2023年6月11日 主日礼拝説教「神に愛された子どもとして」 東野ひかり牧師

エフェソの信徒への手紙 第4章25~第5章5節
詩編 第4編5~6節

 エフェソの信徒への手紙から少し長い聖書のみ言葉を読みました。ここに語られていることは実に豊かな内容のあるものです。今朝はここに語られているすべてを網羅してお話しすることはいたしませんが、ここから与えられた神の言葉をしばらくの間ご一緒に聴いてまいりたいと思います。
 今日のこの説教のためにここを繰り返し読みながら、ここに何が語られているのか改めて学んでおりました中で、私の中に思い起こされてまいりました言葉、小さな祈りの言葉を、まずご紹介したいと思います。もう亡くなられましたが、この滝野川教会にもいらしたことのあるカトリックのシスター渡辺和子さんの本に紹介されていたものです。あるプロテスタントの牧師の詩、として紹介されています。(『現代の忘れもの』日本看護協会出版会,1989年,p41)

  「天の父さま
   どんな不幸を吸っても
   吐く息は感謝でありますように
   すべては恵みの呼吸ですから」
 
 この詩、詩というより祈り、と言ってよいものと思いますが、これは、渡辺和子さんが学長をつとめておられた大学の正面玄関にかけられているものだそうです。そしてこの小さな祈りは、そのまま渡辺和子さんの学生たちのための祈りであり、学生たちへの願いでもあったと、渡辺和子さんは書いておられます。少し引用させていただきます。
 〈(学生たちが)卒業をして、いったん、正面玄関を背にして出て行く職場、社会、結婚生活、そこには往々にして思いもかけなかった不幸…がいっぱい漂っている空気が待ち構えています。生きていくためには、その空気を吸わなければなりません。そのように、不幸というものを吸い込んでしまったとしても、それをそのままで、吐き出す人になってほしくない。さらに増幅して、大きな不幸にして他の人に吐きかけるような人になってほしくない。それを感謝に変えて吐き出すことのできる人、それがある意味で本当に強い人であり、本当に優しい人だと思います。他の人が吸わなければいけない空気を汚さない、その強さと、他の人を思いやる優しさを学生たちに身につけてほしいと願っています。〉

 「どんな不幸を吸っても、吐く息は感謝でありますように」。渡辺和子さんが、愛する学生たちに願ったこの祈り、この願いは、今日与えられましたみ言葉からも聞こえてきている、そのように私には思われました。
 第5章3、4節にこうあります。「3 聖なる者にふさわしく、あなたがたの間では、淫らなことも、どんな汚れたことも、貪欲なことも、口にしてはなりません。4 恥ずべきこと、愚かな話、下品な冗談もふさわしくありません。むしろ、感謝の言葉を口にしなさい。」また第4章29節にはこうもあります。「29悪い言葉を一切口にしてはなりません。口にするなら、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い言葉を語りなさい。」そして今日は読みませんでしたが、第5章18~20節にはこのようにもあるのです。「むしろ、霊に満たされ、互いに詩と賛歌と霊の歌を唱え、主に向かって心から歌い、また賛美しなさい。いつも、あらゆることについて、私たちの主イエス・キリストの名により、父なる神に感謝しなさい。
 この言葉を書きましたのは伝道者パウロです。パウロは、愛するエフェソの教会の信徒たちのためにこころを込め、愛をもって、この手紙を書きました。第1章~3章では〈信仰の内容〉を丁寧に書きました。あなたがたの信じている事柄はこういうことだと、実にみごとに信仰の内容を書いています。そして第4章からは、このように信じている人はこのように生きるのだという、〈信仰者の生き方〉を書いています。今日与えられて読みましたところは、あなたがたはこのように生きなさい、このように歩いていきなさいと、キリスト者・信仰者の生き方、生活の仕方が語られているところです。ここにありますのは、伝道者パウロの、愛するエフェソの教会の信徒たちに対する「このように生きてほしい」という切なる願いでもあります。

