2024年4月28日 主日礼拝説教「主イエスについて行こう」 東野尚志牧師

詩編 第119編33~40節 
ヨハネによる福音書 第13章31~38節

 先週の金曜日、4月26日の午後、日本基督教団の隠退教師である加藤常昭先生が天に召されました。2週間前、4月15日に、95歳の誕生日を迎えられたばかりでした。1997年の3月末で、鎌倉雪ノ下教会の牧師を辞任して、隠退教師となられてから27年になります。その間も、最後まで、説教塾の主催者として、後進の説教者たちの指導を続けてこられました。ほとんど目が見えなくなってからも、執筆活動を続けておられました。隠退された後も、最後の最後まで、説教者を育て、訓練する教師であり続けた先生が、95年の地上の歩みを終えて、天に召されたのです。
 逝去の知らせを受けてから、何か体の力が抜けてしまうような不思議な感覚を味わいました。説教塾の塾生の名簿に名が記され、毎年、妻と共に塾生としての会費を払い続けていたにもかかわらず、私自身は、妻と違って、ほとんど説教塾の活動には参加していませんでした。それにもかかわらず、加藤常昭先生の存在は、私自身の中で大きな位置を占めていたことを、改めて、思い知らされました。
 私がこれまで、キリスト者として、また伝道者として生きる歩みの中で、決定的な影響を受けた先生が四人おられます。一人目は、私に洗礼を授けてくださった大阪教会の市川恭二先生。私はこの先生のもとで四年間、十字架の福音を聴き続ける中で、献身の志を与えられました。二人目は、神学生として学んだ四年間、東京神学大学の教授として、また滝野川教会の牧師として、伝道者となるための訓練と学びを導いてくださった大木英夫先生。私はこの先生のもとで、神学すること、神学的に生きることの基本を学びました。三人目は、神学校を卒業して、最初に遣わされた教会である横浜指路教会において、主任牧師として指導してくださった鷲山林蔵先生。私は、この先生のもとで四年間、伝道師、副牧師として歩む中で、キリストと教会に仕えて生きる伝道者の愚直なまでの真実な生き方を、まざまざと見させていただきました。そして、四人目が、加藤常昭先生でした。

 加藤常昭先生との最初の出会いは、東京神学大学に編入学した時でした。実践神学部門の教授でした。学部4年生のときに、実践神学概論を学び、大学院の1年のときに、説教学を学びました。その年度の終わりに、健康上の理由で東京神学大学の教授を辞任されましたので、私たちのクラスは、加藤先生の最後の学生ということになりました。説教という、伝道者の実践的な務めに関わる基本を学んだ先生ですので、何となく親しみがあり、卒業前に数名の同級生と一緒に鎌倉を訪ねて、ご自慢の教会の中を案内していただいて、写真集や記念誌などもいただきました。卒業して赴任した横浜指路教会は、同じ神奈川にある教会でした。しかも、同じ長老制度の伝統に立つ教会として、地域の七つの教会で組織された神奈川教会連合という交わりがありました。牧師会だけではなく、運営委員会にも参加して、長老研修会や信徒研修会の計画を立てる中で、引き続き加藤先生の教えに触れました。
 加藤常昭先生と決定的な関わりを持つことになったのは、横浜指路教会を辞して、英国に留学している間に、鎌倉雪ノ下教会からの招聘を受けたことによります。二年間の留学を終えて帰国した後、加藤先生が隠退されるまでの一年半は、引き継ぎのため、一緒に教会に仕えるという経験をしました。それは、私にとって、かけがえのない宝のような経験となりました。かつて神学校において、実践神学、説教学の基本を教えてくださった先生が、実際に教会の中で、どのように語り、どのように牧会しておられるのか、まさに教会の牧師としての実践に触れることができたのです。日々の祈りの生活に触れました。折に触れて祈られる、その祈りの言葉に深く慰められ、生かされました。かつて教室で学んだことが、教会において、このように実践されているということを深く受けとめました。それによって、自分自身の伝道者としての祈りの生活を整えられたと言ってよいと思います。説教者であり、牧会者である加藤先生の実存を深く知ることのできた恵みの日々でした。

