2026年1月1日 元旦礼拝説教「永遠に変わることのない方」 東野 尚志牧師

申命記 第31章7~8節
ヘブライ人への手紙 第13章1~8節

 新しい年を迎えました。主の年2026年の1月1日。日本人の多くが、初詣に出かける日であると思います。以前、鎌倉に住んでいた頃は、大晦日の夕方から正月3日の夕方まで車の通行が制限されて、鎌倉の旧市街に、車が入れなくなりました。鎌倉の駅には続々と人が降り立って、大きなうねりのように、鶴ヶ丘八幡宮を目指して流れていきます。その流れから外れるようにして教会に集まり、元旦礼拝を行うということは、信仰の証しの業でもありました。新しい年の初めに、神を拝む。それは、新しい年を迎えて、自分たちのささやかな幸せを願い祈るということに先立って、何よりもまず、天地万物の造り主であり、地上の歴史を導き、支配しておられるお方を礼拝し、神に栄光を帰するためです。私たちは、今日、新しい年を迎えて、まず初めに、神をほめたたえるために、ここに集まったのです。
 世界の有り様は、絶えず移り変わっていきます。その変化の早さは驚くほどです。すべては過ぎ去り、過去のことになります。いやなことは早く忘れたい、というのが本音なのかもしれません。新しい年に、せめてもの望みをつなごうとするのです。けれども、そうやって絶えず移り変わる歴史の中に呑み込まれてしまうと、私たちは気づかない内に、同じ過ちを繰り返してしまうのではないかと思います。変わりゆく世界の中で、流されてしまうことなく歴史の真実を捉えるためには、変わることのない確かな視点を持たなければなりません。私たちは、歴史の主である神の御前において、神のまなざしのもとでこそ、変わりゆくこの世界と私たち自身の真実を捉えることができるのではないでしょうか。私たちが何のために生き、何のために死んでいくのか、その意味と目的は、永遠なるお方である神との関わりの中でこそ、明らかにされるのです。

 ヘブライ人への手紙は、その最後の章において、明確な信仰の告白を記します。すべてが過ぎ去り、変わりゆく世界のただ中で、ただ一人、変わることのないお方をしっかりと仰ぎ見ながら、告白するのです。「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です」。ヘブライ人への手紙第13章8節の言葉です。恐らく、この手紙が書かれた当時の人たちも、歴史の変化とうねりの中で、大きな不安を抱えていたのだと思います。この告白の直前の7節には、このように記されています。「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを思い出しなさい。彼らの生き様の結末をよく見て、その信仰に倣いなさい」。
 以前、「生き様」という日本語は、あまり良い意味ではない、と聞いたことがあります。「死に様」とか「ざまを見ろ」という言葉があるように、どこか不様(ぶざま)な生き方を表わす言葉だから、使わない方がよいと学びました。同じところを、口語訳聖書は「彼らの生活の最後を見て、その信仰にならいなさい」と訳しました。新共同訳聖書は、「彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」と訳しています。この方がしっくりくるように思いますけれど、言葉の用い方もまた、変わっていくのでしょう。「生き様」という言葉も、否定的なニュアンスなしに、「生き方」や「生きる姿勢」を表わす表現として用いられているわけです。

 いずれにしても、二千年前、この手紙を受け取った人たちは、不安の中に置かれていたのだと思います。神の言葉を語ってくれた尊敬すべき指導者たちが、次々に世を去っていったのです。迫害を受けて命を落とした人たちも少なくなかったと思います。たとえそうではなくても、時間の中で生きている以上、いつまでもこの世に留まり続けることはできません。信頼する指導者たちが、次々といなくなって、教会員は不安の中に取り残されていたのだと思います。それは、私たちも経験することです。
 私が東京神学大学で直接教えを受けた先生たちも、次々天に召されました。なお教えを請えるかつての恩師は、近藤勝彦先生お一人になりました。人もまた過ぎ去るのです。けれども、そういう中で、聖書は、なおも変わることのないものを示そうとします。既に世を去った指導者たちが語ってくれた言葉、神の言葉そのものである主イエス・キリストを指し示しながら告白するのです。「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です」。

