2026年2月22日 受難節第1主日礼拝説教「キリストの苦しみにあずかる」 東野 尚志牧師

ゼキエル書 第9章3~11節
ペトロの手紙一 第4章12~19節

 先週の水曜日から、教会の暦は「受難節」に入りました。受難節というのは、文字通り、主イエス・キリストのご受難を覚える季節です。英語では「レント」と言い、「四旬節」と訳されることもあります。「旬」という言葉は、1ヶ月を上旬、中旬、下旬と分けるように、10日間を意味します。四旬節というのは、40日の期間という意味です。主イエスの復活の祝いに先立つ40日の期間を指して、四旬節というのです。
 聖書において、40という数字は特別な意味を持っています。「試練」「準備」「聖め」といった、象徴的な意味を込めて用いられるのです。特に、旧約聖書では、40年は一世代と考えられ、モーセに導かれた荒れ野の40年が思い起こされます。神に背いた世代が滅ぼされ、荒れ野で生まれ育った新しい世代が起こされます。それは、厳しい試練の時であり、主なる神への信頼と従順が鍛えられる期間でもありました。その1年を1日に置き換えるようにして、主イエスは荒れ野で40日40夜、断食をして過ごされました。ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けて、神の霊に導かれて荒れ野へと出て行かれ、かつてイスラエルの民が失敗した歩みを踏み直すようにして、40日を過ごされたのです。40日、また40年という期間は、厳しい試練の時であり、また大事な備えの時をも意味します。

 「四旬節」と呼ばれる40日の期間も象徴的な意味があります。罪を悔い改めて、断食と祈りをもって過ごす特別な期間とされてきました。最初の頃の教会では、年に一度、復活祭の前の晩に洗礼式が執り行われていました。四旬節は、復活祭を記念して洗礼を受けようとする志願者たちが、学びと祈りをもって洗礼式に備える準備の期間とされたのです。ところが、四旬節と言いながら、実際に数えてみると40日ではなくて46日あります。6回の日曜日を含むことになるからです。主の復活を祝う主の日は、喜びの日ですから、受難節といえども断食をしません。それで、6回の日曜日を除いて40日の期間を数えたのです。
 復活祭は必ず日曜日ですから、そこから遡って46日を数えると、受難節の始まりは水曜日になります。カトリック教会や聖公会、ルーテル教会等は、この日、悔い改めのしるしとして、額に灰をつける儀式を行う習慣があります。灰の水曜日Ash Wednesdayと呼ばれてきました。先週の水曜日が灰の水曜日で、その日から受難節、四旬節が始まりました。今日は、受難節第1主日ということになります。断食をしなければならないわけではありませんけれども、悔い改めの心をもって祈り深く過ごしていきたいと思います。また週報にも記しておりますように、イースター、さらにペンテコステに向けて、受洗や信仰告白をお考えの方、迷っておられる方があれば、遠慮なく、牧師にご相談いただきたいと思います。

 ところで、すでに洗礼を受けておられる方たちは、ご自分が洗礼を受けた日のことを覚えておられるでしょうか。あるいは、幼児洗礼を授けられていた方たちは、ご自分の口で信仰を言い表した信仰告白の日のことを、覚えておられるでしょうか。いつ、どこで、どのようにして…。ぜひ、この機会に、よく思い返していただきたいと思います。信仰のことも、聖書のこともよく分からないうちに、勧められるままに、何となく洗礼を受けてしまったという人は、その咎めもあるからでしょうか、案外、自分が洗礼を受けたときのことを忘れてしまっているということがあります。滝野川教会では、滴礼ではなくて、体全体を水の中に沈める浸礼によって洗礼を授けていますから、体が覚えているかもしれません。受洗記念日を忘れる人は少ないはずです。
 自分が洗礼を受けた日のこと、信仰告白をした日のことを、大切に思い起こしていただきたいと願っています。その願いも込めて、教会からは毎年、受洗記念、信仰告白記念の葉書を送るようにしています。自覚的に信仰者としての歩みを始めた記念の日です。主の聖餐を受けることのできる陪餐会員とされた記念の時です。その時、自分の側で準備が十分にできていたかどうか、ということを超えて、神さまの恵みが、私たちの人生にしっかりと刻み込まれた時として、大切にしなければならないと思います。自分の側が不確かであったとすれば、なおさら、その神の恵みの出来事を大切にしなければなりません。そして、自分の受洗記念日を大切に覚えながら、その時から始まった、信仰者としての歩み、キリストのものとされた歩み、キリストと共なる歩みを、かえりみるときとして、大切にしていただきたいと思うのです。

