2024年5月26日 主日礼拝説教「主イエスにおいて父なる神を知る」 東野尚志牧師

ホセア書 第6章1~6節 
ヨハネによる福音書 第14章1~14節

 先週の日曜日は、聖霊降臨主日の礼拝を行いました。主イエスが復活された主日から50日を経て、七週目の主日、弟子たちの上に約束の聖霊が降りました。聖霊に満たされた弟子たちは、神さまの大いなる救いの御業について、力強く宣べ伝え始めました。伝道開始、聖霊を受けることによって、教会の伝道が開始されたのです。聖霊降臨主日の後の最初の主日は、教会の暦において「三位一体主日」と呼ばれます。これは、人間的な感覚からすれば、クリスマスに神の独り子であるイエス・キリストが来臨され、その後、御子の十字架と復活、昇天を経て、復活から50日目にあたるペンテコステの日、聖霊が降臨されたことで、父、子、聖霊なる三位一体の神が揃ったということであろうかと思います。
 しかし、それはあくまでも、人間的な、地上的な言い方に過ぎないことを忘れてはならないと思います。御子も聖霊も、永遠の初めから御父と共におられた方であるからです。特に、私たちが読み続けておりますヨハネによる福音書は、この点を厳密に描いてきました。御子について言うならば、ヨハネによる福音書は、その冒頭で厳かに歌っています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った」。第1章1節以下の言葉です。そして、同じ1章14節で語ります。「言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。神の霊については、創世記の冒頭に次のように記されています。「初めに神は天と地を創造された。地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。
 天地創造の初めから、神は、永遠に、父、子、聖霊なる三位一体の神であられます。永遠の初めから父なる神と共におられた第二位格の御子がクリスマスにおいて来臨され、次いで、第三位格の聖霊がペンテコステにおいて降臨された。こうして、地上においても、父、子、聖霊なる神が揃ったという意味で、ペンテコステの次の主日を三位一体主日と呼ぶのです。

 ヨハネによる福音書において、主イエスは繰り返して、父なる神とご自身は一つであることを告げてこられました。主イエスは、父なる神から遣わされて地上においでになりました。そして、この地上において、ご自分をお遣わしになった父なる神の御心を行なって来られたのです。そして今や、地上での業を成し終えて、父なる神のもとへ帰ろうとしておられます。ただし、それは同時に、十字架にかけられ殺されることを意味していました。神に背いて罪を犯し、自らの造り主である神のもとから迷い出てしまった私たち人間を、父なる神のもとに立ち帰らせるために、御子は私たちの身代わりとなって罪の裁きを受けられるのです。ご自身の命を犠牲にして、罪のための贖いを成し遂げてくださる。まさにそのために、父なる神は御子をこの世に、私たちのもとに遣わされたのです。
 福音書は、そのようにして、父なる神から遣わされて、私たちと同じ人間のひとりとしてこの地上にお生まれになった御子イエスが、その肉の体をもって苦難を味わい、罪の裁きとして死をも引き受けてくださったことを知っています。さらには、御子が三日目に死人の中からよみがえって弟子たちに現れ、天に昇り、父なる神のもとへと帰られたことをも知っています。そして、ご自身に代わって、いつも私たちと共にいてくださる弁護者、助け主、慰め主として、聖霊を送ってくださったことも知っています。聖霊なる神は、父なる神と主イエスが、私たちのために成し遂げてくださった救いの御業が分かるように、私たちがそれを信じることができるように、私たちの内に働いてくださるのです。
 福音書記者は、主イエスというお方の伝記を書こうとしたのではありませんでした。父なる神が、御子イエスにおいて成し遂げてくださった救いの御業を証ししようとしたのです。私たちが主イエスを信じるように、主イエスを信じて救われるようにと願っているのです。だからこそ、福音書を通して、ご自身を私たちに現わしてくださる主イエスは、いつでも、十字架と復活の主として語っておられます。私たちの救い主として語っておられるのです。けれども、主イエスの弟子たちは、聖霊を受けるまでは、十字架と復活の主を信じることができずに、とんちんかんなやり取りを繰り広げることになります。

 主イエスは弟子たちに告げて言われました。「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい」(14章1節)。主イエスが、弟子たちのもとから去って行こうとしておられる、その不安を隠せず動揺している弟子たちに対して、主は、父なる神のもとに場所を用意しに行くのだと言われました。場所の用意ができたなら、戻って来て、ご自分のもとに迎えると約束してくださいました。それは、復活者であるキリストの言葉です。復活者であるキリストがおられるところに、キリストに属する者も共にいさせてくださる。そのような霊的な交わりが、聖霊によって実現します。そのために、主イエスは今、ご自分を遣わされた父なる神のもとへ帰ろうとしておられるのです。
 これまで、主イエスは何度も弟子たちに、ご自分が父なる神から遣わされて、父なる神の業を行っていることを語って来られました。だから主は言われます。「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」(4節)。ところが、弟子のひとり、トマスが訴えました。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道が分かるでしょう」(5節)。聖霊を受ける前の弟子たちには、天から降って来られ、天のことを語っておられる主イエスを理解することができませんでした。後には、主イエスの復活を信じない者の代表として登場することになるトマスですけれども、トマスがこのように問うてくれたからこそ、私たちは、主イエスの次の言葉を聞くことができました。

