2023年9月3日 振起日礼拝説教「信じなさい、そうすれば悟る」 東野尚志牧師

詩編 第82編1-8節 
ヨハネによる福音書 第10章31-42節

 9月の第一主日、振起日を迎えました。猛暑が続いた8月を終えて、夏の疲れが出てくる頃でもあると思います。そのような中で、「振起日」を定めた先人たちの思いを、しっかり受けとめたいと思います。新しい季節を迎え、秋からクリスマスに向けて、礼拝を中心とする信仰の生活に奮い立つ時を迎えています。伝道の時です。もちろん、間違えてはなりません。私たちは、決して、自分で自分を奮い立たせなければならないというのではありません。聖霊なる神が、私たちの間に、そして、私たちの内に力強く働いてくださって、私たちの信仰を振るい起こしてくださいます。神さまのお働きのために、私たち自身を献げることが求められているのです。
 確かに、主イエスは、私たちに「信じなさい」と呼びかけておられます。私たちが信じるのです。誰かほかの人が信じてくれるのではなくて、私たち一人ひとりが、自分で信じて悟るようにと求められているのです。けれども、信仰の世界に入るとき、私たちは不思議な逆転を経験します。それまでの人生の歩みにおいて、自分を主として、自分が主語になって生きてきた歩みを、神さまのまなざしのもとで捉え返して、神さまを主語として語り直すことを学びます。自分が信じたと思っていたことも、実は、さまざまな経験を通して、時には、つらい挫折の経験や自分自身に絶望するような惨めな出来事を通して、神さまが私たちを信仰へと導いてくださったということに気づく。いや気づかせていただく。そのとき、私たちは、自分の歩みについて、神さまを主語として捉え直し、神さまとの関わりにおいて、神さまのご計画と導きの中で、自分の人生を語り直すようになる。それが、信仰の証しの言葉になるのだと思います。自分がしたことではなくて、神さまがこの私にしてくださったことを語るようになるのです。

 考えてみれば、聖書というのは、そのような信仰の証しの言葉を綴っている書物であると言って良いのだと思います。聖書は、神さまが私たちのために何をしてくださったかを、その始まりから終わりに至るまで描いています。神さまが私たちのためにしてくださった御業を描くことを通して、神さまがどのようなお方であるかを証ししているのです。聖書は、ただ神さまのことだけを書いているのでもなければ、人間のことだけを書いているのでもありません。神さまと人間の関わりの歴史について、神が天地万物と人間をお造りになった始まりから、その完成に至る終わりまでを描いています。それは、決して平坦な歩みではありませんでした。神さまによって、神に似せて造られた人間が、自ら神のようになろうとして神に背き、罪を犯したからです。それゆえに、神さまと人間の関係の歴史は、罪の赦しによる和解への道を求めることになりました。
 神さまは、ご自身に背いた人間をなおも愛してくださり、私たちが罪の中に滅びていくことを見過ごしになさらず、命へと救い取るために、究極的には、ご自身の独り子であるイエスさまをこの世に遣わしてくださいました。独り子イエスをユダヤ人の一人として生まれさせ、この主イエスにおいて、ご自身の民を建て直そうとされたのです。ところが、ユダヤ人たちの指導者たちは、主イエスを受け入れようとしませんでした。いやあろうことか、神の民が、自分たちの主として来られたお方を受け入れず、その命を無きものにしようとしたのです。

