2024年5月5日 主日礼拝説教「まことの命の道であるキリスト」 東野尚志牧師

詩編 第86編1~13節
ヨハネによる福音書 第14章1~6節

 先週の月曜日、鎌倉雪ノ下教会において、加藤常昭先生の葬儀が行われました。加藤先生が鎌倉雪ノ下教会の牧師を辞して隠退される前に、引き継ぎとして一緒に教会に仕えた時期がありました。わずか1年半でしたけれども、同労者として、とても親しくさせていただき、具体的な実践について傍らにあって深く学ばせていただきました。隠退された後も、天に召される直前まで、説教塾という説教の勉強会の指導を続けておられました。教会を辞して隠退されたのが1997年3月末。実にそれから27年にわたって、神学生や牧師たちの説教指導を続けて来られたのです。そしてついに、95歳で天に召されました。
 コロナ禍も過ぎ去り、多くの方が葬儀に集まることが予想されましたので、説教塾の塾生で出席したい人は、予め出席を申し出るように求められました。同時に、説教塾限定で葬儀はYouTubeによる配信が行われることになりました。塾生は北海道から沖縄まで全国に広がり、海外にもいますから、遠くから駆けつけなくても済むように配慮がなされたのです。私は、鎌倉まで足を運ぶことにして、妻ひかりは牧師館にとどまって、オンラインで葬儀に連なることにしました。
 私は、久しぶりに鎌倉の地に降り立ちました。休日の人混みは覚悟していましたけれども、ずいぶんと鎌倉の景色も変わっていてびっくりしました。前回、鎌倉を訪れたのは、加藤さゆり先生の葬儀の時でしたので、ちょうど10年振りのことでした。とても良い葬儀であったと思います。生前の業績を数え挙げるのではなくて、むしろ、一人の信仰者として、どれほど深く主イエスを愛し、主イエスと共に生きた先生であったかということを思わせられました。合わせて、27年以上前、共に過ごした日々を思い起こさせられました。加藤先生ご自身が、教会員の葬りをする際に、折に触れて何度も、残された家族と共に御言葉を読み、祈りをされたことを思い起こさせられました。愛する者の死という深い嘆きと悲しみの時、人間の無力さと罪深さを思い知らされる中で、死に勝つ命の言葉を必要としたからです。御言葉を説きながら、誰よりも、加藤先生ご自身が、その御言葉に生かされているのだと思いました。

 私は、1995年から2009年までの14年間、主任者を引き継いでからは12年間、鎌倉雪ノ下教会の牧師を務めました。その間に、100人以上の教会員の葬儀を行い、関係者や未信者の葬儀まで含めると、さらに多くの葬儀を行ったと思います。教会員が召されたとの連絡を受けると、夜中でも朝でも、葬儀社よりも先に駆けつけて、ご家族と一緒に召された方を囲んで聖書を読み、祈りをしました。ご遺体を囲んで聖書を読むとき、いつの頃からであったか忘れてしまいましたけれど、同じ聖書の箇所を読むようになりました。先ほど朗読したヨハネによる福音書第14章の冒頭のところです。
 主イエスは言われます。「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる」。なぜこの御言葉を読むようになったのかと振り返ってみれば、私自身が、愛する教会の仲間たちの死に立ち会うとき、この御言葉によって支えられることを求めたからであったと思います。さらに6節まで読むと、そこには、よく知られている主イエスの自己証言、「わたしは、何々である」という定式が出て来ます。主は言われました。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」。主イエスこそは、父なる神がおられる天と、私たちが生きているこの地上の世界をつなぐ唯一のまことの命の道であると言うのです。

 死は、愛する者と私たちの間を引き裂くようにして、私たちの前に立ちはだかります。私たちは、愛する者の死を前にして、全く無力であり、途方に暮れてしまうのです。けれども、主イエスは、死んで復活されたお方です。このお方を信じるなら、私たちも、死を突き抜けて、復活の望みに生きることができます。死によっても断ち切られることのない、主イエス・キリストに結び合わされた救いを信じて、天と地をつなぐ命の道である主にすべてを委ねることの中でこそ、葬りに立ち合う力を得てきたと言ってよいかもしれません。愛する者を喪い、悲しみの中にある家族と共に、主の御言葉を聞くことから始めようとしたのです。
 主は言われます。「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい」。「心を騒がせる」というのは、心が乱れて、バラバラになってしまうことを意味します。愛する者の死に直面して、心は千々に乱れ、まさに、心が騒ぐのです。激しい嵐に吹きまくられて波立つ海のように、心の平安は奪われ、激しく揺さぶられます。しかし、その中で、心がバラバラにならないようにするためには、どうしたらよいのか。主は言われるのです。「神を信じ、また私を信じなさい」。恐れや不安や悲しみのために心がバラバラになってしまいそうなとき、主を信じることによって、心が一つにまとまります。主に愛されている者として、また主を信じ愛する者としての自分を取り戻すことができるのです。

