2024年3月3日 受難節第三主日礼拝説教「光と闇を分ける言葉」 東野尚志牧師

ホセア書 第6章4~6節
ヨハネによる福音書 第12章44~50節

 今朝は、ヨハネによる福音書第12章の最後のところを読みました。ヨハネによる福音書は、この12章の終わりのところで、一つの区切りを刻むことになります。この後、13章から17章までは、十字架を前にした主イエスの教えと祈りがぎっしりと記されるところになります。特に、13章から16章までは、主イエスと十二人の弟子たちとの問答が記されており、17章はその全体が、主イエスの祈りです。弟子たちを執り成す祈りであり、大祭司の祈りとも呼ばれてきました。そして、18章以降には、主イエスが捕らえられ、十字架にかけられ、三日目に復活される出来事が展開していくことになります。
 前回読みました12章の36節には、こんなふうに記されていました。「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された」。「彼ら」というのは、直前まで、主イエスが語り続けておられた「群衆」を指しています。主イエスは、群衆の前で、多くのしるしを行われ、またご自分が誰であるかについても、繰り返し語ってこられました。主イエスは、自分勝手に教えているのではなくて、父である神から遣わされた者として、救いの言葉、命の言葉を語り続けてこられたのです。ところが、群衆は、主イエスを信じようとしませんでした。それで、主イエスは群衆の前から立ち去って、「身を隠された」というのです。主イエスが、再び群衆の前に現れるのは、ポンティオ・ピラトの裁判において、人々の前に引き出される時です。群衆の前から身を隠された主イエスは、この後、第13章から17章まで、ご自身がお選びになった十二人の弟子たちを相手にして、とても濃密な時間を過ごされることになるのです。

 先ほど朗読した12章の終わりの段落は、十二弟子との問答に入るに先立って、これまで、主イエスが群衆に向かって示してこられた御業と御言葉をまとめて、締めくくっているところだと言っても良いと思います。すでに公の場から退いて、身を隠された主イエスが、44節の冒頭で叫んでおられることに、違和感を覚えられた方があるかもしれません。「イエスは叫んで、こう言われた」という言葉で始まって、最後まで、主イエスが叫んで言われた言葉を引用する文章になっています。いったい誰に向かって叫んでおられるのか、不思議に思われたかもしれません。けれども、この段落が、これまで主イエスが群衆に向かって示された御業と御言葉の締めくくりであるとすれば、ここで突然、大声を上げて叫ばれたということではないでしょう。そうではなくて、これまでずっと、多くの人たちに、大きな声で語り続けてこられた御言葉を、福音書記者ヨハネが、このような形でまとめていると言って良いのです。
 ヨハネが、主イエスのこれまでの教えをまとめて記そうとしたときに、ただ「こう言われた」と書くのではなくて、「叫んで」言われたと描いていることに、私は心揺さぶられる思いがします。皆さんはいかがでしょうか。イエスさまは、悟り澄ました道徳の教師のように、私たちの生きるべき道を穏やかに教えられた、というのではありません。叫んでおられるのです。何とかして、私の語る言葉を信じて欲しい。ここに救いがある。これ以外に救いはない。私を信じて、救われて欲しい。これは、主イエスの魂の叫びです。何としてでも、私たちを救いたい。そういう熱のこもった命の叫びだと言ってよいのです。

