2024年2月18日 受難節第一主日礼拝説教「その絶望こそわたしの希望」 東野ひかり牧師

詩編 第22編2~19節
マルコによる福音書 第15章33~39節

 今朝私たちに与えられましたのは、十字架上の主イエス・キリストの何とも悲痛な叫びが響きわたるマルコによる福音書の御言葉です。「昼の十二時になると、全地は暗くなり、三時に及んだ。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。」(15:33,34) 今朝はこの主イエスの叫びを中心に、主の十字架の恵みを辿りたいと思います。聖霊が、私たちの心の目・霊の目を明るく開いてくださって、主の十字架の恵み見させてくださいますように。

 本日の説教の題を、「その絶望こそわたしの希望」といたしました。今共に歌いました讃美歌第二編16番の、3節の終わりの歌詞をそのまま説教の題とさせていただきました。「その絶望」とは、ゴルゴタの丘のうえで、十字架の木にあげられ、「いたましくも、神と人に見捨てられて」死なれた、私たちの主イエス・キリストの「絶望」です。十字架の上で、全地を覆った暗闇の中で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれた、この主イエスの絶望。この讃美歌は、主の絶望が、「わたしの希望だ」と歌います。1節では、十字架の木にあげられ、深い傷を負われた、その主の苦しみが、「わたしの救いだ」と歌います。2節では、はじとなやみをみな引き受け、なぶりものとされた、その主のはずかしめが、「わたしの力だ」と歌う。主の受けたみ苦しみがわたしの救い、主の受けたはずかしめがわたしの力、主の絶望が、わたしの希望。十字架の恵みを、深く私たちの心に染みとおるように歌った讃美歌だと思います。この歌が歌っていることの意味をよく分からせていただくことが、十字架の意味を分からせていただくことになる、そのように思います。
 「いたましくも、神と人に、見捨てられて、主は死なれた。その絶望こそ、わたしの希望だ。」 「いたましくも」。それは、十字架に釘づけにされた、主イエスのその肉体的苦痛を思いやり、胸締めつけられて、ああおいたわしい、おかわいそう、そういういみでの「いたましい」ではありません。何をいたましいと歌うのか、主が「神と人に見捨てられて死なれた」ことを「いたましい」と歌っています。神と人から見捨てられたこと、そこに、主の深い絶望があったと歌う、これは、実に正しいことだと思います。

 あるカトリックの聖書学者が、マルコによる福音書が描き出す主イエスの受難と十字架は、他のどの福音書よりも厳しく、恐ろしい〉と言いました。〈他のどの福音書より〉という言い方には、反論もあるかもしれませんが、マルコによる福音書は、確かに、主イエスのご受難と十字架をまことに厳しく描いています。この先生は〈恐ろしい〉とまで言いました。その厳しさ恐ろしさというのは、マルコ福音書が他のどの福音書よりも、十字架刑をむごたらしく生々しく描写している、というような厳しさ恐ろしさではありません。むしろマルコをはじめとする4つの福音書は、どれも、主イエスの十字架を、生々しく残酷なものとして描き出すというようなことは全くしていません。中でもマルコによる福音書は、主イエスの受難と十字架を描くのに、最小限のことしか語っていないとも言えます。ではどういうところが厳しく恐ろしいと言うのかといえば、それは、主イエスが「神と人に見捨てられた」ということ、そのことについて、マルコはある意味で徹底的に描き出しているという点です。その意味で、マルコの描き方は確かに厳しく恐ろしい、そう言えるかもしれません。

 25節に、主が十字架につけられたのは「午前九時」だったと記されます。それから昼の十二時までの三時間の間に、十字架に釘づけにされて見せしめにされていた主イエスを、その前を通った通りかかりの人たちがののしり、さらに祭司長たち律法学者たちもののしり、一緒に十字架につけられた二人の強盗さえも、主をののしったとマルコは記します。ここで明らかにされているひとつのことは、誰も、ひとりたりとも、主イエスに味方する人はいなかった、主イエスの傍らに立とうとする人はいなかった、ということです。
 この点は、ルカ福音書が二人の強盗のうちの一人は、主イエスに寄り添うように信仰の言葉を口にして、主イエスから「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)と言っていただいた、ということとはっきり違っています。マルコが、またマルコを元にしているマタイの福音書も同様ですが、「厳しく恐ろしい」と言われるひとつの根拠は、こういうところにあるのだろうと思います。
 さらに遡って見れば、マルコは、第14章からずっと登場してくる人々の皆が、主イエスを見捨てた、誰も主の味方にはならなかった、誰も主に同情し、主の傍らに立とうとはしなかった、ということを書き続けてきました。弟子たちも、ユダヤ人たちも、ペトロも、ローマ人の支配者ピラトも、そして大祭司の家の下役たちからローマ人の下っぱ兵士たちに至るまで、さらには、一緒に十字架につけられた二人の犯罪人までもが主イエスを見捨てている。ここに誰一人主イエスの味方はいない。すべての人が主に敵対するところに立ったのだ、というように、マルコは確かに恐ろしいまでに容赦なく、記しています。

