2023年7月16日 主日礼拝説教「私の望みではなく、御心のままに」 東野ひかり牧師

詩編 第42編1~12節
マルコによる福音書 第14章32~42節

 今朝ご一緒に聞いてまいりますのは、「ゲツセマネの祈り」の場面として、馴染みの深い箇所です。ルカによる福音書は、この場面に大変印象深い描写を書き加えました。「すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」(ルカ22:43) 私たちが「ゲツセマネの祈り」と聞いてまず思い起こしますのは、ルカが伝えている「血の汗」を流して祈られたという主イエスのお姿であるかもしれません。ルカは、このような表現によって、主イエスのこの時の祈りがいかに苦しく激しいものであったかということを伝えます。マルコは、ルカのような印象的な表現ではありませんけれども、しかしやはり、主イエスがいかにこのゲツセマネで苦しみ祈られたかということを記しています。「一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「私が祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく苦しみ悩み始め、彼らに言われた。「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」」(32-34節) マルコもまた、主イエスがこの祈りの時、「ひどく苦しみ悩み」、「死ぬほど苦しい」とまで言われたと伝えます。

 この祈りがなされたのは、主イエスが十字架につけられる前日、木曜日の夜ももうだいぶ更けた頃のことでした。エルサレムの市内で最後の食事(過越の食事)をなさった主イエスと弟子たちは、オリーブ山のふもとにあったと言われますゲツセマネと呼ばれる場所にやって来られました。
 ゲツセマネというのは、アラム語で〈オリーブ油を搾る油絞り機〉を意味すると言われます。その場所はオリーブの木がたくさん植えられていた庭園風の「園」のような所で、オリーブ油を搾る搾油所があった。そんなふうに説明されます。またそこは、主イエスのいつもの祈りの場所でもあったようです。夜は、静かな場所であったのでしょう。
 ゲツセマネに着くと、主は弟子たちに「私が祈っている間、ここに座っていなさい」と言われ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて、さらに園の奥へと入って行かれました。過越しの祭りの時ですから、月は満月です。晴れていれば夜空には満月が美しく輝き、月明かりの中に、祈り始める主イエスの姿が照らし出されていたのではないかと思います。三人の弟子たちは、ほんの少し先に進んだ所で、ひとり祈り始めた主イエスの姿を、月明かりの中に見つめていたのかもしれません。
 もう40年近くも前、私はこの滝野川教会で神学生として学ばせていただいておりました。昔の滝野川教会の会堂には、講壇の脇に小さなお部屋がありました。もうかなり薄れた記憶ですけれど、その小さなお部屋には「ゲツセマネの祈り」の絵がかけられていました。ぼんやりとしか思い出せませんが、ホフマンという人の「ゲツセマネのキリスト」という絵ではなかったかと思います。青白い色合いの絵であったように覚えております。月明かりのような光の中に、ひとり祈るキリストの姿が浮かび上がっている、そんな絵です。寂寥感のようなものを感じさせられる、主イエスがひとりで祈っている絵でした。
 ゲツセマネの祈りは、確かに主イエスの孤独な祈りでありました。三人の弟子たちは、少し離れた所で「目を覚まして」いてくれるはずでした。ところが三人とも、ひとり苦しみ祈る主イエスをしり目に眠ってしまいます。主イエスは、たったひとりで苦しみ、祈るのです。
 その絵は、主イエスが岩のようなものにもたれるようにして、ひざまずいて祈っておられるように描かれた絵でしたけれど、しかしマルコは、主イエスの祈りの姿勢を、地面に身を投げ出すように「地にひれ伏して」祈られたと伝えております(35節)。孤独な、しかし激しい祈りであったことが伺われます。

