2026年1月25日 主日礼拝説教「キリストはどこに」 東野 尚志牧師

詩編 第139編1~10節
ペトロの手紙一 第3章18~22節

 「イエス・キリストは、あなたにとってどのようなお方ですか」。これは、洗礼を受けたいと願い出た人に、私が必ずお尋ねする問いの一つです。漠然と神さまを信じます、というのではなくて、イエスさまとの関わりを問います。イエスさまの十字架の死が、自分にとってどのような意味を持っているのか、そのことをきちんと受けとめて欲しいと思うからです。通常、受洗志願者が与えられると、まず牧師との間で準備の学びの時を持ちます。その上で、洗礼式に先立って、役員会の中で面接試問の時間を設けます。志願者を役員会にお招きして、まず役員の方たちに紹介します。次に、洗礼の志願を受けてから、どんな準備をしてきたかということを牧師から報告します。準備期間の長さにもよりますけれど、使徒信条、日本基督教団信仰告白、あるいは、そのほかのカテキズムなどを用いて、信仰の学びをします。その報告をするのです。それから、志願者自身に、洗礼を受けようと思ったきっかけや、受洗の決意、自分の信仰について述べていただきます。それを受けて、役員の方たちから質問をするのです。受洗の決意に導かれた聖書の言葉を尋ねたり、自分以外の家族がどのように受けとめているかを尋ねたりします。その中で、問う。「イエス・キリストは、あなたにとってどのようなお方ですか」。幼児洗礼を受けている人の信仰告白志願の場合も、ほぼ同じ道をたどることになります。
 面接試問などと言うと、試験をするみたいで、びっくりされるかもしれません。年配の方たちの中には、準備の学びなんてしてもらった覚えはない、という方がおられるかもしれません。クリスマスやイースターが近づいてきて、牧師から、そろそろどうですか、と声をかけられた。はい、お願いします、と答えたら、洗礼を受けることになった。かつては、そういう時代があったかもしれません。けれども今は、役員会の面接試問において、いろいろなやり取りをしながら、最終的には、日本基督教団信仰告白を受け入れて、これを共に告白する信仰を確かめる、そのことを大事にしています。もちろん、意地悪な質問で志願者を困らせて、落とそうなどと思う役員はいません。神さまが導いてくださり、ふさわしい時を備えてくださった、その思いを分かち合いながら、感謝をもって、その人に洗礼を授けることを、役員会として決議するのです。

 明治大正時代、日本のプロテスタント教会の草創期、飯田橋にある富士見町教会の初代牧師を務められた植村正久という先生がおられます。富士見町教会は改革長老派の教会ですから、長老会が受洗志願者の面接試問を行います。洗礼を志願して、主イエス・キリストに従って生きることを決心した人は、長老会に陪席して、信仰の試問を受けました。その席で、植村正久牧師が、受洗志願者に必ず問うた言葉があったと伝えられます。それは、「イエス・キリストは、あなたにとってどのような方ですか」という問いではありません。「イエス・キリストは、今どこにいますか」と問うたというのです。洗礼を受けようとする人は、このことがきちんと分かっていなければならない。他のことは分からなくても、キリストがどこにおられるかが分かっていれば、洗礼を授けてよい、と考えられたようです。信仰の急所がここにある、ということでしょう。果たして、皆さんが同じことを問われたら、どんなふうにお答えになるでしょうか。「イエス・キリストは、今どこにいますか」。
 もちろん、いろいろな答え方が可能であると思います。イエスさまはいつも私と共にいてくださいます。そのように答える人が多いかもしれません。それも正しい答えだと思います。けれども、日本基督教団信仰告白の中に含まれており、私たちが、毎週の礼拝において一緒に告白している使徒信条はどのように告げているでしょうか。「主は聖霊によりてやどり、処女(をとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり」。神の独り子である主イエスは、聖霊によってマリヤのお腹に宿り、私たちと同じ人間のひとりとしてこの地上に生まれてくださいました。そして、その生涯を通して、人として生きることの苦しみや悲しみをなめ尽くし、ついにはポンテオ・ピラトの裁判を経て、十字架にかけられました。十字架の上で死んで墓に葬られ、陰府にまで降られた後、十字架の死と葬りから数えれば三日目となる主の日の明け方、死人の中から復活された。多くの弟子たちにご自身を現わされた後、使徒たちの見守る中、天へと昇って行かれました。そして、全能の父である神の右の座にお座りになったのです。ここまでは、イエス・キリストの過去についての告白です。ただし、最後の言葉は、過去から現在に続いています。神の右の座に着かれた主イエスは、今もそこにおられるのです。そうでなければ、将来の約束が意味をなさなくなります。「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」。終わりの日、主イエスは裁き主として、「かしこ」すなわち、天から降って来られます。つまり、終わりの日の再臨のときまで、復活された主イエスのお体は、天にあるのです。