 婦人会のオンライン聖研の会で、ともしびの会と呼んでいる集まりがあります。比較的年齢の高いご婦人方の集まりです。このともしびの会では、昨年の夏までマタイによる福音書を学び続けてきました。マタイ福音書を1章ずつ学んできました。私が担当させていただくようになったのは第9章からでしたが、コロナの期間中もZoomを用いて続けて来ました。今はマタイを読み終えて使徒言行録の学びに入っています。
 このともしびの会で、マタイの第27章、マルコの第14章、15章と重なる受難物語を学びましたとき、第27章は大変長い章なので、一回では学びきれず、二回に分けて学んだのですけれども、そのとき、参加される姉妹たちの何人かの方がおっしゃいましたのは、「この27章は読むのが辛い。読んでいると苦しくなってくる」ということでした。主のお苦しみ、十字架、そのことが記されている箇所を丁寧に学びました。私自身も、聖研の準備をするのに重苦しい気持ちになりながら、27章は早く終わらせて次の復活の28章に行きたい、というような気分でいたことを覚えております。

 どうして主の十字架という、私たちの信仰にとって核心部分となる大切なところであるのに、そこを読むと苦しく辛くなるのか。それは、今受難節を過ごしているわけですけれども、受難節の時期に私たちの心の中に何か重たいものを抱えるような気分になるのと、少し似ていることかもしれません。皆さまが、受難節にそういう気分になられるかどうか分かりませんけれども、私自身は、受難節というと、やはり克己と言いますか、自分の楽しみは控えようとか、お菓子も少しは控えて、とか、そんなことをちらっと思うわけです。ちらっと思うだけでなかなかできないのですけれども、今は受難節、ということはいつも心の中にあります。そこで、ある重苦しさを感じる、というのも正直なところです。それは、主の苦しみを覚える、ご受難を覚える、ということであると同時に、それが、自分の罪ということを覚えさせられるときだからだろうと思います。受難節は、罪の悔い改めの祈りを促されるときです。自分の罪を見つめること、それは苦しいことでもあります。
 マルコによる福音書は、私たち人間の罪は、神の御子を棄てる、そういう罪だと徹底的に示します。そしてそれによって、私たちは神に敵する者となっている、ということをも描き出していると思います。

 昼の十二時、「全地は暗くなり」とあります。先ほどの聖書学者は、こういうことも言います。〈十字架上の初めの三時間(朝9時~12時)に、誰もイエスに同情する者はいなかったとすれば、次の三時間(昼の12時~午後3時)には、自然さえもが、全地を覆う闇になる。〉つまり、自然さえも、太陽までもが、主イエスを打ち捨てた、だから全地は暗くなったのだと言うのです。この「全地を覆った暗闇」は、日食が起こったとか、そういう自然現象が起こったということを言っているのではなくて、自然までもが主イエスを見捨てたということだと、そういう理解もできるだろうと言うのです。
 そのように理解しますとき、ここに現れ出て示されるのは、全く恐ろしいほどの、主イエスの孤独です。誰一人、味方がいない。みんな敵になってしまった、自然も太陽も、主イエスに敵対してその光を隠した、ということです。僅かな、数人の女たちが、主イエスを遠くから見守ってはいました。しかし遠くからです。主の傍には誰もいない、光もない、暗闇だけです。