 主が伴われた三人の弟子は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人でありました。マルコによる福音書において、この三人は、弟子たちの中で特別な位置を与えられているように見えます。第5章で、会堂長ヤイロの12歳の娘が死んでしまったとき、主イエスはこの三人だけを連れてヤイロの家に入り、死んだ少女を生き返らせました。この驚くべき奇跡を直接目撃することが許されたのは、この三人の弟子たちと、ヤイロとその妻だけでした。また第9章では、主イエスは、やはりこの三人だけを連れて高い山に登られました。山の上で、主のお姿が栄光に輝く姿に変わり、そこにモーセとエリヤが現れて主イエスと語り合ったという不思議な出来事をこの三人は目撃します。さらに彼らは、雲の中から響いた父なる神の声、「これは私の愛する子。これに聞け」という、主イエスが神の御子であることを証明する天からの声までも聞きました。これらは、主イエスというお方が誰であるのか、主イエスの真実が啓き示されたような出来事でした。この三人は、そのような大切な場面に、主が伴われた三人でありました。
 この三人を、主はこの最後の夜、最後の祈りの時にも伴われました。この三人が、主イエスが誰であるかということの真実を、どれだけ正しく捉え理解することができていたかということには疑問が残ります。しかし主イエスは、この苦しみの祈りの時に、この三人に傍らにいてほしいと願われました。ルカは天からのみ使いが主イエスを「力づけた」と書きましたが、マルコは、主イエスがこの三人によって「力づけられたい」と願った、そのように記していると言えるかもしれません。「ここを離れず、目を覚ましていなさい」という主の言葉を、ある人は「ここを離れないでいてくれ、目を覚ましていてくれ」という懇願に訳しました。主イエスはこの三人に「ここにいてくれ、寝ないで起きていてくれ」と頼んでおられると解せるのです。それはこの祈りの時に、主イエスがこの三人の支えを求め、必要とされたということを示しています。

 ふさわしい連想かどうかわかりませんが、私はこの部分を考えながら、ふと息子たちの小さな頃を思い出しました。主イエスが、まるで小さな子どもが母親から少しの間離れて何かをしようとする時、不安げに「ママここにいててね、ずっと見ててね」と頼むように、ここで弟子たちに「ここにいてくれ、寝ないで起きて見ていてくれ」と言っているようだと、そんなふうに思えたのです。小さな子どものように、恐がり、不安にふるえ、おびえている。そんな主イエスの姿が月明かりの中に浮かび上がるように思われました。
 マルコは、この時主イエスが「ひどく苦しみ悩み始め」たと記します。この三人に「私は死ぬほどに苦しい」そう訴えられたとも記します。この「ひどく苦しみ悩み」という言葉は、翻訳することがとても難しい言葉と言われますが、英語の聖書を見ますと「ひどく苦しみ」という言葉の訳に「ホラー Horror」を当てているものがあります。主イエスはこの時ほんとうに恐れ慄いておられた、〈身の毛もよだつような恐れ・恐怖〉を覚えておられた、そういうふうに訳しているのです。また〈悩み〉という言葉は〈故郷から離れているように不安であるさま〉と説明されるものです。親から離された子どもが不安におびえる姿を思わせる言葉です。ここでの主イエスは、親から離れた子どもが不安に震えながら、得体のしれないものに恐れ慄くような、そんなお姿だったと、そのようにマルコは描いていると言えるのです。
 主イエスはここで、ほんとうに小さくなっておられる。ほんとうに弱くなっておられる。ご自分の死、十字架の死を前にして、恐怖に震えておられる、ひとりでその道を行かねばならないことの不安に怯えておられる。そのような主の姿をマルコは躊躇なく描き出している、そう言ってよいと思います。
 私たちは、イエスさまは、神さまの御子であるのだから、十字架の死を恐れることなんてなかった、「苦しみを受け十字架につけられて殺されるが、三日目に復活する」と、ご自分で三度も予告しておられるのだから、十字架の死も恐れることなく雄々しく歩んで行かれた、そんなふうに思います。けれどもマルコをはじめとするマタイ、ルカの共観福音書は、このゲツセマネでの主イエスのお姿を記しますときに、主イエスが十字架を目前にして、たいへん苦しみ悩み、恐れ慄き、孤独と不安に打ち震えられた、そのように記しているのです。

