2024年3月17日 受難節第五主日礼拝説教「まことに、この人は神の子であった」 東野ひかり牧師

イザヤ書 第42章1~9節
マルコによる福音書 第15章33~41節

 エルンスト・バルラハ(1870~1938年)という20世紀のドイツの彫刻家をご存知でしょうか。18年程前、上野の芸大美術館で「バルラハ展」が開かれたことがあり、当時ちょっと話題になった展覧会だったと思いますので、ご覧になった方もあるかもしれません。このバルラハの作品に、「十字架のキリスト像」があります。実物は、ドイツのマールブルグという町の聖エリーザベト教会にあるそうです。残念ながら、私はその実物は見たことはありません。写真でしか見たことがないのですが、この十字架のキリスト像の写真を初めて見たとき強い印象を受けました。見たことのないような、独特な十字架像だったのです。何が独特かと言いますと、十字架につけられたキリストの顔がまっすぐこちらに向いているのです。真正面を向いているのです。十字架につけられて、両手を広げているキリストの顔も、身体の向きも、ねじれることなくまっすぐこっちを向いている、こちらを見据えているような感じがする、そんな十字架像です。
 絵画でも彫刻でも、普通十字架像と言いますと、十字架につけられたキリストは、大抵その顔が斜め下にかくんと垂れているか、あるいは天を見上げるように斜め上を向いているか、そういうふうに描かれたり、作られたりしているものがほとんどです。キリストの顔が真正面を向いているという十字架像は、私はあまり見たことがありません。それで、バルラハの十字架像を写真で見ましたとき、強い印象を受けました。写真で見るだけでも、何か迫力のようなものを感じる、そういう十字架像です。

 先月に続いて今朝も、マルコによる福音書第15章33節以下から主イエスの十字架の場面の御言葉を共に聴きますが、ここに、十字架につけられた主イエスの真正面に立っている人が登場します。「百人隊長」です。39節に、「イエスに向かって立っていた百人隊長」とあります。「向かって」という言葉は、「面と向かい合って」「相対して」という意味があります。この百人隊長は、十字架につけられた主イエスの真正面に立っていた、そう言えるのです。
 「百人隊長」は、文字通り百人の部隊を率いるローマ軍の指揮官です。ローマ人であったとも限らないようですが、いずれにしてもユダヤ人ではない、異邦人・外国人です。この人は、主イエスの十字架刑を執行する責任者でした。ですから、十字架につけられた主イエスの正面に、十字架の主イエスに面と向かう形で立って、主イエスが死んでいくその様を真正面でじっと見ていたのです。死刑囚の死亡を見届けるつとめを負っていたのです。
 十字架といいますと、おそらく絵画等の影響で、私たちはかなり高さのあるものを想像するのですけれど、実際には私たちが想像するほど高くはなかったようです。十字架の縦木の高さというのは、一説によれば、〈人の身長を少し超える程度〉のものだったと言われます。そうであったとすれば、十字架につけられた主イエスの顔と、その真正面に立っていた百人隊長の顔は、ほとんど向き合うような格好になっていた、そういう状況を思い描くことができます。
 「イエスに向かって立っていた百人隊長は、(主イエスが)このように息を引き取られたのを見」たとマルコは記します。十字架の真正面に立って、この百人隊長は主イエスの死に様を直視していました。申しましたようにそれがこの人の任務であったからですが、ここには、十字架の真ん前に立った人、立たされた人の姿があります。十字架をまっすぐに見つめ、主の死を見つめ続けた人の姿があります。この光景を思い浮かべますとき、私は、この百人隊長の視線の先にある十字架の主イエスのみ顔も、こちらを向いているような気がして来るのです。十字架の主イエスは、面と向かって立っているこの百人隊長に真直ぐそのみ顔を向けているような、そんな思いになるのです。

