2023年6月18日 特別伝道礼拝説教「あなたの人生を導く方」 東野尚志牧師

創世記 第45章1-8節
ローマの信徒への手紙 第8章28-30節

 コロナ禍の脅威が収まって来て、少しずつ、礼拝堂に集まる人たちが増えてきたことをうれしく思います。特に感染が激しかった頃は、礼拝堂に集まるのは30人くらいということもありました。このところ、ようやく70人前後に回復してきました。それでもなおコロナ以前には遠く及びません。しかし、そのような中で、ご近所の中里にお住まいのある姉妹が、毎週、熱心にライブ配信の礼拝を聞いておられる、ということを知らされました。礼拝のオンラインでの配信は、3年前、2020年のイースターの礼拝から開始して、今日まで続けています。これからも続けて行く予定です。もちろん、礼拝堂に集うことが礼拝の基本ですけれども、ご病気や怪我など、また体調が整わず、教会まで来ることのできない方たちの中で、今同時に、あるいは少し遅れて、オンライン礼拝に連なっている方のあることを、大切に覚えたいと思います。そのようにして、私たちの思いを越えた礼拝の広がり、御言葉の広がりが生まれていることを、神さまに感謝します。
 過去3年間、コロナ禍のため、教会の活動がさまざまに制限される中にあっても、私たちは、礼拝に関して、いくつか前向きな変化を経験してきました。オンライン礼拝もその一つに数えられるかもしれません。さらに、昨年2022年の4月から、礼拝において、聖書協会共同訳を用いるようになりました。私たちの教会は、1987年に新共同訳聖書が刊行された後も、ずっと口語訳聖書を用い続けてきました。およそ60年ぶりに、礼拝で読まれる聖書の言葉が変わる、という経験をしたのです。そして、聖書協会共同訳の言葉に少しずつ馴染みながら1年と2ヶ月半を経て、ようやく講壇用の聖書ができあがり、教会に届けられました。皆さんはお気づきになったでしょうか。先ほどは、講壇の上に開かれた大きな聖書で、聖書の朗読をしたのです。私たちの教会は、新共同訳聖書はスルーしたわけですが、聖書協会共同訳の講壇用聖書注文第1号ということで、礼拝の後、講壇用聖書納本を記念して短いセレモニーを行います。

 コロナ禍の中で始めた新たなことのもう一つは、一昨年、2021年の9月最初、振起日礼拝から、礼拝の中で説かれる新約聖書の言葉に合わせて、旧約聖書の言葉も朗読することにしました。ちょうど、この振起日の礼拝から、ヨハネによる福音書の連続講解説教を始めるのに合わせて、新約聖書だけでなく、旧約聖書の言葉も読むことにしたのです。ヨハネによる福音書の御言葉を説いていく中で、朗読された旧約聖書の言葉に特に言及しないこともありますけれど、旧約聖書と新約聖書を合わせて、聖書全体から御言葉を聞く、という姿勢を大事にしたいと思ったのです。
 そういうわけで、きょうの礼拝でも、旧約聖書から、また新約聖書から、二つの箇所が朗読されました。いつもならば、当然のように、新約聖書の言葉がメインになるのですけれども、実は、きょう、皆さんと一緒に味わいたいと思ったのは、旧約聖書の言葉なのです。旧約聖書の最初の書物である創世記、その結びに位置する「ヨセフ物語」の中から、その一部だけを朗読しました。創世記は、天地創造の壮大なドラマから始まって、アブラハム、イサク、ヤコブと続く族長たちの家族の物語が展開されています。いずれも読んでいてわくわくするようなドラマです。ある意味、とても人間くさいやり取りが続きます。下手な小説よりも、リアルな人間ドラマが展開されているのです。ぜひ、ご自分で聖書を開いて、じっくり読んでみていただきたいと思います。特に、族長物語の最後、ヤコブの家族物語の中に含まれる「ヨセフ物語」は、一つの文学作品としても秀逸です。創世記の第37章から始まって、さらに、39章から50章まで続くのです。