 ヨハネによる福音書は、第14章から、一つのまとまりをなしています。第14章から第16章まで、3つの章にわたって、主イエスの教えがまとめられているのです。そして、続く第17章には、他の福音書には見られないような主イエスの祈りが、長くつづられています。ヨハネによれば、それは、主イエスが十字架にかけられる前の夜、最後の晩餐の席でのことでした。主イエスは、その席上で、弟子たちの足を洗って行かれました。ヨハネだけが記している洗足の記事が第13章に記されています。すでにそこから、主イエスの最後の教えが始まっていると見ることもできます。しかし、第13章の終わりには、ペトロの裏切りを予告する記事が置かれていますので、第14章から改めて、別れの言葉を語られた、と考えてよいのです。
 第14章から第16章まで、別れの説教、告別説教と呼ばれます。後に残していく弟子たちに、大事なことを教えられたのです。特にその冒頭にあたる、今日の箇所では、ご自身がこの世を去って天に帰られることの理由を明らかにしておられます。2節と3節でこのように語られました。「私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる」。主イエスは、父なる神のもとに、私たちのための住む場所を用意しに行かれる、というのです。キリストが、この世から離れて行かれるのは、弟子たちを見捨てて行くということではなくて、むしろ、天に迎える場所の準備をするためだ、と言われるのです。
 そのために、主イエスは十字架の上で、私たちの罪の贖いのための死を遂げられ、復活によって永遠の命の道を切り開いてくださいました。そして、天に昇られました。だから、私たちは今、主イエスに直接手で触れたり、主イエスのお姿を直接目で見たりすることはできません。けれどもそれは、主イエスが私たちを地上に見捨てて行かれたということではなくて、むしろ、時間や空間の制約を受けることなしに、いつでも共にいることができるように、ご自身の霊である聖霊を注ぐためであったのです。だから、私たちは今、主を目で見ることはできませんけれども、嘆く必要はありません。恐れる必要はありません。霊なる主が共にいて、私たちの間に力強く働いてくださることを信じることができるからです。そして、終わりの日には、再び天から降ってこられる主をお迎えして、とこしえに主と共に生きる者とされる、その約束を信じて歩むのです。

 この約束のゆえに主は言われます。「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい」。これは、単なる命令ではありません。心を騒がせる必要はない。そういう慰めの言葉、約束の言葉だと言ってよいのだと思います。別れのときを迎えても、心を騒がせる必要はない。なぜなら、死は最後の言葉ではないからです。主がよみがえって、天に昇られ、父なる神のもとに場所を用意していてくださるとの約束を信じ、受け入れるならば、心を騒がせる必要はない。神を信じ、主イエスを信じて、すべてを、主におゆだねすることができる、と言いきかせてくださるのです。
 そして、私たちは、もう一つのことを心に留めておいて良いと思います。ここで、「心を騒がせてはならない」とお命じになった主イエスご自身が、実は、ここまでに、何度も、心を騒がせられた方なのです。11章33節では、ラザロの死の事実を前にして、また12章27節では、ご自身の十字架の死に言及されたとき、そして、13章21節では、イスカリオテのユダの裏切りを予告するところで、主イエスご自身が、心を騒がせられた、福音書はそのように記しています。「心を騒がせてはならない」という言葉は、悲しみと呻きの中で動揺している人を突き放すようにして語られているのではありません。神と人、人と人との交わりを引き裂く悪魔的な力に立ち向かうとき、主イエスご自身が、その心を騒がせながら、しかし、そのただ中で、父なる神の御心に従うただ一つの道を選び取り、ひと筋の救いの道を貫いてくださったのです。悪魔的な力、罪と死の力の恐ろしさをだれよりもよくご存じである主が、心騒がせることを深くその身に担ってくださった方であればこそ、しっかりと十字架の道を見据えながら、私たちに語ってくださいました。「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい」。
 ここで「神を信じる」「私(つまり主イエス)を信じる」というときの言葉遣いは、とても面白いものです。直訳すれば、「中へと信じる」となります。信じる対象である神さま、イエスさまの中に入り込むようにして、イエスさまにすべてを委ねることと言ってもよいのです。委ねるというと、何か無責任な生き方のように思われるかもしれません。しかし、そうではないと思います。むしろ、主イエスを自分の中心として選び取っていくという非常に主体的な態度決定をもって生きることです。ひと筋に貫かれる主の道、まことの命の道の中に自分自身を委ねて、主と共に、ひと筋に生きることなのです。