 「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です」。この告白は、私たちに不思議な安心感を与えるのではないかと思います。あらゆる物が過ぎ去って行くこの世にあって、私たち自身の肉体も次第に老いて、やがては朽ちていくという厳しい現実に直面しながら、あるいはまた人の心も時の流れの中で変わってしまう、そういうどうしようもない不確かな移り変わりの中で、いつまでも変わることのない確かなものがある、というのは心強いことです。永遠なるものに対する憧れ。それは、限られた時間の中を生きている私たち人間にとって、ごく自然な思いなのでしょう。永遠の美しさを求め、永遠の愛を誓い、永遠の命を獲得しようとする。
 しかし、また皮肉なことに、永遠なるものを追い求めれば追い求めるほど、かえって、確実に古び、変化していくこの世の現実が厳しく立ちはだかります。この世のすべては絶えず変化していきます。その変化の行き着くところは「死と滅び」なのです。死は、まるで全能の力を振るうかのように、すべてのものを待ち構え、飲み尽くしていきます。そこにはひとりの例外もありません。私たちが生まれたということと同じ確かさで、確実に死はやってきます。そのような厳しい現実の中で、御言葉は、今日、私たちに告げるのです。「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です」。

 「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です」。今日、私たちを礼拝に招き、礼拝において私たちに出会ってくださる主イエスは、昨日もおられた方であります。私たちは「主イエスの昨日」、あるいは、昨日の主イエスについて何を知っているでしょうか。ヘブライ人への手紙が、この第13章に至るまでに、言葉を尽くして、主イエスについて語ってきたことを遡ってみればよいのかも知れません。「キリストは、人として生きておられたとき、深く嘆き、涙を流しながら、自分を死から救うことのできる方に、祈りと願いとを献げ」られた、と証ししています(5章7節)。私たちと同じように、数々の試練に会われ、苦しみを味わわれたのです。そして、まことの大祭司として、ただ一度、聖所に入り、ご自身の血を注いで、永遠の贖いを成し遂げられました。それは、まさに、使徒信条が私たちに教えてくれるような、成就された過去、「主イエスの昨日」です。
 今日もこの後、ご一緒に告白をする使徒信条は、主イエスの過去について簡潔に記しています、「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり」。最後の言葉は、過去であるだけでなく、現在にも続いています。二千年前、復活して天に昇られた主イエスは、全能の父なる神の右の座に着かれました。そして今も、父なる神の右に座して、私たちのために執り成しをしてくださっているのです。この主イエスが、やがては、「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審」かれます。つまり、昨日、私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださった方が、今日も、私たちのために執り成しの業を続けておられ、やがて世界の裁き主として再びやって来られるのです。

 「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です」。もう少し聖書の元の言葉に忠実に、直訳的に言えば、「変わることがない」というのは、実は、「同じ方だ」と書いてあります。英語の聖書の方がはっきりしています。“Jesus Christ is the same yesterday and today and forever.”イエス・キリストは、昨日も、今日も、同じ方なのです。それならば、いつまでも永遠に同じ方であるというのはどういうことでしょうか。私たちは、なかなかこの「永遠」ということを正しく理解できないのではないかと思います。永遠というと、ただ時間を無制限に引き伸ばした、とてつもなく長い時間、というぐらいにしか想像力が働きません。私たちの時間が限られており、死によって終わるという現実から判断して、永遠とは終わらない時間のことだと思いがちです。しかし、聖書の中で「永遠に」とか、「いつまでも」と訳されているのは、実は、「来るべき世」を表す言葉が用いられているのです。
 つまり、イエス・キリストは、昨日も、今日も、来るべき世までも同じ方だと言っているのです。言い換えるならば、イエス・キリストにおいて、イエス・キリストと結ばれている今日、この礼拝の中に、主イエスの昨日が共にある、主イエスの来るべき世が共にある、もう少し、具体的に言いましょう。私たちが、この礼拝において、イエス・キリストとしっかりと結び合わせられているならば、二千年前、ゴルゴタの丘で成し遂げられた贖いの業が、決して過去の出来事ではなくて、今、他ならぬこの私のため、あなたのための救いとして差し出されているのです。さらに、終わりの日、主に結ばれた者たちが完全に贖われ、神の国が完成する、その喜びの集いを、今、この礼拝において、先取りして味わうことができるのです。なぜなら、来るべき世の支配者である方、その同じ方が、今、今日、私たちの主として、私たちと共におられるからです。

