2023年6月4日 主日礼拝説教「神のもとから来られた方」 東野尚志牧師

詩編 第66編16-20節
ヨハネによる福音書 第9章13-34節

 新しい月、6月を迎えました。新型コロナウイルス感染症の分類が、季節性インフルエンザと同じ第5類に引き下げられて、間もなく一ヶ月になります。外へ出ると、マスクを着けていない人も多く見かけるようになりました。最初は、電車の中でマスクをしていない人を見ると、ちょっと不安を覚えましたけれども、そのうち慣れてくるのだと思います。ただし、礼拝の中で、皆で一緒に賛美し、祈り、告白することを考えると、お互いの安全を守るために、まだしばらく教会内ではマスク着用を心がけた方がよいと思われます。

 しかし、そのような中で、教会にも明るい話題が増えてきました。今年の8月には、4年ぶりに二泊三日の夏期修養会を行う予定です。私は、4年前、2019年の6月に着任して、その2ヶ月後、軽井沢での夏期修養会に参加しました。神学生の時以来ですから30年ぶりのことでした。「キリストのからだ」という全体主題のもと「教会の交わりにある一致と分担」という副題を掲げました。4年前はまだ口語訳聖書を使っていましたから、エペソ人への手紙第4章の1節から16節を主題の聖句として学びました。4章の12節と13節には次のように記されています。「それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである」。さらにまた、「愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである」とも記されています(14節)。教会に連なる一人ひとりの信仰が成長し、成熟して、共にキリストをかしらとする、キリストのからだとしての教会へと造り上げられていくことを大切な課題として深く学びました。二日目の午後には、これからの教会のあり方について、自由に語り合う機会を持つこともできました。家庭における信仰の継承、ということについての真剣な訴えもありました。大事な課題として受けとめたのです。
 ところが、その翌年から3年間、コロナ禍の猛威の中、泊まりがけの修養会開催は断念せざるを得ませんでした。4年前の修養会で学び、話し合ったことも、残念ながらコロナのために中断されたようなかたちになってしまいました。このたびは、4年ぶりの修養会開催に向けて、先月の役員会で主題について話し合い、さらに、実行委員会を開いて協議しました。主題の案がまとまりつつあります。「礼拝共同体としての教会―主にある交わりの再建」というのです。実行委員会の話し合いの中では、3年間の中断を経て、またこの3年間の厳しい経験の中で新たに学んだことを受けとめながら、4年前の課題を引き継ぐという願いがあったと思います。それが、主日の礼拝を中心として、教会の交わりを再建して行くという方向性につながったのです。

 教会について考えるとき、そこに連なる私たち一人ひとりの信仰の成長、信仰の成熟ということと、また信仰の継承ということは、欠かすことのできない大事な課題であると思います。実は、きょう、私たちに与えられたヨハネによる福音書の物語は、その一つの実例を示していると言ってもよいのではないかと思うのです。皆さんは、先ほど、福音書の物語が朗読されるのを聞きながら、どんなことを感じられたでしょうか。そこに登場するのは、生まれつき目が見えなかったのに、癒やされて見えるようになった人と、その人を取り囲み、尋問するファリサイ派のユダヤ人たち、そして、癒やされた人の両親。それだけです。かなり長い箇所を読みましたけれども、その中に、主イエス・キリストは一度も現れていません。主イエスが語られた言葉も記されていません。福音書としては珍しいことかもしれません。主イエスがなさった癒やしの業をめぐって、生まれつき目の見えなかった人が見えるようになったという出来事について、それを聞いた者たち、見た者たちの間に意見の対立が生じた、ということが描かれているのです。主イエスは誰なのか、どういうお方なのか、という判断をめぐって、意見が分かれました。その中で、目を開かれた人がその事実を厳しく問いただされる中で、癒やされた人自身の主イエスに対する信仰が深まって行ったのです。
 この人は、生まれつき目が見えませんでした。通りに座って、物乞いをしていました。ですから、主イエスがこの人に目を留めて、立ち止まり、地面に唾をして、唾で土をこねて自分の目に塗ってくださった時も、相手の姿は見えませんし、それが誰であるかも分かりませんでした。ただその人に言われた通り、シロアムの池に行って洗ったら、見えるようになったのです。どのようにして目が見えるようになったのかと聞かれた時にも、ただ事実をそのまま語るしかありませんでした。その人はどこにいるのか、と問われても、知りませんと答えるほかありませんでした。実際、目が見えるようになって戻ってきたとき、もう主イエスは立ち去られた後でしたから、主イエスのお姿を目で見ることはできなかったのです。けれども、ユダヤ人から問われて、その問いに答えていく中で、主イエスのことを「預言者です」と答えるようになります。目が見えるようになったあと、まだ主イエスにお会いしてもいないのに、あの方は「神のもとから来られた」方であるとはっきり言い表すようになって行くのです。この人は、肉体の目が開かれただけではなく、その後の体験を通して、少しずつ、信仰の目が開かれていったと言ってよいのではないかと思います。主イエスに対する信頼と信仰が、深まって行ったのです。

