2025年5月4日 主日礼拝説教「信じて、命を得るため」 東野尚志牧師
イザヤ書 第55章6~7節
ヨハネによる福音書 第20章30~31節
主の日の礼拝において、ヨハネによる福音書を読み続けて参りまして、今日は、第20章の最後の言葉を読みました。この福音書の冒頭に掲げられた「ロゴス賛歌」、荘重な讃美の歌を読んだのは、まだコロナ禍のまっただ中に置かれていた、2021年9月のことでした。4年前の9月の第一主日、振起日の礼拝からこの福音書を読み始めたのです。それから3年と8ヶ月を経て、今日、その結びの言葉を読むことになりました。
結びと言いました。まだ21章が残っているではないか、と思われる方もあるでしょう。その通りです。来週の礼拝では、21章の1節から14節を読むことにしています。実際に、この福音書の全体を読み終えることになるのは、一か月先のことです。けれども、先ほど朗読したときにお気づきになったと思います。第20章の最後の2節には、結びの言葉の響きがあります。言ってみれば、短い「あとがき」のような言葉になっているのです。この福音書が書きおろされた当初は、この箇所でひとまず終わっていたのではないかと考えられます。この部分が、元来のヨハネによる福音書の結びであって、第21章は、後から付け加えられたものと考えられるのです。
ただし、後から付け加えられたものだから、省いてしまってもよいということではありません。21章を含まないヴァージョンが伝えられているわけではないのです。恐らく、かなり早い時期に、21章が書き加えられて、福音書としては一体になっていたと考えられます。21章の終わりの24節には、こんな言葉が記されています。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている」。この部分は、元来の福音書、ヨハネによる福音書を書いたのとは別の人が書いているということが分かります。福音書の著者のことを「この弟子」とか「彼」と三人称で呼んでいるからです。「これらのこと」というのは、1章から20章まで、この福音書の全体を指しているのでしょう。21章24節以下は、この福音の証しを受けとめた、別の人物の手によって書かれた、もう一つの「あとがき」だと言って良いわけです。二つ目の「あとがき」については、改めて、最後の最後に読むことにします。今日は、第20章の結びに記された、第一の「あとがき」を味わっていきたいと思います。
恐らく、皆さまも、日頃、いろいろな本をお読みになると思います。推理小説がお好きな方もあるでしょう。気の利いたエッセイや、歴史小説や、料理の本、哲学書や神学書を開く方もあるでしょう。話題になった書物を手に取ることもあります。普段、私たちが手にする書物にも、「まえがき」や「あとがき」が記されていることが多いのです。そこには、その書物の著者が、なぜ、このような本を書こうと思ったのか、あるいは、何のために、この本を書いたのか、その動機や目的について触れていることが多いと思います。手っ取り早く、著者の意図を知りたいと思って、「あとがき」から読む人もいるでしょう。あるいは、小説なんかですと、別の人が「解説」を書いていたりします。あまり先入観をもたないで、本文を味わった方がよいと考える人もいるでしょう。もちろん、書かれた書物は、読み手に委ねられているわけですから、どんな読み方をしても良いのだと思います。著者が思いもしなかった読み方がされることで、そこから新たな発展を遂げることもあります。けれども、やはり、それを書いた人の意図や目的を無視して読んでいると、大事なことを受け取り損なったり、その書物の神髄や命に触れないまま読み過ごしてしまったりということが起こります。やはり、「まえがき」や「あとがき」は、著者の心に触れる大事な手掛かりなのです。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。福音書が四つある中で、「まえがき」がはっきりしているのは、ルカによる福音書です。ルカは、福音書の冒頭に次のように記しています。「献呈の言葉」という見出しがついています。「私たちの間で実現した事柄について、最初から目撃し、御言葉に仕える者となった人々が、私たちに伝えたとおりに物語にまとめようと、多くの人がすでに手を着けてまいりました。敬愛するテオフィロ様、私もすべてのことを初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのです」(ルカ1章1~4節)。福音書記者ルカは、そのように「まえがき」を記した後、イエス・キリストの誕生に先立つ、先駆者ヨハネの誕生の予告から始めて、イエス・キリストにおいて実現した救いの物語を綴っていくのです。すでに他にも多くの人たちが手を着けてきた、と言いながら、ルカは、自分で行った調査や取材に基づいて、それを順序正しく書いて、その教えが確かなものであることをテオフィロという人に伝えようとしているのです。
