2023年8月27日 主日礼拝説教「行いと真実をもって愛そう」 東野尚志牧師

創世記 第4章1-8節
ヨハネの手紙一 第3章11-18節

 先週(8月20日)の日曜日は、教会と軽井沢のチャペルと、二つの場所に分かれて、主の日の礼拝を行いました。8月18日の金曜日から20日の日曜日まで、軽井沢にある東洋英和女学院の追分寮で、2泊3日の教会全体修養会が行われたからです。教会の礼拝の出席者は40名、修養会の礼拝の出席者は25名でした。修養会には部分参加も含めて26名出席したのですけれども、東野ひかり牧師が、教会の主日礼拝の務めを担うため、土曜日の午後には東京に戻りましたので、修養会の礼拝は1名減って25名となりました。
 東京と軽井沢、滝野川と修養会、二つの場所に分かれての礼拝でしたけれど、いずれの礼拝においても、教会全体修養会の主題を意識しながら、御言葉が説かれました。修養会の主題は「礼拝共同体としての教会―主にある交わりの再建」でした。コロナ禍による分断を乗り越えて、改めて、礼拝共同体としての教会のあり方と教会の交わりの本質について、共に学び、語り合う時となりました。

 主題講演の資料の中に、私たちが教会について考えるための手掛かりになる言葉として、日本基督教団信仰告白において、教会について告白されている言葉を引用しました。皆さんもよくご存じの言葉であると思います。「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり。教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む」。教団の信仰告白は、短くまとめられた二つの文章で、教会とは何であり、教会は何をするのか、ということを、端的に述べているのです。
 修養会の主題講演においては、教会は何であるかということに続けて、教会がなすべきことについても触れました。主の日の礼拝において、御言葉の説教と聖礼典を行うことによって、キリストの霊的現臨にあずかることが、教会の中心にあることを学びました。礼拝の中心はキリストであり、礼拝はこのキリストを宣べ伝える説教と、キリストの命にあずかる聖餐を中核として成り立ちます。そして、この礼拝は、教会堂を拠点としながら、しかし、教会の建物の中に固定されているのではなくて、生ける主ご自身と共に、信仰者のもとを訪れて行くということを学んだのです。教会に共に集まるという集中と、教会から一人ひとりの教会員へとつながって行く広がりの両方が大切なのだと思います。その集中と広がりの両方を大切に受けとめながら、私たちの間に主にある交わりを実現して行きたいのです。

 ところで、教会は何をするのか、ということについては、続きがあります。教団信仰告白は語ります。「愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む」。これについては、改めて、学びの主題として掲げることもできると思います。しかし、大事なことは、御言葉の説教と聖餐を中核として、主イエス・キリストの現臨を中心とする礼拝は、それで完結することはない、ということだと思います。礼拝において、私たちが、神さまへと心をあげるとき、神さまがどれほどに私たちを愛しておられるか、その神さまの愛が、私たちに迫ってきます。御言葉と聖餐が、主の十字架による救いを指し示しているからです。神さまは、私たちが罪と死の力に捕らわれたまま滅びてしまうことのないように、独り子イエスの十字架と復活において、赦しと救いの道を開いてくださいました。そして、私たちをあるがままで、ご自身の前に召し出し、礼拝を求めてくださいます。私たちを救うために、御子の命をさえ惜しまず死に渡されたほどの愛が、礼拝する私たちの上に注がれているのです。
 神さまから私たちに注がれる愛は、私たちの中にも愛を呼び覚まします。神さまを愛し、お互いに愛し合い、仕え合う者としての生き方を生み出します。そして、その愛は、教会の中から溢れ出るようにして、この社会へと広がって行くのです。天に昇られ、今は霊において私たちと共にいてくださる主イエス・キリストが、目に見える栄光の姿で天から降って来られる終わりの日まで、教会は主なる神に仕える礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、洗礼と聖餐の聖礼典を行いながら、愛のわざに励みつつ、主が再び来られる日を待ち望むのです。主の招きを受けて、礼拝の恵みにあずかっている私たち、神さまの愛に潤されている私たちは、愛のわざを行うことによって、私たちが受けている恵みを証しして行くのです。

