2024年4月14日 主日礼拝説教「愛されている者と裏切る者」 東野尚志牧師

詩編 第25編1~11節
ヨハネによる福音書 第13章21~30節

 皆さま、きょうは、ようこそ礼拝にお出でくださいました。七日の旅路を守られて、この朝、共に、主の日の礼拝に連なることができました。神さまが、皆さまお一人びとりの健康と信仰を、守り支えてくださって、礼拝に導いてくださったことを感謝します。そして、神さまの招きに応えて、皆さまが礼拝のために共に集ってくださったことを感謝します。皆さまの熱意と信仰に支えられるようにして、きょう、私はこの場に立たせていただいています。実に、厳しく、また読むのが辛い御言葉を前にしているからです。
 先ほど、聖書を朗読しましたとき、手元に聖書を開いて見ておられた方は、既にお気づきだと思います。聖書協会共同訳の聖書では、きょうの箇所が1つの段落として区切られています。そして、そこに、「裏切りの予告」という小見出しが掲げられているのです。口語訳の聖書を用いていたときには、小見出しはありませんでした。新共同訳の聖書以来、小見出しがつくようになりました。特に、旧約聖書など、聖書の箇所を探すのに便利です。あるいはまた、聖書の内容を大づかみに把握しようとするとき、見出しがあるのは助けになります。けれども、それは言い換えれば、聖書の本文を読む前から、そこに記された内容を標題のように突きつけられることでもあります。

 「裏切りの予告」。何とも重い主題です。もちろん、見出しがなくても、中身を読めば、重い気持ちになることは避けられません。こんなふうに始まります。「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、証しして言われた。『よくよく言っておく。あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている。』」。夕べの食事のときの会話です。食卓を囲んでいるのは、主イエスと十二人の弟子たちです。給仕をする人が控えていたかも知れませんけれども、食卓に着いているのは、これまで主イエスの権威ある教えを聞き、主イエスの力ある業を目の当たりに見て、いつも主イエスと行動を共にしてきた弟子たちなのです。
 しかも、その食事の途中で、主イエスは、立ち上がって、上着を抜いで、手拭いをとって腰に巻かれました。そして、たらいに水を汲んできて、弟子たち一人ひとりの足を、順に洗って行かれたのです。主であり、師であるイエスさまが、弟子たちの前に跪いて、身を低くして弟子たちの足を洗って行かれた。そういう流れの中で、弟子たちの中の一人、主イエスに足を洗ってもらった者の一人が、主イエスを裏切ろうとしていると告げられたのです。

 もっとも、既に第13章に入るとすぐ、福音書記者は、1節と2節で記していました。「過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。夕食のときであった。すでに悪魔は、シモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた」。主イエスは、ご自分が十字架にかけられ、殺される時が来たことを自覚した上で、弟子たちすべてを心から愛して、最後まで愛し抜かれたのです。その一方で、悪魔は着々とことを進めており、イスカリオテのユダの心に、主イエスに対する裏切りの思いを吹き込んでいたと言います。主イエスの究極の愛と、その主に対する裏切りの思いとが背中合わせのように記されていました。
 この時点では、ユダの裏切りについて、弟子たちは何も知りません。この物語を読んでいる私たち読者だけが、福音書の記事を通してあらかじめ知り得たのです。ただし主イエスは、既にそのことを見抜いておられました。だからこそ、弟子たち皆の足を洗った後で、言われたのです。「あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」。主イエスがなぜそんなことを言われたのか、弟子たちには分かりません。しかし、ここにも、福音書記者は私たち読者のために注をつけています。「イエスは、ご自分を裏切ろうとしている者が誰であるかを知っておられた。それで、『皆が清いわけではない』と言われたのである」(13章10~11節)。