第四福音書と呼ばれるヨハネによる福音書の著者は、福音書の本文をまとめた後、「あとがき」の部分で、これを書いた意図と目的を記しました。私たちが手にしている聖書協会共同訳の聖書は、この短い段落に、「本書の目的」という見出しを掲げています。その目的について語っているのが、20章31節ということになります。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じて、イエスの名によって命を得るためである」。二つのことが言われています。まず第一は、この福音書を読む人たちが「イエスは神の子メシアであると信じるため」だというのです。ここは、かつての口語訳聖書では、「イエスは神の子キリストであると信じるため」と訳されていました。もとのギリシア語の聖書を見ると、冠詞がついた「ホ・クリストス」と書かれています。わざわざ旧約聖書のヘブライ語に遡って「メシア」としないで、「キリスト」のままでも良かったのではないかと思います。
ご承知の方も多いと思いますが、ヘブライ語の「メシア」は、もともとは「油を注がれた者」という意味の言葉です。聖書の時代のイスラエルにおいて、王や祭司、預言者など、神に選ばれた特別な職務に就けるときに、油を注いだというのが始まりです。やがて、神が遣わしてくださる救い主を「メシア」と呼んで、イスラエルの民は、救い主メシアの到来を待ち望むようになりました。このヘブライ語の「メシア」をギリシア語に翻訳したのが「クリストス」、つまり「キリスト」という言葉になります。意味は同じで「油を注がれた者」ということです。かつての口語訳聖書では、「クリストス」と書かれているところはすべて「キリスト」と訳していました。ところが、共同訳の聖書では、「クリストス」とあるのを、わざわざ「メシア」と訳すようになりました。ヨハネの福音書の中で「クリストス」という言葉が20回近く出て来ますけれど、「キリスト」と訳されたのは3回だけです。明らかに「イエス・キリスト」という固有名詞のように用いられた箇所が2つ、あとは、実際に「メシア」という言葉が用いられて、その説明として「クリストス」と記された箇所です。主イエスがシカルの井戸のほとりで、サマリアの女と言葉を交わされたとき、その女性が言いました。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、私たちに一切のことを知らせてくださいます」(ヨハネ4章25節)。「キリストと呼ばれるメシア」。原文でもそう書かれているのです。この女性の言葉に応えるようにして、主イエスは言われました。「あなたと話しているこの私が、それである」。主イエスは、ご自分こそが、待ち望まれた救い主メシア、油を注がれた者、キリストであると告げられたのです。
「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため」。主イエスこそが、待ち望まれたメシア、救い主キリストであると信じるため、さらに合わせて「神の子」であると信じることが求められています。ヨハネの福音書では、繰り返して、主イエスは神から遣わされた方であると証しされてきました。主イエスご自身も、繰り返して、父なる神から遣わされたということを自覚的に語って来られました。けれども、ただ単に神から遣わされてその使命を果たす人間、すなわちメシアだ、というだけではありません。それに留まらず、むしろ、神と本質を同じくする存在として「神の子」という称号が用いられたのです。主イエスが、ユダヤ人の指導者たちの反発を受けたのは、言葉や業に大いなる力を示されたことへの妬みだけではありませんでした。主イエスが、ご自身を神と等しい存在「神の子」とされたからです。それは自分を神とすることであり、神への冒瀆、死罪に当たると訴えたのです。ユダヤ教の指導者たちが死刑を求めたほどのことですけれども、この福音書を読んだ読者たちが、主イエスこそは神の子である、神の子キリストであるということを信じるようになるために、この福音書は書かれたと言うのです。