 加藤先生から神学校で学んだことの中で、特に心に残っている教えがあります。使徒パウロが、問題を抱えた教会に対して手紙を書き送る中で、しばしば「私に倣う者となりなさい」と語っていることを取り上げながら言われました。伝道者は、「私に倣う者となりなさい」ということを言える者でなければならない。ドキッとしました。私たちは、すぐに逃げたくなります。私を見ないで、イエスさまを見てください、と言いたくなります。私なんか見ているとつまずくから、イエスさまを見て、イエスさまに倣ってください、と言ってしまうのです。けれども、伝道者は逃げることはできない、と加藤先生は言われました。牧師という存在は、良くも悪くも、教会員から見られていることを忘れてはいけない、と教えられました。
 もちろん、見られているから、良く見せなければならない、ということではありません。教会員の前では、都合の悪いところは隠して、信仰深い牧師の姿を演じていなければならないということではありません。実践的なこととして例えば、どう祈って良いか分からないというひとがいたら、私のように祈ってみなさい。私の言葉を真似して祈ってごらんなさい。そう言えるようでなければならない。あるいは、救いということが分からない。救われた者として、どのように生きたら良いか分からない、というひとがいたら、私のように生きてみなさい。私のように考えて、私のように生きてみれば、救われた者の生き方が分かるようになる。私の真似をしてごらん。そう言えることが大事だと教えられたのです。思いと言葉と行いにおいて、救われている者としての存在を示すようにというのです。伝道者の存在は、教会の中で目に付きます。それだけにまた、いろんなことを言われます。批判されることもあります。そのことを覚悟していなければならないということでもあると思います。
 それはまた、伝道者に限ったことではないと思います。私たちは皆、信仰者としての考え方や生き方を、既に教会の中で生きている周りの人たちから学んでいきます。どうしたら、あの人のように祈り、あの人のように輝いて生きることができるのだろうか、既に信仰に生きている人たちの姿から、またその祈りから、多くを学び取っていくのです。なぜ、そのようにして、周りの人たちをお手本にすることができるかといえば、一人ひとりの中に、キリストが生きておられるからです。その人の中に、キリストが宿っておられる。その霊的な恵みの力が、言葉において、また行いにおいて現れてくるからです。使徒パウロはこんな言い方もしています。「私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者となりなさい」(1コリント11章1節)。使徒パウロが、キリストに倣う者として生きているとき、パウロの中にキリストが生きておられるのです。キリストに倣う者として生きている私に倣うように、パウロはそう言いたいのだと思います。

 私たちは、ヨハネによる福音書の第13章の言葉を学び続けてきました。主イエスは、ついに、ご自分が栄光をお受けになる時が来たことを悟られました。父なる神の御心に従って、十字架に引き渡され、ご自分の命を犠牲にして私たちすべての罪の贖いとする時が来たのです。主イエスの十字架の死によって、父なる神の御心が行われ、御子のゆえに父なる神が栄光をお受けになる時が来たのです。その時、主イエスは、ご自分の者たちを愛して、極みまで愛し抜かれました。そして、その愛を現わすために、弟子たちの足を洗って行かれたのです。
 主イエスを裏切ることになるユダも含めて、十二人の弟子たち全員の足を洗ってしまわれた後、主は弟子たちに教えて言われました。「あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ。そう言うのは正しい。私はそうである。それで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ」(ヨハネ13章13~15節)。そして、13章の終わりに至って、それを繰り返すようにして言われるのです。「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう」(13章34~35節)。互いに愛し合うということが、主イエスの弟子であるしるしなのだと言われるのです。
 主イエスが、弟子たちの足を洗われたのは、主が弟子たちを愛しておられる、その愛のしるしでした。愛するというのが具体的にどうすることなのかが分かるように、主イエスは、弟子たちの前にかがみ込むようにして、ご自身を低くして、弟子たちの足を洗って行かれたのです。そのことを思い起こさせるようにして言われます。「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。「互いに愛し合う」という戒め自体は、決して目新しいものではありません。ユダヤ人の間では、よく知られていた戒めです。旧約聖書のレビ記の19章18節に「隣人を自分のように愛しなさい」と記されているように、律法もまた愛することを教えているのです。けれども、主イエスは、よく知られていた愛の戒めを、「新しい戒め」としてお与えになりました。その新しさは、どこにあるのでしょうか。

 福音書と同じく「ヨハネ」の名で知られる手紙があります。ヨハネの手紙一の第2章7節以降には、次のように記されています。「愛する人たち、私があなたがたに書き送るのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めです。その古い戒めとは、あなたがたがかつて聞いた言葉です。しかし、私は、あなたがたにこれを新しい戒めとしてもう一度書き送ります。それは、イエスにとっても、あなたがたにとっても真実です。闇が過ぎ去り、すでにまことの光が輝いているからです」。「隣人を自分のように愛しなさい」とか「互いに愛し合いなさい」というのは、それまで誰も聴いたことのない初めての教えというわけではありませんでした。いやむしろ、古くから命じられていた戒めであり、誰もが良く知っていた戒めなのです。けれども、教会の指導者であった長老ヨハネは、その初めから受けていた古い戒めを、新しい戒めとして書き送ると言うのです。そこで言われる「新しさ」とは、何を意味しているのでしょうか。
 主イエスが与えてくださった愛の戒めの新しさ、それは、ただ「互いに愛し合いなさい」というのではなくて、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われたところにある。そう言って良いと思います。主イエスは、愛することをお命じになる前に、まず愛してくださったのです。愛のお手本を示してくださったのです。主イエスはどのように弟子たちを、また私たちを愛してくださったのでしょうか。主イエスは少し後のところで言われます。「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛した」(ヨハネ15章9節)。主イエスが弟子たちを愛される愛は、主イエスご自身が父なる神から受けた愛に基づくのです。この父なる神の愛は、独り子イエスを私たちに与えてくださったことによって現わされました。ヨハネの福音書全体を読み解く鍵になる第3章16節の言葉が聞こえて来ます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。そこに、私たちが求めるべき、真実の愛の姿があるのです。