 ユダが主であり師であるイエスさまを裏切った、ということについては、私たちは、あらかじめよく知っていたのではないでしょうか。聖書を読んだことのない人でも、「ユダ」という名前が「裏切り者」の暗喩として用いられることを知っています。さらに言えば、この福音書は、既に最初から、イスカリオテのユダの名前を挙げるたびに、この名を裏切りと結びつけて記していました。最初にユダの名前が出たのは、第6章71節でした。70節に主イエスの言葉が記されます。「すると、イエスは言われた。『あなたがた十二人は、私が選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ』」。ここにも、福音書記者が読者のために注をつけています。「イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた」。今、私たちが読んでいるのは第13章ですけれども、既に第6章から予告されていたわけです。
 次に、ユダの名が出るのは第12章、ベタニアの村、マルタとマリアの姉妹の家で、マリアが非常に高価なナルドの香油を主イエスの足に塗った場面です。家中が香油の香りでいっぱいになったところで、ユダ自身が口を開くのですけれども、そのユダの名前を出すときに、福音書記者が説明を加えているのです。「弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った」。ユダの名前を出す度に、「イエスを裏切ろうとしていた」という注がつく。しかも、ユダが口にした言葉の後にも、福音書記者の説明が続きます。「『なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。』彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。自分が盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていたからである」(12章5~6節)。実に厳しい見方です。ユダのことを「盗人」と決めつけているのです。

 そして、きょうの箇所の直前の段落においても、主イエスは語っておられました。13章の18節です。「私は、あなたがた皆について、こう言っているのではない。私は、自分が選んだ者を知っている。しかし、『私のパンを食べている者が、私を足蹴にした』という聖書の言葉は実現しなければならない」。主イエスは、十二人の弟子たちを、ご自分でお選びになりました。それは、第6章でも言われていました。「あなたがた十二人は、私が選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ」。そして、ここでも、主は、ご自分が選んだ者を知っていると言われます。その中の一人が悪魔だということを知りつつ語られるのです。「私のパンを食べている者が、私を足蹴にした」というのは、旧約聖書の詩編に記されている言葉です。ユダにおいて、この聖書の言葉が実現したと言われるのです。旧約聖書に記されているというのは、神さまのご計画の中にあるということを意味します。主イエスが、ユダの裏切りを知りながらも、ユダを十二人のうちの一人としてお選びになったのは、神さまのご計画が実現するためだと言われるのです。
 そういう流れを受けて、ついに、主イエスが決定的な予告をされたのが、きょうの箇所ということになります。「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、証しして言われた」と始まります。神さまのご計画に従って、神さまの御心を行うために、ユダをお選びになりました。主イエスは、このユダをも含めて、ご自分のものである弟子たちのことを愛して、最後まで愛し抜かれたのです。しかも、ユダも含めて、十二人の弟子たち全員の足を洗われました。さらに、ヨハネの福音書には聖餐制定の場面が描かれてはいませんけれども、他の福音書によれば、主イエスが聖晩餐の制定をされたとき、その場にユダもいたのです。ユダも、主イエスが分けてくださったパンと杯、すなわち、聖餐の恵みにあずかったのです。その弟子に背かれ、裏切られるということは、あらかじめ覚悟しておられたとはいえ、いざ、そのときを迎えると、心を騒がせられることであったと思います。ここで用いられているのは、「かきたてる」「かき乱す」「動揺させる」「興奮させる」と言った意味を持つ言葉の受け身形です。主イエスは、愛する弟子の裏切りについて語るとき、激しく心かき乱され、動揺させられ、心騒がせられておられるのです。

 ところが、弟子たちはのんきなものです。「弟子たちは、誰のことを言われたのか察しかねて、顔を見合わせた」というのです(13章22節)。有名なレオナルド・ダヴィンチのフレスコ画「最後の晩餐」は、この一瞬の場面を捕らえて描かれたのだと思われます。弟子たちが主イエスの言葉に驚いて、誰のことを言われたのか分からず、困惑の表情を浮かべながら、互いに顔を見合わせた様子が生き生きと描かれています。十二人の弟子たちが、三人ずつ4つのグループに分けられて、それぞれ顔を寄せ合っています。その真ん中に両手を広げた主イエスが座っておられて、主イエスの顔の部分が遠近法の消失点になっており、自然に主イエスの顔に目が行くように描かれています。十二人一人ひとりの顔の表情や仕草が見事に描き分けられているので、これは、ペトロだとか、ヨハネだとか、ユダだとか、ある程度、想像することができるわけです。
 福音書の物語では、このあと、ペトロが主イエスの隣りに座っている弟子に耳打ちして、誰のことを言われたのか尋ねるように合図したと記されています。ダ・ヴィンチの絵で言えば、主イエスの隣りにいる女性的な優しい顔立ちをしている人物に顔を寄せるようにして、何か尋ねているふうなのがペトロ、そして、金袋を握りしめているのが、主イエスを裏切ったユダであろうと見なされることになります。この金袋は、一行の会計係としてユダが預かっていた金入れではなくて、主イエスを銀貨30枚で祭司長たちに売り渡したとされる、裏切りの象徴としての金袋だと考えられているわけです。ひと頃はやった、ミステリ作品をもとにした映画では、中央の主イエスと隣の女性的な顔立ちの人物の位置を入れ替えると、ぴったりと寄り添うような構図になるので、実はこの人物は主イエスの妻となった女性だというような謎解きがなされていました。着想は面白いですけれども、聖書の描き方とは大きく外れてしまいます。