 主は弟子たちに訴えました。「私は死ぬほど苦しい」。口語訳は「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」と訳していました。「苦しい」と訳された言葉は「悲しい」とも訳される言葉です。先ほど合わせて読みました詩編42編6節12節の、「私の魂よ/なぜ打ち沈むのか」という、この「打ち沈む」という言葉と同じ言葉です。ある人はこの言葉をこう訳します。「私は心がめいって、死にたいくらいだ」。主イエスはここで、詩編の言葉に重ねるように、「私の心は、私の魂は、悲しみに打ち沈んで、めいってしまって、もう死にそうだ、死にたいくらいだ」それほどに苦しい、悲しい、と訴えておられるのです。
 今毎日とても暑いですが、私たちはあまりの暑さの中で思わず口にすることがあります。「もう暑くて、死にそう」。 あまりに辛くて苦しい時、私たちは「もう苦しい、辛い、悲しい、もう苦しくて辛くて死にそう。…もう死んでしまいたい」。そんなふうに口にする、あるいは心の中につぶやくことがあるのではないかと思います。主イエスはここで、まるで私たちと同じようなことを言っておられる、口にしておられる、口にしていてくださるのです。
 ヘブライ人への手紙の言葉を思い起こさせられます。「それで、イエスは、神の前で憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を宥めるために、あらゆる点で、きょうだいたちと同じようにならなければなりませんでした。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブライ2:17,18) このゲツセマネでの主イエスのお姿は、あらゆる点で私たちと「同じ」になってくださった、そのような主イエスのお姿を示しています。私たちが抱く死への恐れも、ひとりで死んでいかなければならない孤独と不安も、死に際して味わわなければならない苦しみ痛みも、すべて、ご存知でいてくださる主イエスのお姿です。主は私たちと同じになってくださり、私たちが受けるあらゆる試練を受けて、苦しんでくださったのです。

 しかし、主イエスがこのように苦しみ祈られたこの時、主が特別に伴われた三人の弟子たちは、「ここにいてくれ、寝ないで目を覚ましていてくれ」と願った主をひとりにして、眠ってしまいます。37~41節は、それが三回繰り返されたと記します。
 私たちはこの弟子たちの姿に、自分の姿を見ないわけにはいきません。「目を覚ましていなさい」と言われても、眠ってしまう、どうしても眠くなってしまう。礼拝中、説教を聞いている時、どうしても「まぶたが重くなって」(40節)しまうということがあります。弟子たちの姿は、全く私たちの姿です。
 しかし考えてみれば、この時の弟子たちには眠ってしまうだけの十分な理由もありました。夜も更けていました。疲れていたでしょう。おまけに数時間前には、過越の食事をとりました。祝いの食事です。ぶどう酒を何回も飲む食事です。お腹もいっぱい、だいぶ酔いも回っていたのではないかと思います。ゲツセマネまで歩いて来て適度な運動までしてしまいました。眠くなる要素は満載です。「目を覚ましていなさい」と言われて、三人は一所懸命起きていようとしたことでしょう。私たちがするように、足や腕をつねって、なんとか目を開けていようと頑張ったかもしれません。けれどどうしようもなく「まぶたが重くなっていた」のです。
 主イエスは眠ってしまったペトロに言われました。「心ははやっても、肉体は弱い」(38節)。これはペトロを叱った言葉ではないでしょう。どうにも睡魔に勝てなかったペトロに深く同情して言われた言葉でしょう。ペトロはゲツセマネまでの道々で勇ましく言いました。「たとえ、皆がつまずいても、私はつまずきません」(14:29)。主が「今日、今夜、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と言われた時もペトロは言いました。「たとえ、ご一緒に死ななければならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」そう言い張りました(14:31)。「心ははやっていた」、「心・霊は燃えていた」のです。しかしどうにも肉体がいうことをきかなかった。ペトロもほかの二人も眠ってしまう。そして、勇ましいことを言ったペトロも、ほかの二人も、この後結局主を見捨てて逃げてしまいます。ペトロは主を知らないと三度はっきり言ってしまいます。
 弟子たちのこの眠りは、実は、主を捨てることにつながる眠りなのです。主イエスは、ペトロの、弟子たちの、そして私たちの「肉体(肉)の弱さ」を、すなわち私たちの「罪」を深くご存知で、深く同情していてくださるのです。