 以前、ある日本の思想家が、キリスト教よりも仏教の方が平和的であり、日本人の感性に合っていると言って、こんなことを書いていました。仏教の祖であるお釈迦さまは、涅槃といって、悟りを開いた者として穏やかに、横になって肉体の死を迎えた。仏像と言えば、鎌倉や奈良の大仏のように、座っている姿が多いですけれども、横になって片手で頭を支えている大きな涅槃像のような仏像もよく知られています。それに対して、キリスト教の祖であるイエスは、十字架にかけられて血を流しながら叫んでいる、何とも凄惨な、壮絶な死を迎えている。こういう死は受け入れがたい。キリスト教の神は、闘争的な西洋人の神であって、平和を好む日本人の感性には合わないというのです。その文章を読んだのは、私がまだ10代で、仏教の高校に通っている頃でしたから、愚かにもなるほど、などと思っていました。けれども、私自身が、自らの罪の問題で悩み苦しむようになってからは、涅槃の仏陀よりも、十字架のキリストに心惹かれるようになりました。
 主イエスは、叫んでおられるのです。穏やかに道を説くなどというのではなくて、私たちが主イエスを信じて救われるように、主イエスは、私たち自身よりも、必死になって、熱くなって、私たちの救いのために叫んでおられるのです。叫んでおられる主イエスのお姿を心に思い描きながら、私は、エレミヤ書の言葉を思い起こしました。北森嘉蔵先生が、「神の痛みの神学」の聖書的根拠とされたところでもあります。エレミヤ書31章の20節です。主なる神は言われます。「エフライムは私の大事な子ではないのか。あるいは喜びを与えてくれる子どもではないのか。彼のことを語る度に、なおいっそう彼を思い出し/彼のために私のはらわたはもだえ/彼を憐れまずにはいられない――主の仰せ」。文語訳の聖書では、「わがはらわた彼のために痛む」と訳されていました。北森先生は、ここから、神の痛みの神学を構築されたのです。罪の中に捕らわれている私たちを、主なる神は深く憐れんでくださり、ご自身のはらわたが痛むほどに、愛してくださる。その激しいほどの愛をもって、主イエスは叫んでおられるのです。

 あるいはまた、こんなふうにも言えると思います。今日の箇所の直前、12章の43節にはこう記されていました。「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れを好んだのである」。ここで「彼ら」と呼ばれているのは、ユダヤ教の指導者である議員たちの中で、主イエスを心の中で信じてはいるのに、会堂から追放されるのを恐れて、ファリサイ派の人たちをはばかり、その信仰を公に告白することをしなかった人たちのことです。いわば隠れ信者のような人たち。夜中に主イエスを訪ねて教えを請うた、ファリサイ派の議員、ニコデモのような人を指していると考えられます。白昼堂々と訪ねることができず、それこそ人目をはばかって、夜の闇に隠れてやって来たのです。会堂から追放されるというのは、少し古い言い方になりますが、村八分にされることです。ユダヤ人のコミュニティから追放されて、辱めを受けるのです。人前での、人間から与えられる名誉にこだわるあまり、神から与えられる栄誉を軽んじてしまう。それは他人事ではないと思います。
 個人の権利や自由が充分に重んじられない日本のような社会では、今もなお家族や親戚、ご近所との付き合いや職場の人間関係に気を使って、洗礼に踏み切れない人もいると思います。そういう中途半端な信仰に対して、それを非難するのは簡単です。だらしない、もっとしっかりしなさい、と言って、そのあやふやな信仰を咎めるのは簡単です。けれども、主イエスは、そういう私たちの思いをさえぎるようにして、叫ばれるのです。あるいは、迷っている人の信仰を呼び覚ますように叫ばれるのです。一番、大事にしなければならないのは何であるのか、主イエスは、私たちの思いを覚まし、私たちが本当の救いにあずかる者となるように、激しい愛をもって、叫んでおられるのです。

