姿があるのです。私たちの人生にも、様々な苦難があります。苦しみ悩み悲しみがあります。突然の災害に見舞われることがあり、愛する家族と突然別れなければならなくなることがある。病気になったり、けがをしたり、大失敗をしたり。朝ドラの主題歌のように、「笑ったり転んだり」で「毎日難儀なことばかり」です。けれど、そのような私たちの人生の旅を、主イエスもまた、歩んでくださったのです。私たち以上に、罪と死の力に悩まされて、それと戦って、歩んでくださいました。そして、十字架に死んでくださいました。
 私たちの人生の旅で、私たちを最も苦しめるものは何でしょうか。災害でしょうか、病気でしょうか。もちろんそれらも、十分に私たちを苦しめます。しかし、最も私たちを悩ませ、苦しめるのは、私たちの自分ではどうしようもない罪ではないでしょうか。家族を愛したい、家族に優しくしたい、周りの人を愛したい、優しくしたいと思っても、そうできない。自分の子どもすら、ほんとうには愛せていない、自分の都合の良いようにしか愛していない。そして自分自身を愛せていない。受け入れられていないのではないでしょうか。信仰を受けている私たちには、神さまを信じたい、イエスさまに従って行きたい、そう思っても、すぐに疑いの心が押し寄せてくる、という苦しみもあります。信仰なんて持たなければよかった、うっかり洗礼なんて受けてしまったからこんなに苦しい思いをする。そんなことを考えることもあるかもしれません。もっと良い自分になりたい、もっと良い妻に、親になりたい、よき隣人になりたい、もっとよい信仰者になりたい。人を、自分を、愛したい、私も愛されたい、そう思う。けれど、思うようにならない。自分ではどうすることもできません。主イエスは、こういう私たちの罪を背負ってくださって、十字架についてくださったのです。私たちを、罪の力から、死の力から、解き放ってくださった。そして、お甦りになって、罪の力・死の力に勝利してくださいました。天に上げられて、罪と死の力の支配ではなく、赦しと愛のご支配をもって私たちの歩みに伴い、私たちと共にいてくださり、私たちを導いてくださるのです。今もなお、人生の旅は難儀だと、転びながら歩いている私たちの手を取り、起こし、支えていてくださる。私が共に歩むから、あなたの目指すところは、あなたの顔を向けるところはここだと、私たちの顔を前へ向けさせ、さらに天へと上げさせ、そこに定めてくださるのです。

 ルカによる福音書の主イエスの姿を、「旅空を歩むイエス」と言い表した方は、旅する主イエスのその旅を「アフェシスの旅」と呼びました。アフェシスとはギリシア語で、解放、自由、そして赦しを意味する言葉です。主イエスの旅は、罪の縄目に縛られた人に自由を、死の力に囚われた人に解放を、そして、ご自身に敵対してくる人たち、主イエスを歓迎しない人たちに、主イエスに向かって「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだ人たちに赦しを告げる、そういうアフェシスの旅だと言うのです。主イエスの旅は、赦し得ない者を赦し、愛し得ない者を愛していく旅だったというのです。そして、主イエスのアフェシスの旅は、ひとり旅ではありませんでした。弟子たちを、その旅に招かれました。「私に従って来なさい」と。そして、主は弟子たちと共に旅をされました。
 エルサレムに顔を向けて歩き始められた主イエスの旅の始まりで、主イエスは、サマリア人の村に行こうとされました。サマリアを通る道は、ユダヤ人たちが普通は避けるルートです。けれど主は、サマリアを通る道を行こうとされました。エルサレムへの最短ルートを取ろうとされたということでもあったでしょうけれども、あえて、サマリアを通る道を選ばれたのではないかと思います。ユダヤ人とサマリア人の間には、700年以上にわたる対立と、敵対と、憎悪の歴史がありました。エルサレムに向かって行こうとしていた主イエスと弟子たちは、サマリア人たちに歓迎されませんでした(53節)。敵意を向けられた、憎しみを向けられました。それは、ユダヤ人である主イエスと弟子たちに対しては、ある意味当たり前のことでした。主イエスは、その憎悪と敵意の中へと入って行こうとされたのです。

 主イエスを歓迎しなかったサマリア人たちに対して、弟子のヤコブとヨハネの兄弟は怒って言いました。「主よ、お望みなら、天から火を下し、彼らを焼き滅ぼすように言いましょうか。」ヤコブとヨハネは、こんなサマリア人たちは焼き滅ぼしてしまえ、と言ったのです。かつて主イエスから「雷の子ら」とあだ名をつけられたヤコブとヨハネです。激しやすい性格だったのかもしれません。また、この二人は、主イエスと一緒にいる自分たちは主イエスの力で、あたかも旧約聖書の預言者エリヤのように天から火を降して、サマリア人たちを焼き滅ぼすことができる、そんなふうにも思っていたのかもしれません。二人は、敵対する者を焼き滅ぼしてしまう力こそが、救い主メシアの証しだと思っていたのでしょう。けれども主イエスは、二人をお叱りになりました。敵対してくる者、憎しみを向けてくる者、悪意を向けて来る者を、「焼き滅ぼしてしまえ」と言うのではなくて、「こんな人たちは、焼き滅ぼされていなくなってしまえばいい、などと思ってはいけない」、と言われたのです。主イエスはこの二人に、エリヤ以上の者であるご自身を示しておられます。まことの救い主メシアの姿をお示しになっておられます。主は、この二人をお叱りになることによって、二人を主イエスのアフェシスの旅に招かれたのです。まことの救い主メシアである主イエスに従い、主と共にアフェシスの旅をしようと、招かれたのです。敵対してくる人たち、受け入れてくれない人たちを「焼き滅ぼしてしまえ」と言うのではなくて、受け入れてくれない人たち、敵対してくる人たちをも、あなたがたは受け入れ赦していく道を歩きなさいと示されたのです。主は、この二人にも、主のアフェシスの旅を一緒に歩いてほしいと願われたのです。

 私たちの歩み、バランスを崩しやすいこの二足歩行の歩みは、よく転びます。人生の旅は、今もなお、難儀なことばかり、よく転びます。転びそうになります。でもそれでも、私たちは前を向いて歩きます。私たちの前には、十字架の傷をその手と足と脇腹につけた主イエス、私たちの罪の十字架を負ってくださったそして復活された主イエス、天に上げられて愛と赦しのご支配の手を広げておられる主イエスが、アフェシスの旅を続けておられる。赦し、愛し、解き放ち、自由を与える旅を続けておられる主イエスがおられるのです。そして主イエスは、この私たちをも、主のアフェシスの旅に招かれます。「一緒に歩こう」と。主は、私たちの人生の旅が、主のアフェシスの旅とひとつになることを願っていてくださるのです。
 教会は、この主イエスのアフェシスの旅を共に旅する旅の仲間たちの群れです。私たちは、私たちの前を歩いていてくださる主イエスを見つめながら、自分の人生の旅を、主のアフェシスの旅に合わせ、主の足あとを踏むようにして、歩いていきます。私たちの旅はひとり旅ではありません。主が共に歩んでいてくださる旅です。そしてともに歩く仲間たちがいる旅です。教会は、天に顔を定めて、前を向いて、主を見つめて、主のアフェシスの旅を共に歩んでいきます。私たちがこの旅を続けていくとき、この暗く混沌とした世界に、主の赦しと愛の支配が、明るい光が、広がっていくのではないでしょうか。主が共に歩んでくださるこのアフェシスの旅に、ひとりでも多くの新しい仲間が加えられていくようにと願います。