 突然、愛する者と別れをするのは辛いことです。地上に生きる私たちにとっては、思いがけないときに別れが襲います。死の力が、私たちの愛する者を、私たちのもとから奪い取っていったように思われて、無力感にさいなまれます。しかし、そのようなときも、主の約束の言葉を信じることができます。「私の父の家には住まいがたくさんある」と言われました。主は場所の用意をしに行くと言われました。場所の用意ができたら、私たちをご自身のもとに迎える、と言われました。地上にある私たちには思いがけないとき、突然の別れであっても、神の救いの御業の中では、私たちのための場所の用意ができたときに、主ご自身が、私たちを迎えてくださるのです。いつでも共にいるものとして、私たちをご自身のもとに迎えてくださるのです。
 ここで「住まい」と訳されている言葉は、ヨハネの福音書の中ではとても大事な言葉です。私たちがぶどうの木である主イエスにつながる、主の御言葉に留まる、そのように用いられた、つながる、留まるという言葉の名詞の形、それが、住まいと訳されている言葉なのです。そうであるとすれば、私たちのために備えられる住まいというのは、どこか、現在の世界からかけ離れ、隔離された特別な場所というよりは、私たちがとこしえに主と共に生かされるところこそが、天の住まいだと言ってよいのです。あるいは、主イエスご自身が、まことの命の道となって、天と地をつないでいてくださると言ってもよいと思います。

 主イエスが、天と地をつないでいるお方である、ということは、ヨハネによる福音書の大事なテーマの一つです。この福音書の第1章の終わりのところに、壮大なイメージが描かれていました。主イエスは言われます。「よくよく言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」(1章51節)。主イエスは、創世記第28章の記事を念頭に置いておられたに違いありません。創世記の28章には、アブラハム、イサクに続く、族長ヤコブの若い日の夢の話が記されています。お兄さんのエサウを騙して長子の特権と祝福を奪い取った弟ヤコブが、兄エサウの手を逃れて家を出て、旅の途上で野宿したとき、夢を見たのです。
 このように書かれています。「先端が天にまで達する階段が地に据えられていて、神の使いたちが昇り降りしていた」(創世記28章12節)。命からがら逃げ出した旅の空で、心細い思いで一夜を過ごしていたヤコブです。神から見放されたような不安と恐れを味わっていました。けれども、主なる神は言われます。「私はあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにしてもあなたを守り、この土地に連れ戻す。私はあなたに約束したことを果たすまで、決してあなたを見捨てない」(同15節)。眠りから覚めたヤコブは言いました。「本当に、主がこの場所におられるのに、私はそれを知らなかった」(16節)。「この場所はなんと恐ろしい所だろう。ここはまさに神の家ではないか。ここは天の門だ」(17節)。主に見放された恐れは、主と共にいる畏れに変えられました。そして、ヤコブはその場所で、主に礼拝をささげたのです。

 旧約のはるか昔の時代に、ヤコブが見た夢、そこに示された天と地をつなぐ大いなる祝福の約束を、主イエスは、ご自分のこととしてお語りになりました。ヤコブは天と地をつなぐ階段を見ましたが、主イエスは、ご自分こそは、この天と地をつなぐ階段にほかならないことを告げられたのです。主の約束は、十字架と復活の出来事において実現しました。主は言われます。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」(ヨハネ14章6節)。主イエスは、父なる神と私たちの間を引き裂いた罪の力を、ご自身の十字架の死によって打ち破り、死人の中からの復活によって、死の断絶をも突き抜けて、命に至る道を貫いてくださいました。私たちと父なる神をつなぐまことの命の道となってくださったのです。
 愛する者の死に直面して、心騒ぎ、途方に暮れるとき、天と地をつなぐ命の道である主が私たちと共にいてくださることを思い起こし、悔い改めと感謝の祈りをもって、主にすべてを委ねたいと思います。