2025年12月14日 アドヴェント第三主日礼拝説教「私の家にも救いの訪れ」 東野 ひかり牧師

出エジプト記 第3章7~10節
ルカによる福音書 第1章68~79節、第19章9~10節

 待降節・アドヴェントの第三主日の朝、三本目のろうそくに火が灯りました。今朝は三つの聖書の箇所を読みました。二つ目に朗読されたルカによる福音書第1章68~79節「ザカリアの預言」と小見出しがつけられております箇所、「ザカリアの賛歌」とも呼ばれますところは、クリスマスの季節によく読まれる聖書の箇所ですが、あとの二つの箇所はあまりクリスマスの時期に読まれるような箇所ではないかもしれません。けれどもこれらの聖書のみ言葉には、共通して語られている事柄があります。そしていずれの箇所も、クリスマスの出来事を指し示していると言うことができます聖書の箇所です。今朝は、これらの聖書のみ言葉から、クリスマスの恵みをご一緒に聞いてまいりたいと思っております。

 最初に読んでいただきました出エジプト記第3章7節以下は、主なる神さまが、エジプトで奴隷状態の苦しみにあえいでいたイスラエルの民を救い出すために指導者としてモーセを召し出された場面での、神さまの言葉の一部分です。ここには、神さまというお方はどういう神であられるのかということが、神さまご自身の言葉として、生き生きと語られております。「私は、エジプトにおける私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声を聞いて、その痛みを確かに知った。それで、私は降って行って、私の民をエジプトの手から救い出し、その地から、豊かで広い地、乳と蜜の流れる地……に導き上る。」(出エジプト3:7-8)
 時々お名前を出しますけれど、私どもが旧約聖書を教わりました左近淑先生(1931-1990年)が、しばしばおっしゃったのは、「聖書の神というのは、激しい行動の神である」ということでした。今読みましたところにも、その〈激しい行動の神〉の姿が語られておりました。神さまというお方は、天の高き所にお座りになったまま、民の苦しむ姿を眺めている、苦しみの叫びを聞いて聞き流している、苦しみを知っても知らんぷり、というような、そういう神さまなのではなくて、苦しむ民の苦しみをつぶさに見て、苦しみの叫び声を聞いて、その苦しみを知って、それだけではなくてさらに「降って行って」くださる神なのです。苦しみ呻く者たちの中に身をかがめるように低く降りたまいて、共に生き、救い出し、導いて行かれる。そういう〈激しい行動の神〉〈低きにくだる神〉だということがここには示されております。左近先生は、ここには「クリスマスの神が朗々と証しされている」と言われます。(『低きにくだる神』ヨルダン社,1980年,p44)

 先月24日の休日、夫と、国立博物館で開かれていた運慶の仏像展を見にまいりました。「運慶―祈りの空間」という宣伝文句に惹かれて、ぜひ見てみたいと思いまして、早々とチケットを買っていたのですけれど、おそらく一番混雑したであろう展覧会が終わる直前の休日に行ってまいりました。混雑の中でしたが、ご本尊の弥勒如来坐像(みろくにょらいざぞう)を中心とした、日本彫刻史上の傑作と言われる七つの国宝をゆっくり見ることができました。御覧になった方もおられることと思います。
 今日の説教の準備をしながら、先月見ました仏像の姿がしきりに思い起こされました。そこで見た仏像は、まったくもって、聖書の神さま〈激しい行動の神〉〈低きにくだる神〉とは違っていたと思ったのです。運慶の弥勒如来坐像は、半眼の静かな穏やかなお顔で、均整のとれた美しい姿で座っておられました。展覧会では仏像の背中も見ることができましたが、その後ろ姿もきりっと美しく、そのお姿は「静寂」という言葉がぴったりに思われました。それと対照的に、かっと目を見開いた怖い顔の四天王が四方に立っていて、仏様を守っているようでした。四隅に力強く立つ四天王に守られ、また二人の僧の立像を従えるようにして、仏様はどこまでも静かに座っている、というように見えました。素人の感想ですから間違っているかもしれませんが、人間世界の苦しみや嘆き悲しみや悪いものはみな、四天王が結界を張って追い払い、仏様は静寂ときよらかさの中で、悟りの世界に静かに座っておられる、というように見えました。
 けれども、聖書の神は、人間の苦しみの世界の中に「降ってくる」神さまです。仏教の言葉で言うところの、生きる、老いる、病む、そして死ぬ、人間が味わう生老病死の四つの苦しみの中に、身をかがめて、あるいは身を投げ出して、降ってくる、そういう神さまです。苦しみを乗り越えて、静かに悟りを開くというのではない、生老病死の世界の中に、身を投げ出して、他の旧約聖書の箇所の言葉で言えば「天を裂いて」低く降ってくる神さまなのです(イザヤ63:19)。そういう〈激しく行動する神〉を、「このような神がほかにあるだろうか」(詩113)とほめたたえるのが、聖書の信仰です。