 先ほど朗読したヨハネによる福音書の第10章31節以下の段落は、衝撃的な言葉で始まっています。「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた」。「また」と記されているように、これが初めてのことではありませんでした。8章59節にこうありました。「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた」。このとき、ユダヤ人たちが主イエスを石で打ち殺そうとするほどに憤ったのは、主イエスがこう言われたからでした。「よくよく言っておく。アブラハムが生まれる前から、『私はある。』」(8章58節)。最後の「私はある」という言葉は、かぎ括弧でくくられています。出エジプト記の3章で、神さまがモーセにご自身を現わされたとき、「私はいる」「私はある」という者だと言われました。その同じ表現を用いることで、主イエスは、ご自身を神と等しいお方、神として現わされたのです。
 10章の場面でも同じことが言えます。31節でユダヤ人たちが主イエスを石で打ち殺そうとしたのは、直前の30節で、主が言われた言葉を受けてのことです。主は言われました。「私と父とは一つである」。ここで父というのは父なる神さまのことです。同じ人間としての肉体をもってユダヤ人たちの前に立ち、人間として生きておられる主イエスが、霊において永遠に生きておられる神と一つであると宣言されたのです。それはまさしく、ユダヤ人たちが言っているように、「あなたは、人間なのに、自分を神としている」ということになります。その意味では、ユダヤ人たちの反応は当然と言えるかもしれません。ユダヤ人は、シナイ山の麓で神さまと契約を結んだとき、モーセを通して神の掟としての十戒を与えられました。その第一の戒めに、「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない」とあります(出エジプト記20章3節)。ユダヤ人は、自分たちをエジプトの奴隷の家から救い出してくださったお方のみ神とすること、このお方以外の何ものも神としないことを約束しました。それゆえ、何があろうと、人間を神として拝むことは考えられなかったのです。

 古代の社会においては、権力を持つ者は、何らかの意味で自分を神格化しようとするのが常でした。自分を特別な存在、神として崇めさせようとしたのです。王の位に着いた者は、自らを神の子と称しました。自分でそのように宣言し、周りの者たちに信じ込ませることで、自らの権力を保とうとしたのです。自分の像を造ってそれを拝ませようとしたりもしました。古代の社会と申しましたけれども、私たちの国においては、ほんの80年ほど前に、「現人神」として神格化された君主をいただいていたことを忘れてはならないと思います。天皇の写真はご真影として崇められました。それは、命に代えても守らなければならないものでした。毎朝、皇居に向かって礼拝することが求められました。それによって、天皇が始めた戦争に反対することは非国民というレッテルを貼られ、迫害されたのです。ところが、ご承知のように、敗戦を経て、天皇の人間宣言がなされました。神ではなく人間であるということが、宣言されたのです。
 しかし、そのような人類の歴史の中で、ユダヤ人だけは、ただひとりのまことの生ける神と出会い、神によって選ばれた民として、神との契約に生きることを守り続けました。この神以外の何ものをも神としない。いかなる意味においても、ただの人間に過ぎない者を神として拝むことをしないと約束したのです。だからこそ、自分たちの目の前に立っているイエスという人間、ヨセフとマリアの子としてナザレの田舎で育った人間に過ぎない男が、自分と父なる神とは一つであると言って、ご自身を神と等しい存在として示されたことに、憤ったのです。石で打ち殺さなければならないと、はやり立ったのです。

 主イエスは、確かに、権威ある教えと不思議な力ある業によって、多くの民衆の関心を集めていました。ユダヤ人の指導者たちの中にも、たとえば、ニコデモのように、主イエスの業に心動かされ、主イエスのもとを訪ねて教えを請うた人がいました(第3章)。主イエスを支持しようとする人たちがいたのです。その意味で、ユダヤ人たちにとって、主イエスの存在は、悩みの種であったと言って良いと思います。自分たちと同じ人間のひとりであることは疑いようがありません。ところが、神が共におられるのでなければとうていなし得ないような力ある業をなさり、人間の口が語り得ないような不思議な言葉を語られます。何十年も病で寝たきりの男を立ち上がらせ、男だけで五千人もいる大群衆をわずか五つのパンと二匹の魚で満腹させ、生まれつき目の見えない人を見えるようにされました。しかも、「私は命のパンである」とか、「私は世の光である」「私は羊の門である」「私は良い羊飼いである」といった印象深いたとえを用いて、ご自分のことを語られました。それを見聞きした人は、これはただ者ではない、と思わざるを得ませんでした。
 主イエスが誰であるか、主イエスが何者であるか、ということをめぐって、ユダヤ人たちの間に対立が生じた、ということをヨハネ福音書は記しています。多くのユダヤ人たちは言いました。「あれは悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたがたはその言うことに耳を貸すのか」。しかしまたほかの人たちは言いました。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目を開けることができようか」(10章20-21節)。そして、ついにしびれを切らしたユダ人たちが、主イエスを取り囲んで言いました。「いつまで私たちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」。「気をもませる」というのは、なかなか面白い言葉だと思います。どっちつかずで、結論が出ないまま不安な状態におかれているのです。そのとき、主イエスは答えて言われました。「私は言ったが、あなたがたは信じない。私が父の名によって行う業が、私について証しをしている。しかし、あなたがたは信じない」。メシアということであれば、神に選ばれた人間という次元で、まだ受け入れることが可能かも知れません。遡れば、ペルシア王のキュロスやマカベアのユダがメシアと呼ばれたこともありました。けれども、「私と父とは一つである」と言われると、もはや黙っていられません。ユダヤ人たちは、再び石を取り上げて、主イエスに投げつけようとしたのです。