 主イエスは、叫んで言われました。「私を信じる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を信じるのである。私を見る者は、私をお遣わしになった方を見るのである」(12章44~45節)。主イエスは、これまでにも、ご自分とご自分を遣わされた父なる神さまとは一つであるということを語ってこられました。あるときは、エルサレムの神殿の境内で教えながら、そのときも、大声で言われたとあります。主は言われました。「あなたがたは私を知っており、どこの出身かも知っている。私は勝手に来たのではない。私をお遣わしになった方は真実であるが、あなたがたはその方を知らない。私はその方を知っている。私はその方のもとから来た者であり、その方が私をお遣わしになったのである」(7章28~29節)。ヨハネ福音書全体のプロローグの結びにあたる、第1章18節でヨハネは証ししています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。主イエスを見ることによって、私たちは、主イエスをお遣わしになった神を見ることになるのです。
 二千年前の当時、実際に主イエスを見た人は大勢いたはずです。主イエスの周りにはいつも大勢の群衆がいました。主が行われた病の癒やしをはじめとして、不思議なしるしのことが知れ渡ると、たくさんの人たちが主イエスを見ようとして、遠くから近くから主イエスのもとに集まって来たのです。けれども、その人たちは、本当に主イエスを見たのでしょうか。主イエスを、大工の息子、マリアの子として見た人は大勢いました。ヨセフとマリアの子に過ぎない田舎出身の預言者が、どうして、こんな不思議な業を行うのか。どうして、こんな知恵深い言葉を語るのか。いったいどこで、こんなことを習ったのか。高名なラビに弟子入りしたわけでもないのに。そう言って、多くの人が主イエスにつまずきました。主イエスのお姿を見、その不思議なしるしも見ておりながら、また主イエスの力強い教えを聞いておりながら、主イエスの真実を見ることはできませんでした。主イエスが、父なる神のもとから遣わされた、神と等しいお方であると信じなかったのです。主イエスを信じることがなければ、主イエスをお遣わしになったお方を信じることもありません。主イエスを神から遣わされた方として見ることがなければ、主イエスをお遣わしになった方を見ることもないのです。

 主イエスは、ご自身を証しして言われました。12章の46節です。「私を信じる者が、誰も闇の中にとどまることのないように、私は光として世に来た」。主イエスが光として来られたことも、ここに至るまで、何度も語られてきました。これも第1章のプロローグで、世の初めに神と共にあった言が、命の光であったことが証しされていました。クリスマスに良く読まれる言葉もあります。「まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである」(1章9節)。8章12節では、主イエスご自身が、神の独り子としての権威をもって語られました。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ」。また今日読んだ同じ12章の少し前のところ、35節でも、光について語られました。「光は、今しばらく、あなたがたの間にある。闇に捕らえられることがないように、光のあるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」。
 私たちが光に向かって立つなら、全身は光に照らされることになります。主イエスを光として見るならば、闇の中にはいないことになります。けれども、ひとたび光に背を向けるなら、自分自身の存在が光をさえぎり、暗い闇に呑み込まれてしまいます。主イエスは、私たちが主を信じて、光である主を仰ぎ見て、罪の闇の中から救われるようにと願っておられます。叫ぶほどに熱く求めておられます。私たちが、主の光に照らされて、自らも光の子となって、光の中を生きるようにと招いておられるのです。そのために、父なる神は、愛する独り子を、世の光として、この地上にお遣わしくださいました。私たちが、罪の闇の中にとどまり続けることのないように、まことの命の光として御子を与えてくださったのです。それは、ヨハネによる福音書の中心聖句と読んでもよいでしょう。3章16節の言葉とも響き合います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。光として世に遣わされた主イエスを信じるなら、罪の闇から解放されて救われます。永遠の命を得るのです。けれども、光である主を信じないなら、闇の中にとどまることになります。

 12章46節で述べられた「闇の中にとどまる」という言葉が、47節以下の「裁き」の話題へとつながります。主は叫んで言われるのです。「私の言葉を聞いて、それを守らない者がいても、私はその者を裁かない。私は、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」。これも、あの3章16節に続く17節以下の言葉と響き合います。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇を愛した。それが、もう裁きになっている」(3章17~19節)。主イエスは、決して、世を裁くために来られたのではありません。私たちを救うために来られたのです。繰り返して申します。主イエスは、私たちが主を信じて救われることを、熱く願っておられる。叫ぶほどに熱く私たちを求めておられます。それなのに、この命の光に照らされることを恐れて、闇の中にとどまろうとするならば、救いが届きません。それが裁きになっていると言うのです。主が積極的に、裁こうとしておられるのではありません。光よりも闇を愛して、闇の中にとどまるということが、裁きになっているのです。
 それにしても、ここで、主イエスが、「私の言葉を聞いて、それを守らない者がいても、私はその者を裁かない」と言われたことは驚きをもって受けとめられると思います。主の言葉を守らなくても裁かれないなら、少し気が楽になったなんてのんきなことを言っている場合ではありません。主の言葉を聞いて、それを守らない者、それはほかならぬ私たちのことではないでしょうか。私たちは、確かに、聖書の御言葉を読み、御言葉の説き証しとして説教を聞いています。けれども、主の日の礼拝において聞いたことを、月曜日から土曜日までの平日の歩みの中で守ることができないのが私たちです。私たちは、聞いたことをすぐに忘れてしまいます。目の前の日々の楽しみや煩いの中で、御言葉を忘れてしまうのです。私たちの日常の歩みが、そのような惨めな有り様をさらす中で、主は、裁かない、救うために来た、と言われるのです。