 今日読みました二つ目のみ言葉、ルカによる福音書第1章68~79節は、はじめに少し触れましたように、「ザカリアの賛歌」とも呼ばれます。子どもを授からないままに年老いたザカリアとエリサベト夫婦の間に、天使は、後に救い主の道を備える大切な働きをする「洗礼者ヨハネ」となる男の子が産まれると告げました。突然の驚くべき天使のみ告げを受けて、ザカリアは「どうしてそれが分かるでしょう。私は老人ですし、妻も年を取っています」と言って信じませんでした。ザカリアは口を利けなくされました(ルカ1:5-25)。沈黙を強いられた期間、ザカリアは日に日に大きくなる妻のお腹を目にして、天使の言葉の実現を知らされ続け、神のみわざを目の当たりにし続けました。そしてついに月が満ちてエリサベトは男の子を産みました。生まれた子どもに、親戚の者たちは父と同じザカリアという名をつけようとしましたが、父ザカリアは書き板に「その名はヨハネ」と書きます。そのとたんザカリアの口はほどけ、その口は神をほめたたえる歌を歌いました(1:57-66)。そうして歌われた歌がこの「ザカリアの賛歌」です。
 冒頭の言葉「ほめたたえられますように」は、ラテン語でベネディクトゥスと言いますことから、この歌は「ベネディクトゥス」と呼ばれます。第1章の46節以下にありますマリアが歌った歌「マリアの賛歌」は、冒頭の言葉「主をあがめる」のラテン語マグニフィカートから、マリアの賛歌は「マグニフィカート」とも呼ばれます。二つとも、ルカ福音書のクリスマス物語の中に伝えられる、神をほめたたえる歌です。

