2023年8月6日 主日礼拝説教「涙をことごとく拭われる」 東野尚志牧師

イザヤ書 第49章8-13節
ヨハネの黙示録 第7章9-17節

 皆さんの中で、NHKの朝ドラをご覧になっている方は、どのくらいおられるでしょうか。朝ドラなんか見る暇もなく、朝早くから仕事をしておられる方には申し訳ないのですけれども、私は結構、朝ドラにはまっています。15分という短い時間の中に、人間のドラマが凝縮されていて、つい見入ってしまいます。今期は「日本の植物学の父」と呼ばれる牧野富太郎をモデルにしてドラマ化されています。主人公は槙野万太郎、高知県の佐川の酒蔵の跡取り息子として生まれます。けれども、幼い時から植物が好きで、ついに、酒屋は姉に任せて、自分は東京に出て植物学の研究に打ち込むのです。
 小学校も出ていない、身分も学歴もない主人公が、天真爛漫な人柄と植物学にかける一途な情熱で、まわりの人たちをどんどん笑顔にしていくのが痛快でした。ところが、人生よいことばかりは続きません。特に、先週一週間は悲劇が続きました。当時の植物学研究の中心、東京大学の教授に妬まれて、大学の研究室への出入りを禁じられます。それでも、その才能と実力を認めてくれるロシアの権威ある博士を頼って、なんとか留学の道を求めた矢先のことです。留学費用の援助をあてにしていた実家の酒蔵が、火落ち菌という菌にやられて、お酒が全部だめになり、廃業に追い込まれます。のれんを下ろす決意をした姉夫婦は、涙涙。そして、東京では、万太郎の長女が、わずか2歳で、はしかのために三日高熱を出して死んでしまいます。万太郎夫婦も、涙涙。土佐の若夫婦も、東京の若夫婦も、それぞれに、涙涙で一週間が終わりました。
 仕事の行き詰まり、愛する者の死、私たちが人生で遭遇する二大悲劇と言ってよいかもしれません。自分自身の人生の経験を重ね合わせるようにして、涙を誘われます。私たちも、この涙を知っているのです。人生における厳しい試練と苦難、愛する者の死に直面して、幾たびも辛い涙を流してきました。先週一週間、涙涙の朝ドラを見ながら、私は、きょうの聖書の言葉を思い起こしていました。私たちが、地上の歩みの中で流す涙、その涙がことごとく拭われる日が来るというのです。先ほど朗読したヨハネの黙示録の第7章17節で告げられています。「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり/命の水の泉へと導き/神が彼らの目から涙をことごとく/拭ってくださるからである」。

 ヨハネの黙示録が書かれたのは、1世紀の終わり頃、90年代の後半のことと言われます。約束の聖霊を受けた弟子たちが、主イエスの十字架と復活による救いを宣べ伝え始め、地上にキリストの教会が誕生してから、すでに半世紀以上の時が過ぎていました。キリスト教会がユダヤ教の一派と見なされていた時代は、ユダヤ教の会堂から迫害を受けることはあっても、ローマ帝国から組織的な迫害を受けることはありませんでした。ところが、60年代の終わり、ローマに対する反乱をきっかけとしてユダヤ戦争が起こり、紀元70年、エルサレムの神殿が破壊され略奪されて、都が陥落すると、ローマの支配が強力になります。やがて、ローマ皇帝が自らを神として崇めるように求める皇帝礼拝が行われるようになると、イエス・キリストを主と崇める教会は、厳しい迫害を受けるようになりました。イエス・キリストに対する信仰を貫いた者たちは、容赦なく命を奪われたのです。
 それは決して、私たちと関わりのない、遠い国の昔々の話ということではありません。この日本の国においても、80年ほど前に、天皇を神として礼拝するように強いられた時代がありました。キリストへの忠誠を貫くか、多少は妥協しても何とか教会を守るか、当時の信仰者たちは厳しい選択を迫られました。天皇を神とする神国日本は、戦局が悪化しても敗北を認めることができないままに、今から78年前、1945年8月6日の朝を迎えます。午前8時15分、広島に原子爆弾が投下されました。そこから、8月9日の長崎原爆投下、8月15日の終戦、敗戦へとつながります。いつの時代にも、天地万物を造られた、ただ一人の神に代えて、人間を神として崇めさせ、人間が人間を支配する愚かな歴史が繰り返されてきました。人間が人間を支配するとき、そこには必ず争いがつきまといます。自分と他者を比べ、自国と他国を比べ、競い合い、争い合う。ただ一人の真の神が、神として崇められることなしに、地上にまことの平和が実現することはないのです。