 今から400年ほど前に、宗教改革の流れを汲むドイツのある地方の教会で作られた信仰問答の文書があります。その書き出しはこうなっています。問「あなたはキリスト者ですか」。答「はい、そうです」。問「あなたはどうしてそれを知ることができますか」。答「我らの主イエス・キリストの名によって洗礼を受け、またキリスト教教理を学び信じたことによってです」。私たちは、洗礼を受けることによって、「キリスト者」と呼ばれるようになります。「クリスチャン」という言い方をする人もいますけれど、これは英語そのままの言い方ですから、日本語にして、「キリスト者」という言い方を大切にしていただきたいと思います。
 ところで、この「キリスト者」という言葉は、すでに聖書の中で用いられるようになった言い方です。意外に思われるかも知れませんが、それほど数は多くないのです。使徒言行録の中に2個所、そして、この朝読みましたペトロの手紙一の中に1個所、聖書全体の中で、合計3回しか用いられていません。聖書のもとの言葉では、ギリシア語で「クリスチアノス」と書かれています。これを英語にすれば、クリスチャンとなるわけです。
 新約聖書の中で、福音書に続く使徒言行録には、最初の弟子たちの伝道の記録が記されています。その第11章に、シリアのアンティオキア地方で、ギリシア語を使う人たちの教会が生まれたときのことが出てきます。そこにこう記されています。「このアンティオキアで初めて、弟子たちがキリスト者と呼ばれるようになった」(11章26節)。アンティオキアの教会において、イエス・キリストを信じて、キリストの名によって洗礼を受け、教会に生きている者たちが、「クリスチアノス」と呼ばれるようになった。つまり、「キリストのもの」、「キリスト者」と呼ばれるようになったというのです。最初は、あだ名のようなものであったかもしれません。口を開けば、キリスト、キリストと言っているから、あいつらはキリストのもの、そんな呼び名として始まったのではないかと思われます。しかし、キリストの弟子たちは、喜んで、その名を受け入れたのです。キリストという名の響きをしっかりと刻まれて、キリストのもの、キリスト者と呼ばれることを喜びとしたのです。

 ペトロは、キリストと結ばれた光栄ある名を記しながら、キリストにある者としてふさわしい生き方を明確に示して言いました。「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じてはなりません。かえって、この名によって神を崇めなさい」(4章16節)。確かに、洗礼を受けてキリスト者になることによって、さまざまな苦しみを味わうことがあるのだと思います。もちろん、二千年前の最初の教会が経験したような、目に見える迫害があるわけではないかもしれません。けれども、例えば、学校で、職場で、あるいは、ご近所の付き合いの中で、自分がキリスト者であることを黙っていた方がよい、そう思ってしまうことがあるかもしれません。親しい間柄においても、キリスト者であることを隠そうとするなら、それは、自分がキリストの者であることを、どこかで恥ずかしく思っているということになるのではないでしょうか。キリストの名を恥じることになるのです。
 もちろん、余計な面倒やわずらわしさを避けるための知恵だ、というふうに言い訳はできるかもしれません。けれども、ペトロは言うのです。たとえ、自分がキリスト者であるということで、不利益を被ったり、誤解されたり、損をしたりすることがあったとしても、喜びなさい。キリスト御自身も、恥の極みであるような十字架の道を行かれたではないか。そのキリストと共に生きる者として、キリストと同じように辱めを受けるのならば、むしろ喜んでそれを受けて、神を崇めなさい、というのです。何か、きれい事を言って、人を引き付けようというのではありません。御利益宗教のように、良いことばかりを並べ立てて、勧誘するということはないのです。むしろ、キリストを信じる者には、試練や苦難が襲いかかることを、隠すことなく語るのです。

 改めて、今日の箇所の冒頭の言葉を読んでみたいと思います。「愛する人たち、あなたがたを試みるために降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、驚き怪しんではなりません。かえって、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ち溢れるためです。キリストの名のゆえに非難されるなら、あなたがたは幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」(4章12~13節)。「火のような試練」というのは、当時の教会が受けていた激しい迫害を指しているのかもしれません。命の危機にさらされたのです。異教的な社会の中で、キリスト者として生きること自体が、「火のような試練」の日々であったに違いありません。キリストを信じて洗礼を受け、教会の一員として生きていた人たちも、ほんの少し前までは、異教社会の中で異邦人として生きていたのです。けれども、「キリストの尊い血」によって「先祖伝来の空しい生活から贖われ」て、キリストのものとされました。自分の周りにはキリストを信じない者も大勢いたに違いありません。自分の夫や妻が、親が、友人や仕事仲間がキリスト者ではないという状況がありました。そういう身近にいる人たちから、キリスト者であるゆえに非難され、悪口を言われ、陰口をたたかれるということも起こりました。あるいは、ローマ帝国の迫害が厳しくなれば、身内によって密告されるということさえあったのです。
 それは、決して、よその国と遠い昔の話ではありません。私たちが生きているこの国においても、16世紀に宣教師の言葉を信じて洗礼を受け、キリシタンになった人たちが経験したことです。江戸時代から明治にかけても、大きな迫害が起こって、命を落とした者たちが多くいます。そして、今からわずか80数年前、キリスト教は敵性宗教と見なされ、キリスト者は敵のスパイのように疑われ、非国民と呼ばれて迫害を受けた時代がありました。神さまはなぜ、ご自分を信じる者たちを助けてくださらないのか、どうして、神さまを信じる者たちが、不当な苦しみを負わなければならないのか、神さまを信じているのに、なぜこんな目に遭うのか、それは神を信じるがゆえの悩みであり、苦しみでした。それはまた、外から組織的な迫害を受けることはなくなった現在においても、私たちを悩ませる問いではないかと思います。不幸に見舞われるたびに、どうして、なぜ、と問い、驚き怪しむ。信じていても、何の役にも立たないではないか、という周りからの声に反論できなくなって、自分でも疑いの渦の中に呑み込まれそうになる。しかし、ペトロは言うのです。信じているがゆえに経験する試練や苦しみは、何か思いがけないことが起こったというのではなくて、むしろ当然のこと、いや本当に、真剣に信じているからこそ味わう、苦しみだというのです。