 私たちに求められている愛のわざについて思いめぐらしながら、きょうの聖書の言葉を選びました。ヨハネの手紙一の第3章の御言葉です。与えられた御言葉の結びのところで、ヨハネは告げています。「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛そうではありませんか」(18節)。聖書の御言葉自身が、私たちに向かって、はっきりと一つの勧めを語っています。一体、それ以上に、何を語ることができるだろうか、そんな思いさえ抱きます。もう何も語る必要はない。御言葉の勧めているところに従って、まさにここから、私たちの間で、お互いに愛し合う交わりを築いていくことが大事なのだ。そう言って、よいかもしれません。礼拝の中から、それぞれの生活の場へと送り出され、その遣わされた場において、愛の証しに生きように、と言うのです。
 それこそ、御言葉自身がはっきりと告げているように、言葉だけを重ねてもむなしいのです。たとえ、どれほど、雄弁に美しく感動的な愛について語ったとしても、実際に、行いをもって愛し合うという現実が伴わなかったならば、中身のない空ろな響きをたてるに過ぎません。第一コリント書の13章、「愛の賛歌」と呼ばれる箇所で、使徒パウロが用いた葉を借りて言えば、ただの「騒がしいどら、やかましいシンバル」ということになります。うるさいだけで、何の役にも立ちません。ヨハネは、教会に連なって生きる私たち一人一人に向かって、真実に求めています。「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛そうではありませんか」。

 このヨハネの勧めを、私たちもまた、真実をもって聞く必要があるのだと思います。この短い勧めの言葉は、二千年の時を越えて、かつてと同じように今も、私たちの愛の実践を問うているのです。私たちの語る言葉に、一体どれほどの、愛の真実、愛のわざが伴っているか、そう問われたならば、胸を張って「十分です」と言える人が、果たしているでしょうか。私自身もまた、聖書の御言葉によって自らの現実を照らし出されたならば、自らの愛のなさが顕わにされるような恥ずかしさを覚えます。隣人を愛することにおいて、まことに足りない者であり、欠けた者であることを認めざるを得ないのです。
 あるいはまた、真剣に愛に生きようと努力すればするほど、もうこれで充分とは言えなくなってしまうのかもしれません。確かに、一所懸命愛のわざにいそしむことを通して、私たちにも、ある種の満足感や喜びがもたらされます。けれども、愛するということには限界がありません。ここまで愛したら、もう十分というような、終わりはないのです。与えて、与えて、一体どこまで与えればよいのか。満足を覚えるよりも、むしろ疲れとむなしさを覚えることの方が多いのではないかとさえ思います。きりがないのです。

 ヨハネはこのように問うています。「世の富を持ちながら、きょうだいが貧しく困っているのを見て憐れみの心を閉ざす者があれば、どうして神の愛がその人の内にとどまるでしょう」(17節)。厳しい言葉です。けれども、持ち物についてなら、分かりやすいかもしれません。自分に余裕があるならば、与えることもさほど苦にはならないと思います。むしろ、ひとに施すという行為は気持ちが良いのです。相手が喜んでくれるならば、自分もうれしくなります。そうなれば、自分にとって必要な物でも、少し我慢してひとに与えることができるかもしれません。しかし、もちろん、持っていない物まで与えることはできません。それでも、相手に与えて行くならば、自分の持っている分はどんどん少なくなって行きます。たくさん持っている中から与えるというのではなく、自分も足りなくなりそうに思えてくるとき、一体、どこまで与えれば十分だと言えるのでしょうか。
 適当に与えて、ああ私は人を愛している、そんな自己満足を味わっているあたりで手を引くなら、簡単なことかもしれません。しかし、どこで線を引くことができるのでしょうか。その上、相手が喜んでくれることを喜んでいられる間は幸いですけれども、一向に感謝の心も表さない相手に対しては、段々腹が立ってきます。私たちは、どこかで、自分の愛のわざに対してひとが感謝してくれることに慣れてしまう。無意識の内に感謝を求めてしまう。何となく黙っていられない。主イエスが言われるように、自分でラッパを吹いてしまうのです。ちゃんと気づいて欲しい。評価して欲しい。そう思ってしまいます。
 相手に与えるのは物だけではありません。与える、というのは、究極的には、自分自身を与えることになるのだと思います。例えば、真剣に他者と関わって生きようとするならば、自分の時間を与える、ということもまた、私たちに求められます。愛するというのは、相手に自分の時間、つまり自分の命を与えることでもあるわけです。相手のことを思っている時間、相手のために祈る時間、相手の話を一つ一つ親身になって聞いてあげる時間、そして、相手のために具体的な行動を起こす時間。自分自身の限られた時間の中から、どんどん人に与えていくとき、一体、どこまで与えればそれで十分だということになるのでしょうか。与えて、与えて、与えつくしてしまったら、自分自身が無くなってしまうのではないか。そういう不安に駆られるとき、私たちは、何かの言い訳を探し出そうとするのではないかと思います。そこまではできないことの言い訳を探そうとするのです。そして、適当なところで、手を引いてしまいたくなるのです。