 主イエスは、トマスに答えて言われました。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」(6節)。ヨハネの福音書の中で、主イエスはこれまでにも何度か、ご自分が何ものであるかについて、印象深い言葉で証しして来られました。「私は命のパンである」(6章35節、48節)。「私は世の光である」(8章12節)。「私は羊の門である」(10章7節)。「私は良い羊飼いである」(10章11節、14節)。「私は復活であり、命である」(11章25節)。そして、ここでは、「私は道であり、真理であり、命である」と告げられたのです。
 ギリシア語では、日本語と違って、動詞の語尾変化で主語の性や数を表わすことができます。それで通常は、主語に当たる代名詞は省略されるのです。けれども、主イエスは、「私」という主語を強調して語られました。「私は、何々である」にあたる「エゴー・エイミ」をはっきり告げられるのです。そのニュアンスを現わして訳せば、「私が道であり、真理であり、命である」ということになります。ヨハネによる福音書の中では、「真理」という言葉も「命」という言葉も、とても大事な意味を担っています。けれども、ここでは、「道」と「真理」と「命」が三つ並べて語られているわけではないと思います。むしろ一番大事なのは、最初に告げられた「道」です。主イエスがどこへ行かれるのか、その道が分からないと言ったトマスに対して、「私こそが道なのだ」と言われたのです。
 ヨハネによる福音書は、これまでにも繰り返して、復活者である主イエスこそが「真理」であること、つまり、父なる神との交わりの現実であることを示してきました。また主イエスとの交わりに生きることこそが、「永遠の命」であることをも説いてきました。けれども、ここでは、道とは別に真理があり、命があるということではありません。主イエスこそは、父なる神のもとに行くための唯一の、まことの命の道だと言われるのです。

 日本には、よく知られた古い歌があります。「分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」というのです。一休禅師の歌とも伝えられます。世の中には、いろんな教えや宗教があるけれども、どれであっても道を極めれば、悟りの境地は皆同じだというような意味で、引用されることが多いと思います。キリスト教でなくても、ユダヤ教でもイスラム教でも、あるいは、仏教でも、道教でも、儒教でも、入り口はなんでもよいのだ。自分に合う道を探して、登って行けば目指すところ、到達するところは同じだというわけです。宗教多元主義の時代に好まれそうな言葉だと思います。少し前に流行ったスピリチュアリティの世界にも通じるかも知れません。真理そのものは普遍的なものであって、どんな名前で呼んでもよい。「サムシング・グレート」だと言ってぼやかしてしまうのです。
 けれども、主イエスが父と呼ばれた神、聖書の神、この世界と人間の創造者であり、また救済者である神は、「サムシング・グレート」などというあいまいな存在ではありません。明確な意図と目的をもって、この世界と人間を造り、私たちを愛し、私たちに語りかけてくださるお方です。そして、私たちがその愛の呼びかけに応えることを求めておられる方です。人間が悪魔に唆されて、自ら神のようになろうとして、神に背を向け、神の前から失なわれてしまった後も、なおも人間を探し求め、引き裂かれた交わりを回復するために、御子をこの世に遣わしてくださいました。このお方、父なる神との命の交わりに至る道は、復活者である主イエスの他にはないのです。それは、キリスト教というような、教えの体系ではなくて、イエス・キリストという人格です。まことの神であり、まことの人となってくださったお方、主イエス・キリストこそが、父なる神と私たちをつないでくださる、まことの命の道なのです。

