2026年2月1日 主日礼拝説教「神の御心によって生きる」 東野 尚志牧師

イザヤ書 第63章7~9節
ペトロの手紙一 第4章1~6節

 新しい月、2月を迎えました。年が明けてから、すでにひと月が過ぎてしまったことに、今さらながら、少々焦りを感じています。今日は、礼拝を終えた後、午後には、2月の定例役員会が開催されます。慌ただしい日々の中で、充分に役員会の準備ができなかったことも悔やまれます。昔の人は言いました。「一月往ぬる、二月逃げる、三月去る」。年が明けてから3月までは、いろんな行事も多くて、あっという間に過ぎてしまうということを言い表したものです。長く言い伝えられた慣用句には、やはり説得力があります。実感を伴って言い伝えられてきたのだと思います。今年度も残り2ヶ月しかありません。しかも2月は28日しかありません。あと残された2ヶ月の間に、来年度の計画を整えなければなりません。伝道計画を立てて、それを実行するための予算案を作って、来月末の教会総会に諮ることになります。総会では、役員の改選が行われて、新年度を迎えることになるのです。しかも、今月の半ば過ぎから、受難節、レントに入ります。教会総会が行われる3月29日が棕櫚の主日です。受難週の中で新しい年度を迎えて、4月5日が主の復活を祝うイースターとなります。これからの2ヶ月は、これまで以上に、慌ただしい日々になりそうな予感がします。

 私が滝野川教会に赴任したのは、2019年6月ですから、間もなく7年になろうとしています。その間、コロナに翻弄された3年間を含みながら、年度ごとの計画を立てて、それを実行していくという形で何とか歩みを続けて来ました。けれども、それだけでは充分ではないことを、いつも感じていました。そして、昨年になってようやく、教会の活動の長期的な見通しを検討する委員会を設置することができました。役員会のアジェンダには、「長期伝道委員会(仮称)」と書き続けてきましたが、昨年の9月に開催された第1回の委員会で、「長期計画検討委員会」という正式名称が決まりました。建物の維持管理や大規模修繕の計画、教会財政の見通しを立てることと並行して、長期的な伝道・牧会の体制や信仰継承の課題などに取り組んで行くことになります。今、教会員の皆さんにご協力をお願いしている「バリアフリー化のアンケート」も、ハード面での取り組みとして、長期計画検討委員会が企画したものです。35年前、この会堂を建てたときには、あま必要を感じなかったかもしれないことが、教会員の高齢化とともに大きな課題になってきています。この会堂の献堂に立ち会った人たちは、その時から35年、歳を重ねているわけです。35年前には何とも思わなかった階段や段差が、歳を経ることで辛くなってくる。もちろん、その間にも、新たな仲間たちが加えられているわけですけれど、今後10年、20年先の教会の姿を思い描きながら、今から備えていかなければならないと思うのです。
 実は、第1回の委員会のアジェンダには漏れていて、第2回の委員会で加えていただいた項目があります。それは、「牧師交代に備える」という項目です。これも、35年前の私であれば、あまり深刻に考えることはなかったと思います。何か問題が起こったりしなければ、教会を替わるということを考えたりしないのが普通だからです。けれども、現在64歳、今年は65歳になります。年金を受給することができる年齢です。いったい、あと何年、牧師を続けることができるだろうか、そんなことも考える歳になりました。歳を取って、自分で辞める決断ができなくなってしまう前に、きちんと備えなければならないと、思っています。あと5年経てば70歳、それ以上、牧師を続けることができるだろうか、いや、5年後も生きているのだろうか、それが冗談ではなくて、真剣な問いになっていくのです。

