2025年12月7日 アドヴェント第二主日礼拝説教「祝福を受け継ぐために」 東野 尚志牧師
イザヤ書 第9章1~6節
ヨハネによる福音書 第1章9~13節
アドヴェント、待降節の第二主日を迎えました。会衆席の皆さんから向かって講壇の左にある、アドヴェント・クランツには、2本の蝋燭に火が灯っています。来週の日曜日には3本目にも火が灯り、その次の週には4本すべてに火が灯って、クリスマスの祝いの日を迎えるのです。
先週の日曜日から、会堂の右前方に、ベツレヘムの星も吊していただきました。私が以前、鎌倉雪ノ下教会の牧師をしていた頃、前任牧師の時代から、毎年アドヴェントになると、これと似たようなイガイガの星を、礼拝堂に上がる階段の途中に天井から吊していました。最初の頃に用いていたのは、ドイツから輸入した紙製の星で、一つひとつ独立したとがったパーツをピンで留めながら組み合わせて作り上げるのは結構大変だったようです。最初の頃は、毎年、クリスマス・シーズンが終わると分解して、次のシーズンまで保管していたそうですけれども、そのうち、分解しないでそのまま倉庫の中に吊るされるようになりました。
その後、教会を転任してからも、クリスマスには会堂のどこかに星を吊したいと、ひそかに思っていました。けれども、なかなか適当なものが見つからなかったのです。たまたま、2年前のクリスマスの頃、ネットで輸入品販売の広告を見つけました。「モラヴィアの星」という名前で宣伝されていました。確かドイツでは「ヘルンフートの星」と呼ばれていたと思います。ルーツは同じです。自分で購入して、すぐに組み立てました。残念ながら、昨年のクリスマスは機会を逃して、我が家の倉庫の中に置かれたままでした。今年は、ようやく、礼拝堂の中に吊していただくことができたのです。
クリスマスは、光が灯される祝いのときです。夜の場面が多く描かれます。マタイによる福音書の降誕物語が記しているように、東の国の博士たちは、偉大な王の誕生を告げる不思議な星に導かれてユダヤの国を訪れました。エルサレムの宮殿を訪ねると、ユダヤの学者によってメシア誕生の地はベツレヘムであるとの預言の言葉が示されます。エルサレムからベツレヘムへと送り出されたとき、博士たちが東の国で見た星が先立ってベツレヘムへと進んで、幼子イエスの生まれた場所の上に止まった、と言います。夜空に輝く特別な星の光に導かれたのです。あるいはまた、ルカによる福音書の降誕物語が記しているところによれば、野原で羊の群れの番をしていた羊飼いたちのもとに主の天使が現れ、救い主の誕生を告げたのも夜の出来事でした。夜の闇の中に、突然、天使が現れると、主の栄光が周りを照らしたと言います。クリスマスは、暗い夜の中に光が輝く出来事として描かれるのです。
そして、ヨハネによる福音書もまた、マタイやルカとは違った角度から、光の出来事を証しします。先ほど朗読した箇所の冒頭に記されています。「まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである」。ヨハネによる福音書は、その冒頭において、とても印象的な言葉を用いながら、救い主キリストについて語っています。いや語っているというよりも、歌っていると言った方がよいかもしれません。キリストは、この世界が誕生する前から、永遠に神と共におられた言(ことば)であり、世界とその中にあるすべてのものを造った神の言である、と歌うのです。この言は神ですから、ひらひらした葉っぱの字を付けずに、たったひと文字で「ことば」と読ませます。聖書のもとの言葉、ギリシア語では「ロゴス」と書かれているので、ロゴス賛歌、ロゴスである神をたたえる歌、と呼ばれてきました。ヨハネ福音書は、続けて、その言のうちに命があり、この命は人の光であったと歌います。さらに、その光が世に来た、と告げる。「その光は世に来て、すべての人を照らす」と言うのです。まことの光であり、根源的な命であり、神の言である方が、この地上に来てくださった。それがクリスマスの出来事であると記すのです。
クリスマスが夜の出来事として描かれるのは、意味深いことであると思います。クリスマスを迎えるこの世、この世界が闇に包まれていたことを告げているのです。今、この地球上には、いつでも人工の光が輝いています。太陽の光に照らされた明るい昼の側があれば、必ずその裏には暗い夜の側があります。けれども暗い夜の側には、人工の光が満ち溢れているのです。皆さんは、宇宙空間から地球の姿を捉えた映像をご覧になったことがあると思います。夜の闇の中に、日本列島の形がくっきりと浮かび上がるように光り輝いています。停電にでもならなければ、この光が消えることはありません。いやたとえ夜の間に停電になったとしても、今ならすぐに蓄えられたバッテリーで電気が点きます。私たちは、日常生活の中で、本当の暗闇というのを経験することが無くなったと言って良いかもしれません。
以前、鎌倉にいた頃、ある人から、本当の暗黒を体験することのできるトンネルの話を聞かされました。確か、神奈川県の丹沢にあるトンネルの話であったと思います。車は通ることのできない、300メートル以上もある長いトンネルで、歩いて入るしかありません。ところが、そのトンネルの中には、一切照明器具がついていない、というのです。しばらくは、入口からの自然光で後ろから照らされます。でも、中に進んでいくと段々暗くなります。トンネルの中が微妙にカーブしていて、やがては外の光が全く入って来なくなります。日常生活の中では体験できない、漆黒の闇に包まれるのです。懐中電灯でも点けなければ、何も見えません。自分の手を動かしても見えないのです。普通は真っ暗だといってもどこかに光がありますから、目が慣れてくるとぼんやり見えるようになります。けれども、全く光のないところでは、目を開けても何も見えないのです。不安になります。恐らく、私たちが夜になると灯りを点けるのは、本能的に闇を恐れるからなのだと思います。
