2025年8月3日 主日礼拝説教「あなたのための救い」 東野尚志牧師

イザヤ書 第52章7~10節
ペトロの手紙一 第1章8~12節

 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています」(1章8節)。今からもう45年近く前のことになります。私がまだ洗礼を受ける前、この箇所に赤えんぴつで線を引きました。当時は、口語訳の言葉でした。「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きに満ちた喜びにあふれている」。高校生のときは、京都にある仏教系の高校で 3 年間寮生活をしました。寮での人間関係に悩みながら、自分自身に絶望していた私は、大学に入ると同時に、近くのキリスト教会に通うようになりました。夏休みを挟んで別の教会に移って、次の年のイースターに、その教会で洗礼を受けました。20歳の誕生日を迎える5日前のことでした。
 教会に通いながら、まだ洗礼を受けることを考えてもいなかったときに、この聖書の言葉に線を引いていました。この言葉に感動したからではありません。よく分からなかったのです。でも、よく分からないながらも心に引っかかりました。どういうことなのかと問わずにいられなかったのです。「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはない」。その通りです。イエス・キリストは二千年前に、ユダヤのベツレヘムで生まれ、十字架にかけられて死んだ人。でも、復活したと信じられている人。二千年も前の人ですから、私たちが見たことはないというのは当然のことです。けれども、「見たことはないのに愛している」と言われると、もうよく分からなくなる。神が私たちを愛しておられる、イエス・キリストが私たちを愛しておられる、ということは何度も聞かされながら、よく分からないけれども、ありがたいことだと思います。でも、自分がイエス・キリストを愛しているか、と言われると、ピンと来ませんでした。「現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きに満ちた喜びにあふれている」と言われると、まだ信じていなかった私は、自分も信じたいと思いました。どうしたら、イエス・キリストを信じることができるのか。そう思って、とにかく、イエス・キリストのこと、聖書の言葉を、もっときちんと知りたいと思ったのです。

 聖書を読み、キリスト教の解説書を読んで、知識はどんどん増えていきました。けれども、聖書やキリスト教についての知識が増えても、それでイエス・キリストを信じることができるわけではありませんでした。信じるためには、何か、知識だけではない体験というか、確かなしるしが欲しいと思うようになりました。イエス・キリストと同じ時を生きた直弟子たちのことをうらやましくも思いました。直接、自分の目でイエスさまの姿を見て、自分の耳でイエスさまの声を聞いた人たちは、実感として、もっと確かな拠り所を得ていたのではないかと思ったのです。けれども、福音書の物語を良く読んでみると、そうでもなかったということが分かります。福音書はむしろ、当時の人たちが、肉における主のお姿につまずいたことを伝えます。ある人たちは、あれは大工の息子ではないか、と言いました。どうやらヨセフの本当の子ではないらしい、と噂しました。神から遣わされたメシアとしての権威を疑ったのです。そうかと思えば、主イエスが、ローマ帝国の支配を打ち破って、独立と解放を実現してくれるメシアだと期待した人たちもいました。一番、主の側近くにいた弟子たちでさえ、主イエスのことを正しく知ることはできなかったのです。だからこそ、信じて期待していた主イエスが、捕らえられ、十字架にかけられ殺されたとき、弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げてしまいました。
 主イエスの直弟子たちが、主イエスを本当に信じるようになったのは、十字架の後でした。十字架にかけられ、殺された主イエスは、三日目の朝、墓の中からよみがえって、弟子たちに現れてくださいました。そこでも、復活の主を見たということが、意味を持つことになります。復活された主イエスが、弟子たちの集まっている家に入って来られたとき、十二人の一人であるトマスだけは、その場にいませんでした。他の弟子たちが、自分たちは主を見た、と言って興奮している中で、ひとりトマスだけは冷めていました。トマスは、主イエスの手に、釘で十字架に打ち付けられた傷の跡を見て、自分の指をその釘跡に入れてみなければ、決して信じない、と言ったのです。一週間後、主が再び弟子たちの集まっている家に入って来られたとき、主はまっすぐトマスに歩み寄って言われました。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20章27節)。トマスは弾かれたように答えました。「私の主よ、私の神よ」。トマスは、復活の主と出会って、信じない者ではなく信じる者になりました。そのトマスの信仰告白を受け入れながらも、主は言われたのです。「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」。