 「イエス・キリストは、今どこにいますか」。この問いに対して、使徒信条に基づいて答えれば、天におられるということになります。父である神の右の座に着いておられる。そのように答えることができます。復活して天に昇られた主イエスは、今も、父なる神の右で、私たちのために執り成しをしていてくださる。教会はそのように告白してきました。使徒パウロは、ローマの教会に宛てた手紙の中で、述べています。「誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。誰が罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです」(ローマ8章33~34節)。
 それならば、キリストは、今、天におられ、私たちは地上にいて、天と地に引き離されて、遠く離れているということでしょうか。終わりの日、主が再び天から降って来られるその日まで、私たちは、この地上で、主イエス・キリストと出会うことはできないのでしょうか。そうではありません。天に昇られた主イエス・キリストは、父なる神のもとから、ご自身の霊である聖霊を送ってくださいました。だから、目には見えない霊において、主イエス・キリストは、私と共にいてくださり、私たちと出会ってくださいます。今も私たちを支え、守っていてくださるのです。私たちがどこにいても、主イエスは、私たちすべてと、同時に共にいてくださることができる。そのために、主は天に昇られたと言ってもよいのです。主イエスは今、天におられ、また霊において私たちすべてと共にいてくださる。その両面を捉えることが大事なのです。

 使徒信条の第二項、子なる神キリストについての告白は、救い主である主イエスがたどられた道筋を描いています。はじめに、父なる神と共に天におられた子なる神が、この地上に降って来られ、十字架の死と復活を経て天に昇られたことを告げているのです。ところが、使徒信条は、十字架の死と復活の間、福音書が記していない一日のことを告白しています。主イエスのご生涯を描いた福音書によれば、主イエスはエルサレム入城から始まった最後の一週間、受難週と呼ばれる週の金曜日に、十字架にかけられました。十字架の上で最後の息を引き取られた主のお体は、十字架から降ろされて、その日のうちに、アリマタヤのヨセフが用意したお墓の中に葬られました。次の日、つまり土曜日は安息日であり、みな掟に従って一日休んだのです。そして、安息日が明けるのを待ちかねたように、三日目、週の初めの日の朝、女たちは主が葬られた墓に急ぎました。主のお体に香料を塗るためでした。ところが、墓に着くと、墓の中が空になっているのを見いだします。その場に現れた天使は、主が復活されたと告げたのです。
 福音書が何も記していない一日、すなわち、安息日である土曜日は、丸一日、主のお体は墓の中に横たえられたままでした。けれども、使徒信条は告白しています。「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり」。十字架の死に引き続いての埋葬と、復活との間の一日、つまり、土曜日のキリストは陰府にくだられたと言うのです。福音書の受難物語に根拠を求めることはできません。新約聖書全体の中で、唯一、キリストの陰府くだりについて記しているのが、ペトロの手紙だと言ってよいと思います。ペトロは、第一の手紙の3章18節で、キリストの苦しみについて語ります。主はご自身には全く罪がなかったにもかかわらず、罪ある者たち、私たちのために、「ただ一度」苦しまれたと記します。それは、私たちを神のもとへ導くためであったと言うのです。肉では殺されたキリストのお体は、墓の中に横たえられました。けれども、霊では生かされたと述べて、続く19節に記します。「こうしてキリストは、捕らわれの霊たちのところへ行って宣教されました」。使徒信条が「陰府にくだり」と告白しているのは、キリストが捕らわれの霊たちのところへくだって行ったという、この聖書の箇所を根拠にしているのです。恐らく、これが唯一の聖書的な根拠になります。しかも、ペトロの手紙は、使徒信条が告白していないことまで伝えています。死んだ者たちのところにまで赴かれたキリストは、そこで「宣教された」というのです。

 「陰府にくだり」という一句は、元々、使徒信条にはなかった言葉であると言われます。教会は、なぜ、この言葉を使徒信条に加えたのでしょうか。恐らく、キリストの福音が異教的な社会に伝えられていく中で、信徒たちが直面した切実な問いかけに答えようとしたのではないかと思います。それは、日本という異教社会に生きている私たちにもよく分かることであるはずです。日本のような伝道地の教会の現実においては、家族の中で自分ひとりがキリスト者である、そういう場合がまだまだ多いのではないでしょうか。そういう中で、しばしば私たちを悩ませる問いがあります。それは、イエス・キリストを知らずに死んでしまった自分の親兄弟、あるいは、キリスト教に触れて、聖書も熱心に読んでいたけれども、結局、洗礼を受けるまでには至らずに、地上の命を終えてしまった自分の家族は、救われないのか、という問いです。これは自分の愛する者たちに関わる問いであるだけに、真剣な、また深刻な問いになります。自分自身はキリストを信じ、洗礼を受けて救いに入れられた。それなのに、家族を信仰に導くことができなかった。その思いで、しばしば自分を責めてしまうことにもつながるのです。
 この問いは、もう少し歴史に対して視野を広げると、こう問い直すこともできます。今から二千年前に、神の独り子が人間のひとりとして生まれ、このイエス・キリストの十字架とよみがえりにおいて救いの御業が成し遂げられた。それならば、キリスト以前、十字架以前に死んでしまった人たちはどうなるのか、という問いです。確かに、私たちの救いは、イエス・キリストという歴史的な人格と深く結びついています。ペトロも力強く証ししたように、「この人による以外に救いはない」のです(使徒4章12節)。しかしそれならば、この救い主と触れ合うことなしに地上の生を終えた者たちはどうなったのか。その人たちには、救いに与る機会はないのか、という問いが持ち上がるのです。聖書は、この問題に対して、直接答えを与えてはいません。それは、私たち人間の知るべきことではないのかもしれません。最終的には、永遠にいます神の御心に委ねるほかはないのだと思います。しかし、御言葉は、全く沈黙しているわけではありません。むしろ、イエス・キリストの救いの御業を見つめながら、イエス・キリストのたどられた道を、はっきりと指し示すのです。

