2023年7月9日 主日礼拝説教「豊かな命に至る門」 東野尚志牧師

エレミヤ書 第23章1-4節
ヨハネによる福音書 第10章7-10節

 聖書の中には、羊飼いや羊の話がたくさん出て来ます。イスラエルの先祖は、遊牧生活をしていましたから、もともと羊という動物は身近な存在であったと思われます。カナンの地、今のパレスチナ地方に定住生活をするようになってからも、共同の囲いを作って、群れの中で羊を飼っていました。羊飼いたちが羊の世話をしたのです。私たちは、羊飼いの生活というと、のどかで、牧歌的な情景を思い浮かべるかもしれません。でも実際のところ、険しい岩場や荒れ地の多いパレスチナ地方での牧畜は、私たちが想像する以上に、苛酷なものであったようです。日中は羊の群れを囲いの外に連れ出して、餌や水のあるところに導きます。迷子の羊が出ないように気をつけながら、岩場を安全に移動させなければなりません。途中、狼が羊を狙ってきます。ライオンや熊に襲われることもあったようです。羊を守るのは、命がけの仕事でした。
 しかし、またそうであればこそ、神さまと神の民イスラエルの関係が、羊飼いと羊の関係になぞらえられてきたことに大事な意味があるのだと思います。羊は、生来臆病で、そのくせ頑固で、目が悪くてすぐ道に迷うかと思えば、自分だけでは何もできない弱い存在でした。それは、そのまま、私たち人間の姿だと言ってよいかもしれません。羊飼いである神さまは、そのような羊の一匹一匹をかけがえのない存在として愛し、群れから迷い出た一匹を探し求め、見つけ出して、群れの中に連れ戻してくださるのです。礼拝の招詞として読んだ詩編23編の中では、「主は私の羊飼い。私には乏しいことがない」と歌われていました。「主は私を緑の野に伏させ/憩いの汀に伴われる」と歌うのです。
 旧約聖書の中では、主なる神が、羊飼いと呼ばれているだけではありません。やがて、神さまによって立てられた王や預言者たちが、群れを導く羊飼いにたとえられるようになります。神さまから、羊を牧する務めを託されるのです。牧者と呼ばれます。今朝、福音書に合わせて朗読した旧約聖書、エレミヤ書の23章では、本来ならば、神の牧場の羊の群れの世話をするために立てられ、遣わされた牧者が、民を顧みず、追い散らした、その悪行が咎められています。そして、神ご自身が、追いやられた者たちを集め、自分たちの牧場に帰らせると言われます。神自ら、民の上に、ふさわしい牧者を立ててくださるというのです。
 昨年の4月から、礼拝で朗読する聖書を、口語訳から聖書協会共同訳の聖書に切り替えました。私たちの教会は、結果的に、口語訳の次に出た新共同訳を飛ばして、一気に聖書協会共同訳に移行することになりました。教会としては、60年以上の時を経て、礼拝で読む聖書が変わるという経験をしました。実は、すでに新共同訳において採用されていたのですけれど、新しい聖書では、要所要所、内容のまとまりごとに、本文よりも太い文字で「小見出し」が掲げられています。これは、聖書の本文ではありませんから、聖書朗読の際は読みません。
 ヨハネによる福音書第10章の1節から6節の段落には「『羊の囲い』のたとえ」という見出しが立てられています。昼間は外を歩きながら、餌と水にありついた羊たちが、夜になると囲いの中に戻されます。ここで言われる「囲い」は、街中の住まいに隣接するようにして、頑丈な小屋のように作られたものであったようです。入口は一箇所だけで、そこに門がありました。住まいに隣接していますから、ちゃんと門番がいるのです。イギリスのコレッジのポーターみたいな存在でしょうか。イギリスの大学は、たくさんのコレッジの集合体で、それぞれのコレッジは、学寮とも訳されるように、学びの場と住まいが一つになった囲いの中にあります。コレッジの入口、受付のところに、ポーターと呼ばれる門衛がいます。観光客からは入場料を取るのですけれど、学生の顔はちゃんと見分けてそのまま中に入れてくれます。あの記憶力は大したものだと思いました。それはともかく、羊の囲いに、門番のいる門から入らずに、夜の闇に紛れて、塀を乗り越えて入ってくる者は、盗人であり強盗なのです。