 主イエスこそが、父なる神に至る道であるということを、7節以下では、「父を知る」という観点から言い換えていきます。主イエスは言われます。「あなたがたが私を知っているなら、私の父をも知るであろう。いや、今、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのだ」。先ほどはトマスが弟子たちを代表して質問しました。今度はフィリポが食い下がります。十二人の弟子たちの中で、他の福音書ではあまり面に出て来ない、トマスやフィリポが頑張っているというのも、ヨハネによる福音書の面白いところです。フィリポは主イエスに言いました。「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足します」(8節)。主イエスが、「あなたがたは父を知っている」と言われただけでなく、「すでに父を見た」と言われたので、びっくりしたのでしょう。ユダヤ教の伝統の中で育ったフィリポは、霊なるお方である神を目で見ることはできない、ということを知っていたはずです。周りの国々は、神をさまざまな像に刻んでそれを拝んでいました。けれども、イスラエルの戒めの原点である十戒の第二戒は、神を像に刻むこと、形に造ることを禁じました。神は目で見ることのできないお方であるがゆえに、見える形に刻んではならないのです。それなのに、なぜ、主イエスは「父を見た」と言われるのでしょうか。
 主は、フィリポに答えて言われました。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示しください』と言うのか」(9節)。主イエスを見た者は、父を見たのだと言われます。主イエスは、父なる神から遣わされて、世に来られました。父なる神の御心を行い、私たちに父を示すために来られたのです。主イエスが遣わされた目的は、すでに、第1章でも印象深く歌われていました。「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1章18節)。確かに、霊なる神のお姿を見ることはできません。けれども、神から遣わされて、この地上に来られた独り子である神、主イエスが、見えない神を示されたのです。だからこそ、主イエスを見た者は、父なる神を見たのだ、主はそう言われます。主イエスにおいて、私たちは父なる神を見ることができる。主イエスと長い間一緒に過ごしてきた弟子たちは、主イエスにおいて父なる神を見てきたはずではないか、主はそう言われるのです。

 そんなふうに言われると、今、この聖書を読んでいる私たちは、不安に襲われるかもしれません。主イエスと長い間一緒にいることができた弟子たちでさえ見えていなかったとすれば、地上の主イエスを見る機会がなかった私たちはどうなるのか。私たちは絶望的ではないか。私たちは、2千年前、主イエスと同じ時を過ごし、主イエスと一緒に生活して、主の肉声を聞き、主のお姿を見ていた弟子たちのことをうらやましく思います。2千年前の弟子たちに比べれば、私たちは、主イエスとの距離が遠く離れているように思ってしまうのです。けれども、主イエスと一緒に過ごしていた弟子たちでさえ、見えていませんでした。いや、人となられた主イエスのお姿を目の当たりに見ていたことが、かえって、主イエスの本質を見ることを妨げていたと言ってよいかもしれません。主イエスが神の独り子であり、主イエスと父なる神と等しいお方であることが見えなかったのです。
 その意味では、私たちの方が恵まれていると言ってよいかもしれません。肉における主イエスのお姿を見ることができないだけに、目で見る姿に惑わされることなく、主イエスの本質を見ることができる。もちろん、それは、聖霊なる神が働いてくださることによるのです。聖霊なる神が私たちの間に、また私たちの内に働いてくださるとき、主イエスが神と等しいお方であり、主イエスにおいて、父なる神が示されていることを知らされ、また、それを信じるようになる。聖霊の導きによらなければ、誰も主イエスを正しく知ることができず、主イエスにおいて父なる神を知ることもできないのです。ましてや父を見ることはできません。この点では、2千年前の弟子たちも、今、ここで御言葉を聞いている私たちも、条件は同じだと言ってよいと思います。聖霊なる神の導きの中で、主の御言葉を聞くとき、私たちは霊の目で主を仰ぎ見て、父なる神をほめたたえるのです。

 主イエスは、父なる神から遣わされて、この地上にお出でになり、父なる神の業を行われました。父なる神との絆、その深い交わりを印象深い言葉で描かれます。「私が父の内におり、父が私の内におられる」(10節)。そして、この父と子の愛の交わりの中に、私たちをも招き入れてくださいます。罪と死の力に捕らわれていた私たちは、聖なる神に近づくことも、神の前に立つこともできない者でした。けれども、主イエスは、私たちを愛してくださり、ご自身の命を犠牲にして、私たちの罪を赦してくださいました。そして、私たちが父なる神のもとへ行くことのできる救いの道となってくださったのです。私たちが、主イエスを信じて洗礼を受け、主と一つに結ばれるとき、私たちは、主イエス・キリストのお体である教会の中に入れられ、主のお体に宿る主の霊は、私たちの内にも住んでくださいます。そのとき、主イエスが父なる神から遣わされたお方であるように、私たちもまた、主イエスから遣わされた者となって、この地上で、主の御心に従って、主ご自身の業を行うのです。全世界に主の救いを告げ知らせながら、さらに大きな救いの実を結んでいく者とされるのです。
 主イエスは、私たちを、父なる神と主イエスとの交わりの中に招き入れてくださいました。その交わりの中で生かされるしるしとして、聖霊を送ってくださいました。そして、聖霊に導かれながら、主イエスの名によって祈ることを教えてくださいました。私たちが主イエスの名によって願い、主がそれをかなえてくださるとき、父なる神が栄光をお受けになるというのです。

 主は今も、私たちの目には見えなくても、霊において、私たちと共にいてくださいます。私たちを父なる神の前に立たせ、神の子として生きるように、霊の力で満たしてくださいます。聖霊の導きによって、私たちは主の名によって祈り、主の御心を行い、神に栄光を帰すのです。霊なる主が、私たちと共にあり、私たちを通して働いてくださいます。主のものとして生かされ、導かれる幸いを喜び歌いたいと思います。