 百人隊長は、十字架の真正面に立ち、主イエスの死の様を見つめ、「このように息を引き取られたのを見て」いました。「このように」とは、マルコが伝えるところによれば、真昼に全地を覆った暗闇の中で、その暗闇の底から呻くように、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と大声で叫び、さらにもう一度「大声を出して」「息を引き取られた」ということを指しています。この百人隊長は、主イエスの、いわば臨終の様を「見て」いたのです。
 主の死を見て、しかも十字架の死を見て、さらに、「私の神よ、なぜ私をお見捨てになったのか」と叫んで死んでいったその臨終の様を目の前に見て、この百人隊長は驚くべき言葉を口にします。35,36節の「そばに立っていた何人か」の人たちとは全く違う、正反対のことを口にします。そばにいた人々は、「そら、エリヤを呼んでいる」「エリヤがこの人を助けに来るかどうか見てやろう」そんなことを言って、主イエスをあざ笑ったのでしたが、この百人隊長は主イエスに対する信仰の言葉を口にしたのです。
 「まことに、この人は神の子だった」。
 これは、このマルコによる福音書において、最も重要な言葉と言ってもよい言葉です。この福音書の頂点に位置する言葉とも言える、その言葉をこの異邦人の百人隊長が、ここに、口にしました。
 エリヤは天から降って来て、主イエスを十字架の苦しみから助けてはくれませんでした。天使たちが現れて、十字架の主を取り囲んだわけでもありません。主イエスは、十字架の苦しみを苦しみ抜き、「私の神よ、なぜ私を見捨てたのか」と叫んで死なれました。私たちの誰もが心につぶやく「神さま、どうして、なぜ」という苦しい呻きを、すべて引き受けるような叫び・絶望の叫びをあげて、そして、私たち人間の誰もが、すべての者が死ぬように、「息を引き取って」主は死なれました。その死の様を見て、「まことに、この人は神の子だった」と言ったのです。十字架に死んだ主イエスの臨終の様を見て、この人は、ここに実に正しい信仰を言い表しました。

 マルコによる福音書において、これまで人間の誰も主イエスを「神の子」と言った人はありません。マルコ福音書はその冒頭に、「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1:1)と書いて、イエス・キリストの物語を書き始めました。主イエスがその伝道の働きをお始めになった時、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった。そのとき、天が裂けて、聖霊が鳩のように主イエスに降り、天から父なる神の声が響きました。「あなたは、わたしの愛する子、私の心に適う者」(1:11)。けれどこの声を聞いたのは、この時主イエスだけでした。汚れた霊ども・悪霊たちは、主イエスのご本質を見抜き、「あなたは神の子だ」と言いました(3:11,5:7)。しかし人間は誰一人、主イエスを「神の子」と言い表してはいません。
 十字架の真正面に立たされた、この異邦人の百人隊長が初めて、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という冒頭の言葉を受け取って、十字架につけられて死んだ主イエスに対して、「まことに、この人は神の子だった」と告白したのです。マルコがここまでこの福音書を書き綴って来たのは、この信仰告白の言葉を書くためだったとさえ言えます。マルコは、この福音書を読むすべての人を、十字架の主イエスの真正面に導き、この百人隊長の信仰告白を一緒に告白させるために、ここまで筆を進めてきた、そう言ってもよいのです。
 第8章では、ペトロが主イエスに対して、「あなたは、メシアです」と言い表しています(8:29ff)。これも信仰告白です。主イエスはこのペトロの告白を受けた後、弟子たちに対して、はっきりとあからさまに教え始められました。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている。」 しかし、こう教え始められた主イエスを、ペトロはこのとき、脇へお連れしていさめました。ペトロは、「あなたが苦しみを受けて殺されるなどということがあってはならない」と、主イエスをいさめたのです。しかし主はそのペトロを「サタン、引き下がれ」と厳しく叱りました。主イエスの十字架への道を妨げるのはサタンの働きだと、ペトロを激しく叱責されました。
 マルコによる福音書は、この第8章以降、ひとすじに十字架に向かう主イエスの姿をくっきりと描き始めるのです。マルコは、私たちすべての読者を、この百人隊長と共に十字架の真正面に立たせ、十字架のキリストを直視させ、十字架に死んだお方こそ「まことに、この人は神の子だった」という、この信仰告白に導くためにここまで書いてきた、そう言えるのです。

 ここで、少し違う角度から、百人隊長が一体どういう〈主イエスの死〉を見て、「まことに、この人は神の子だった」と言い表したのかということを考えてみたいと思います。
 脇道にそれるような話になりますけれど、ちょうど一年くらい前、教会員のある方が、山田風太郎の『人間臨終図巻』という文庫本で全四巻もある、大変興味深い本をお貸しくださいました。お貸しくださった方も、その奥さまも、「とても面白い」とおっしゃっていたのですが、実を言いますと私は、第2巻の途中くらいまで読んで、ちょっと嫌になってきてしまって読むのをやめてしまったのです。なぜかというと、読んだことのある方もおられるでしょうが、本の題名から分かりますように、この本は、「10代で死んだ人々」から始まって「百代で死んだ人々」に至るまで、30歳からは「30歳で死んだ人々」「31歳で死んだ人々」「32歳で死んだ人々」というように、年齢ごとに歴史上の人物から最近の俳優さんに至るまで、様々な人々の「臨終」を書いた本なので、人の〈死〉が延々と書かれているわけです。読んでいるうちに私は途中で気が滅入ってきてしまったのです。でもとても興味深い本でしたので、自分で購入いたしまして、お借りした本はお返ししました。途中挫折したままではあるのですが、今日の説教の準備をしておりましたとき、この本に「キリスト」が取り上げられていたことを思い出しました。
 「30歳で死んだ人々」だったかしら、と思って開いてみたら「32歳で死んだ人々」の最初に取り上げられていました。「キリスト」の臨終については、ごくごく短く取り上げられているだけで、こう結ばれています。〈この人物の「臨終」については、「異教徒」にとってまことに書くことが難しい。〉 まあそうでしょうと思いますけれど、興味深かったのは「キリスト」と並んでとりあげられている人たちでした。「キリスト」の後に取り上げられているのは皆さんご存知の「坂本龍馬」です。前の人物は、「31歳で死んだ人々」の最後の人になるのですが、「梅川昭美」(うめかわあけみ、男性です)という人でした。どういう人かというと、昭和54年に銀行強盗をはたらいて4人を射殺し、人質をとって残虐と狂気の沙汰を繰り広げた挙句に射殺されて死んだ人です。この坂本龍馬と梅川昭美という、二人の人に挟まれて、「キリスト」は取り上げられていました。