もちろん、書かれた書物としての聖書は、いろいろな読み方をすることができます。聖書は永遠のベストセラーであると言われ、日本でも良く売れている書物の一つとされます。旧約聖書をイスラエルの民の歴史物語として読むこともできます。新約聖書は、イエス・キリストの伝記のように読む人もいると思います。文学のように読むこともできれば、当時の文化に触れる手掛かりのように研究したり、あるいは、人生の教訓や励まし、またより良く生きるためのヒントを得ようとして読んだりする人もいると思います。同じ旧約聖書であっても、ユダヤ教徒とキリスト教徒では読み方が違って来ます。主イエスご自身が語られた言葉を思い起こします。ご自分のことを信じようとしないユダヤ人たちに対して、主は言われました。「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたがたは、命を得るために私のもとに来ようとしない」(ヨハネ5章39~40節)。ここで主イエスが言われる「聖書」は、私たちの言う「旧約聖書」のことです。まだ新約聖書は書かれていないわけですから、それが唯一の聖書です。主イエスがお生まれになる前に書かれた旧約聖書が、実は、主イエスについて証しをする書物であると言われたのです。永遠の命を求めて聖書を読んでいるのに、聖書そのものが、永遠の命を与える方として証しをしている主イエスのもとに来ようとしない。それは、聖書の読み方が間違っている、的外れな読み方をしていると言われるのです。
確かに、聖書は書かれた書物として、いろいろな読み方ができます。実際、聖書は、どのような読み方に対しても十分に応え得るだけの知恵と力に溢れていると言って良いと思います。多くの宝が秘められています。けれども、聖書が何のために書かれたのか、聖書自身がどのように読まれることを願っているのかということを無視して、ただそれぞれの関心や好みに任せて読んでいるだけでは、その命に触れることはできないのだと思います。福音書は確かに、主イエスがなさったことやお語りになったことを記しているという意味で、イエス・キリストという優れた愛の人の伝記のように読まれるかもしれません。けれども、福音書は、決して、単なる主イエスの伝記ではありません。最初に書かれたとされるマルコによる福音書は、全体で16章まであるうちの11章以下、三分の一を越える分量をあてて、主イエスの最後の一週間、いわゆる受難週の出来事を記しています。しかも、マルコには主イエスの誕生の記事はありません。主イエスの受難と復活の物語に集中して行きます。ヨハネの福音書もそうです。13章には、主イエスが十字架にかけられる前の晩、最後の食事の席で行われた洗足の出来事が記されていました。主イエスが、弟子たちの足を洗って行かれたのです。そのようにして、愛すること、仕えることを、身をもって教えてくださいました。そして、その愛と奉仕の究極の姿としての十字架の死へと進んで行かれたのです。
ヨハネは告げています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため」。ヨハネだけではありません。四つある福音書のすべてが、そのために書かれたと言って良いのです。いや福音書だけではなくて、新約聖書の全体が、そのために書かれたのです。さらに言えば、主イエスが登場しない旧約聖書も含めて、聖書全体が、これを読む者に、主イエスが神の子メシア、キリスト、救い主であることを証ししようとしているのです。主イエスこそが、神から遣わされたメシアであり、神と等しいお方、神である、と指し示しています。そのように読まれることを望んでいるのです。その意味でも、この福音書の本文のクライマックスと言えるところで、あの主イエスとトマスの「再会」の物語が記されていることは、意義深いと思います。主イエスが墓の中からよみがえられた日、トマスは他の弟子たちと一緒にいなかったために、復活の主とお会いすることができませんでした。しかし、その一週間後、それは主の日の礼拝の中の出来事と言ってよいと思います。復活者である主イエスは、十字架のしるしを身に帯びた姿で、トマスにご自身を示されました。トマスを目がけて歩み寄って、十字架の傷を刻んだ手を広げて、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と招かれました。トマスは叫ぶように告白します。「私の主、私の神よ」。主イエスこそが、私の主であり、私の神であると告白したのです。それに対して、主はさらに言われました。「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」。
「見ないで信じる人は、幸いである」。聖書の語順に従って言えば、「幸いなるかな、見ないで信じる人は」ということになります。祝福を告げる言葉です。それはまず、最初にこの福音書を手にしたヨハネの教会の人たちのために語られた言葉でした。けれどもそれだけではありません。後の時代に、この福音書を読む者たち、私たちのために告げられた祝福なのです。私たちは、復活された主イエスのお姿を、肉の目で見ることはできません。けれども、私たちは、福音書の物語を読み、神の言葉を聞くことによって、主イエスを神の子救い主と信じるように招かれています。聖書の言葉を通して生きておられる主と出会い、主を信じ、「私の主、私の神よ」と告白する者は幸いだ、と言われるのです。それこそは、聖書そのものが求めている読み方であり、聖書を、まさに「聖書」として、神の言葉として読むことだと言って良いのです。