 間違えてはならないと思います。私たちが頑張って、主の言葉を守ったら救われるけれども、守らなければ救われないということではありません。救いは私たちにかかっているのではないのです。守れたり、守れなかったり、まことに不確かな歩みを繰り返す私たち、自分の救いのための確かさなど持ち得ない私たちのために、主イエスは十字架にかかって死んでくださったのです。主イエスは、信仰の弱い者、ひとの目を気にして告白をためらっているような者をも受け入れるようにして、十字架にかかられたのです。私たちの救いの確かさは、私たち自身の信仰や行いにあるのではありません。主イエスが、ご自身の命を犠牲にして、十字架にかかって、私たちのために成し遂げてくださった贖いの業が、私たちの罪を赦し、私たちに命をもたらすのです。すべての罪の闇を引き受けて、十字架の上で死なれた主イエスが、墓の中から復活して、復活の光で私たちを照らしてくださいます。この光に照らされるとき、光の中に喜んで立つ者と、光に背を向ける者とが分かれてしまうのです。
 主イエスは、確かに、裁かないといわれました。けれども、終わりの日の裁きを否定しておられるのではありません。主の言葉を聞いて、それを守らない者をも、主の赦しの愛は包み込んでくださいます。けれども、主の言葉を拒絶して、背を向けてしまう者は、終わりの日の裁きを受けることになります。主は言われるのです。「私を拒み、私の言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。私の語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」(12章48節)。旧約の預言者ホセアも告げています。「それゆえ、私は預言者たちによって切り倒し/私の口の言葉によって彼らを打ち殺す。あなたの裁きは光のように現れる。私が喜ぶのは慈しみであって/いけにえではない。神を知ることであって/焼き尽くすいけにえではない」(ホセア6章5~6節)。主は、習慣化した形だけの礼拝ではなくて、真実に神を知ることを求めておられます。礼拝で聞いた御言葉を、日々の歩みの中で忘れてしまっても、主の日ごとに、神の御前に立ち帰って、新しく主と出会い、神を知るものとなるように求めておられるのです。

 主イエスは、これまで語ってこられたことを締めくくるようにして、最後に言われます。「なぜなら、私は自分勝手に語ったのではなく、私をお遣わしになった父ご自身が、私の言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、私は知っている。だから、私が語ることは、父が私に言われたとおりを、そのまま語っているのである」(12章49~50節)。「父の命令は永遠の命である」。心に突き刺さるような言葉です。ここで「命令」と訳されている言葉、同じ言葉が、13章以下の対話の中では「戒め」と訳されるようになります。「新しい戒め」として示されるのです。その中から一箇所だけ、先取りして味わっておきます。13章34節です。「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう」。12章の最後に記された「父の命令」が何であるのかということを、13章以下の主イエスの言葉が説き明かしていくのです。
 主は言われました。「父の命令は永遠の命である」。愛の戒めとして与えられる父の命令を守っていれば、終わりの日に、永遠の命が与えられるというのではありません。私たちが互いに愛し合う者として生きるところに、永遠の命があるのです。ヨハネは記しました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。私たちは、独り子を与えてくださるほどに世を愛してくださった、この神の愛に包まれて、神に愛されている者として、お互いを愛し、仕え合って生きるときに、すでに永遠の命を生きる者とされているのです。私たちは、今、永遠の命の祝福と喜びを分かち合う者として、ここに共に集められており、互いに仕え合う愛に生きることにおいて、永遠の命の祝福と力を輝かせる者として、ここから遣わされていくのです。主が叫ぶよう大きな声で、私たちの魂に語りかけてくださる言葉を、しっかりと心に刻んで、主の言葉を生きる命の祝福を共に味わいたいと願います。