 アブラハムから始まって、その子イサク、さらにその子ヤコブと続いた3代目、族長ヤコブには12人の男の子が生まれます。ヨセフは、その11番目の子どもでした。この12人が、後のイスラエル12部族の先祖になります。ヨセフは、ヤコブが年をとってから生まれた子どもでした。ヤコブはこのヨセフを特別にかわいがるのです。そのあたりに、もう争いの火種があると分かります。父親であるヤコブの子どもたちに対する偏った扱いが、ヨセフとお兄さんたちの仲違いの原因になるのです。ヨセフは、10人のお兄さんたちから恨まれ、憎まれて、結局、エジプトに奴隷として売られてしまうことになりました。それは、ヨセフが17歳のときのことです(創世記37章2節、12~36節)。心が傷つきやすい年頃です。お兄さんたちに裏切られ、見捨てられた。ヨセフの受けたショックはどれほどであったかと思います。
 ところが、奴隷として売られたエジプトの役人の家で、ヨセフは、主人から信頼されて、家中の財産の管理を任されるようになります。ところが、そうやって、せっかくエジプトの地でも生きがいを見いだした矢先のことでした。主人の奥さんの嘘の申し立てのために、ヨセフは牢に入れられてしまうことになります。主人の奥さんは、自分の誘いを断ったヨセフに腹を立てて、ヨセフが自分に手を出そうとした、と言って、ヨセフのご主人を騙したのです。主人は怒って、ヨセフを牢に入れてしまいました(創世記39章)。暗い地下牢の中で、ヨセフは絶望的な思いになったかもしれません。どうして、私は、こんなひどい目に合わなければならないのか。最初のうちは、嘘をついてヨセフを悪者にしようとした、主人の奥さんを恨んだかもしれません。せっかくうまく行っていたのに、奥さんのせいで濡れ衣を着せられたのです。冤罪です。

 でも、ずーっと思い返してみれば、そもそも、お父さんの家から引き離されて、独りでエジプトに来ることになったのは、お兄さんたちに憎まれ、恨まれ、見捨てられたからです。母親は違いましたけれど、実の兄弟です。それなのに、お父さんから特別扱いされているというだけの理由で、自分を妬み、裏切り、見捨てたのです。お兄さんたちのことを恨んだに違いありません。何度も何度も助けてくれるように叫んだのに、見捨てて行ってしまった。私が今、こんな苦しい目に合っているのは、あの意地悪で無慈悲なお兄さんたちのせいだ。思い出すたびに、はらわたが煮えくりかえる。
 あるいはまた、お兄さんたちから妬まれる原因を作ったお父さんのヤコブのことを恨んだかもしれません。お父さんが、ほかの兄弟たちと同じように接してくれれば、自分が妬まれることもなかった。お父さんのせいだ。今、ひどい目に合っている。今、つらい目に合っている。その原因を探っていけば、結局それは、犯人捜しをすることになるわけです。誰が悪いのか、誰のせいなのか、今、自分が味わっている不幸の原因を作った犯人を捜すのです。でも、そうやって、突き詰めていけば、主人の奥さん、お兄さんたち、お父さんとたどりながら、でも本当は、お父さんに特別扱いされて、いい気になっていた自分が悪かったということになるのかもしれません。外に原因を求めて、誰かを恨んでいるうちは、その恨みが生きるエネルギーになります。けれども、その矛先が自分自身に向かって、自分を責めることになったとき、人は耐えきれなくなるのではないでしょうか。

 皆さんは、アルフレッド・アドラー(Alfred Adler 1870~1937)という心理学者の名前をお聞きになったことがあるでしょうか。オーストリア出身のユダヤ人の精神科医です。精神分析で良く知られているフロイトやユングと重なりあう時代に生きた人ですけれども、フロイトやユングほどに注目されずに来た人でした。ところが、7、8年前からでしょうか、急に注目されるようになって、書店にはアドラー心理学のコーナーまでできるようになりました。アドラーは、フロイトの研究グループに参加していたこともあるようですけれども、その後、はっきりと違った方向性を求めるようになった人です。
 ごくごく簡単に言えば、フロイトは現在からどんどんさかのぼって、過去に原因を求めていきます。もしかしたら、本人も意識していないような、意識の下に押しやられた過去の経験が、現在の性格や病の原因になっているということを突き止めようとする。その過去の経験がトラウマになって、今もその人を苦しめている、というふうに分析するわけです。どうして暗いところや狭いところを怖がるのかというと、実は、以前、お兄さんたちに暗くて深い穴の中に投げ込まれて、叫んでも、叫んでも助けてくれなかった。それがトラウマになって、暗いところや狭いところに入れられると、動悸が激しくなり、平静でいられなくなる。そういうふうにして、原因を突き詰めていって、原因が分かれば解放されるというのですけれども、いつもうまく行くわけではありません。なぜなら、過去の出来事や体験に原因や理由を求めていく限り、その過去を変えてしまうことができない以上、苦しみはなくならないわけです。
 従来の主流となった精神分析が、過去へと原因を求めて行くのに対して、アドラーは目的を大事にしました。目的に注目して現在を捉えるとき、過去の経験そのものは変わらなくても、その経験のもつ意味が変わるということに注目したのです。過去の経験は変えようがありません。けれども、その経験の意味づけが変わるとき、私たちの人生に対する態度が変わります。生き方が変わるのです。確かに、私たちは、それぞれに自分の人生を生きています。けれども、その私たちの人生を導く、神さまのご計画に目を開かれるとき、神さまの大きな物語の中で、私たちの人生が意味づけられていく、ということにつながるのです。