 私たちの愛には、いつも人間的な、自分の思いが絡みついています。恐らくは無意識のうちに、見返りを求めてしまうのです。けれども、神さまの愛は、見返りを求めることなく、与え尽くしてくださる愛です。父なる神は、私たちを愛して、大切な独り子を私たちに与えてくださいました。主イエスは、私たちを愛して、ご自身の命を捨ててくださいました。主イエスの愛には限界がありません。与えて、与えて、与え尽くして、ご自身の命までも与えてくださったのです。だから、私たちを愛してくださる神の愛には、犠牲が伴っています。それは十字架の愛です。さらに、主イエスは、すべてをご存じの上で、私たちを愛し抜いてくださいます。私たちの弱さや欠点をもご存じの上で、なお私たちを愛してくださるのです。
 私たちは、お互いのことをあまり良く知らないうちは、簡単に愛していると言うことができるかもしれません。けれども、例えば一緒に生活して、それまで知らなかった相手の性格や癖なども知るようになると、いっぺんに愛が冷めてしまうということも起こりえます。主イエスは私たちのすべてをご存じです。私たちが周りの人の目には隠しておきたいような罪の現実や自分でも受け入れがたい嫌な部分も含めて、主イエスは私たちのすべてを知っておられます。すべてをご存じの上で、あるがままの私たちを愛してくださるのです。そうであればこそ、主イエスの愛は赦しの愛です。ご自分を裏切り、ご自分を見捨てる弟子たちをも赦し、受け入れてくださる愛なのです。

 主イエスを裏切ったのは、ユダだけではありませんでした。主イエスの一番弟子と目されるペトロもまた、肝心のところで主イエスを裏切ってしまいます。主イエスがペトロに対して、「私の行く所に、あなたは今付いて来ることはできない」と言われたとき、ペトロは自分の真剣さが通じていないようなもどかしさを感じたのかも知れません。胸を張って主イエスに言いました。「主よ、なぜ今すぐ付いて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」(13章37節)。しかし、主はペトロに答えて言われました。「私のために命を捨てると言うのか。よくよく言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」(38節)。主イエスは、ご自身が捕らえられ、裁かれているとき、ペトロが主イエスの仲間だと思われることを恐れて、主イエスとのつながりを否定してしまうことをご存じでした。しかも、三度も主を知らないと言ってしまうのです。そして、私たちは、主が言われたとおりのことが起こったことを知っています。だからと言って、主イエスは、ペトロの言葉を信用しないとか、もう愛さないと言ったりはなさいません。なおも、大切な弟子として愛し抜いてくださったのです。
 主イエスは、ペトロの弱さと惨めさを知り尽くしておられました。頭でよく考える前に、すぐに心にあることを口にしてしまうせっかちな癖があることも知っておられました。確かに、主に従っていきたい、どこまでも主についていきたいという思いを誰よりも強く抱きながら、肝心の所で弱さが顔を出す、そういうペトロのありのままの現実を知っておられ、それを受け入れておられました。けれども、それだけではありません。ペトロが将来どのようになるかも知っておられるのです。主イエスは、ペトロに言われました。「私の行く所に、あなたは今付いて来ることはできないが、後で付いて来ることになる」(36節)。ペトロは確かに、今、主イエスについて行くことはできません。三度も主を知らないと言って、主を見捨ててしまうのです。けれども、主はその後に起こることをも見抜いておられます。ペトロが、今は主イエスについて来られないけれども、後で付いて来ることになると知っておられるのです。復活の主と出会ったペトロが挫折の中から立ち上がって、兄弟たちを力づけるようになること、さらには主に従って、ついには迫害の中、殉教の死を遂げるようになることを知っていてくださるのです。

 主は言われます。「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34節)。主イエスが私たちを愛してくださる愛、私たちの弱さも罪もすべてご存じの上で、なおも愛し抜いてくださる愛、その愛に包まれ、支えられながら、私たちも互いに愛し合い、仕え合う。そこに、主の教会が形づくられ、私たちが主の弟子であることが現わされるのです。主イエスは、私たちを見ておられます。私たちが主イエスの愛に満たされて、自分の利益を求めるのではなくて、お互いの救いのために、真実に祈り合い、仕え合うようになる。その姿を、主は見ておられます。主が私たちのことを諦めておられないからこそ、私たちもお互いについて、また自分自身についても諦めることなく、共にどこまでも主について行きたいと願います。私たちが、洗礼と聖餐の恵みによって、しっかりと主に結ばれており、主が私たちの間に宿ってくださるなら、その願いが決して空しくなることはないと信じることができるのです。
 ペトロをはじめとして、さまざまな弱さや欠点をかかえながらも、主イエスの愛に包まれ、主イエスの愛に倣って生きた多くの伝道者たち、また信仰者たちが、天に召されていきました。その残された証しに学び、励まされ、また倣いながら、私たちも、主イエスにつながる者として、愛の実を結んで行く者でありたいと願います。