 今日の聖書の言葉はたくさんのことを語っているように見えます。確かに多くのことが語られています。しかしここで集中的に語られ、問われていますのは、私たちの口から出る、私たちが吐き出す息、つまり「言葉」のことです。私たちの口から出る言葉、私たちの日々の会話のことです。第4章からは〈信仰者の生き方〉つまり倫理的な事柄が語り出されていると申しましたが、そのときにパウロが集中的に問題にしておりますことのひとつが、「キリストの体の部分」とされている者たち・キリスト者たち・信仰者たちがその口から語る「言葉」のこと、お互いに交わすその「言葉」、教会の中で語られる「言葉」の問題なのです。私たちが口にして吐き出す言葉が「悪い言葉」ではなく「聞く人に恵みを与える、聞く人を造り上げる」「必要な」「善い言葉」、そして「感謝の言葉」であるようにということが、ここに集中的に語られているのです。
 私たちが生きていくとき、生活をしていくとき、そこで誰とも話さないで、誰とも言葉を交わさないで、生きていくことはできません。「言葉」は私たちが日常の生活をするときも、教会での生活をするときも、なくてはならないものです。「言葉」によって、私たちは交わり・共同体をつくります。ですからキリストを頭(かしら)とする、キリストの体である教会という交わり・共同体の生活においては、そこでどういう言葉が語られているか、お互いにどういう言葉を語っているかによって、その共同体、その教会がどういう生き方をしているか、どういう教会となっているか、ということが現れ出てくるのです。だからこそそこでの「言葉」が吟味されなければならないのです。
 さらに、キリストの体である教会に連なっている、そのひと肢とされているキリスト者が、それぞれの家族や仕事仲間などと共に過ごすとき、そこでどういう言葉を語っているかというところに、その人の在り方、生き方が現れ出てくる。日常の他愛のないおしゃべり、私たちが無意識に吐き出している息のような言葉、そこでどういう言葉が語られているか。そのことも吟味されなければなりません。

 いったい私たちは、毎日の生活のなかで、家族の間で、職場で、周りの人たちとの関わり合いの中で、どういう言葉を語っているでしょう。コロナが落ち着き、教会の生活にも、以前のような交わりや、会話、対話が取り戻されてきている今、私たちの教会はどのような言葉を語っているでしょう。私たち一人ひとりがこの口から吐き出している言葉は、どのような言葉でありましょうか。改めて、み言葉に照らされながら私たちの言葉を省み、反省させられ、吟味することが求められています。そして、パウロが私たちの口から語ってほしいと願う言葉、また私たちに語るべき言葉を与えてくださる聖霊なる神が、私たちに語ってほしいと切に願っていてくださる言葉を、この口から、私たち一人ひとりの口から、新しく語り始める者とさせていただきたいと思うのです。

 4:29「悪い言葉を一切口にしてはなりません」と言われています。「どんな不幸を吸い込んでも、吐く息は感謝でありますように」。日々の生活の中で、また、教会の生活の中でも、私たちはさまざまな不幸を吸い込まざるを得ません。大きな不幸も、小さな不幸も、いろんな不幸が私たちの周りには漂っています。しかしたとえそれらを吸い込んだとしても、それを「悪い言葉」にして吐き出すようなことがないように。渡辺和子さんの願いと、使徒パウロの願いが、そして、聖霊なる神の願いが重なって聞こえてきます。
 「悪い言葉」と言われています、この「悪い」と訳されている元の言葉には、「腐った、腐敗した、腐って悪臭を放つ」という意味があります。吸い込んでしまった不幸が増幅されて、悪臭を放ちながら吐き出される、そんな腐った言葉を口から出すことのないように。それがパウロと聖霊なる神の切なる願いです。

 4:26には「怒る」ということが言われます。「怒ってはならない」ということが言われているのではありません。詩編の言葉そのままに、「怒りに震える」ということがあっても、そこで「罪を犯してはならない」と言われています。そして「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」と続きます。
 私たちは、〈不幸〉というものを吸い込むとき、それに直面させられるとき、「どうして私がこんな目に遭わなければならないのか」と怒りを覚える、ということがあるのではないでしょうか。理不尽な言葉を投げつけられて、また理不尽な目に遭って怒る、ということがあります。様々な場面で、私たちは怒る、怒りに震える、ということがあります。そのような怒りや怒るということが禁じられているわけではないのです。「怒りに震える」ということがあってよいのです。怒ってもよいのです。けれどもパウロは、大変ねんごろに、いつまでも怒り続けたままでいてはいけない、怒ったまま次の日を迎えるようなことはいけない、と言うのです。
 少し考えてみれば分かるのではないでしょうか。ずっと怒ったままでいたら、私たちはどうなりましょう。怒りが心の中でくすぶり続けていたらどうなるでしょう。その心に何が生まれるでしょう。31節には「悪意」ということが「捨て去るべきこと」として出てきます。心にくすぶる怒りは「悪意」を生むのではないでしょうか。そして私たちの中に生まれる悪意は、さらに熟成されて敵意になり、さらに殺意にまで膨らんでしまうかもしれません。怒りの矛先に、文字通り刃を向けることにもなりかねないのです。
 そして、そのように怒ったままで居続けることは、27節では「悪魔に隙を与える」ことになると言われるのです。「悪魔に隙を与える」というのは、文字通りに言えば「悪魔に場所を与える」ということです。悪魔に居場所を与えてしまう。そんなことになってはならないと言われるのです。