 ところで、その主イエスの隣りにいる人物のことを、ヨハネによる福音書はとても印象深い言葉で描いています。23節です。「イエスのすぐ隣には、弟子の一人で、イエスの愛しておられた者が席に着いていた」。「弟子の一人で、イエスの愛しておられた者」と記されています。名前は記されていません。けれども、この福音書の中で、この後、何度か登場します。そして、とても重要な役割を演じる人です。第19章に描かれる主イエスの十字架の場面では、弟子たちの中でただひとり、「愛する弟子」と呼ばれて、その場に立ち会っています。主イエスは十字架の上から、この愛する弟子に、ご自分の母マリアを託されるのです。また主イエスの復活を描いた20章においても、この弟子は、主イエスの墓が空っぽになっていたことをペトロと共に確認するという大事な役回りを演じます。そして、最後の21章においても、ペトロと共に「イエスの愛しておられた弟子」として登場するのですけれど、続けてこう記されます。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている」(21章24節)。それで、この福音書を書いたのは、「イエスの愛しておられた弟子」であり、それは、この福音書に名前が出て来ない「ヨハネ」その人ではないかと考えられるようになりました。
 「イエスの愛しておられた弟子」と呼ばれる人物が初めて登場するのが、「最後の晩餐」の場面とです。先ほども読みましたように、福音書はこう記しています。「イエスのすぐ隣には、弟子の一人で、イエスの愛しておられた者が席に着いていた」。「席に着いていた」と言われると、私たちはすぐ、椅子に座っている姿を思い描くかも知れません。ダ・ヴィンチの絵も、椅子に座ってテーブルについている弟子たちの姿を描いていました。けれども、私たちがよく絵で見る姿とは違って、当時の食事は、椅子に座るのではなくて、左肘をついて横になり、右手を食卓にのばしてパンや杯を取ったのだと言われます。実際、聖書のもとの言葉も「横になる」という言葉が用いられています。新改訳2017の聖書は、そのあたりの情景を原文に忠実にうまく訳していました。「弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスの愛しておられた弟子である」。この弟子は、主イエスの右側に横たわって、ちょうど、主イエスの胸のところに顔を寄せているのです。右側というのは、特別に親しい者の場所です。まさに「イエスの愛しておられた弟子」にふさわしい場所だと言えます。

 少し離れたところにいたシモン・ペトロが、この弟子に、主イエスが誰のことを言っておられるのか尋ねるように合図をしたと言います。いったい、大事な先生を裏切るのは誰なのか、聞き出そうとしたのです。ペトロの合図を受けた弟子は、主イエスの胸元に寄りかかったままで、「主よ、誰のことですか」と尋ねました。それに対する主イエスの言葉が26節に記されています。「イエスは、『私がパン切れを浸して与えるのがその人だ』とお答えになった。それから、パン切れを浸して取り、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった」。このやりとりが、その場にいる弟子たち皆に聞こえていれば、大騒ぎになったかも知れません。しかし、その後の様子を見ると、主イエスの答えを聞いて、主がなさったことの意味を知ったのは、主イエスの胸元に身を寄せていた弟子だけであったようです。恐らく、この弟子は、主イエスの右側に寄り添ったままの姿勢でそっと尋ね、主イエスもこの弟子だけに聞こえるように答えられたのだと思います。だから、主イエスがパン切れをユダにお与えになったときも、他の弟子たちは、それが何を意味しているか分からなかったのです。
 しかし、福音書は、はっきりと記します。27節です。「ユダがパン切れを受けるやいなや、サタンが彼の中に入った」。13章の初めのところでは、既に悪魔がユダの心に、主イエスを裏切る思いを入れていたと記されていました。それは密かな心の思いでした。けれども、今や、サタンがユダの中に入ったのです。ユダはサタンと一体になって、その思いを実行するに至ります。そのことがよく分かった上で、主イエスはユダに言われました。「しようとしていることを、今すぐするがよい」。主イエスは、ユダがご自分を裏切とうとしていることをご存じです。しかも、それがサタンの仕業であることもご存じの上で、それが神のご計画の中にあり、十字架の死を通して神の御心が成し遂げられるのであるならば、すべて受けとめる覚悟をしておられるのです。