 旧約聖書に登場するヨセフもまた、神さまのご計画に基づく、神さまの物語の中に、自分自身を位置づけることができたのではないでしょうか。人間的に見れば、不幸のどん底に突き落とされたような人生です。妬みや恨みに取り囲まれて、ちっとも幸せではありませんでした。けれども、10年以上を牢の中で暮らしながら、神さまへの祈りを失わずに生きた中で、自分自身を越えて、神さまのご計画の中で、自分の人生や経験の意味を捉えるようになって行ったのではないかと思うのです。何のために、自分はエジプトに来ることになったのか、そこにも、神のご計画の中で大事な意味や目的があるはずだ。そのように考え直したとき、同じ牢に入れられたエジプトの役人の夢を解いたことが一つのきっかけとなって、エジプト全国の王であるファラオの夢を解くことになりました(創世記40~41章)。
 エジプトの王ファラオが見た夢の中身について、ここで詳しくお話しする時間はありません。謎に満ちた不思議な夢でした。けれども、ヨセフには分かりました。7年の大豊作に続けて、7年の大飢饉が起こる。神さまがファラオにその夢を見せられたのは、大豊作の間に十分な備えをして、来たるべき大飢饉に対する対策を立てさせるためです。そのようにして、ヨセフのいるエジプトを救い、さらには、カナンの地にいるヤコブの家を救うため。そのために、自分はエジプトに来た。自分の意志ではなくて、エジプトに遣わされた。
 ヨセフ自身が体験した事実としては、お兄さんたちの妬みを買って、裏切られ、見捨てられ、エジプトに奴隷として売られてきたのです。けれども、その背後に、神さまの御手が働いていた。神さまのご計画に導かれてきた。神さまが共にいてくださったからこそ、エジプトに来てからの歩みも、不思議な出会いと経験を通して、牢獄の中から新しい歩みが始まったのです。そして、何とも不思議なことに、牢獄の中から引き出され、奴隷から大臣へと引き上げられたのです。王の夢を解いたヨセフは、7年の大豊作の後に襲う7年の大飢饉に備えるための政策を打ち出します。王の信頼を得て、エジプト全土を支配する全権を託されることになるのです。ヨセフは、自分自身が、神さまのご計画の中で導かれ、活かされ、用いられていることに気づいたとき、過去のトラウマから解放されたのだと思います。

 エジプト全土を襲った飢饉は、かつてヨセフが暮らした父の家があるパレスチナの地域全体にも及んでいました。食べるものがなくなります。けれども、ヨセフの賢明な政策のおかげで、大豊作の間に十分な蓄えをしたエジプトには食糧がありました。ヨセフは、父ヤコブに命じられて食糧の買い付けにきた10人の兄たちと、エジプトで再会することになります。ヨセフの方では、部屋に入ってきたのが自分の兄たちであるとすぐに気付きました。けれども、兄たちは気付きません(創世記42章8節)。まさか、奴隷として売られたヨセフがエジプトの大臣になっているとは思いもしませんでした。ヨセフがエジプトで奴隷として過ごしたのが13年、大臣に就任したときは30歳でした(創世記41章46節)。それからさらに7年の大豊作の時が過ぎて、飢饉が始まって2目に入っていました。兄たちと別れてから20年以上、22年ほどの歳月が過ぎていたのです。
 ヨセフは、兄さんたちの本心を探るために、エジプトの状況を探りに来たスパイではないかという疑いをかけて、家の様子や家族のことを聞き出しました。父の家では、ヨセフは死んだと思われていること、そして、その後、ヨセフには弟が生まれていたことも知らされます。弟ベニヤミンの誕生のとき、母ラケルは、命を落としたことも聞かされます。ヨセフは、同じ母から生まれた弟ベニヤミンに会いたくてたまらなくなります。そして、身分を明かさないままで、ベニヤミンを連れてこさせ、自分の兄たちが、どれほどにその弟を大事にしているかということを知ります。年老いた父ヤコブに、大事な子を失わせるような悲しみを二度と味わわせることはできない。そのためなら、ベニヤミンの身代わりとなって自分が罰を受ける、そうまでして、弟のために犠牲になろうとする兄たちの姿勢にヨセフは真実を見ました(創世記43~44章)。ヨセフには、兄たちの語る言葉が、通訳を介さなくてもすべて分かっていたのです。ヨセフはもうそれ以上、こらえきれなくなります。そして、ついに、兄弟たちに自分の身を明かすのです。それが、先ほど朗読した聖書の場面となります。