 キリストの教会が、ローマ帝国の激しい迫害に苦しんでいた1世紀終わりのことです。教会の指導者、牧師であったヨハネは、キリストの救いを宣べ伝えたがために、ローマ帝国によって捕らえられ、エーゲ海のパトモスという小さな島に流されていました。迫害に苦しむ教会から引き離されて、たった一人、主の日の礼拝をささげていました。恐らくは島の東の海辺に立って、海の向こうにあるエルサレム、さらにその先、自分が牧師としての務めを負うている小アジアの教会を思いながら、東の海から上る太陽に、復活の主の光り輝く栄光のお姿を仰ぎ見る思いで、主の日の礼拝をささげていたのだと思います。そして、一人礼拝をささげる中で、幻のうちに、天上で繰り広げられる壮大な礼拝の光景を見たのです。
 黙示録7章の9節には次のように描かれています。「この後、私は数えきれぬほどの大群衆を見た。彼らはあらゆる国民、部族、民族、言葉の違う民から成り、白い衣を身にまとい、なつめやしの枝を手に持って、玉座と小羊の前に立っていた」。礼拝しているのは、「数えきれぬほどの大群衆」です。同じ第7章の前半には、神の僕として額に刻印を押された者たちが登場しています。イスラエルの十二の部族からそれぞれ一万二千人ずつ選ばれた十四万四千人が、神のものとして刻印を押されるのです。この十四万四千人というのは、文字通りの数ではないと思われます。十二というのは聖書における完全数です。イスラエルの部族は十二部族、そして、主イエスは十二人の使徒を選ばれました。この十二を掛け合わせて、百倍したのが十四万四千人。それは、旧約・新約を貫く神の民を象徴する数字です。神のものとして選ばれたおびただしい群衆が、天上において、玉座に座っておられる方と小羊を礼拝しているのです。

 小羊として描かれているのは、主イエス・キリストです。黙示録の中で、主イエスが最初に小羊として登場するのは第5章です。実に印象深い仕方で描かれています。ヨハネは記しています、「小羊が屠られたような姿で立っているのを見た」(5章6節)。「屠られた」というのは、主イエス・キリストが、私たちの罪の贖いのために、犠牲として十字架にかけられ、殺されたことを指しています。しかし、その「屠られた」小羊が、「屠られたような姿で立っているのを見た」というのです。「立っている」というのは、復活したということです。しかも、その復活して立っている小羊が、「屠られたような姿」であったというのです。画家たちは、この場面を描くのに苦労したようです。しっかりと立っている小羊の姿を描いて、その喉か胸のあたりから血が吹き出ている姿で描くのです。屠られた小羊が立っている、そこに、十字架と復活の主のお姿を、ヨハネは見たのです。
 玉座におられる神と小羊の前に立った大群衆は、「白い衣を身にまとい、なつめやしの枝を手に持って」いました。「白い衣」については、すでに第3章に出て来ます。小アジアの七つの教会に宛てて書かれたメッセージの中で、サルディスの教会に対して告げられた言葉です。主は言われます。「しかし、サルディスには、僅かながら自分の衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着て私と共に歩む。そうするにふさわしい者たちだからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして私は、その名を決して命の書から消すことはなく、その名を私の父と天使たちの前で公に言い表す」(3章4~5節)。白い衣を着た大群衆は、信仰を守り通して勝利を得た者たちなのです。実際には、信仰のゆえに命を落とすことになったとしても、それは、決して敗北ではなく勝利です。大群衆が手に持っている「なつめやしの枝」も戦いの後の勝利と喜びを象徴するものです。ヨハネによる福音書の第12章には、主イエスがエルサレムに来られると聞いて、群衆がなつめやしの枝を持って迎えに出たことが記されています。以前に用いていた口語訳聖書では「しゅろの枝」と訳されていました。群衆はなつめやしの枝を手に叫びました。「ホサナ。主の名によってこられる方に、祝福があるように。イスラエルの王に」(ヨハネ福音書12章13節)。それは、勝利の王を迎え入れる喜びの叫びでした。