 先ほど、弟子たちが眠ってしまった理由を考えましたが、私たちが眠ってしまう時、罪の眠りに堕ちてしまう時、私たちは色んな理由を挙げて言い訳をするのではないでしょうか。こういう理由があって、どうしても起きていることができない。眠くなるのは当たり前、仕方がない。そう言いたくなるのではないでしょうか。しかしよく考えてみると、言い訳をする私たちは、いつも自分中心です。自分中心に考えて自分を正当化しようとしています。そのようにして、私たちもまた、主を捨てる、主から離れてしまう、罪の眠りに堕ちるのです。
 「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」と主は言われました。目を覚ましている。それは、祈っている、ということです。祈っている、ということは、自分中心に考えるのではなくて、主イエスを、神さまを中心に考える、ということです。祈らなくなる時、私たちは自分がすべての中心になり、自分の言い分がすべて正しいものとなるのではないかと思います。そこに誘惑に陥る者の姿があるのではないでしょうか。誘惑は私たちから信仰を失わせます。神さまを信じられなくさせます。神さまなんて信じていたって無駄だという声に支配されるようにします。罪の眠りに陥らせるのです。
 ここで弟子たちが眠ってしまったのは、ただの生理現象ではなく、誘惑に陥っている姿として示されています。罪の眠りに繰り返し堕ちてしまう、そして、主イエスを捨ててしまう、自分中心に生き始めてしまう、どこまでも自分を正当化してやまない、そういう罪の姿が、この弟子たちの眠りなのです。
 そして主イエスは、そのようなペトロの弱さ、私たちの弱さ、その罪を見つめながら、それを深く知り、同情しながら、三度も、起こしに来てくださるのです。三度というのは、徹底的に、確実に、ということです。罪に陥らないように、誘惑に陥って、神を信じられなくならないように、主イエスから離れてしまうことがないように、主は繰り返し弟子たちのところに起こしに来てくださるのです。主は、ひとり目覚めて闘いながら、私たちが罪の眠りの中にまどろみ続けることがないように起こしに来てくださり、「目を覚まして祈っていなさい」と言われるのです。

 「まだ眠っているのか、休んでいるのか」(41節)。この主の言葉は、主の叱責のように響きます。しかし叱っておられるのではないでしょう。そうではなくて、繰り返し罪の眠りに堕ちてしまう、弱く罪深い弟子たちへの深い同情の言葉と捉えてよいと思うのです。主イエスは、あらゆる点で私たちと同じになってくださって、私たちの弱さに、深く同情してくださるお方です。そして、私たち自身よりも深く深刻に、私たちの弱さを、その罪を、そしてその罪の恐ろしさを知っておられる。主イエスが、私たちとあらゆる点で同じになってくださった、ということは、罪なき神の子主イエスが、私たち罪人と同じ弱さを担ってくださった、罪人と同じになってくださった、ということです。
 主イエスは、十字架の死をほんとうに深く恐れました。身の毛もよだつほどに恐れ慄き、不安に打ち震えられました。それは、十字架の死が、身の毛もよだつ残虐な痛みと苦しみを伴う恐ろしい死であったからというだけではありません。私たちがそういう死を恐れるのと同じように恐れ慄いた、というだけのことではありません。また、弟子たちが自分をひとりにして眠ってしまい、自分を見捨ててしまうということに、恐れと不安を覚えられたというだけのことでもありません。
 主が、ご自分の死・十字架の死を、まことに深く恐れ、怖がり、不安に震えたのは、それが〈罪人として死ぬ死〉であったからです。罪人として、神の裁きを受けて死ぬ死であったからです。十字架の死が、弟子たちから、人から見捨てられて死ぬだけでなく、神から見捨てられて死ぬ死であったからです。罪なき神の子主イエスは、私たち罪人と同じになってくださった。それは、主イエスが私たちの罪をすべて、代わって引き受けてくださった、ということです。それは、罪に対する父なる神の裁きを、私たちの代わりに引き受ける、ということを意味しました。〈罪人として死ぬ〉ということは、神の裁きを受けて死ぬということです。
 罪なき神の子主イエスは、罪なき神の子だからこそ、私たち以上に、私たちの罪の恐ろしさを知っておられたのです。だからこそ、その罪ゆえに死ぬことを、身の毛もよだつほどに、深く深く恐れたのです。罪ゆえに死ぬことの恐ろしさを、誰よりも深く正しく知り得た主イエスだからこそ、できることなら、十字架の死を過ぎ去らせてほしい、その杯を飲むことは避けたい、そう願ったのです。ゲツセマネの祈りは、ほんとうに、ほんとうに苦しい、主イエスの孤独な祈りの闘いでありました。