 私たちは、二千年前に、十字架において成し遂げられた贖いの業によって背後から支えられ、やがて来るべき世の、救いの完成の望みによって前から引っ張られるようにして、今日という時を生きています。もちろん、この世の現実から引き離されることはありません。この世の生活を軽んじてはなりません。しかし、私たちは、この世を超えたところに希望を置いているのです。ある人がキリスト者を定義してこう言いました。「キリスト者とは、イエス・キリストによって、永遠の命を望んでいる人間である」。私たちは現世の命を超えたところに、永遠の命の希望を持っているからこそ、この世に対して、本当の意味で、自由であることができるのです。永遠の命の希望というのは、決して、歳を取ってこの世の命に望みをなくした人たちの憧れではありません。イエス・キリストと結ばれることによって、終わりの日のよみがえりの命に、今生きることができる。確かな約束に基づいた望みです。よみがえりの命を、この世にあって、先取りしながら生きるのです。
 ここに、独特なキリスト者の生き方、キリスト者の倫理が生まれます。私たちは、この世にあっていかに生きるのか。ヘブライ人への手紙は、全体の結びの章となるこの第13章で、まさにそのことを語り始めたといってよいのだと思います。第12章から続けて読んで来ると、幾分唐突に、具体的な戒めの言葉が始まっているように思えるかも知れません。しかしそれは、あの主イエスの「昨日」と「来るべき世」の間、御業の始めの時とその完成の時の間を生きる私たちのために、行くべき道を指し示しているのです。

 具体的には、五つの戒めが語られています。まず第一は、1節「兄弟愛をいつも持っていなさい」。第二は、2節「旅人をもてなすこと」。第三は、3節「捕らわれている人たちを思いやり、虐げられている人たちを思いやる」。第四は、4節「結婚を尊ぶ」ということ。そして最後に第五は、5節「金に執着しないで、今持っているもので満足する」ということです。取り立てて、何か特別なことが求められているわけではありません。ある意味では、社会生活を続けていく上で当然とも思えるような、極く当り前のことが勧められています。もしも、これらの戒めをこの場所から切り離してしまえば、教会の中だけではなくて、どこへ持っていっても通用するような普遍性があると言えるかもしれません。とりわけ、ヒューマニズムの時代には、好まれそうな戒めが綴られています。
 けれども、そこに、見落としてはならないことがあります。いや、聞き落としてはならない一つの言葉があります。これらの具体的な戒めの背後から、あの告白の言葉が響いています。これらの一つひとつの戒めの言葉に、命を吹き込むようにして、あの告白の言葉が記されているのです。「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です」。私たちは、昨日も今日も、また永遠に変わることのないお方を通して、この戒めを聞き取らなければなりません。告白と戒めとはしっかりと結び付いているのです。