 ザカリアが歌った賛歌・ベネディクトゥス、マリアの賛歌マグニフィカートも同じですが、詩編をはじめとする伝統的讃美歌の形にのっとって、「主は、ほめたたえられよ」と歌ってすぐに、そのほめたたえの根拠・理由が歌われます。「イスラエルの神である主は/ほめたたえられますように。/主はその民を訪れて、これを贖い/我らのために救いの角を/僕ダビデの家に起こされた。……」ザカリアは歌うのです。「神さまはほめたたえられますように!主なる神さまはすばらしい!なぜなら、その民を訪れてくださったから!」と。
 ここに用いられいます「訪れる」という言葉は、先ほど読みました旧約聖書出エジプト記第3章のもう少し先の16節に出てきます「顧み(る)」という言葉から来ています。出エジプト記3:16「あなたがたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主が私に現れてこう言われました。私はあなたがたを顧み、エジプトであなたがたになされたことを確かに見た。」ここにある「顧みる」という言葉が、ザカリアの賛歌の「訪れる」と訳された言葉と同じなのです。出エジプト記3章を開いて見ておられる方は、2章の終わり25節にも「神はイスラエルを顧み」と、同じ「顧みる」という言葉があることに気づかれると思いますが、2:25の「顧みる」は3:16の「顧みる」とは実は元の言葉が違います。また、ルカ福音書のマリアの賛歌(1:48)にも「目を留める」という「神がご覧になる」という似たような意味の言葉が出てまいりますけれども、これも、今見ております「訪れる」「顧みる」と訳されます言葉とは違うのです。ザカリアの賛歌の「訪れる」、出エジプト記3章の「顧みる」は、もっと強い言葉だと言われるのです。「訪れる」とも訳される「顧みる」という言葉は、〈神が恵みの目で、注意深く観察する、見る、顧みる、心にかける〉という意味と共に、〈顧みて心にかけた人のところにやって来る〉という意味までも含む言葉なのです。ですからこの「顧みる」は「訪れる」とも訳されるのです。これは、〈神が恵みをもってご覧になって、救いをもたらすためにそこに訪れる、訪問する〉という意味の言葉なのです。
 ザカリアがほめたたえた「主の訪れ」とは、まさに、神がイスラエルの民の苦しみを見、その叫びを聞き、苦しみを知って、その心を傾けて「降って来て」訪れた、救いをもたらすために訪れた、そういう神の顧み・訪れだと言うことができます。ですからすぐに続いて「これを贖い、我らのために救いの角を/僕ダビデの家に起こされた」と、救いの出来事が歌われるのです。「贖い」は、身代金を支払って捕らわれていた者を買い戻し、解放すること、自由にすることです。ここには既に、「僕ダビデの家」から起こされる「救いの角」、すなわちヨハネに続いて誕生する御子主イエスの命が身代金として支払われることが暗示されていると言えます。ザカリアは、救いをもたらすために訪れてくださる、激しく動いてご訪問くださる神はなんとすばらしいことかとほめたたえたのです。

 ザカリアとエリサベトのもとに生まれた幼子ヨハネは、神がその民イスラエルを「訪れて」くださったことのしるしでした。そして、ヨハネ誕生の半年後、おとめマリアから生まれる幼子主イエスは、神の「憐れみの心」が注ぎ出されてすべての「暗闇と死の陰に座している者たち」を「訪れた」「高い所からの曙の光」だと、ザカリアは間もなく生まれる救い主を預言して美しく歌います。「これは我らの神の憐れみの心による。/この憐れみによって/高い所から曙の光が我らを訪れ/暗闇と死の陰に座している者たちを照らし/我らの足を平和の道に導く。」(ルカ1:78-79) ザカリアは歌いました。神の訪れ、救いの訪れのしるしであるヨハネの誕生、そして御子主イエスの誕生は、「我らの神の憐れみの心による」と。「神の憐れみの心」は、そのままに訳せば、「神の憐れみの内臓・はらわた」という言葉です。神がその民を顧み・訪れる、高きにいます神が「暗闇と死の陰に座している者たち」の中に、その苦しみと嘆きの中に、悲しみの中に、痛みの中に低く降る、その〈激しい動き〉の激しさは、神の憐れみのはらわたが激しく動き、千々にちぎれるほどに痛み、その憐れみが、激しい熱情が、愛が、ほとばしり出た激しさです。ザカリアが歌った「主の訪れ」「曙の光の訪れ」は、〈激しく行動する神〉のまことに激しい憐れみ、愛の現われなのです。