 間違えてはならないと思います。私たちが神さまを信じるのは、この世で幸せになるためではありません。この世でたくさんの富を築いて、名誉を得て、快適で安全な生活を保障してもらうためではありません。私たちが神さまを信じるのは、主イエス・キリストの苦難と死によって、私たちの罪がすべて贖われ、私たちが神の子として受け入れられているからです。天に国籍を持つ神の民とされて、永遠の命の約束に生かされているからです。洗礼を受けることによって、キリストのもの、神のものとされて、本当の故郷である天に帰る日を望み見ながら、この地上においては旅人、仮住まいの寄留者として生きるのです。もしも、キリストを信じるがゆえの苦しみや悩みに耐えられないならば、逃れる道もあります。信仰を捨てて、この世の人たちと同じように生きて、天を目指す旅人でなくて、この世の定住者に戻る。そうすれば、周りのみんなと同じになり、みんなと合わせて行くことができますから、周りから悪く言われたり、迫害されたりすることはなくなります。あるいは、自分の信仰を隠して、表面上は周りの人たちに合わせて生活する。神さまに対する信実を貫いていないということで、良心の咎めを感じるかもしれませんけれども、周りの人たちとの衝突は避けられます。
 けれども、それは、神さまが私たちに求めておられる生き方ではありません。ペトロは言いました。「かえって、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ち溢れるためです」(4章13節)。私たちは、この世限り、地上の命が終わると同時に、すべてが無に帰してしまうような、空しい望みに生きているのではありません。キリスト者として、キリストのものとして、神の御心に従う生活を求めて行くならば、この世では試練や悩みを抱えることになるとしても、終わりの日、キリストが再びこの地上に来られるとき、神さまがお始めになったすべての業が完成されて、私たちの救いが成就する、その日を望み見て生きるのです。この世における試練や悩みをはるかに超えて、キリストを通して与えられる恵みが絶大であり、それは、何ものによっても空しくされない、永遠の喜びをもたらすのです。使徒パウロの言葉を思い起こします。パウロは、自分の誇りであったものを数え上げた上で、言いました。「しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています」(フィリピ3章7~9節)。キリストに結ばれ、キリストのものとして生きる道は、確かに、試練と苦難が待ち受ける道であるかも知れません。けれどもそれが、キリストに結び合わされて、キリストの苦しみにあずかることであるならば、キリストの栄光が現れる終わりの時、裁きの時には、私たちも喜びに満ちあふれることができる、と約束するのです。

 ペトロは言います。「なぜなら、裁きが神の家から始まる時が来たからです。私たちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、どうなるでしょうか」(4章17節)。キリストの到来と共に、すでに終わりが始まっているとするならば、すでに裁きの時が始まっていることになります。先ほど、合わせて朗読したエゼキエル書には、主なる神の裁きが、どれほど徹底したものであるかが、恐ろしいほどに描かれていました。祈りの家であるべき聖所が清められ、聖所から裁きは始められて、額にしるしをつけられたもの以外は、すべて滅ぼされるというのです。自分の力で、自分で装えるような清さで、この裁きに耐えられる者は一人もいません。ただ主イエスを信じて、主とひとつに結ばれ、主イエス・キリストを身にまとう以外に、終わりの日の裁きに耐える道はありません。キリストのものとされ、キリストの名で呼ばれ、キリストのしるしで守られる以外の救いの道はないのです。
 だからこそ、私たちは、キリストの救いを宣べ伝えます。一人でも多くの人たちに、とりわけ、私たちの親しい家族や友人、仲間たちに、キリストの救いにあずかって欲しいと願い祈りながら、諦めることなく、十字架と復活による主の救いを証ししていくのです。主の前に絶えず執り成しの祈りを祈りながら、キリストの者として生かされる喜びの中に、愛する者たちが招き入れられることを願います。神さまは、滅ぼすためではなく、救うために、独り子イエス・キリストを遣わしてくださいました。このお方が、ご自身の命を犠牲にして、私たちのための救いを成し遂げてくださったのです。そして、すべてを完成するために、裁き主として来られます。すべての命の造り主であり、命の贖い主であり、またすべての命の裁き主であるお方の御手に、私たちと愛する者たちとこの世界の救いを委ねたいと思います。キリストの栄光が現わされるとき、喜びに満ち溢れることができますように。愛する者たちと一緒に、この喜びを分かち合うことができますように。