2025年10月12日 神学校日礼拝説教「伝道者の姿」 東京神学大学助教 飯田 仰 牧師
イザヤ書 第55章8~11節
テモテへの手紙二 第2章8~15節
「イエス・キリストを思い起こしなさい」(8節)。この手紙の筆者はそう言う。これは2章1節から続く激励の言葉の頂点にあたる言葉と捉えてもよい。2章1節には「強くなりなさい」、2節には「委ねなさい」、3節「苦しみを共にしてください」、7節「よく考えてみなさい」と続き、この8節で「イエス・キリストを思い起こしなさい」と述べられるのである。なぜか。8節はこのように続く。「私の福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されました」。これは「言は肉となって、私たちの間に宿った」とのヨハネによる福音書の冒頭部分にて述べられている言葉を彷彿させる。キリストの受肉とその生涯、そして十字架の出来事について触れており、復活の出来事がその根拠となっているのである。これをこの手紙の筆者は「私の福音」と呼ぶ。
福音とは何か。真っ先に思い起こす聖書の箇所がコリントの信徒への手紙一 15章3節以下の言葉ではないかと思う「。最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、それから十二人に現れたことです」。まさにこれを思い起こすことが大事だというのである。
9節でこうある。「この福音のために私は苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています」。ここでの「犯罪人」という言葉はルカによる福音書23章32節以下の二人の犯罪人と同じ言葉であり、珍しい言葉である。主イエスに従うとはこうなることを示唆しているようである。このお方に付き従い、このお方に忠実であろうとする者の歩みの結末とはこのようなものであると示唆しているとも考えられる。この手紙の受取人であったテモテと全てのキリスト者は心の準備をするよう求められているのかもしれない。主イエスに忠実であろうとするならば、このような苦しみが伴うかもしれない。人々からは歓迎されず、誤解され、自由さえも奪われるかもしれない。場合によっては迫害され、中には殉教する者さえいるかもしれない。それほど険しい道のりとなるのかもしれないのだという。
しかし、これには続きがある。「しかし、神の言葉はつながれていません」と。イザヤ書55章11節以下にある通り、決して空しく戻ってくることのない神の御言葉には力がある。御言葉は必ず神の望むことをなし、神が託したことを成し遂げる。更に、この御言葉は速やかに広まるとも言われ(テサロニケの信徒への手紙23章1節)、ペトロの手紙11章23節以下では、この言葉は「神の変わることのない生ける言葉」であり、永遠に変わることがない主の言葉なのである、と述べられる。キリストに従おうとする者たちには、このことがどういう意味なのかを実体験できる神の恵みが与えられるのである。これがキリストに従う者たち、伝道者である者たちに与えられている神の愛であり恵みなのだと。
この御言葉に対する揺るぎない確信があるからこそ、こう述べられる。10節「だから、私は、選ばれた人々のためにあらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスにある救いを永遠の栄光と共に得るためです」と。救いを永遠の栄光と共に得る。それは何を根拠に述べられるのであろうか。深い慰めを得られる言葉が11節から13節まで続く。ここで記されていることは、聖書の他の箇所にも何度もみられる真理である(ローマの信徒への手紙6章8節、申命記7章9節、ローマの信徒への手紙3章3・4節、コリントの信徒への手紙11章9節、10章13節など)。しかし、ここで強調されているのがこの短い箇所で三度繰り返されている「否む」という言葉である。これは信仰者を鼓舞する意図のもと記された言葉のようにも思う。忍耐をもって信仰を、この闘いを立派に闘い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通すようにと励ましている。ここで確かなものとして存在するのは、やはり神ご自身の真実さであり、その確かさが神の御言葉を通して示されることである。我々自身の力によるのではない。
こうした内容が確認された後に14節で筆者はこう述べる。「これらのことを人々に思い起こさせ、言い争いなどしないようにと、神の前で厳しく命じなさい」。そして15節でこう述べる。「あなたは、適格な者、恥じることのない働き手、真理の言葉をまっすぐに語る者として、自分を神に献げるよう努めなさい」。ここで二つのことが勧められる。(1)思い起こさせること、(2)厳しく命じること、つまり指導すること。何よりも、これらのことは「神の前で」行われるべき事柄として与えられ、真摯に、誠実に、自分事として受け止めている姿がここに描き出される。15節にある「自分を神に献げるよう努めなさい」とは、今直ぐに行いなさい、行動しなさい、決定的に断固として、そして熱意を込めて行うという意味の言葉である。そのためにも、恥じることのない働き手として、真理の言葉、つまり神の御言葉をまっすぐに語る者の姿がここに描き出されていくのである。
ここでも重要なのが神の御言葉である。神の御言葉がどのように理解され、受け止められ、更にそれがどう語られ実行されるのかが重要であることが示唆される。まさに、これは旧約聖書に登場するエズラの姿であるとも言える。エズラ記7章10節ではエズラが「主の律法を研究することと実践すること、イスラエルにおいて掟と法を教えることに専念した」とある。
教会の歴史を辿ると、これらの御言葉を真摯に受け止め、キリストに従おうとした者たちがいたことを知る。死をも恐れずに、キリストを指し示し、証していった者たちである。二世紀半ばにポリュカルポスがいた。彼はキリストへの信仰を否定するよう地方総督から促されるが、毅然と答えた。「私は86年間もキリスト様にお仕えして参ったが、ただの一度たりとも、キリスト様は私に対して不正を加え給うようなことはなさらなかった。どうして私が、私を救い給うた私の王を冒瀆するようなことができようか。」「ポリュカルポスの殉教」九、『使徒教父文書』荒井献[編]、講談社、1998年、236頁)。
更に20世紀の中国では、家庭教会の牧師、王明道の例がある。彼は御言葉を愚直に生き抜いた人であった。教会の頭は主イエス・キリストなりと告白し、政府公認教会に加わろうとしなかったが故に、約25年間の投獄生活を強いられた。妻も20年弱勾留された。
ここに示されるのはやや過激な姿かもしれない。しかし、これがまさにキリストに従おうとする 者すべてが招かれている、信仰者としての、伝道者としての姿なのである。神は恵みと憐みによって我々をこのような歩みへと招き導いておられる。そして「イエス・キリストを思い起こしなさい」、そのことによってこれを成し遂げなさいと呼び掛けられるのである。
だが、当然ながら私など無理だと思ってしまうこともある。しかし、神は依然として我々に語りかけ、呼び招かれるのである。それはマタイによる福音書9章37~38節や28章19~20節、そしてローマの信徒への手紙10章14~15節の御言葉を彷彿させる。このお方に目を向ける時に、思いを寄せる時に、実現される神のわざである。私が私にいつまでも目を向けていたら、それは必然的に私など無理だと思わざるを得なくなるのである。
伝道は今しかできないと言われる。神の御国が完成されたら、伝道はもはや必要とされないからだ。今しかない。神の呼びかけと招きに、我々は今どう応えるであろうか。
ここで描かれている伝道者の姿は決してやさしいものではない。しかし、聖霊によって生まれ変わらせていただいた者が一人また一人と起こされていく時に、この生き方、この歩み方、この姿こそが、最高の生き方、歩み方、そして姿であることに気づかされるのである。今週も主の御言葉に聴きながら歩ませていただきたい。