 もう30年近くも前のことになりますけれども、鎌倉の教会で聞きました、加藤さゆり先生(加藤常昭先生の奥さまで、教会の伝道師として長く教会を牧し導かれた先生)の説教を思い起こしました。さゆり先生は、ドイツのハイデルベルクの町でご覧になったリーメンシュナイダーという彫刻家の、主イエスと十二使徒の彫刻の話をなさいました。その彫刻の前で何度も何度も、その彫刻の主イエスの足を見つめたというのです。なんの履物もはいていない、はだしの、土に汚れた足。失われた者を追い求め、追い求めて地上を歩まれ、遂にゴルゴダへと歩みゆかれたその足を見つめて、心が震えたと。
 運慶の弥勒如来は、座像ですからお座りで、その足は見えません。そう言えば、鎌倉の大仏も、奈良の大仏も、仏様はお座りで足は見えないことを思います。けれども、主イエスの彫刻は立っておられ、そのはだしの汚れた足もあらわであったというのです。主イエスはその足で、失われた者を追い求め、追い求めて訪れ、遂にゴルゴタへと歩みゆかれた。さゆり先生が語られた主イエスの彫刻の足は、主イエスの激しい動きを思わせるものでした。
 主イエスは、そのみ足で、「暗闇と死の陰に座している者たち」を、失われた者たちを、追い求め追い求めて、訪れて行かれました。ルカ福音書第7章では、ナインの町の一人息子を亡くしたやもめのところに進みゆかれました。その時、主の憐れみの内臓は激しく震えました。主の憐れみが注ぎ出されて、「暗闇と死の陰」に覆われていたナインのやもめを、死の力に奪い去られたと思われた一人息子を、主は、朝の光、命の光、救いの力で覆ってしまわれました。その時、ナインの町の人々は言いました。「神はその民を顧みてくださった」と(ルカ7:16)。ここに用いられた「顧みる」という言葉は、今日読んでいますルカ1:68,78の「訪れる」という言葉と同じ言葉なのです。主は、まさに「暗闇と死の陰に座す者たち」、罪と死の暗闇にのみ込まれて行く者たち、私たちの全てに向かって、死の暗闇の中にまで低く降り、そこを訪れ、そこに曙の光、朝の光、救いの光を照らしてくださったのです。まことに激しく、憐れみの内臓を震わせながら。

 今日の三つ目に読みました聖書の箇所、ルカ福音書第19章9-10節は、ザアカイの物語の最後のところでした。 「イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」 失われた者、暗闇と死の陰に覆われている者たちを、追い求め追い求めて訪ね行かれた主イエスの地上の歩みは、間もなくエルサレムへ、ゴルゴタに至ろうとしていました。エルサレムに入る直前、主イエスは、エリコの町の徴税人の頭ザアカイを訪れます。不正な税金の取り立てで私腹を肥やし、金持ちであったけれども、ユダヤ人の同胞からは嫌われ疎まれていた徴税人の頭ザアカイ。ザアカイは、自分の町に今評判の人イエスがやって来ると聞くと、どんな人か見たいと思いました。主イエスが通る道に出て主イエスを見ようとします。けれど背が低かったザアカイには見えません。そんなザアカイに場所を譲ってくれるような人は、その町にはいませんでした。ザアカイは、それでも何とかして主イエスを見たいと、主イエスが進んで行く道を先回りして、そこにあったいちじく桑の木に登りました。木の上から主イエスを見ようと待ち構えていたザアカイの、その木の下に、まるでそのザアカイを目指して来られたかのように、主イエスが立たれました。主は上を見上げてザアカイを呼ばれました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」(ルカ19:5) ある人がこの場面をひとことでこう言いました。「人が上、神が下」。主イエスは、ザアカイの下に立たれたのです。低いところに。そのようにして、主イエスはザアカイを訪れられたのです。

 主が言われた「今日は、あなたの家に泊まることにしている」という言葉は、「今日私はあなたの家に泊まらねばならない。泊まることになっている」という言い方です。主は、「私は今日どうしてもあなたの家に泊まらねばならない、あなたの家に宿りたいのだ」とザアカイに言われたのです。ザアカイの「家」。それはどんな家だったのだろうかと思います。ザアカイはお金持ちでしたから、それはおそらく立派な家だったのでしょう。使用人も大勢いたかもしれません。ザアカイに家族はいたのでしょうか。9節で主イエスはザアカイに「今日、救いがこの家を訪れた」とおっしゃいましたから、おそらく家族があったのでしょう。それはどんな家族だったのでしょう。幸せな家族だったのでしょうか。徴税人の頭であったザアカイは、不正なやり方で私腹を肥やして金持ちになりました。ユダヤ人の同胞から嫌われ疎まれていました。ザアカイの家族関係も、幸せなものではなかったかもしれません。そうであったからこそ、ザアカイはどうしても主イエスを見たいと求めていたのかもしれません。そんなザアカイをめがけるように、主イエスはザアカイの下に、低いところに立たれました。そしてザアカイの家を訪れて宿られた主は、ザアカイに言われたのです。「今日、救いがこの家を訪れた。」 主は、「今日救いがあなたを訪れた」ではなく、「この家を訪れた」と言われました。ここで「訪れた」と訳された言葉は、文字通りには、「今日救いがこの家に起こった、この家に成った、実現した」という言葉です。主イエスのご訪問と共に、ザアカイとザアカイの家に救いが起こった、実現したということです。ザアカイの生き方も、そして恐らくザアカイの家族との関係も、180度変えられてしまったのです。そのようにして、救いがザアカイとザアカイの家に現実のこととなりました。主イエスの訪れは、ひとりの失われた者を追い求めて救うだけでなく、その人を通してその家を、その家族をも救う。暗かったザアカイの人生に明るい光が射し、ザアカイの家にも命の光が射しました。ザアカイの歩みは「平和の道」(1:79)に導かれたのです。そういう救いの出来事が起こったのです。