 その場にいた他の弟子たちには、主イエスがユダに告げられた言葉の意味が分かりませんでした。それで、ある者は、ユダが一行の会計係として金入れを預かっていたので「祭りに必要な物を買いなさい」と言われたのかと思いました。また別の弟子は、貧しい人に何か施すようにと言われたのだと思ったというのです。つまり、誰も、ユダが主イエスを裏切ろうとしているとは思いもしなかったということです。むしろ何か良いことをするように指示されたと思ったのです。
 福音書記者は、印象深い言葉で、この場面を締めくくります。「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」。夕食の場面を描いてきたのですから、夜であることは言わなくても分かっているはずです。しかし、ユダはまさに、夜の闇の中へ出て行ったのです。世の光として地上に来られた主イエスに背を向けて、外の闇の中に出て行きました。闇の中に呑み込まれて行ったのです。

 確かに、主イエスの十字架による罪の赦しが成し遂げられるためには、ユダの裏切りも必要であったと言えるかも知れません。けれども、神のご計画の中で用いられたのだからと言って、裏切りの罪が帳消しになることはありません。裏切りの予告がなされ、裏切りが実行に移されていく。闇の力に呑み込まれていくような重苦しい場面の中に、「主の愛された弟子」が登場したことは、ひと筋の光を与えているのかもしれません。もちろん、主イエスは、この一人の弟子だけを特別に愛されたわけではありません。13章の初めに描かれたように、主イエスは「世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」のです。主イエスは、この一人の弟子だけでなく、すべての弟子たちを愛し抜かれました。ユダも例外ではありません。主イエスは、ユダのことも極みまで愛し抜かれた。そして、ユダの足をも洗われた。決して、ユダが出て行った後で、聖餐の制定をされたわけではありません。他の福音書によれば、ユダにもご自身の体であるパンを与え、ご自身の血である杯を与えられたのです。主イエスが、浸したパンをユダに与えられたのは、聖餐の恵みがユダにも与えられたことを暗示しているのかもしれません。それが、主イエスの愛です。主イエスは、ユダのためにも十字架にかかられたのです。
 主イエスは、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれました。そこには、ユダも含まれており、私たちも含まれています。私たちは皆「主の愛された弟子」「主に愛されている弟子たち」です。裏切りというかたちで、罪が極まり、夜の闇が最も深くなったところで、主イエスの愛も極まっています。そして、主イエスの愛は、闇の力に負けてしまうことはありません。弟子に裏切られた十字架の死において、主イエスの愛は最も深まり、死を突き抜けて、復活へと貫かれます。主イエスの愛は、私たち人間の罪の闇にも空しくされず、死によっても滅ぼされることはありません。極みまで貫かれる主の愛は、世の終わりまで、主に愛されている弟子たちの上に、私たちの上に注がれています。この主イエスの愛に背を向けることがあってはなりません。主イエスの愛に背を向けた途端、闇の力に引きずり込まれてしまうのです。

 主イエスはユダに言われました。「しようとしていることを、今すぐするがよい」。したくないことをしなさいと言われたのではありません。自分でしようとしていることを、せよと言われます。私たちは、何をしようと願っているのでしょうか。主イエスの胸元に身を寄せた弟子のように、主のもとにとどまり続けていたい。私たちを極みまで愛してくださり、世の終わりまで共にいると約束してくださった、主のもとにつながっていたい。神を愛し、隣人に仕える者でありたい。愛に生きる者でありたい。命と愛の源である主イエスとしっかりつながって、愛の実を結ぶ者になりたい。そう願うなら、「しようとしていることを、今すぐするがよい」。主は、私たちの愛を励ましてくださるのです。主に背を向けてではなく、主の御顔を仰ぎながら、私たちのなすべきことを喜んで行いたいと思います。