 天上の礼拝において、白い衣を身にまとい、なつめやしの枝を手に持った大群衆が、玉座と小羊の前に立って、声高らかに歌います。「救いは、玉座におられる私たちの神と小羊にある」(7章10節)。地上にあって、厳しい迫害に耐えながら、地下に潜むようにして礼拝をしている仲間たちに、ヨハネは自分が見せられた、この天上の礼拝の光景を伝えようとしたのです。それは、厳しい迫害の中でも信仰を貫いて、天へと召された者たちがあずかっている礼拝です。地上でささげる小さな礼拝は、この天上の礼拝につながっているのです。天においては、勝利の礼拝が誰の目もはばかることなくささげられ、讃美の歌が響き渡っています。「救いは、玉座におられる私たちの神と小羊にある」。救いは確かに、玉座におられる神と小羊にあり、神と小羊から来るのです。それ以外のところからは来ない。地上にあっては、苦難と死に直面して、涙にくれるときにも、私たちも顔を上げて、玉座と小羊を仰ぎ見ることができる。そこに救いがあるのです。
 大群衆の告白と讃美に答えるように、天使たちが歌います。「アーメン。賛美、栄光、知恵/感謝、誉れ、力、権威が/世々限りなく私たちの神にありますように/アーメン」(7章12節)。最初の「アーメン」は、大群衆の告白に対する同意を表わすのでしょう。「そのとおり」と歌います。続けて、「賛美、栄光、知恵/感謝、誉れ、力、権威が/世々限りなく私たちの神にありますように/アーメン」と歌う。これが、天における礼拝、真実の礼拝です。私たちが、ともすれば、自分で得たいと願うもの、「賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、権威」、それは、すべて神に帰すべきものなのです。神に帰すべきものを、私たちが横取りしようとしてはなりません。それは、まことの神を押しのけて、自分を神とすることになるからです。礼拝とは、神を神とすることです。神を神として崇めることです。神がまことに神として崇められるところでこそ、私たちは、本当の意味で、人として生きることができるようになります。神に愛されているものとして、隣り人と共に生きるものとなる。自らを神とする誘惑を退けて、すべての栄光を神に帰すことができるのです。
 もしも、私たちが、礼拝において、御言葉を通して生ける神と出会い、心から神をほめたたえて、神の前にひれ伏し、神にすべてを献げることをしないなら、それは、朝ドラを見て、感動を求めるのと大差ないことになります。神を崇めることよりも、自分が慰められ、自分が満足し、自分が納得することを求めるとき、私たちはなおも自己中心という罪の虜になっており、自分を神としていることになります。礼拝の中に身を置いておりながら、本当には神を礼拝していないということが起こり得るのです。厳しい迫害の中で、信仰が問われます。しかしまた、迫害のない、一見平和な日々の中で、礼拝の真実が問われるのです。

 天上の礼拝の光景を望み見たヨハネは、胸がいっぱいになりながら、問いたいことがたくさんあったと思います。そのヨハネの思いを引き受けるようにして、玉座の前にいた長老のひとりがヨハネに問いかけました。「この白い衣を身にまとった者たちは誰か。またどこから来たのか」(7章13節)。もちろん、ヨハネは答えることができずに、「私の主よ、それはあなたがご存じです」と応じます。すると、長老は、この礼拝する大群衆について語り始めます。「この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(7章14節)。「大きな苦難」とは、教会に襲いかかる大迫害を指しているのかもしれません。迫害の中で命を落とすこと、つまり、殉教の死も視野に入っているのだと思います。初代の教会において、殉教者は賞賛されました。けれども、間違えてはなりません。殉教者の血が救いをもたらすのではありません。私たちを救うのは、小羊の血です。天上の礼拝者たちは、その衣を「小羊の血で洗って白くした」というのです。
 真っ赤な血と白い衣が鮮烈なイメージを放ちます。血で洗って衣を白くするというのは、何ともちぐはぐな取り合わせです。普通は、衣に血が付くとやっかいなのです。けれども、小羊の血は特別です。罪を贖い、罪を洗い清めます。かつて主なる神は言われました。「あなたがたの罪がたとえ緋のようでも/雪のように白くなる。たとえ紅のように赤くても/羊毛のように白くなる」(イザヤ1章18節)。罪で赤く染まった衣が雪のように白くなる。預言者を通して告げられた主の言葉は、小羊の血において実現したのです。小羊の血で洗われるとき、罪で赤く染まった衣が雪のように白くなります。小羊である御子イエスの血で洗っていただくとき、あらゆる罪から清められるのです(1ヨハネ1章7節)。