 5W1Hという言葉をお聞きになったことがあると思います。起こった出来事を正しく伝えるのに、5つのWと1つのHを明確にすることで、状況が分かりやすくなります。Whenいつ、Whereどこで、Who誰が、What何を、Whyなぜ、Howどのように、となります。9章の冒頭の記事で明らかにされているのは、Whereエルサレムの通りで、Who主イエスが、What生まれつき目の見えない人を癒やされた、Why神の業が現れるため、How唾で土をこねて目に塗りシロアムの池で洗うように命じた、ということです。5W1Hの中で、一つだけ抜けていることがありました。Whenいつ。きょう読んだところでは、これが大事な意味をもつことになります。きょうの箇所の冒頭に、次のように記されています。「人々は、前に目の見えなかった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日であった」。When、それは安息日であった、というのです。
 安息日、というのは、私たちは日曜日のことだと思っているかもしれません。けれども、旧約聖書の掟によれば、週の終わりの日、つまり土曜日でした。創世記の始めに記された天地創造の物語に基づいて、週の終わりの日、七日目が安息の日と定められたのです。創世記の1章で、六日間にわたる創造の御業が描かれたのを受けて、創世記2章の初めに記されます。「こうして天と地、そしてその森羅万象が完成した。第七の日に、神はその業を完成され、第七の日に、そのすべての業を終えて休まれた。神は第七の日を祝福し、これを聖別された。その日、神はすべての創造の業を終えて休まれたからである」。第七の日は、神の創造の御業を覚えるために聖別されました。七日目は神のものです。だから、すべての仕事を休んで、ただ神を礼拝するのです。神の掟の原点である「十戒」の第四の戒めに、「安息日を覚えて、これを聖別しなさい」とあります。続けて命じられます。「六日間は働いて、あなたのすべての仕事をしなさい。しかし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない」(出エジプト記第20章8-10a節)。安息日にしてはならない禁止事項が、細かく規定されるようになります。料理のために火をつけることも禁じられ、命にかかわらないような医療行為も禁止されていました。つまり、安息日に癒やしの業がなされたということで、安息日律法違反の嫌疑をかけられ、取り調べを受けることになったのです。

 きょうの箇所は、簡易裁判が行われている場面だと言ってよいと思います。人々が、前には目が見えなかった人を、ファリサイ派の人たちのところに連れて行ったのは、白黒をつけるためです。もっとも、見えるようになった人自身が被告席に立たせられているわけではありません。安息日の掟を破ったと見なされたのは、この人を癒やした人です。まずは、事実確認が行われます。裁きの座に着いているファリサイ派の人々は、癒やされた人に、どうして目が見えるようになったのか、と尋ねました。するとその人は、答えて言いました。「あの方が私の目にこねた土を塗りました。そして、私が洗うと、見えるようになったのです」(ヨハネ9章15節)。この人は、主イエスの姿を見ていませんから「あの方」としか言いようがありませんでした。その証言を聞いたファリサイ派の人たちの間で意見が分かれます。そもそも安息日に土をこねるというような仕事をして掟を破っているから、神のもとから来た者であるはずがない、と言う人もいれば、罪のある人間がこんな不思議な癒やしの奇跡を行うことができるはずがないと言う人もいました。裁こうとする側で意見がまとまらないので、また癒やされた本人に尋ねます。「目を開けてくれたということだが、お前はあの人をどう思うのか」。そう問われて、この人は「預言者です」と答えました(17節)。
 預言者というのは、神に選ばれ、神に遣わされた人です。神の言葉を託され、神の言葉を預かって、それを語る人です。この人が、「預言者です」と答えたのは、神から遣わされた人という意味になります。しかし、もちろん、ユダヤ人たちは納得しません。自分たちが大事にしている安息日の掟を破るような人物が、神から遣わされた方であり、病を癒やす力を持っているなどというのは都合が悪いのです。それで、目が見えなかったのに見えるようになったということを受け入れるわけにはいかない。ただし、今は目が見えているわけですから、それなら、生まれつき目が見えなかったというのが嘘ではないかと考えて、今度はこの人の両親を呼び出して尋問します。「この者はあなたがたの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか」(19節)。最初の問いに対しては、確かに自分たちの息子であり、本当に生まれつき目が見えなかったことは知っていると答えます。けれども、二つ目の問い、「どうして今は目が見えるのか」については分からない、知らないと答えました。それだけではなくて、誰が目を開けてくれたのかも、分からない、知らないと答えたのです。そして言いました。「本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」(21節)。