 羊飼いは、夜が明けるとやって来て、門から入ります。門番は羊飼いのことを知っていますから、入れてくれるわけです。羊飼いは、群れの中にいる自分の羊たちの名前を呼んで、外へ連れ出していきます。羊の方でも自分の羊飼いの声を知っているので、羊飼いに付いて行くというのです。この場合、羊飼いというのは、明らかに、このたとえを語っておられる主イエスを指していると思われます。それに対して、主イエスによって癒やされ、見えなかった目が開かれ、主イエスを神のもとから来られた方と信じた人を、会堂から追放したファリサイ派の人々は、盗人や強盗のような者たちだと見なされます。本来ならば、羊を導く羊飼いの務めを託されていたはずなのに、羊を導くどころか、羊を虐待し、群れから追い出してしまったのです。
 その後、7節以下21節まで、二つの段落をまとめて「イエスは良い羊飼い」という見出しが立てられています。思った通り、羊飼いは主イエスのことを指していたわけです。11節において、主イエスご自身が告げておられます。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。さらに、その少し後の14節でも繰り返されます。「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている」。見出しになっているくらいですから、11節と14節が、この段落の中心だと言ってよいと思います。けれども、きょうは、その直前の10節までで区切りました。どうして段落の途中で区切ってしまったのか、不思議に思われたかも知れません。あるいは、勘の良い方は気付かれたでしょうか。7節から10節までのところには、「私は良い羊飼いである」という主イエスの自己証言、自己紹介の言葉とは違う、もう一つ別の証言が記されています。7節で、主イエスは言われました。「よくよく言っておく。私は羊の門である」。また9節でも言われます。「私は門である」。「良い羊飼い」というたとえに進む前に、主イエスがご自分を「門」にたとえられた、その独特な響きを、しっかりと受けとめておきたいと思ったのです。

 主イエスが、「私は、なになに、である」という言い方で、ご自分のことを語られたのは、ここが初めてではありません。英語で言えば、「アイ・アム・~」となります。聖書の原語では、「エゴー・エイミ・~」と記されています。ヨハネによる福音書の中で、この言い方が最初に出て来たのは、第6章です。主イエスは言われました。「私は命のパンである」。第8章では「私は世の光である」と言われました。そして、第10章では「私は羊の門である」、「私は良い羊飼いである」と続いて、この後、さらに三つ、全部で七つの表現が用いられています。聖書の世界で、七は完全数です。この後の分も先取りしてご紹介しますと、第11章で「私は復活であり、命である」と言われます。第14章では、「私は道であり、真理であり、命である」と言われます。そして、最後、第15章において、「私はまことのぶどうの木」と言われるのです。
 いずれも、よく知られている言葉だと思います。皆さんも、どこかで聞いた覚えのある言葉ではないでしょうか。主イエスが、ご自分のことを「私は、なになに、である」と語られた言葉は、それだけインパクトがあり、私たちの心に残る言葉なのだと思います。「なになにのような」という言い方ではなくて、「なになにである」と言い切っているので、たとえの中でも特に、メタファーと呼ばれます。暗喩とか、隠喩と訳されます。不思議な取り合わせが、強烈な印象を残します。父なる神のもとから来られた神の独り子である主イエスが、どのようなお方であるのか、救い主である主イエスを描くとても大切な証言だと言ってよいと思います。