 主イエスは、その暗闇の中にたったひとりで、十字架の苦しみに耐えておられる。黙ってその苦しみを受けておられる。自然も主を打ち捨てた、暗闇が十字架の主を覆っている、そう申しました。しかしこの暗闇は、自然も主を打ち捨てたゆえの暗闇というだけではなく、主イエスを見捨て、裁き、十字架に引き渡した、主を十字架につけた、そうやって神に敵対した、すべての人間の罪の暗闇でもあると言えるでしょう。まことに、重苦しい、重い、暗闇です。まことの光であるお方を棄てる人間の身勝手さ、傲慢さ、残酷さ、その人間の罪の闇が、私たちの罪のどす黒い闇が、主イエスを覆い、主の肉を引き裂き、血を流させている。ただひとり罪のないお方が、たったひとりで、主を棄てる人間の罪を、神を棄てる人間の罪を、神の敵となった私たちのこの恐ろしい罪を、すべて引き受け担っておられる。罪のないお方が、私たち人間のすべての罪を十字架の上で受けとめて苦しんでおられる。十字架を覆った暗闇は、私たちすべての者の罪がまことの光である主イエスを覆ってしまったその暗闇でありましょう。しかしこの暗闇の中で、十字架について、そこから降りることなく、主は罪の重みに耐え続けてくださいました。

 「十字架から降りて自分を救ってみろ。」「他人は救ったのに自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」(30~32節) 人々はそのように主を罵りました。死人をさえよみがえらせる、そのメシアの力・神の子の力をもって、自分を救えばよいではないか、十字架から降りて見せればよいではないか、それほどの奇跡を見せてくれたら信じてやろう。
 これは、主イエスにとってサタンの誘惑の言葉でもありました。神の御子主イエスは、降りようと思えば、そのお力で十字架から降りることもできたでありましょう。しかし主は、十字架の上で、ご自分のために何の奇跡もなさいませんでした。自分を救うのではなく罪人たちを救うために、十字架に耐え続けられたのです。暗闇の底に立ち続け、罪の重荷を担い切ってくださいました。

 罪のない神の御子だからこそ、完全に罪人の罪を担い切ることがおできになりました。神の御子は、まことの人となられ、罪人の一人となり切ってくださった。そして罪人の一人として十字架につけられ、神に呪われた者として、私たちの罪ゆえに、神の裁きを受けておられる。「この苦しみこそ、わたしの救い」。主が受けておられる「そのはずかしめこそ、わたしの力」。まことにそのとおりです。
 十字架の主を見上げるとき、私たちは、ほんとうはあそこで苦しまなければならなかったのはこの私であったのだということを知らされます。
 十字架にはりつけにされて、肉を裂き、血を流して、この私のために、わたしの罪のために、主は呪いを受けてくださいました。罪を裁く義なる神・義しい神の裁きを受けてくださった。だからこそ私たちは、もはや呪われた者ではない、神の裁きを恐れる必要もない、祝福の中に生きることができるようにしていただいた、救いをいただいた、神の義を着せていただいた、生きる力を与えていただいた、そう言えるのです。

 三時になりました。沈黙を破り、真昼の暗闇の中に、十字架につけられた主の大きな叫び声が響きました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」(34節)
 「神と人に見捨てられて」。主の十字架の苦しみは、私たちの罪を完全にすべて担ったゆえに、父なる神に見捨てられた、神の呪いを受けられた、神の裁きをお受けになった、そのような苦しみです。それは、どんな肉体的な苦痛にもまさる苦しみです。
 まことに「いたましくも」、父とひとつであられた御子が、父なる神から棄てられておられる。神から切り離された、計り知れない孤独の中に、暗黒の孤独の中に、棄てられておられる。私たちと同じ罪人になり切られたからです。まことに人となってくださって、私たちの罪を完全に担い、罪人となって、神に呪われ、神に裁かれてくださっている。主イエスの絶望は、神に捨てられた者の絶望です。神に呪われた者の絶望です。私たちが真実には知ることのできない、まことに恐ろしい絶望を、主はここで味わっておられる。

 神を棄て、神に敵する罪。自分の正しさに生き、自分中心に、自分の思い・自分の腹を神として生きる、自分が神になるその罪は、どんなに厳しく義なる神によって裁かれるか。それは、神に棄てられ、神から切り離されて死ぬ、滅びに至る死を死ぬ、そういう結果をもたらすことになる。主はそのような罪ゆえの死を、滅びに至る死を死んでくださったのです。神から切り離されて死ぬという、恐ろしい死を死なれた。「なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫びながら、神に捨てられた者の死を、神の敵となった者の死を死なれました。私たちに代わって、です。
 それゆえに、この主の死ゆえに、私たちはもはや、呪われた死を、神から捨てられた者の死を、死ななくてよくなったのです。まことに、「その絶望こそ、わたしの希望」です。