 神学生の時、夏期伝道実習に行く前の何かの会で、当時実習の担当であったレーマン先生というアメリカ人の先生が言われたことは、今でも忘れることができません。レーマン先生はこういう意味のことをおっしゃいました。「どんなに幸せそうに見える家にも、必ず何かしらの問題がある。悩みや苦しみ、悲しみがある。暗さ、闇がある。何の問題もなく100%幸せという家はない。そのことをよく覚えていてほしい」と。あれから40年近くが経ちますが、つくづく先生の言われた通りだと思わされます。
 私たちは皆それぞれに、何の悩みも辛さも苦しみも不安もない、100%幸せ、という人はいないのではないかと思います。私たちの家もそうでしょう。生きること、老いること、病むことの苦しみ悲しみ、辛さを、皆それぞれの仕方で抱えています。そして何より死の闇は、私たちの人生の中に、私たちの家の中に、突然の訪問者のように押し入ってきます。主イエスは、そういうザアカイの家に、私たちの家に、そして、私たち一人ひとりの心の中に、「泊まらねばならない、宿らねばならない」と、ご訪問くださるのです。
 〈激しい行動の神〉は、私たちすべての者が、この世界が、暗闇と死の陰のもとに苦しみ、悲しみ、呻いているのを顧みてくださり、降って来て、まことに低く飼い葉桶に宿られました。飼い葉桶に生まれた神の御子は、そのみ足で、失われた者を追い求め追い求めて、遂にはゴルゴタに向かわれました。その主のみ足は、罪と死の暗闇の陰に座すすべての者たちに激しく向かい、訪れてくださることを思います。

 先ほどご紹介した加藤さゆり先生は、主イエスの彫刻の何の履物も履いていない足を見つめながら、主はこの足で失われた者を追い求めて地上を歩まれ、遂にゴルゴタへと歩みゆかれた、そしてこの主のみ足は、この私の所にも歩み寄って来てくださった、私の所にも訪れてくださった、そう思って心が震えたと言われました。様々な悩み苦しみ、悲しみ痛みがあり、死の闇に覆われてしまう私たちの人生であり私たちの家であり、また私たちの心です。しかし主イエスは、そのような暗い所をこそ目指して来られる。激しく憐れみの心を震わせながら、失われたものを求め訪ねて、歩み寄って来られる、低く降って来てくださるのです。そこに、朝の光、命の光、救いの光を照らしてくださるのです。
 飼い葉桶に低く降り、宿り給うた主、十字架にまで低く降られた主は、私たちの所にも、憐れみの心震わせて降って来てくださり、訪れてくださいます。そして言われます。「今日私はあなたの家に泊まらねばならない、泊まりたいのだ」と。「今日、救いがこの家を訪れた。」「この憐れみによって/高い所から曙の光が我らを訪れ/暗闇と死の陰に座している者たちを照らし/我らの足を平和の道に導く。」この私の所にも、この私の心にも、そしてこの私の家にも、主は訪れてくださる。救いの出来事を起こしてくださる。朝の光、命の光を照らして、私たちの足を「平和の道」に導いてくださるのです。