 もう一度読みます。(創世記45章1-8節)。
 「ヨセフは、そばに立っていた皆の前で、自分を抑えきれなくなり、「皆をここから出してくれ」と叫んだ。それで、ヨセフが兄弟に自分のことを打ち明けたときには、そばに立っている者は誰もいなかった。しかしヨセフが声を上げて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷の者も聞いた。ヨセフは兄弟に言った。「私はヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟はヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。ヨセフは兄弟に言った。「さあどうか近寄ってください。」彼らがそばに近づくと、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです。この二年の間、この地で飢饉が起こっていますが、さらに五年、耕すことも刈り入れることもないでしょう。神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、この地で生き残る者をあなたがたに与え、あなたがたを生き長らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたがたではなく、神です。神が私をファラオの父、宮廷全体の主、エジプト全土を治める者とされました。

 7節にこうあります。「神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、この地で生き残る者をあなたがたに与え、あなたがたを生き長らえさせて、大いなる救いに至らせるためです」。そして、8節「私をここへ遣わしたのは、あなたがたではなく、神です。神が私をファラオの父、宮廷全体の主、エジプト全土を治める者とされました」。これは、ヨセフの信仰告白だと言ってよいと思います。神さまは、ヨセフの兄たちの悪意あるひどい仕打ちをも用いて、ヨセフをエジプトに遣わし、救いの道を備えさせてくださったのです。神は人間の悪巧みをさえ用いて、ご自分の御心を行われる。それが、神の摂理に対する信仰です。使徒パウロは、ローマの教会に宛てた手紙の中で言いました。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています」(ローマ8章28節)。神は、万事を益となるように計らい、導いてくださっているのです。
 ヨセフと兄たちは再会を喜び、和解しました。まだ健在であった父ヤコブと一族の全体は、エジプトの王ファラオの招きを受けて、飢饉の心配のないエジプトに移住することになります。こうして、ヤコブの家に平和が訪れたのです。けれども、父ヤコブが年老いて死んだあと、兄たちは、ヨセフがもう父のことを気にかける必要もなくなって、かつての仕返しをしようとするのではないかと恐れます。それがまた、人間の弱さでしょう。ヨセフ物語の結びにあたる創世記50章19節と20節には、兄たちに向かって、ヨセフが語った言葉が記されています。「ヨセフは言った。『心配することはありません。私が神に代わることができましょうか。あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。』」。ヨセフの兄たちが、ヨセフに対して悪を企てた。その事実は変わりません。しかし、神はそれを善に変えてくださったのです。

 ご計画に従って、ヨセフをエジプトに送り、ヤコブの一族を飢饉から救い出した神は、やがて時が満ちて、さらに多くの民を救うため、すべての民を救うために、大切な独り子をこの地上に送り、独り子イエスの苦難を通して、私たちすべての罪の贖いとしてくださいました。イエス・キリストの十字架と復活による救いを通して、この世界と私たち自身の存在を捉え返すとき、私たちも、ヨセフと同じ信仰の言葉を告白することができるのではないでしょうか。ヨセフは言いました。「私をここに遣わしたのは、神です」。神の大いなるご計画の中で、確かな目的をもって、神が私たちを、今、ここに遣わしてくださっている。ここで活かしていてくださる。この信仰によって、私たちも、自分の過去にとらわれたり、過去に縛られたりすることなく、人生の意味と目的、私たちがなすべきことへと目を開かれます。神のご計画と摂理を信じる信仰によってこそ、私たちは本当の意味で、お互いに赦し合い、お互いを受け入れ合い、和解による平和な交わりを創り上げていくことができるのです。「私をここに遣わしたのは、神です」。神のご計画に基づく大いなる救いの物語の中で、私たちの立つべき場所が備えられ、私たちの生きるべき道が示されるのです。