 主イエスが、隣人を愛することについて教えられた、一つのたとえ話を思い起こします。「親切なサマリア人のたとえ」として知られている話です。ご存知の方が多いと思います。ある人が、エルサレムから下って行く道の途中で、強盗に襲われました。持ち物を全部奪われてしまった上に、殴りつけられて、半殺しの状態にされた。自分では立ち上がることもできなくなって、道端に倒れていたのです。そこへたまたま、神殿に仕える祭司が下ってきて、通りがかりました。祭司は、傷だらけで倒れている人をチラッと見ると、道の反対側を通って行ってしまいます。確かに気づいたはずなのですけれども、まるで何も見なかったかのように先を急いで行くのです。しばらくして、レビ人が通りかかりました。けれども、やはり倒れている人を見ると、道の反対側、向こう側を通って行ってしまいました。
 それからまたしばらくして、通りかかった人がいました。サマリア人でした。この人は、倒れていた男の人をかわいそうに思って、その場で傷の応急手当てをしてから、自分の家畜に乗せて、宿屋に連れて行って介抱しました。この人も先を急ぐ旅であったと思います。翌日、宿屋の主人にお金を渡して、さらに面倒を見るように頼んで出かけて行きました。しかも、お金が余分にかかったら、帰りに立ち寄って自分が払うから、と約束して行ったのです。強盗に襲われて命さえ危なかったその人を助けたのは、同胞であるユダヤ人の祭司でもレビ人でもなく、サマリア人でした。普段はユダヤ人が軽蔑して付き合いをしようとしなかったサマリアの人が、傷ついたユダヤ人を助けたのです。その対比の描き方が鋭くて、一度聞いたら忘れられない話です。
 このたとえ話を通して、主イエスは、私たちもサマリア人のようにすることを求めておられます。主イエスは自分の愛すべき隣人はだれかと問うた律法の専門家に言われました。「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10章37節)。けれども、このたとえ話に登場する、祭司やレビ人の振る舞いもよく分かるのだと思います。恐らく、それぞれに務めがあったに違いないのです。特に祭司は、神殿に関わる大事な用事を抱えて、下って行くところであったかもしれません。通り過ぎてしまうことの言い訳をしようとしたら、いくらでももっともな理由を挙げられたに違いないのです。

 最近では、電車の中でもちょっとしたトラブルで大怪我したり、巻き込まれて命を落としたりする事件が起こります。注意したら、殴られた。「逆ギレ」などという言葉も用いられます。できるだけ、関わりを持たないようにしないと、自分の身が危ない。びくびくしながら、できるだけ周りの人と不用意な接触をしないように生きる。コロナ禍で、周りの人と距離を取ることが、さらに進んだとも言えます。しかし、そうやって、周りにいる人、本来ならばいつでも私たちが隣人となるべき人たちに対して、関わりを持たないようにするとしたら、そこに愛はあるでしょうか。愛することが、他者と関わりを持つことであり、それゆえに、相手に自分を与えることであるならば、突き詰めれば、相手を生かすか、自分を生かすか、つまりは、相手が生きるか、自分が生きるか、どちらかです。その意味で、なぜここに、カインの話が出てきたかがよく分かるのではないでしょうか。
 最初の人アダムとエバの間に授かった兄弟、カインとアベルは、あるとき、同じように神さまに献げものをしました。羊を飼う者となっていた弟のアベルは、群れの中から羊の初子、その中でも特に肥えた羊を持って来て献げました。一方、土を耕す者となっていた兄のカインは、土地の実りを供え物として持って来たのです。すると、神は、弟アベルとその供え物には目を留められたけれども、兄のカインとその供え物には目を留められなかったというのです。つまり、カインの供え物は神に受け入れられなかったということです。屈辱、妬み、憎しみ、憤り。ついに、カインは、弟アベルを殺してしまいます。神の前に、自分が否定された、という思いに耐えられずに、自分が死ぬのではなく、兄弟の命を断ち切ったのです。自分が生きるために、他人を押しのけ、他人を否定して、自分の命を守ろうとする。それは、罪と死の力に支配された人間の姿です。