 両親がそのように答えたところに、福音書を記しているヨハネは、注をつけるように言葉を加えました。22節です。「両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちはすでに、イエスをメシアであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」。「イエスをメシアであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた」とありますけれども、主イエスが地上を歩んでおられた頃に、こんな取り決めがなされていた事実はありません。これは、主イエスの十字架と復活の出来事から50年以上過ぎた紀元1世紀の終わり頃の状況です。つまり、このヨハネによる福音書が書かれた頃の話なのです。1世紀の終わり頃には、主イエスを信じる者の数が増えていって、キリスト教会の存在はもはや無視できない影響力を持つようになりました。それで、ファリサイ派を中心とするユダヤ人たちは、イエスをメシアと告白する者は会堂から追放するという決定を下したのです。会堂からの追放は、ユダヤ人の共同体からの追放であり、村八分にされることを意味します。日々の生活が脅かされるのです。福音書記者ヨハネは、主イエスのご生涯の物語を描いていく中に、自らの教会が直面していた状況を重ね合わせます。癒やされた人の両親が抱いた恐れを、1世紀末の厳しい迫害の状況の中で説明しているのです。
 いずれにしても、ここに登場する癒やされた人の両親は、ユダヤ人を恐れて、自分たちが答えることを避けました。親だからというので自分たちに聞かずに、本人が何というか、本人に聞いたらよいでしょう。もう大人なのだから、自分のことは自分で答えられるはずだ、というのです。両親は、息子から話を聞いて事の成り行きを知っていたはずです。でも、それをそのまま口にすれば、自分たちの立場が悪くなる。その意味では、この両親が語ったことは、責任逃れをしたずるい言い方だと言ってよいかもしれません。けれどもまた、それは、一面の真理を告げていると言ってもよいと思うのです。

 癒やされた男性が幾つくらいであったのかは分かりません。もうよい年であったかもしれません。両親が言うように大人であったのでしょう。大人というのは、自分のことは自分で責任を負う者のことです。裁判に引き出されれば、自分のことは自分で責任をもって弁明することができる。それが、大人です。ある意味で、癒やされた人の両親は、この人を本当に大人として独り立ちさせようとしていると言ってもよいのです。いつまでも、親が代わりに面倒を見ることはできません。特に、信仰の事柄であれば、親が子どもに代わって信仰を言い表すのは、本人が幼児か小児の時に限られます。しかし、幼児洗礼、小児洗礼を受けているならば、本人が大人になったとき、自分の口で信仰を言い表すことで、聖餐にあずかることのできる一人前の信仰者になるのです。親が代わってくれるのは子どものときだけです。大人は、自分の口で信仰を言い表して洗礼を受けます。その際は、親といえども、口出しをすることはできません。親が信仰者でない場合はなおさらです。たとえ自分の親からどんなに反対されたとしても、ときには、縁を切るほどの覚悟を迫られるとしても、自分の意思で信仰を学び、自分の口で信仰を告白して、洗礼を受け、キリスト者になるのです。それが大人としての信仰です。
 両親にしてみれば、自分の息子が、生まれつき目が見えないということで、心に重荷を負って生きてきたのかも知れません。ましてや当時、病や障がいは罪の結果だと見なされていたことを思えば、両親は自分たちの責任を重く感じていたのではないかと思います。けれども、その息子が、主イエスと出会って、生まれてから一度も光を見たことのない目が開かれたということ、しかも、その息子が、そのお方への信仰を育まれていこうとしているとき、親として、その成長を喜び、見守ろうとしているのかもしれません。ただ自分たちが会堂から追放されることを恐れて責任逃れをしたというだけではなくて、目が見えないだけに不憫でもあり、愛情を注いできた我が子の新たな旅立ちを、しっかり見守ろうとしているのではないでしょうか。
 その意味では、「信仰の継承」という言い方にも、気をつけなければならないと、私は思います。信仰は、決して、親から子へと引き継げるものではないはずだからです。確かに、親の信仰生活を見ながら、子どもが信仰に導かれるということはあるでしょう。けれども、子どもの信仰は子どものものであって、親から受け継いだものではないはずです。いや、信仰を家や財産のように、子どもに受け継がせることができると思うなら、それは甚だしい傲慢だと言わなければなりません。本人が、主イエスと向き合って、主イエスに対して信仰を言い表すのです。この第9章の物語は、主イエスが通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけて、主が目を留められたところから始まりました。主イエスが目を留めてくださり、主イエスが出会ってくださるのです。親はそのことを信じて、祈りをもって見守るしかないのではないかと思います。この点で一つ間違うと、「宗教二世」と呼ばれるような悲劇も起こる。それは、決して、ひとごとではないのです。