 宗教改革者のカルヴァンは、キリストはこの叫びにおいて「陰府」に降っておられるという理解を示します。主は陰府にまで降られたということを、この十字架上の叫びにおいてとらえているのです。カルヴァンは、「陰府」というのは一定の場所とか領域ではない、と言います。そうではなくて、それは〈絶望や良心の不安、絶対的な神からの隔たりの状況〉だと言います。キリストは、この絶望の叫びをあげたとき、この陰府に踏み込まれたのだというのです。〈キリストは、魂が突き進み得る極限状況、死ぬことさえ甘美なものとしか思われないほどの極限状況〉、神から全く切り離され、神から最も遠い、死の世界のさらにその奥、そのどん底に、降り給うたのだということです。神に敵する者たちの絶望の世界のただ中に、その足を踏み入れてくださった。暗闇しかない、光のない、その絶望の世界に足を踏み入れてくださった。主のこの十字架上の叫びは、そのような叫びだというのです。

 カルヴァンはさらにこのように語ります。〈神に捨てられ、神から疎外されていることを知らざるを得ないということにまさって、恐るべき困窮の深淵はない。神を呼ぶ。しかし、それが聴かれることはない。—まるで自分が呪われて破滅せざるを得ないようである!しかし、キリストは、まさにそのように、突き放されておられるのであって、その迫りくる困窮から、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んでくださった〉。
 十字架の上で主が叫ばれた叫びは、主が陰府に降って、陰府の底から叫んだ叫びだというのです。そこから、主は「わが神、わが神」と叫んでくださった。
 これは、神に敵するがゆえに絶望する、罪ゆえに絶望するすべての人に代わって、主が暗闇の底から叫んでくださった叫びなのだと、カルヴァンはそう理解する。そして、暗闇の底で、陰府の底で、あらゆる絶望の、その最も深い絶望の底で、主が「わが神、わが神」と叫んでくださったことによって、その陰府にも、暗闇の底にも、絶望のどん底にも、罪と死と滅びの力に打ち勝ちたもうた、復活の主の光が射している。そう言えるのです。
 主は、陰府の底からお甦りになる、引き上げられます。陰府の力を、罪の力を、死の力を、その足で踏みつけて、甦らされる。高く引き上げられる。

 私どもの師である加藤常昭先生が、どこに書いておられたのか、どこかでお話になったのだったか、分からなくなってしまいましたが、ルーブル美術館にあるレンブラントの「エマオの晩餐」という絵のことを紹介しておられました。私どももルーブルに行きましたが、この絵には覚えがありません。残念なことをしたと思っています。加藤先生は、パリに行く機会があれば、どんなことをしても時間を作ってこの絵に会いに行く、というようにおっしゃいます。
 手元にあるレンブラントの画集を開いてみました。復活された主がテーブルについて、二人の弟子と食事をしておられる。加藤先生は、テーブルの下にある主の足のその大きいこと、力強いことをお語りになる。そして言われます。〈この足は、陰府の力を踏み砕いた足!〉。
 この足で、主は陰府の力を踏み砕いて、暗黒の底から引き上げられて、エマオに向かう二人の弟子に出会ってくださいました。今この礼拝堂にも、オンラインでひとりで礼拝をしておられるそのお部屋にも、お甦りの主は、その太い大きな足で、入って来てくださいます。そして、パンを裂き「取って食べよ」と、ご自身の肉と血を分け、「あなたの罪は赦された」と言ってくださる。

 カール・バルト、20世紀最大の神学者と呼ばれる神学者はこう言います。〈われわれに代わって、キリストは、この(神からの完全な隔たり)という困窮を担っていてくださる。この状況こそ、元々われわれの状況でなければならなかったはずなのである。われわれの人生の歩みもまた絶望を知っている。しかしそれはもはや完全な、あのただ一つの絶望、イエス・キリストおひとりが担い切ってくださった絶望ではないのである。このようにキリストとわれわれ自身とを、はっきり区別することによって、われわれの苦悩が、どれほど厳しいものであろうと、それを劇的なものとすることをしなくてすむ。なぜならば、われわれが今知るのは、イエス・キリストが陰府の力を、それがどのように大きなものであろうと、既に打ち砕いてくださっているということだからである。〉
 まことに、「その絶望は、わたしの希望」です。