 私たちも、カインの末裔でした。けれども、私たちは、本当の愛を知ることによって、死から命へと移された。ヨハネはそう言うのです。一体、どこで、本当の愛を知ったというのでしょうか。ヨハネは言います。「御子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちもきょうだいのために命を捨てるべきです」(16節)
 主イエスの十字架の死は、ただ単に、自分自身の命をも与えつくす愛の模範として描かれているだけではありません。罪と死の力に捕らえられていた私たちが、主イエスの十字架によって、その犠牲の死を通して、愛と命の支配の中に移されたのです。この世の姿においては、命から死へと向かうのが普通です。今は生きている者も、必ず死のときを迎えることになります。私たちは、死に向かって生きているのです。けれども、愛である神は、これを逆転させられました。「死から命へ」。ヨハネは言います。「私たちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。きょうだいを愛しているからです」(14節)。「命から死へ」ではなくて、「死から命へ」です。逆転、と言いましたけれども、決して、古い命に戻って行くわけではありません。死の向こうに、死の先に、新しい命の道が切り開かれたのです。主イエスが命を捨ててくださったことによって、私たちも主に結ばれて自分の罪に死ぬことができる。憎しみや妬みの心に死ぬのです。自分を守るために周りの人に無関心になる、そういう心に死ぬのです。そして主イエスと一つに結ばれ、主の復活の命にあずかって、憎しみではなく愛に生きる命の道へと移される。

 死の力は、憎しみや妬みと同じように、私たちの間を引き裂きます。私たちを引き離してしまいます。しかし、復活の命は、私たちを結び合わせるのです。ちょうど、ぶどうの木のたとえのように、私たちが命の源であるよみがえりのキリストと一つに結ばれるならば、私たちは、このキリストを通してお互いに結び合わされていることを知ります。使徒パウロは、「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です」と言いました(2コリント5章17節)。私たちは、キリストに結ばれる洗礼を受けて、新しく、主にある交わりの中に造られるのです。愛に生きるものとされているのです。もちろん私たちは、これからも、愛に悩み、愛に傷つき、愛のなさを嘆く経験を繰り返していくに違いありません。けれども、嘆いているだけに留まってはなりません。なぜなら、既に、私たちの中に、私たちの間に、復活の主の愛による支配が始まっているからです。既に始まっている命の支配に背を向けて、罪と死の力のもとに留まっていてはなりません。
 死の力は、私たちを憎しみの中に留めようとします。他の人たちの痛みや苦しみに対して無関心になり、自分さえよければよいと思うような、利己的な罪の思いの中に縛り付けようとします。けれども、私たちはすでに、死から命へと移されているのです。憎しみと殺意の渦巻く闇の力から救い出されて、今すでに、まことに愛そのものであるキリストのものとされ、キリストの愛の力に守られているのです。愛そのものである主イエスにしっかりとつながっているならば、愛する勇気と力が私たちにも注ぎ込まれます。散々議論をしたあげく、結局は何もしない、ということであっては意味がありません。今、身近なところでできることをする。大上段に構えて愛を語るのではない。むしろ、隠れたところで、だれも注目しないようなところで、小さな愛のわざに生きる。そこに命が宿ります。そこに慰めと癒しと望みが宿ります。なぜならば、愛そのものである主イエス・キリストが、私たちと共にあり、私たちのうちに宿ってくださるからです。

 私たちの間に、生きて働く主の愛を否定してしまうこと、それこそが最大の罪です。罪と死の力による欺きです。すでに愛が始まっているのです。傷つきながら、悩みながら、しかし、すでに芽生えている生き生きとした復活の力にあずかり、キリストの命にあずかって、小さくても、貧しくても、私たちに今求められている愛の実を結んで行く。そこに、私たちを通して、キリストが生きて働かれる、神の国の祝福が開かれて行くのです。  共に礼拝に生きる幸いを感謝したいと思います。この礼拝において、神さまの愛に満たされ、神を愛し、隣人を愛し、神が造られたこの世界の中に、望みに満ちた愛の実を結んでいくことができますように。言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛に生きようとする私たちの上に、霊なる主の力強い導きにより、天の恵みと祝福が注がれますように。終わりの日の栄光の主の来臨を待ち望みながら、天の祝宴を先取りする聖餐の食卓に、悔い改めと感謝と喜びをもって、共にあずかりたいと思います。