 「見ないで信じる人は、幸いである」。それは、復活された主イエスが天に昇られた後、もはや肉の目で主を見ることはなくても、教会が告げる福音を聞いて信じる者たちへの祝福であり、招きだと言ってよいと思います。私たちへの招きです。見なくても信じるようにとの招きです。私たちは、自分の目で見ているものが確かなのだと思っています。すぐに証拠を見せろと言いたくなります。十字架にかけられた主イエスの足元で、ユダヤ人たちは主を嘲って言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」(マタイ27章42節)。けれども、主は十字架から降りては来られませんでした。降りようと思えば降りられたに違いない。それを見たら、本当にユダヤ人たちは信じたのでしょうか。自分が納得できるようにして欲しい。自分が確信できるようにして欲しい。自分が確かだと思えるような証拠が欲しい。自分を満足させて欲しい。自分の目で見たら信じるというのは、結局のところ、自分を基準にして、自分の感覚に頼っているということなのではないでしょうか。それは、どこまで行っても、自分に確かさを置いていることになるのではないかと思います。そもそも、証拠が示されて、疑いようもなく確かだと証明されたなら、それはもはや、信じる事柄ではなくなってしまうのではないでしょうか。ただ理解し、承認するだけのことです。
 私たちは、自分の目で見たら信じられるというのは当然のことだと思うかも知れません。けれども、見ていることはもはや信じる必要はなくて、むしろ、見えないからこそ信じるという方が、本当なのではないでしょうか。「信じる」というのは、自分の知識や経験により頼んで、自分の中に確かさを積み上げていくことではありません。むしろ、自分自身は何の頼りにもならない、自分の考えや経験など、全くあてにならないものであることを思い知らされた中で、突き詰めて言えば、自分自身に絶望したところで、ただ神により頼む、それが神を信じるということなのではないでしょうか。確かさは、私たちの中にではなく、神の側にあるのです。信仰は賭けだと言った人がいます。自分ではコントロールできません。神に賭ける、神の言葉に賭ける、神の約束に賭ける、神が私たちのために計画し、成し遂げてくださった救いの御業、その神の救いを告げている聖書の言葉に賭けるのです。信仰は冒険だと言う人もいます。確かにそれは、信じるかどうか、迷っている私たちの側からすれば、結果の分からない、危険に満ちた決断をすることになるのかもしれません。けれども、神さまの側からすれば、これほど確かなことはないのではないでしょうか。私たちを絶望と苦しみの中から救い出すために、神さまの側で必要なことをすべて整えてくださって、私たちを招いていてくださるのです。疑いや迷いといった深い淵を飛び越えて、神の懐に飛び込むように招いていてくださるのです。向こう岸で、神さまがしっかりと受けとめてくださる、そう信じて、主のみ腕の中に飛び込むのです。

 信じることは賭けであり、飛ぶこと、そのとき、私たちは、大きな転換が起こっていることに気づかされます。自分自身に頼るのではなく、神に頼る。それは、天動説から地動説へのコペルニクス的な転回のように、自分を中心とした世界観から神を中心とした世界観への転回だと言ってよいのだと思います。それを、聖書は悔い改めと呼びます。聖書は、初めに、神が天地万物を造り、ご自身にかたどって、ご自身に似せて人間を造られたと記しています。そして、神は、この造られた世界を、私たち人間の手に託して、これを神のものとしてふさわしく管理する務めを与えられました。ところが、私たち人間が、神の言葉に背いて、神に背を向け、神と関わりなしに生きようとし始めたことで、今も、世界は深く傷つき病んでいます。造られたものたちが呻いています。私たちがもう一度、神を中心とする生き方に立ち帰らない限り、救いはありません。私たちが、人間中心の傲慢な考えを捨てて、私たちがこれまで頼りにしてきた力や富を手放して、真実に神を頼みとする生き方へと立ち帰らなければ、この世界に望みはないのです。
 神さまは、神に背いた罪のために、罪と死の力に支配されてしまったこの世を、なおもお見捨てにはなりませんでした。預言者たちを遣わして、救い主の到来を告げてくださいました。預言者イザヤは告げました。「なんと美しいことか 山々の上で良い知らせを伝える者の足は。平和を告げ、幸いな良い知らせを伝え 救いを告げ シオンに『あなたの神は王となった』と言う者の足は。聞け、あなたの見張りが声を上げ 共に喜び歌う。主がシオンに帰られるのを 彼らは目の当たりにするからだ。歓声を上げ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主がその民を慰め、エルサレムを贖われたからだ。主はその聖なる腕を すべての国民の目の前にあらわにされた。地の果てのすべての者が、私たちの神の救いを見る」(イザヤ 52 章 7~10 節)。そして、その約束のとおりに、神さまは、ご自身の独り子である主イエス・キリストを、この地上に遣わしてくださいました。福音書記者は告げています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ 3 章 16 節)。私たちは、神がその独り子を世に与えられた、という言葉が何を意味しているのかを知っています。預言者イザヤは、あの救いの預言のすぐ後に続けて、53 章で苦難の僕の姿を描きました。私たちの身代わりとなって、私たちの罪をすべて背負い、自らの命を犠牲にするメシア、救い主キリストを指し示したのです。

 預言者たち、いや旧新約聖書の全体が、主イエス・キリストの苦難とそれに続く栄光を証ししています。御子イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちのすべての罪が赦され、私たちが神の子としての新しい命をいただく救いの道が開かれました。聖書に記された一つひとつの言葉が、真実であり、それはほかならぬ、この私たちのために、私のために成し遂げられた、ということを、聖霊なる神が証ししてくださいます。二千年前の十字架の出来事が、なぜ、今私たちの救いであると信じることができるのか、それは、聖霊なる神が、私たちのうちに、その信仰を形づくってくださるからです。いや、聖霊なる神が私たちの内に宿って、私たちの中に信じる心を宿してくださる。天地万物の造り主である神さまが、これほどの大がかりな準備をすべて整えて、成し遂げられた救いを、この私に、あなたに、差し出してくださった。父なる神さまが、二千年前、この世界の片隅で一人の幼子が生まれるという仕方でひっそりと始められた救いの業は、壮大な救いのご計画に基づいて成し遂げられ、私たちに差し出されているのです。この救いは、預言者たちが証しし、天使たちもうかがい見たいと願ったほどのものだと言われています。神さまは、天使たちも驚くほどの方法で、独り子イエスの誕生と十字架の死、復活と昇天という主イエス・キリストの苦難と栄光の歩みを通して、私たちのための、あなたのための救いを成し遂げてくださったのです。
 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。この招きに応えて、不信仰の硬い殻を破って、信じる歩みを始めるとき、ペトロが告げた言葉が、私たちにおいて実を結ぶことになります。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています」。さらに続けます。「それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救いを得ているからです」。 「アーメン」、と答えることができれば幸いです。私たち皆が、この救いの喜びに招かれているのです。