 しかしその祈りの闘いの中で、主イエスは神を「アッバ、父」と呼んで祈られました。恐れ慄き、不安に震えながら、しかし父なる神を心から愛し信頼して祈られました。ほんとうに小さい子どものようになって、主イエスは、父なる神に祈っておられます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに。」(36節)
 「アッバ」。これもアラム語で、幼い子どもが、父親をパパ、お父ちゃんと呼ぶ、その言葉が「アッバ」です。我が家の長男が初めて言葉らしき音を発するようになった時、「アバババ」と言うのを見て「ほんとに〈アバ〉って言ってる」と周りの人たちに喜んで報告して笑われたことがありましたが、そういう「アババ」という音がそのまま父親を呼ぶ言葉になったのが「アッバ」です。この「アッバ」という父親を呼ぶ幼児語で、主は神を呼びました。主イエスだけが、そのような親しさ近しさで神を呼ぶことがおできになりました。幼い子どもが父親を信頼をもって呼ぶように神を呼んで、主は祈られました。「アッバ、お父さん、あなたにはできないことは何もない。できることならこの杯を飲まないで済む道を与えてほしい」。実に率直にそう祈られました。
 主イエスはここで、私たちもこのように祈ってよい、祈れるのだと、祈りの道を示してくださっていると思います。誘惑に陥らないで祈る姿、その道を見せていてくださる。あなたがたもこう祈ればよい、こう祈ってよいのだと。子どもが父親に全幅の信頼を寄せるように、神を信頼して、「お父さん、あなたは何でもおできになる、今私はとても辛い、苦しい、この苦しみを取りのけてほしい」。試練の中で、苦しみの中で、そう祈ってよいと、示してくださっているのではないかと思う。辛いときは辛いと祈ればよい。苦しいときは苦しいと祈ればよい。嫌なときは嫌だと、子どもが何でも父親に言うように、父を呼んで祈ってよい。あらゆる試練の中で、罪の眠りに堕ちるのではなく、誘惑に陥るのではなく、「目を覚まして」祈っている道を示してくださっているように思います。

 けれど主イエスの祈りはそれで終わりではありません。「しかし、私の望みではなく、御心のままに」。主は十字架の杯を、神の裁きの杯を、祈りの苦闘の果てにお受けになるのです。恐れ慄きつつ、底知れない不安に震えつつ、しかし父の御心こそが最善だと信頼して、「私の望みではなく、御心のままに」と祈る。そして、決然と、十字架に向かって行かれます。「時が来た。人の子は罪人たちの手に渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が近づいて来た。」(41節)
 主イエスは、私たちの眠りに落ちる弱さを、誘惑に落ちていく弱さを、身勝手に主を捨て、主から離れるその罪を、私たちのすべての罪を引き受けて十字架へと向かわれます。罪人たちの手の中に引き渡されます。その罪人たちと同じになって、その罪人たちのひとりとなって、その罪人たちの罪をすべて担って、主は十字架の死を死なれます。裁きの死を死んでくださいます。まことに恐ろしい神の怒りの杯を飲み干されるのです。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んで、罪人の死を死んでくださるのです。

 この主が、罪の眠りに堕ちてまどろんでいる私たちのところに、徹底的に来てくださり、私たちを起こしてくださる。「もうよかろう。立て(起きよ)、さあ行こう」と。私たちは罪の眠りに堕ちまどろんでしまう者です。眠ってしまう自分の理由を言い立てて、主を捨て主から離れる、まことに罪深い者です。しかしそのような私たちを、ゲツセマネの主は、「立て、起きよ」と起こしてくださり、立ち上がらせ起こしてくださる。苦しい祈りの闘いをひとり戦い抜いてくださった主が、罪深い私たちを支え、執り成し、「目を覚まして祈っていなさい」と励まし、起こしてくださるのです。
 「しかし、私の願いではなく、御心のままに。」 主イエスの祈りの声に支えられ、それに声を合わせて、私たちも神を「アッバ父」と呼び、子どものように率直に、父なる神に祈りつつ、「しかし、私の願いではなく、御心のままに。」と、目覚めて祈り続ける者でありたいと思います。