 そんなことを考えるようになって、改めて、ペトロの手紙一の第4章の御言葉を読んだとき、心に刺さる言葉がありました。4章2節の言葉です。「それは、もはや人の欲望によってではなく、神の御心によって、肉における残りの生涯を生きるためです」。「残りの生涯」とあります。「肉における残りの生涯」という言葉は、「肉体において残された生涯」と訳すこともできます。自分に、あとどのくらいの生涯の時が残されているのだろうか、あと何年生きることができるのだろうか、そんなことを考えさせられるのです。恐らく、皆さんの中でも、うなずいてくださる方が多いのではないでしょうか。自分に残された命の時を数えるような年齢になった、ということであります。もちろん、自分で数えるだけではなくて、命の時を区切られることも起こります。重い病にかかって、あと何年、あと何ヶ月と、生きられる時の限界を告げられることがあるのです。今年の桜を見ることができるだろうか、この冬を越せるだろうか、そのように残された生涯を思うこともある。
 けれども、この手紙を書いたペトロは、「残りの生涯」という言葉を、年老いた者や重い病を得た者たちだけに語りかけているのではありません。いやむしろ、この手紙は、もともと、洗礼を受けたばかりの人たちに対する勧めとして書かれた説教であったのではないかと言われてきました。そうだとすると、若くても年を取っていても、あるいは健康であっても病弱であっても、洗礼を受けて、人生における大きな区切りを経験したときに、その後の残りの生涯をどのように生きるか、ということが問われているのです。ペトロは語りました。「それは、もはや人の欲望によってではなく、神の御心によって、肉における残りの生涯を生きるためです」。洗礼によって、主イエス・キリストと一つに結ばれたものは、自分自身の罪に死んで、神の子としての新しい命をいただきます。それまでは、自分の思い通りに、自分自身を神として生きてきた者が、神のものとして生きるようになるのです。自分の思いを第一にして、自分の願いを実現しようとして生きるのではなくて、神の御心に従って、神に喜ばれる者として生きようと願うようになる。イエス・キリストを主として、主の後に従って生きていく者とされるのです。

 そこでこそ、1節の言葉がよく分かるようになるのではないでしょうか。ペトロは言います。「キリストは肉に苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた人は、罪との関わりを絶っているのです」。キリストが肉に受けられた苦しみというのは、言うまでもなく、十字架の死を頂点とする主のみ苦しみを指す言葉です。ご自分の民であるユダヤ人によって捨てられ、裁かれ、鞭打たれ、嘲られ、十字架にかけられ、殺された。このお方を主と仰いで、このお方の後について行く者として、自分の心をしっかりと定めなさい、と言うのです。もちろん、私たちが主イエスと同じ苦しみを担うことを求められているのではありません。キリストが苦しまれたのは、ご自分に罪があったからではありません。キリストは私たちの罪を背負って、私たちの罪を赦すために苦しまれたのです。主のみ苦しみによって、救いの道が拓かれました。私たちはその救いへと招かれています。主の十字架の苦しみは、それほどまでに私たちを愛してくださった、主の愛の証しです。主の愛に迫られながら、私たちは、なおも私たちに絡みつき、私たちを引き戻そうとする罪の力を断ち切るための戦いに挑むのです。そこには、肉の苦しみが伴うことを、ペトロは指摘します。もちろん、ただ苦しめば罪から逃れられるというのではありません。しかし、罪から離れるためには、肉の苦しみを避けることができないというのです。
 キリストを信じて、洗礼を受けた者は、キリストとひとつに結ばれます。だから、キリストが私たちのために苦難を受けてくださったように、私たちも罪との関わりを断つために、苦しみを味わわなければならないのです。そこでペトロは「あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」と命じます。共同訳が「心構え」と訳している言葉を、かつての口語訳は「覚悟」と訳しました。「あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい」と訳しています。その覚悟ができているか、と問われているのです。キリストに結ばれてキリストとひとつであるなら、反キリスト的なこの世の在り方や価値観との間に、軋轢や対立を生じないでいられないはずです。この世にあっては、信仰のゆえに、不当な苦しみや悪口やいじめ、時には暴力的な攻撃を受けることになります。もしも、一切、苦しみや戦いを経験することがないとしたら、それは、自分自身が、本当にはキリストのものになりきっておらず、なおもこの世の価値観を引きずり、世が求めるところに同調しているからではないでしょうか。キリストとひとつであるならば、この世にあっては苦難がある、と御言葉は告げるのです。キリストを信じる者は、この世とひとつであることから切り離されて、キリストとひとつにされて、天の国の民とされました。だからこそ、この世では寄留者・滞在者、旅人として生きることになるのです。