 「あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」。このユダヤ人たちの言葉が鍵を握っていると言ってよいと思います。ユダヤ人たちは、人間であるに過ぎない者が、自分を神としていると言いました。けれども、ヨハネによる福音書が、その最初から証ししてきたのは、これとは正反対のことだったのではないでしょうか。この福音書は、ほかの三つの福音書とは、明らかに語り口が違いました。哲学的とも言える印象深い言葉で始まりました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった」(1章1-4節)。天地万物が成るよりも先に、神と共におられた言なる神についての賛美を歌うことから始めたのです。そして、語ります。「言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(同14節)。言の受肉と呼ばれます。さらに語ります。「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(同18節)。
 ヨハネによる福音書が証しする「言」、それは「父の懐にいる独り子」です。その独り子である神が、今から二千年前、「肉となって」この世に、私たちの間に宿られたのです。イエス・キリストは、ユダヤ人たちが言うように、人が神になろうとしているのではなくて、神が人となったお方です。神がその独り子を、世に遣わしてくださったのです。何のためか、私たちを罪と死の支配の中から救い出すためです。神に背を向けて、神のもとから迷い出て、自分を神として生きるほかなくなった者たちのところに、まことの神がまことの人となって来てくださいました。主イエスは、私たちと同じ人間のひとりとして、神に背いた私たちの罪をすべてその身に背負い、ご自身の命を捨てて、私たちの罪の償いを成し遂げてくださいました。このお方は、まことの人となられたまことの神にあられるがゆえに、このお方の犠牲の死は、ただ一度で永遠に、私たちすべての罪を贖ってくださいました。そして、死人の中からよみがえって、まことの神としての栄光のお姿で、私たちに現れてくださるのです。後の教会は、この主イエス・キリストに対する信仰を告白して言いました。「まことに神、まことに人」。主イエスこそは、まことに神である方が、まことに人となられたお方であり、父なる神と御子イエス・キリストは一つであると告白したのです。

 主イエスに石を投げようとしたユダヤ人たちは言いました。「神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」(10章33節)。それに対して、主イエスは、旧約聖書の言葉を引用して反論なさいました。「あなたがたの律法に、『私は言った。あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を託された人たちが、『神々』と言われ、そして、聖書が廃れることがないならば、父が聖なる者とし、世にお遣わしになった私が、『私は神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒瀆している』と言うのか」(同34-36節)。なんとなく、分かったような、分からないような反論だと思われるかも知れません。実は、ここで主イエスが引用しておられるのは、福音書と合わせて朗読した旧約聖書の詩編第82編の言葉です。82編の6節にこうあります。「私は言った『あなたがたは神々。あなたがたは皆、いと高き方の子』」。ここで「神々」と呼ばれているのは、神から裁きの権限を委ねられた人たちです。神の委託を受けて神の御心をこの世に実現するために立てられた人たちが、「神々」と呼ばれているのです。
 ところが、この詩編の全体を読んでみますと、この人たちの裁きは不正に満ちていることが暴かれています。「いと高き神の子」とまで呼ばれた人たちが、おごり高ぶり、神に逆らう裁きをしている。神の御心を少しも理解せずに、不正な裁きをしている。だから続けて「しかし、あなたがたは人間のように死に/高官のひとりのように倒れる」と告げられます。そして、この詩編の結びにおいて、詩人は叫びます。「神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての国民をご自分のものとされます」。神ご自身が、立ち上がって、地を正しく裁いてくださるようにと求めるのです。つまりこの詩編は、確かに神の言葉を託された者たちが「神々」と呼ばれていますけれど、実は、神になれるような者など人間の中にはひとりもいないことを語っています。「あなたがたは神々」であるというのは、自分が神だと思っている者たちへの皮肉にもなっているのです。