 長老はさらに、白い衣を身にまとった者たちに約束された、大いなる幸いを告げて行きます。「それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて/昼も夜も神殿で神に仕える」(7章15節)。「昼も夜も」です。私たちは、一週間に一度、七日ごとに集まって礼拝をしています。けれども、天においては、昼も夜も礼拝し続けるというのです。詩編102編の19節は、聖書協会共同訳では次のように記されています。「このことは後の世代のために書き記されるべきです。新たに創造される民は主を賛美するでしょう」。これもよい翻訳だと思います。けれども、新共同訳の言葉はさらに印象的でした。「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された』」。私たちは、主を賛美するために造られたのだ、と言い切るのです。私たちの命の意味は、造り主であり贖い主である神を賛美することにある、そう言ってもよいでしょう。
 宗教改革の時代に、英国の神学者会議で生み出された『ウェストミンスター小教理問答』(1648年)の第一の問いを思い起こします。問1「人間の主要な目的は何ですか」。答「人間の主要な目的は、神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶことです」。私たちの生きる意味と目的を、端的に告げています。神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶところにこそ、私たちの生きる目的があるというのです。それは、白い衣を着た大群衆が、天において、永遠に神をほめたたえる姿において現わされています。小羊の血によって贖われた民は、昼も夜も、永遠に神に仕えるのです。神を礼拝し、主をほめたたえ、永遠に神を喜ぶ。それが、天の国に生きる者の姿なのです。天国は、私たちの願いが実現し、私たちが支配するところではありません。すべてのものの造り主であり、私たちの罪の贖い主である神を永遠に賛美し、神を喜び楽しむことができる。そこにこそ、私たち人間の本当の幸いがあると言うのです。

 そしてついに、決定的な祝福が告げられます。「玉座におられる方が、彼らの上に幕屋を張る」。「幕屋を張る」というのは、神がご自分の民と共に住んでくださるということを表わす象徴的な言葉です。ヨハネによる福音書の第1章で用いられた言葉でもあります。永遠に神と共にあり、神である言が、肉を取って地上に宿られたことを告げて言われました。「言は肉となって、私たちの間に宿った」(ヨハネ福音書1章14節)。神の言葉である御子が、私たちの上に幕屋を張るようにして、私たちの内に宿られ、いつも、いつまでも私たちと共にいてくださるのです。神が共にいてくださるならば、荒れ野の旅路をも恐れる必要はありません。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく/太陽もどのような暑さも/彼らを打つことはない」(7章16節)。
 きょう合わせて朗読した、旧約聖書イザヤ書49章の言葉とも響き合います。預言者イザヤは主の言葉を伝えて言いました。「彼らは飢えることも渇くこともなく/熱風も太陽も彼らを打つことはない。彼らを憐れむ方が導き/水の湧く所に連れて行かれるからだ」(イザヤ49章10節)。羊たちを水辺に導く羊飼いの姿が浮かびます。そこからまた、黙示録の言葉にもつながっていきます。「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり/命の水の泉へと導き/神が彼らの目から涙をことごとく/拭ってくださるからである」(7章17節)。小羊が牧者となるというのも、考えてみると不思議なイメージです。ここにもイメージの逆転があります。羊たちは、羊飼いに導かれます。しかし、その羊飼いは小羊なのです。もちろん、ただの小羊ではありません。屠られた小羊です。「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ福音書1章29節)なのです。羊のために、ご自身の命を献げてくださった羊飼いが、屠られた小羊の姿で、羊たちを命の水の泉へと導きます。さらに、命の食卓へと導くのです。カトリック教会のミサにおいて、聖体への招きの言葉は「神の小羊の食卓に招かれたものは幸い」と告げられます。私たちが招かれる聖餐の食卓、それは、神の小羊の食卓なのです。

 主は言われました。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ福音書6章35節)。主なる神が、私たちの上に幕屋を張って、私たちと共に住んでくださるなら、もはや、飢えることも渇くこともないのです。私たちは、この世の歩みにおいては、なおも大きな苦難をくぐり抜けて行かなければなりません。多くの涙を流さなければなりません。主イエスを信じ、主イエスに従い行こうとするがゆえに流す涙もあると思います。けれども、私たちは、地上の礼拝を通して、天の礼拝、天において祝われている永遠の礼拝につながっています。小羊の食卓にあずかって、終わりの日の祝福を先取りするのです。神さまご自身が、私たちの目から、涙をことごとく拭い取ってくださるという、終わりの日の祝福を告げる言葉に支えられながら、この地上で、礼拝を生きるのです。地上の礼拝は、死をも突き抜けて、天の礼拝とつながっています。ヨハネが見た天の礼拝を、私たちも望み見るようにして、共に心から主をほめたたえ、主に礼拝をささげましょう。