 主イエスは言われました。「私は羊の門である」。しかも、ここではまた、主イエスが、特に大事なことをお語りになるとき、聞き手の注意を促すように告げられた「アーメン、アーメン」という表現が用いられています。「よくよく言っておく。私は羊の門である」。この前に記された「『羊の囲い』のたとえ」の中でも「門」という言葉が用いられていました。そこでは、羊飼いが出入りする「門」のことが語られていました。門を通らずにほかの所から忍び込んでくるのは盗人、強盗であり、門から入って来るのが本当の羊飼いだと言われていたのです。門のところには、しっかり門番も控えていました。しかし、ここでは、主イエスが「門」、しかも、「羊の門」であると言われています。つまり、主イエスご自身が、羊の出入りする「門」にたとえられているのです。前の段落で言われていたのと、少したとえが動いています。
 前の段落では、住まいに隣接した小屋のような囲いが考えられていました。ちゃんと門があり、門番もいるような囲いです。ところが、7節以降に出てくる門は、やはり羊の囲いの門であるには違いないのですけれど、もはやそこには門番はいません。恐らく、村から離れた場所に設けられた野原の囲いを思い浮かべることができるのではないかと思います。夏の間などは、村まで帰らないで、野原で夜を過ごすことがあったようです。住まいとつながっているわけではありませんから、頑丈な小屋のような囲いがあるわけではありません。屋根もありません。人の背丈くらいまで石を積んで、石垣のように作られた野ざらしの囲いがあるだけです。四方が石垣で囲われていて、一箇所だけ石垣が途切れているところがあります。そこが出入り口です。でも、門がついているわけではありません。羊飼いの杖を十字に組んで、出入り口に立てた、という説もあるようです。そうかもしれません。しかし、それでもすきだらけです。杖を立てた上で、さらに、その出入り口を羊飼い自身が塞いだのではないかと思われます。まさしく、羊飼い自身が「門」になったのです。夜になって、羊の群れをみな囲いの中に入れてしまうと、羊飼いが入口のところに横たわる。羊が外に出ようとすれば、羊飼いの上を越えていくしかありませんから止められます。外から獣が襲ってこようとしても、門になっている羊飼いが、それを撃退するのです。主イエスご自身が、羊の囲いの門となって、命がけで羊を守ってくださるのです。

 さらにまた、主は言われます。「私は門である。私を通って入る者は救われ、また出入りして牧草を見つける」。ここでは、はっきりと救いについて語られています。主イエスという門を通らなければ、救いにあずかることはできないということでしょう。主イエスこそが、救いに通じる門であると言われるのです。この言葉を読むとき、別の福音書に記された主イエスの教えを思い起こします。マタイによる福音書の山上の説教の中で、主は言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い。命に通じる門は狭く、その道も細い。そして、それを見いだす者は少ない」(マタイ7章13~14節)。門そのものは、いろいろあるわけです。いろんな道があるのです。入りにくそうな狭い門もあれば、大きく開いた門もあります。しかし、いろいろな門がある中で、本当の救い、命に通じる門は狭く、またその道も細いと言われます。そこに、主イエスの言葉が重なるようにして響きます。主は言われるのです。「私こそが、命に至る門である。さあ、私を通って救いにあずかりなさい」。
 古今東西、世々のあらゆる宗教が、救いについて説いてきました。救いに至る門は、たくさんあるようにも思われます。その中から、自分に合った、自分の好きな門を選んで入っていけばよいということでしょうか。確かに、いろんな門があります。同じ神さまを信じているはずの、ファリサイ派の人たちでさえ、主イエスとは別の門を信じていました。神さまがご自身の民に与えてくださった言葉、神の言葉である律法を守ることで、神の国に入ることができると信じていました。ファリサイ派の人たちは、自ら門番となって、律法を厳格に守っている人は、神の国に入れるけれども、律法を守らない人、律法を知らない異教徒たちは救われないと決めつけていました。しかし、たとえ、律法を言葉通りに守っていたとしても、中身が伴わなければ偽善です。神への愛と信仰がなければ、律法の行いはただ形だけのものになります。隣り人への愛と思いやりがなければ、見せかけだけの律法の行いは空っぽです。そこに絡みついている私たちの罪を、自分ではどうすることもできません。まさに、その罪を取り除いて、私たちを罪の支配から解放し、命を得させるために、神の独り子である主イエスが来てくださったのです。そして、ご自分の命を犠牲にして、私たちの罪を贖ってくださいました。私たちの身代わりとなって、罪の裁きを完全になしとげてくださったのです。そこに道が拓かれました。主イエスの十字架という門を通って、命の道にあずかることができるのです。