そして、そこから、第二の目的、あるいは約束と言っても良いでしょう。この福音書が書かれた究極の目的につながることになります。福音書記者は記しました。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり」。その後です。「また、信じて、イエスの名によって命を得るためである」。「イエスは神の子メシアであると信じる」ことは、それだけで終わらないのです。そのように信じて、「イエスの名によって命を得るため」だと言うのです。ここで言う「命」は、人間の肉体の命としての「プシュケー」ではありません。永遠の命を意味する「ゾーエー」という言葉が用いられています。「ゾーエー」という救いの命は、この福音書の中で、何度も印象深く語られてきました。真っ先に思い浮かぶのは、3章16節、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。主イエスは、あのサマリアの女との対話の中で言われました。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(4章13~14節)。また五千人の大群衆を前にして、わずか五つのパンと二匹の魚を分けて、満腹するまでに養われた出来事に続けて、弟子たちとの対話の中で告げられました。「よくよく言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる」(6章53~54節)。
永遠の命を得るというのは、地上の肉体の命がいつまでも死なずに生き続けるということではありません。それは、死を突き抜けて、死を越えて生きる命であり、もはや死の力に支配されることのない命です。日々、新しく生まれ出る命であり、終わりの日の復活によって完成される命です。主イエスを信じる者は、主イエスの名によってこの命を得ると言われています。それは、主イエスの名によって洗礼を受けることと重なり合うと言ってよいと思います。主イエスと一つに結ばれる洗礼によって、私たちは、キリストの死に合わせられて、罪に支配された古い自分に死ぬのです。そして、キリストの復活に合わせられて、神の子としての新しい命を生きるようになる。使徒パウロは、ガラテヤの教会に宛てた手紙の中で、洗礼について印象深い言葉を残しています。「キリストにあずかる洗礼を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです」(ガラテヤ3章27節)。まるで着物を着るように、キリストを着る。キリストを身にまとう。キリストにすっぽりと包み込まれるということです。キリストにすっぽり包まれて、キリストのものとして生きる。パウロは同じガラテヤ書の中で、「キリストが私の内に生きておられる」という言い方もしました。一見、矛盾するような表現ですけれども、これは、主イエスを信じる者の真実ではないでしょうか。キリストが私たちを包み込んでくださって、キリストの中で生きるということと、キリストが私の内に生きておられるということは、主イエスと共に生きる真実を言い表しているのだと思います。ヨハネは、この福音書を読む者たちが、主イエスを神の子メシア、キリストと信じ、主イエスの名による洗礼を受けて、キリストと共に、キリストのものとして生きるようになることを望んでいるのです。
それは、ただこの福音書を記した著者が望んでいるだけではありません。ヨハネを促して、この福音書を書かせた霊なる神ご自身が望んでおられることです。神さまが、その壮大な救いのご計画に基づいて、私たちを救いに入れるために、ヨハネを召して、この福音書を書かせてくださったのです。霊なる主の導きが、ヨハネにこの福音書を書かせ、この福音書を読む私たちの内に信仰を起こしてくださいます。主イエスこそ私の救い主、その信仰を明確に言い表し、主とひとつに結ばれる洗礼を受けて、キリストのものとされるように、そして、主が与えてくださる命の糧によって、永遠の命を生きる者となるように。神が私たちに望んでおられ、私たちを命に招いておられるのです。たとえ、この世界でどのような悲惨な出来事が起ころうとも、あるいは、私たちの人生においてどのような苦しみや痛みが襲ってきても、神さまの真実が空しくなることはありません。私を信じよ、そして生きよ。主は私たちの名を呼んで、救いの命にあずからせてくださるのです。