ヨハネによる福音書は、冒頭のロゴス賛歌の中で、光と闇の攻防について記しています。「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」。聖書が闇について語るとき、それは、ただ光が届かないというだけではありません。光に背を向けた、罪の闇を指しています。世界は、人間の罪のために、闇に閉ざされているのです。ただ世界が暗いというだけでは済まない。私たち自身が、自分の中に罪の闇を抱えているのです。私たちが、本能的に闇を恐れるのは、自分の中に抱えている闇に呑み込まれてしまうことを恐れているのかも知れません。だから、人工の灯りで明るくして、闇を抑え込もうとします。自分の中にうごめく闇の力に気づかないで済むようにしようとするのです。けれども、周りを明るくして、一時的に闇を忘れることができたとしても、闇が無くなったわけではありません。自分の中に潜んでいる闇を、私たちは自分の力で取り除くことはできません。人工の光で罪の闇を追い払うこともできません。闇に打ち勝つまことの光が来てくださることによって、初めて、罪の闇が取り除かれるのです。
ヨハネはクリスマスの恵みについて証しして歌います。「まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである」。これが、聖書の原文の順序に従って、正しく訳しているということだと思います。けれども、かつての口語訳聖書の言葉も、忘れがたい響きです。「すべての人を照すまことの光があって、世に来た」。そうです。「世に来た」と告げるのです。まことの光が世に来たのです。罪の闇に閉ざされたこの世に、そして、罪の闇を抱えて苦しむ私たちのところに、まことの光が来てくださったのです。
この光が「まことの光」であるというとき、そこには二重の意味があると思います。一つは、この光そのものが偽りではなく、まことだということです。つまり、何か別の光を照り返しているのではなくて、自らが光を放つ完全な光だということです。当然、造り物の光でもありません。電源が十分に確保されなければ明るくならない光ではないのです。それ自体が輝いている光であり、その光ですべての人を照らすことができるのです。そして、もう一つの意味は、この光はまことの光、つまり真実の光であるからこそ、照らされたものの真実を暴くことになります。この光で照らされることによって、本物か偽物かが顕わになるのです。どんなに上辺を美しく装っていたとしても、隠された真実を照らし出します。罪の闇が顕わになるのです。
同じヨハネによる福音書の第3章に、興味深い言葉が記されています。ヨハネ福音書の第3章と言えば、すぐに思い起こされる言葉があります。3章16節。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この言葉もまた、クリスマスの真実を描くものです。クリスマスは、父である神が大切な独り子を世に与えてくださった出来事であり、神さまはそれほどに深く、私たちを愛してくださったと告げているのです。クリスマスは、光に照らされる出来事であると同時に、神の愛に包まれる出来事でもあることを証ししているのです。神さまはすべての人を愛していてくださるにもかかわらず、その愛を受けようとしない人たちがいるのはどうしてなのか、福音書はその真相を語ります。同じ3章の19節以下で、再び光と闇の攻防を描きます。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇を愛した。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神にあってなされたことが、明らかにされるためである」(ヨハネ3章19~21節)。まことの光が世に来たことによって、信じる者と信じない者、光を愛する者と闇を愛して光を憎む者とが分けられることになったと告げるのです。光に向かえば、明るく照らされ、その光を照り返すようにして、周りのものを明るくすることができます。けれども、光に背を向ければ、自分の影を見ることになります。闇はさらに深くなるのです。
第1章においても、まことの光に照らされた世の真実が告げられていました。1章の10節です。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった」。この世界も、そこに生きるすべてのものも、神の言によって造られ、神のものであったにもかかわらず、神に逆らう世、罪に支配された世は、自分の造り主である言を認めなかったというのです。造り主である神の力を認めず、神に従おうともしませんでした。まことの光を拒んで闇の中に留まり、自分が本当は何者であるかということも知ることがない。神の愛を知ることもない。自分自身を神として生きようとする。だから、「言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった」というのです。ここは、もう少し厳密に訳せば、「言は自分のもののところへ来たが、民は言を受け入れなかった」となります。言である神の独り子主イエス・キリストは、自分のもの、すなわち、ご自分の民であるユダヤ人のもとへ遣わされたのです。ところが、神の民であるはずのイスラエルが、神の独り子として来られたキリストを受け入れず、十字架に引き渡してしまうのです。本来ならば、救いはユダヤ人から来るはずでした。だから、神の御子もユダヤ人のひとりとしてお生まれになったのです。けれども、神の民であるユダヤ人がキリストを拒絶したことで、救いはユダヤ人を通り過ぎて、異邦人にもたらされることになりました。