 ペトロの手紙は告げました。「キリストも、正しい方でありながら、正しくない者たちのために、罪のゆえにただ一度苦しまれました。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では殺されましたが、霊では生かされたのです。こうしてキリストは、捕らわれの霊たちのところへ行って宣教されました」。この続きを読んでいけば明らかなように、旧約聖書の創世記の記事が思い起こされています。ノアの洪水と箱舟の話はよく知られています。神が、不従順な人間を審き、滅ぼされた物語です。神は洪水を起こすことを予告されたにもかかわらず、その言葉を信じて、神の言葉に従って箱舟を造り、洪水に備えたのはノアとその家族だけでした。神の言葉を無視して、箱舟を造るノアを嘲った者たちはすべて、滅びの水に飲み尽くされてしまったのです。そのとき滅ぼされてしまった者たちの魂は一体どうなってしまったのか。人々は考えました。神に従わず、滅ぼされた者たちの魂は陰府の世界に閉じ込められている。獄の中に捕らわれている。その物語を下敷きにしながら、ペトロは語りました。「こうしてキリストは、捕らわれの霊たちのところへ行って宣教されました」
 ペトロはなぜ、聖書のほかの箇所には見られないようなことを、ここに書き記したのでしょうか。それは、私たちが、キリストを知らずに死んでしまった者たちのことで、心を煩わせることがないようにするためであると思います。死んだ者のことは、私たちがどんなに心配したとしても、もはや、私たちの手の届かないところにあります。私たちの言葉も届きません。けれども、自ら死を味わい、陰府にまでくだられたキリストの手は届いています。キリストの言葉は届いているのです。ペトロは、陰府にまでくだられた救い主において、詩編の言葉が実現していることを、見いだしたのではないでしょうか。合わせて朗読した詩編139編に歌われています。「どこに行けば、あなたの霊から離れられよう。どこに逃れれば、御顔を避けられよう。天に登ろうとも、あなたはそこにおられ 陰府に身を横たえようとも あなたはそこにおられます。暁の翼を駆って、海のかなたに住もうとも そこでも、あなたの手は私を導き 右の手は私を離さない」。本来、陰府というのは、命の源である神との関わりが断ち切られて、死の力が支配する暗闇だと考えられていました。しかし、そこにも神がおられる。主イエス・キリストは、陰府にまで赴かれ、福音を伝えられただけでなく、陰府を経て、死を突き抜けるようにして、復活へとつながる救いの道を開いてくださったのです。

 キリストは、陰府にまでくだって、死んだ者たちに対しても宣教しておられる。それなら、私たちが苦労して伝道しなくてもよいのではないか。もしかしたら、そんなふうに考える人がいるかも知れません。生きている間に救いにあずかれなくても、死んだ後にセーフティネットがあって、みんな陰府で救われるのなら、もう全部、イエスさまにお任せすればよいのではないか。しかし、そうではありません。ペトロが告げているのは、主イエスの救いの恵みが及ばないところはどこにもない、ということです。土曜日のキリストは陰府にまでくだられ、陰府の世界にも福音を響かせてくださいました。それによって、天上のものも、地上のものも、地下のものもすべてが主を知るようになり、神を賛美するようになる。そのような救いの道が開かれたのです。だからこそ、私たちは、その大いなる救いの力を信じて、愛する者に福音を伝え、共に主を賛美する道を求めて行くのです。そのために祈り、そのために仕え、そのために力を尽くすことができる。なぜなら、その祈りは決して空しくされることがない、と信じることができるからです。今、自分自身が生かされている救いの喜びをしっかりと受けとめながら、今共に生きている隣人に、私たちの傍らにいる愛する者たちに、その命のある間に、キリストの恵みを証しして、教会に招き、洗礼に導かれて欲しいと願いながら、執り成しの祈りに生きるのです。
 ノアの箱舟は、しばしば、教会のしるしとみなされてきました。箱舟に乗り込んだ者たちは、水の中を通って救われたのです。ペトロは、この水は洗礼を象徴するものだと語ります。私たちも、洗礼において、キリストに結ばれて古い自分に死に、キリストと共に新しい命に生かされます。そして、現代の箱舟である教会に生きるものとされるのです。この箱舟には、まだまだ余裕がたくさんあります。さらに多くの人たちが、その地上の命のある間に、教会へと招かれ、救い主と出会い、洗礼の恵みにあずかることができるようにと祈ります。この舟の中に、私たちが祈りに覚える大切な人が共に乗り込んでくれることを願い、救いにあずかる喜びを証ししていきたいと願います。