 そこで、ペトロは、改めて、洗礼を受ける以前の、かつて、この世にどっぷり浸かって生きていたときの姿がどのようなものであったかを思い起こさせます。「かつてあなたがたは、異邦人の好みに任せて、放蕩、情欲、泥酔、馬鹿騒ぎ、暴飲、律法の禁じる偶像礼拝にふけってきましたが、もうそれで十分です」。それはもう十分、もうたくさんだ、と言うのです。こうしたことにうつつを抜かしていたことは、キリストのものとなった以上、過去のことになったと言い切るのです。キリストを知らなかったときの生き方を、何の未練もなしに「かつて」のこととして区切りながら、救い出されたこれからを見据えて語ります。「もはや人の欲望によってではなく、神の御心によって、肉における残りの生涯を生きるため」。「肉における残りの生涯」というのは、かつての生き方とはっきり区切られた、洗礼から始まるキリスト者としての生活です。キリストによって捕らえられ、キリストのものとされた信仰者の生き方です。まさに残された地上の生涯、残りの生涯なのです。その肉における残りの生涯を、人間的な欲望に振り回されず、神の御心に従って、神に喜ばれるものとして生きるように、とペトロは苦難の中にある信仰者を励ますのです。
 キリストを信じる者は、かつてはそこにいたこの世の喜びや楽しみを共有しなくなったことで、この世の人たちからは、異質な者たちとして非難され、悪口を言われ、排斥されるようになるかもしれません。皆と同じことをせず、同じことを言わず、「乱行」に加わらないことは、世の人々には驚きとなるのです。同調圧力の強い社会であればあるほど、こうした批判や攻撃を強く受けるようになります。けれども、神は見ておられます。神は聞いておられます。神のものとされた私たちが、その肉における残りの生涯をどのように生きるかを見ておられます。私たちが、「肉における残りの生涯」を神のものとして、しっかりと歩もうとするのは、その先に望みを抱くことができるからです。確かに、残りの生涯が終わりを迎える日が来ます。私たちの地上の命が尽きる日が来ます。しかし、キリストのものとされ、キリストを主と仰ぐ者は、神との関係においては、霊において生きるのだ、とペトロは言います。これも誤解をしないように、気をつけなければなりません。私たちの肉体が滅びても、霊魂は滅びることなく神さまのもとに行く、と言っているのではありません。キリスト者であろうがなかろうが、私たちの地上の命は、死によって滅びるのです。けれども、キリストを通して、命の源である神にしっかりとつながっているならば、その命が空しくなることはありません。神の永遠の記憶の中に刻まれ、命の書の中に名を記された者として、神のもとに守られているからです。

 だから、私たちは、この残された地上の生涯において、神のもとから再び迷い出てしまうことのないように、キリストのみ苦しみを思いながら、キリストのみ苦しみにあずかる心構えをもって、覚悟をもって武装するのです。武装すると言っても、私たちが戦いを挑むのではありません。この世の誘惑や試練に負けてしまうことのないように、この世の価値観に同調して、信仰を無くしてしまうことのないように、キリストご自身をしっかりと身にまとうのです。
 私たちはこれから、キリストの十字架のみ苦しみを覚えつつ、その裂かれたからだと流された血潮にあずかります。これこそ私たちにとって、最も大切な、最も力強い武装だと言ってよいのではないでしょうか。私たちは、何よりも、生ける神の言葉によって武装するのです。この世の誘惑や試練によって、揺さぶられることのないように、私たちは語られる言葉としての説教と、見える言葉としての聖餐によってしっかりと信仰に立つのです。主の食卓を囲んで、神の恵みによって武装する。私たちの残りの生涯は、この主の食卓のもとにあります。ここにこそ、私たちの救いがあり、私たちの望みがあるのです。