ヨハネの福音書は続けて証しします。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた」。ユダヤ人からは、神を知らない汚れた民として蔑まれていた異邦人が、まことの光として来られた救い主を信じて、洗礼へと導かれ、神の子として新しく生まれる恵みにあずかっているのです。そして今や、極東という名で呼ばれたこの日本にも福音が告げられ、まことの光を受け入れて、続々と神の子たちが生まれているのです。ヨハネ福音書はさらに続けます。「この人々は、血によらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである」。ユダヤ人か異邦人か、その血筋によって分けられるのではありません。肉のつながりや人の欲によるのでもありません。ただ主イエス・キリストの名を信じて、洗礼を受けることによって、神の子として新しく生まれた者たちが、主イエスの光のもとで一つとされているのです。
私たちは、かつては、神の約束や救いと関わりのないところで生きていました。神を知らず、神など信じない生き方をしていました。ところが、救いの光に照らされ、私たちのところにまで来てくださった神の言、救いの言に出会って、神の子としての新たな命に招かれたのです。新しく生まれた神の子たちは、まことの命の光に照らされて、どのように生きるのでしょうか。同じヨハネによる福音書の中で、主イエスは言われました。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ」(ヨハネ8章12節)。「命の光を持つ」者というのは、どういう存在でしょうか。どのように生きるのでしょうか。
もうずいぶん昔のことになります。まだ私が洗礼を受ける前、高校生の頃であったと思います。たまたまラジオでキリスト教の番組が流れてきました。カトリック教会が放送している「心のともしび」という番組でした。番組の最初に語られる言葉が、今も心に残っています。「暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう」。そんなフレーズだったと思います。世の中のいろんなことに腹を立てていた反抗期の中にいました。けれども、「暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう」という言葉が、なぜか心に残りました。世の光である主イエスに従い、主イエスの光に照らされた者は、自らも暗いところに灯火をともしていくのではないでしょうか。
「みんなの心に小さな灯火をともそう」。そのように語った人がいました。アフガニスタンで75万人の命を救ったと言われる日本人の医師、中村哲さんです。昨晩、説教の準備をする中、ふとテレビのスイッチを入れたら、6年前に銃撃に遭って、志し半ばで倒れた中村哲さんが出ていました。NHKの「新プロジェクトX~挑戦者たち~」という番組でした。もともとは、医療従事者としてパキスタンにわたって、隣国のアフガニスタンでも医療活動を行い、ついには広大な砂漠の中に用水路を作るという壮大なプロジェクトを立ち上げたのです。2000年の大干ばつで、緑豊かであったアフガニスタンの土地が砂漠になりました。100年に一度の干ばつであったそうです。戦乱と干ばつで食べるものもなくなり、人々がどんどん病に倒れていく。中村医師は、「今は100の診療所よりも1本の用水路だ」と訴えて、砂漠になってしまった土地に13キロに及ぶ用水路をひいて、緑の大地を取り戻すのです。数億円もかかるという大事業を前に、中村医師は、現地の人たちに訴えていました。「どんなことがあっても私たちは逃げない。ベストを尽くそう。みんなの心に、小さな灯火をともそうじゃないか」。一人ひとりの力は小さいのです。けれども、その一人ひとりの心に小さな灯火がともされていくとき、それは、不可能だと思われた大きな事業を成し遂げる力になるのです。
もちろん、私たちには、中村哲さんのようなスケールの大きなプロジェクトを立てる裁量はないかもしれません。けれども、小さな灯火をともしていくことはできるのではないでしょうか。主イエスが、私たちを命の光で照らしてくださり、私たちの心に小さな灯火をともしてくださいました。私たちも、私たちの身近な人たちの心に小さな灯火をともして行きたいと思います。イエス・キリストの光を照り返すようにして、小さな灯火を掲げていきたいと思います。世界は今も、罪の闇を抱えており、争いや貧困、苦しみと悲しみに満ちています。しかし、そのただ中に、すべての人を照らすまことの光が来てくださったのです。私たちは、自らの内なる闇を追い払う命の光を与えられた者たちとして、今なお闇に沈む世界に、愛と希望の灯火をともしていきたいと願います。