 兄弟として愛し合うことについては、主イエスご自身が、まずその道を示してくださいました。長老ヨハネはそれを美しく歌いました、「御子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちもきょうだいのために命を捨てるべきです」(1ヨハネ3章16節)。主イエスが私たちをきょうだいとして愛してくださったその愛の中に、私たちのお互いの兄弟愛が位置づけられます。また、旅人をもてなし、牢の中に捕らわれている者を見舞い、苦しめられる者を思いやることについては、マタイの福音書の中で、終わりの日、裁きの時の情景を描きながら語られます。主イエスは、こう言われるのです、「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」(マタイ25章40節)。助けを必要とする者たちのために献げられた一つひとつの愛の業を、主はご自身になされたものとして覚えてくださいます。このようにして、いつまでも変わることのないお方が、私たちの生活の具体的な場面に関わっていてくださるのです。言い換えるならば、私たちは、具体的な生活の実践の中で、神の言葉であるキリストの戒めを生きることができる。もっと言えば、キリストご自身を生きるのです。
 結婚の戒めは、さらに、直接的に、キリストと私たちとの関係を指し示します。パウロは結婚について教えて言いました、「『こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。』この秘義は偉大です。私は、キリストと教会とを指して言っているのです」(エフェソ5章31~32節)。結婚を重んじることの中で、私たちは、キリストと教会の関係を学び直すのです。キリストが教会を愛して、教会のためにご自身を与えられたその真実を、その恵みを、結婚の関係の中で学ぶのです。教会は、夫であるキリストに真実に仕えます。そこには、不品行があってはなりません。続いて語られる、金銭に執着することに対する戒めも同じです。主は言われました。「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6章24節)。結局のところ、この世はお金だと考えるなら、お金を神とし、お金に仕えていることになります。お金を偶像にしているのです。偶像礼拝はまさに、貪欲です。自分の欲望を満たすために、あらゆるものを利用し、神をさえ自分の道具にしようとします。けれども、神の恵みによって生かされている者は、神が与えてくださった物で満足し、神に感謝することを学ぶのです。

 このようなキリストと教会の関係、神と私たちの関係を支えているのは、神の一方的な約束です。「昨日も今日も、また永遠に変わることのない」キリストが、私たちに確かな約束を与えてくださいます。主は言われます(5節)。「私は決してあなたを見捨てず、決してあなたを置き去りにはしない」。すべてのものが変化し、いずれは朽ち果ててしまう不確かさの中で、昨日も、今日も、また、来るべき世においても変わることのない同じ一人の方が、確かに約束してくださるのです。ここで引用されているのは旧約聖書の申命記、第31章の言葉、先ほど合わせて朗読した聖書の中の一節です。モーセは自分の後継者として、イスラエルを約束の地に導き入れるヨシュアに告げました。「主ご自身があなたに先立って行き、あなたと共におられる。主はあなたを置き去りにすることも、見捨てることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。』」(申命記31章8節)。
 主は、私たちに先立って行かれ、私たちと共におられます。永遠に変わることのないお方が、いつも私たちと共におられるのです。だから、私たちは、この礼拝の中で、主が私たちのために贖いを成し遂げてくださった「昨日」を振り返りながら、やがて新しい世の支配者としてやって来られる主を、仰ぎ望みます。そして、主の約束に対して、力強く答えるのです。「主は私の助け。私は恐れない。 人間が私に何をなしえようか」(ヘブライ13章6節)。私たちは、人を恐れる必要はありません。人の目を気にする必要もありません。今いまし、昔いまし、やがて来るべき方が、私たちの助け主であるからです。死の力を恐れる必要もありません。死に打ち勝ったよみがえりの力にあふれた方が、私たちと共におられるからです。私たちよりも先に生きた、信仰の先輩たちも、このお方に対する信仰によって生き、また、その信仰によって死んだのです。

 私たちは、時の間を生きています。主イエスの「昨日」と「再び来られる時」、終末との間を生きています。しかし、この間の時も、主は御自身の霊である聖霊において私たちと共におられ、私たちの日毎の歩みを守ってくださいます。私たちは、具体的な戒めのもとにある日々の生活の中で、神の恵みをしっかりと受け止めながら、終わりの日を待ち望みつつ生きることができるのです。私たちの弱さや、信仰の不確かさをも、主の御手に委ねながら、終わりの日の完全な礼拝を先取りするようにして、今日、御前に集い、永遠の命の恵みに生かされるのです。  主の年2026年、この年も、礼拝から礼拝へ、変わることのないお方との豊かな交わりの中に支えられながら、与えられた「今日」という一日、決して繰り返されることのない、「今日」という日を、大切に歩んでいきたいと思います。皆さま、お一人びとりの上に、主の豊かな祝福と導きをお祈りします。