 主イエスの死が、狂気の銀行強盗や、国民的ヒーローのような人と並べられているということに、嫌悪感を抱くキリスト者もいるかもしれませんけれども、私はとても興味深く思いました。そして、これは真実を突いているというように思わされました。当然のことですが、この本は「キリスト」の死をひとりの人間の死として扱っています。キリストは、極悪な犯罪人とも、また、ヒーローのように見られる人とも全く同じように、ひとりの人間として死んだと書いています。この本としては当然の扱いですが、私は改めて、本当にそうだと思いました。聖書もまた、主イエスは二人の強盗と並んで十字架につけられて死んだと記しています。主イエスは「罪人の一人」に数えられたのだと記しています(ルカ22:37、マルコ15:28異本)。
 百人隊長が直視した主イエスの死は、何の飾りもない、ひとりの人間、〈まことの人〉の死でありました。エリヤが天から降りて来て助けてくれることもなく、十字架の周りを天使が囲んで美しい光が包んだわけでもない、苦しみ抜いて叫び、息絶えた。そういう死です。美しい死ではありません。また、堂々たる立派な死だった、というわけでもない。少なくとも、マルコによる福音書はそのような書き方はしていません。
 主イエスが最期に「大声を出して息を引き取られた」ということについて、この大声や「息を引き取られた」(直訳:「霊を吐き出した」)という言い方は何を意味するのかということを様々に解釈する試みもありますけれども、マルコは、何の説明もなくただ「大声を出して死んだ」と書くだけです。ある注解者は、マルコがここに実に簡潔に書いた主イエスの死の描写は、ただ、主イエスの苦難の深さを強調するのみだと言います。この死を美化することはもちろん、静かに立派に堂々と死なれた、ということさえも言うべきではないと言います。実に、ここで百人隊長が直視していた〈主イエスの死〉は、そのような死であった。〈まことの人〉の死です。徹底して私たち同じになられた〈人〉の死、そういう〈主イエスの死〉であったのです。真実の人間の死を、それゆえに本当の〈罪人の死〉を死なれた主イエスを見て、百人隊長は「まことに、この人は神の子だった」と言い表したのです。ここに、私たちも共に言い表すことを促される、マルコによる福音書の信仰が表明されています。
 主イエスは、まことに神の子であったからこそ、まことに〈人〉となることがおできになりました。私たちと全く同じ血と肉をお持ちになることがおできになり、その血と肉において、私たちすべての肉なる者の罪を担い、十字架にかかり、全ての人の罪を贖う贖いの死を遂げてくださったのです。罪人に対する神の怒りを宥める、宥めの供え物となってくださった、全ての人の罪を贖う身代金として、ご自分の命を献げてくださったのです。十字架に死んだこの人こそ、まことに神の子。これが、マルコ福音書の言い表す信仰です。