 今年の3月半ばから、木曜日の聖書研究・祈祷会において、ヨハネの黙示録を読み始めました。毎週、1章ずつ読んでいて、今週は第15章を読むことになります。ヨハネという名前が共通するように、ヨハネによる福音書とヨハネの黙示録には、深いつながりがあると思われます。恐らく、福音書が書かれた頃、ヨハネの教会は、サマリア地方から小アジアの地方、現在のトルコのあたりに拠点を移動していたと考えられます。黙示録を書いた長老ヨハネは、主イエスを宣べ伝えたことでローマ帝国に捕らえられて、パトモスという島に流されていました。そのパトモス島で、幻のうちに、天上の礼拝を望み見て、迫害に苦しんでいる教会を励まし、勇気づけるために、黙示という形で手紙を書いたのです。黙示録の中には、栄光の主イエスのお姿が、いろいろなイメージで描かれるのですけれども、一番、特徴的なのは、小羊の姿で現れるのです。しかも、そこには、わざわざ「小羊が屠られたような姿で立っているのを見た」と記しています(黙示録5章6節)。第5章では、天上の礼拝における天使たちの賛美も歌われています。「屠られた小羊こそ、力、富、知恵、権威、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です」。
 さらに、第7章には、白い衣を着た殉教者の群れが、玉座におられる神と小羊に対する賛美を歌います。「救いは、玉座におられる私たちの神と小羊にある」(黙示録7章10節)。その賛美を受けて、長老のひとりが、白い衣を身にまとった大群衆について、ヨハネに語るのです。「この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて/昼も夜も神殿で神に仕える。玉座におられる方が、彼らの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく/太陽もどのような暑さも/彼らを打つことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり/命の水の泉へと導き/神が彼らの目から涙をことごとく/拭ってくださるからである」(黙示録7章14~17節)。小羊が牧者になるというのが、実に印象深い描き方だと思います。小羊キリストが羊飼いとなって、礼拝する民を命の水の泉に導く、というのです。

 ヨハネによる福音書もまた、その冒頭において、主イエスについての証しを記していました。洗礼者ヨハネが、主イエスを指さして告げたのです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1章29節)。主イエスが、命の道へと至る「門」となってくださった、というとき、そこには、私たちの罪を取り除くために、屠られた小羊キリストの姿が重なり合うと言ってよいと思います。羊を命の水へと導く羊飼いが、屠られる小羊となって、自らの命を犠牲にして、永遠の命に至る門となってくださいました。私たちは、この屠られた小羊、十字架の主、よみがえりの主を通って、主と一つに結ばれることによって、罪の赦しの恵みにあずかり、命を得ることができるのです。主イエスは言われます。「私は門である。私を通って入る者は救われ、また出入りして牧草を見つける。・・・私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである」(ヨハネ10章9~10節)。主は、私たちのところにまで来てくださり、私たちを、命の食卓に招いてくださいます。ご自身の命を私たちに与え、私たちを救いに入れてくださるのです。
 父イサクとふたごの兄エサウをだまして、長男の権利と祝福を横取りしたヤコブは、兄の憎しみに満ちた殺意から逃れるために家を離れざるを得ませんでした。命からがら逃げ出した旅先で野宿したとき、ヤコブは不安の内に眠りについて、夢を見ました。天から地上へとつながる階段を神の使いたちが上り下りしている光景を見て、眠りから覚めたヤコブは畏れを抱きました。神からも見捨てられたような恐れと絶望の中で、なおも、神が共にいてくださることを告げられたからです。まさに、ここに神がおられる。本当に、主がこの場所におられるのに、私はそれを知らなかった。そう言って、ヤコブは告白しました。「ここはまさに神の家ではないか。ここは天の門だ」(創世記28章17節)。今、この礼拝において、私たちに向けて、天の門が開かれています。主イエスが天と地をつないでいてくださり、主イエスという門を通って、豊かな命にあずかることができるのです。