 さて、両親が、もう大人である本人にお聞きくださいと言ったので、ユダヤ人たちは再び、目の見えなかった人を呼び出して、直接尋問します。自分たちは、モーセの弟子であり、モーセの律法に従って、すべてを正しく裁くことができる、そのように自負して、安息日律法を守らない主イエスは罪人であると決めてかかっています。何としても、主イエスのことを認めたくないのです。その悪意に満ちた問いにさらされながら、目を開かれた人の信仰は、さらに成長し、成熟していきます。この人の確信は、以前は目の見えなかった自分が「今は見える」という事実、その体験です。この体験を否定することはできないのです。そして、ついには、堂々たる答弁を行います。9章の30節から33節まで続きます。あくまでも主イエスを認めようとしないユダヤ人たちに答えて言いました。「あの方がどこから来られたか、ご存じないとは、実に不思議です。あの方は、私の目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、私たちは承知しています。しかし、神を敬い、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならないはずです」。
 自立した大人である「私」として語りながら、そこに「私たち」という言い方が挟まれています。「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、私たちは承知しています」。この「私たち」は教会です。教会の信仰を背景にしながら語るのです。主イエスに呼び出され、癒やしの恵みにあずかった人が、厳しい問いを突きつけられる中で、主イエスへの信仰を育まれ、明確に信仰を言い表し、教会の信仰につながるようになる。そこに、信仰の成長、成熟を見ることができるのではないでしょうか。この堂々たる答弁を前にして、ユダヤ人たちは、捨て台詞と共に、この人を外に追い出します。それは、ただ、外に追い出されたというだけではなくて、会堂から追い出されたことを意味しているのだと思います。そのリスクを十分に承知しながら、自分の身に起こった救いの出来事を否定することはできない。まだ主イエスご自身の姿を見てはいないのに、確かな信仰の確信が育まれているのです。

 私たちも、信仰において、大人になることが必要なのだと思います。確かに、一方で、幼子のような信仰、という言い方をします。ただ主イエスに頼るしかない幼子のような一途な信仰は大事です。けれども、主イエスがこの私を愛してくださり、この私のために十字架にかかって、私を救いに招いてくださっていることを知らされたなら、自分の足で立ち、自分の口で信仰を言い表し、洗礼を受けてキリスト者になる。そういう大人としての信仰に生きることが求められているのだと思います。
 実は、この箇所で、「大人」と訳されている同じ言葉が、説教の冒頭で引用した聖句の中にも用いられています。そこでは、「成長」という日本語で訳されていました。同じところを、聖書協会共同訳の言葉で読んでみます。エフェソの信徒への手紙第4章12節と13節です。「こうして、聖なる者たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストの体を造り上げ、ついには、私たちすべてが、信仰と神の子の知識において一つとなり、完全な者となって、キリストの満ち溢れる成熟した年齢に達するのです」。ここで「成熟した年齢」と訳されているのが、ヨハネ福音書では「大人」と訳されているのと同じ言葉なのです。

 まず、信仰に入ることを大切にしてください。入口の前でうろうろしながら迷っていないで、信仰の交わりの中に飛び込んでいただきたいと思います。そして、そこから、信仰が養われ、育てられ、主イエスに対する告白にまで熟したら、自分の口で信仰を言い表して、洗礼を受けることができます。そして、洗礼を受けて、教会のひと枝として新しく生まれたなら、そこから、新たな成長と成熟の歩みが始まります。かしらであるキリストを目指して、共に成長していくことができるのです。大人としての責任をもって、この日本という社会のただ中で、信仰者として生きていく。そのようにして、私たちは、この国とこの社会のあり方を、その内面から変えていくのです。そのようにして、ただ自分の子どもたちに信仰を継承する、という次元を越えて、来るべき世代に向けて、福音を宣べ伝え、信仰へと招くために、主から託された務めを共に担って行きたいと思います。