 初めに、バルラハのキリストの十字架像の話をいたしました。ドイツ文学者の小塩節先生は『バルラハ―神と人を求めた芸術家—』という本をお書きになりましたが、その本の終わり近くに、この十字架のキリスト像との出会いの経験を書いておられます。少し省略しながらですがご紹介します。
 〈さて、若い留学生としてこの地(マールブルク)の大学で勉強を始めた私は、日曜日には……この教会(聖エリーザベト教会)の礼拝に出席したのだが、……この教会堂で、しかし私は妙なものを見た。会堂正面に、異様なものがあるのだ。聖堂に入って、中央通路のいちばん奥、(内陣の石柵の前にある)祭壇の上の高さ1メートルほどの十字架に、真黒な肌の、ひしゃげて平べったい頭の、何とも不格好なキリスト像が架かっている。こん棒で何百何千回となく殴りつけ打ち据えられた挙句のように痛々しく、実にみじめな、泣きぬれて水びたしになったような、貧乏くさいキリスト像だ。黒々とした頭髪は血と汗に塗れて頭にはりつき、目はむくみきって腫れあがっている。……なんとみじめな。なんとあわれな。そのくせ、何とも不思議な力があって、私の目はいつもその十字架像に吸いつけられ、説教そっちのけで見つめていた。……いったい何なのだろう、このひきつける力は。〉
 不格好な、みじめな、あわれな、貧乏くさいキリスト像。写真で見る限りは、そんな「貧乏くさい」というようほどでもないように思われましたけれど、小塩先生は、このキリスト像との出会いの印象をこのように綴られました。すばらしいゴシック建築の教会堂の祭壇に架けられていると余計に、異様にみすぼらしいキリスト像に見えるのかもしれません。しかし、小塩先生が見つめたバルラハのキリスト像が伝えた惨めさやあわれさ、それは、私たち皆が知る、罪人の、死に定められた者の惨めさ、あわれさであろうと思います。

 私たちは、老いを感じるとき、死が確かに近づいていることを感じるとき、若い頃のように身体が思うように動かず、衰えを感じるとき、情けなさ、惨めさ、あわれさ、そして言いようのない悲しさを感じさせられると思います。病に苦しむときに「どうして自分がこんな目に遭うのか」とつぶやくこともあるでしょう。愛する者を死によって奪われたとき「神さま、どうして、なぜ…」と慟哭するでしょう。十字架のキリストは、そのような私たちの惨めさ、あわれさ、貧しさ、悲しみの中に、涙と呻きの叫びの中に、あの十字架上の叫びをもって、共に立ってくださるのです。
 私たちは死を恐れます。地上の命の、最期の息をするとき、どんな苦痛を味わうのだろうかと想像して恐れを抱くこともあるでしょう。平安な安らかな死を願っても叶わないかもしれない死の苦痛を、私たちは恐れます。また死の孤独を、死そのものを、私たちは恐いと思います。しかし、十字架のキリストは、大声の叫びをあげて最期の息を引き取りました。苦痛の叫びをあげてくださいました。主は、この世のあらゆる苦痛を、呻きを、嘆きを、大声で叫んで死なれました。そればかりでなく、罪の苦しみ、神から遠く離れ、見捨てられて死ぬ底知れない恐怖と絶望を味わい尽くして、主は死なれました。私たちが抱える死の恐れよりもっと深い恐れと絶望を主イエスは味わわれました。私たちが死ぬ死の、その奥の奥にまで主は入ってくださいました。そして、主は死んで死体となられました。私たち皆が死んで死体となるのと同じように、主イエスも、死んで死体となられました。
 主の死は、三日目には復活する方の死だから、主イエスにとってどうってことのない死だった、ということで決してありません。主の死は、復活の前にちょっとだけ死んでみたというような、仮の死ということでも、決してありません。百人隊長が直視したのは、主イエスが本当に死んだ、ということです。苦しみ抜いて叫んで死んだということです。その十字架の死において、主は「まことに、神の子」だったのです。
 私たちの死を、また私たちのすべての苦しみ、痛み、悲しみを、このまことの人となられた神の御子の死と苦しみが支えていてくださる。これは私たちにとってのまことに深い慰めです。そして、父なる神はこの御子を死から甦らせられました。御子は、私たちのために、罪と死に勝つ命の道を拓いてくださいました。

 明日は、この場所で葬儀が行われます。今、聖餐の食卓が備えられている、この聖餐テーブルにぴたっとくっつけるように、棺は縦に置かれます。棺の中で召された姉妹は足を前に頭を後ろに横たわります。礼拝に集った人、聖餐の食卓についた人が、そのまま後ろに倒れた姿で、棺の中に横たえられます。聖餐の食卓のその奥には、洗礼槽があります。キリストの死にあずかって罪に死に、キリストの復活の命にあずかって新しい命に生きる者とされた、その洗礼式を覚える洗礼槽、洗礼の恵みをくり返し想い起した聖餐の食卓、そこにいちばん近いところに、召された姉妹は横たえられます。十字架と復活の主イエス・キリスト、神の子イエス・キリストの真正面に、横たわるのです。
 バルラハの十字架像の不思議なひきつける力、その力強さは、その姿が、死んでお甦りになった、復活のキリストの姿を思わせるからではないかと私には思われます。今、十字架に死に、甦らされた神の子イエス・キリストが、私たちの真正面におられ、ご自身の身体であるパンを分かち、ご自身の血であるぶどう液を分かち与えてくださいます。
 死に勝つ慰めと平安、命と力を、十字架と復活の主イエスのみ手から受けて、今週も、私たちそれぞれに与えられている主に従う道を進んで参りましょう。