 ユダヤ人たちは、主イエスに対して、神を冒瀆した罪で石打ちの刑を執行しようとしています。主イエスが、ご自分を神の子と言って、ご自分を神と等しい者、神とされたからです。けれども、それは、主イエスの立場から見れば、人間に過ぎない者が自分を神としているのではなくて、むしろ逆に、神であるにもかかわらず、父なる神から遣わされて人となられ、父の業を行いながら神を示しておられる。そして、そのことを通して、まさに、地を裁いておられると言ってもよいのです。これまでにも何度か申しましたように、「裁く」という言葉のもとものと意味は「分ける」ということです。神の独り子である主イエスが人となってこの地上に来られたことによって、主イエスを信じる者と主イエスを信じない者が分けられることになる。主イエスを信じる者は、命の光の中に入れられて、死で終わることのない復活の命を待ち望むことができます。けれども、主イエスを信じない者は、なおも自らの罪の中に留まり、滅びと死を待つほかないのです。
 このとき、主イエスの前にいるユダヤ人たちは、ファリサイ派と呼ばれるユダヤ教の指導者たちです。自分たちのことを、神からの委託を受けた裁き人だと思っています。主イエスが引用された詩編82編に描かれたような「神々」であり、「いと高き方の子」としての権威を託された者として、主イエスを裁こうとしているのです。けれども、彼らは、「人間のように死に/高官のひとりのように倒れる」しかありません。まことの裁き主であるお方が、現れてくださったからです。

 主イエスは言われます。「もし、私が父の業を行っていないのであれば、私を信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、私を信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父が私の内におられ、私が父の内にいることを、あなたがたは知り、また悟るだろう」(10章37-38節)。ヨハネによる福音書は、主イエスがなさった力ある業を「しるし」として描いてきました。それを神からのしるしとして正しく受けとめれば、主イエスが父なる神による救いの御業を行っておられる神の子、救い主であることが分かるはずなのです。主イエスによって癒やされ、目が見えるようになった人は、ユダヤ人たちから主イエスについて尋問されたとき、堂々と答えて言いました。「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならないはずです」(9章32-33節)。主イエスがなさった業を「しるし」として受けとめるならば、主イエスが神のもとから来られた方、神と等しい方であることが分かるのです。
 主は言われました。「父が私の内におられ、私が父の内にいることを、あなたがたは知り、また悟るであろう」。父なる神と主イエスは一つであり、主イエスは神から遣わされた救い主であるということ。主イエスこそは、まことに神、まことに人であるお方として、神と私たちを結び合わせてくださる仲立ち、仲保者であるということは、私たちが見て、知り、悟るべきことです。福音書が証ししている主イエスのお姿、主の教えと業を通して、そして何よりも、主が、私たちのためにご自分の命を捨ててくださった十字架のお姿を通して、主がどれほどに深く私たちを愛していてくださり、父なる神がどれほどに私たちを愛していてくださるかを知り、悟るように。主は私たちを招いておられます。この福音書の3章16節の言葉を思い起こします。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。父なる神と主イエスは一つです。私たちに対する愛において、父なる神と御子は一つなのです。

 神を信じるということは、自分自身の外に、自分の存在を支えてくれる確かな支点を持つことだと言ってよいと思います。そのとき、私たちは、自分自身を絶対化することから解き放たれて自由になります。自分を主とし、自分を中心にして世界を捉えて来たことの愚かさに気づかせられます。まことの絶対者であるお方の前に、自らは相対的な存在でしかないことを、喜んで認めることができるようになります。ただ独りの絶対的な存在である神さまの絶対性を認めることによって、相対的なものを徹底して相対化する支点を持つようになるのです。神が人となられた。この驚くべき御業の前で、なおも人が神になろうとすることはできません。
 この世界における争いや対立は、私たちが、自分を絶対化することから始まります。けれども、真実な絶対者の前に、お互いは相対的な存在に過ぎないことを知るとき、互いを認め合い、赦し合い、受け入れ合う和解の場が開かれるのだと思います。私たちを愛して、私たちと同じ人間のひとりとなってこの世に来てくださった御子なる神の前で、共に心から主の御名をほめたたえ、主の御業のために、喜んで、私たち自身をお献げしたいと思います。