 「悪魔」と聞くと、何だか怪しげな宗教のようだと思われる方もあるかもしれません。けれど聖書では「悪魔」もまた働きます。それは、神に敵対する力、神を信じる者たちを神から引き離そうとする、神に反逆させようとする、人間には抗いがたいほどの力を持つものとして、聖書の中・聖書の時代だけではなくて、今も、この世に働いていると言わなければなりません。
 最近出されました「使徒信条」についての本、平野克己先生がお書きになった『使徒信条―光の武具を身につけて』という本には、繰り返し繰り返し「罪と死と悪魔の力」という言葉が出てきます。そのはじめのところに、洗礼を受けるということは、悪魔の力と決別なのだ、教会は古来洗礼を受けるときに、悪魔の力との決別を宣言したのだ、ということが記されています。「罪と死と悪魔の力」と決別して、悪魔と決別して、悪魔ではなくて「聖霊に場所を与える」、そのことが洗礼式のときに宣言された、というのです。洗礼を受けた者は、悪魔に場所を与えません。これから洗礼を受けられる方々も、悪魔に場所を与えてはならないのです。
 31節に、「一切の悪意と共に捨て去る」べきこととして、「恨み、憤り、怒り、わめき、冒瀆」が挙げられています。ちょうど「怒り」を真ん中に、怒りから生み出されるものが列挙されているような感じです。いつまでも怒ったままでいるとき、そこに相手に対する「悪意」が生じる。そしてその心の中には「恨み、憤り、わめき(これは怒号、とも訳されます)、冒瀆」が生まれてくるということでしょう。怒りは、それが神に向かえば、神に対して悪口を言うことになる、神を冒瀆することになるのです。そしてそこに悪魔は場所を得て、力を振るい始めてしまう。私たちが怒り続け、怒りにこころを支配されて、恨みや憤りをもって、悪意をもって、隣人にわめき始めるなら、怒りの矛先に悪意や敵意をもって向かって行くなら、悪魔は喜び、そして「神の聖霊は悲しむ」(30節)のです。

 もしも私たちの心が悪意に満ちてしまい、敵意に満ちてしまい、「恨み、憤り、怒り、わめき、冒瀆」で占められるようになってしまったら、そしてそのような心の中から口にのぼり、吐き出される言葉が「悪い言葉」「腐った言葉」となって、周りを汚染するようになってしまったら、教会の空気はよどみます。教会の空気が悪くなってしまうのです。また、私たちの家庭の空気も、職場の空気も、友人たちとの楽しい会話の時間のその空気も、どんよりとしてしまうでしょう。そのときに誰がいちばん傷つくか、誰がいちばん悲しむかといえば、「神の聖霊が悲しむ」と、言われる。「神の聖霊を悲しませてはなりません」と言われるのです。
 私たちは、自分が傷つけられること、また、自分が誰かを傷つけてしまうこと、そういうことに一方ではとても敏感なのではないかと思います。人を傷つけないようにと「善い言葉」を語り、「感謝」を口にしようとするということもあると思います。それは配慮であり知恵でもあるでしょう。けれどそのようにして語られる言葉は、うわべだけの「善い言葉」であって、相手に恵みを与え、相手を「造り上げる」というようなものにはならないのでしょう。表面的な善い言葉、感謝の言葉を言っているだけだと自分でも感じます。それは相手にも見抜かれるでしょう。そして聖霊なる神からはもっと鋭く見抜かれることでしょう。
 さらに私たちが、教会の仲間同士の間で、あるいは誰かに対して、愛や赦しの心ではなくて、悪意や敵意をもって、悪意や敵意が滲む言葉で、ほかの誰かのことを噂したり、得意になって批判していたりしたら、そこでそのやり玉にあがる人が傷ついて涙を流すだけではなく、また悪魔が喜びほくそ笑むだけでもなくて、神の聖霊が、神ご自身のお心が、深く傷つけられ、血の涙を流すのです。このことに、私たちはもっと敏感になる必要があるのかもしれません。

 「どんな不幸を吸っても」、そしてそこでどんなに怒りに震えても、その怒りに心を占められることがないように、「吐く息は感謝」となるためには、それではいったいどうすればよいのでしょうか。私たちの口にのぼる言葉が、互いに語り合う言葉が、腐った悪臭を放つ言葉ではなく、人を傷つけ悲しませ、神のお心を傷つけ悲しませ、それによって自分自身も隣人も傷つき悲しみ沈んでしまうような言葉ではなく、周りの空気を汚染してしまうような言葉ではなく、真実に「恵みを与える言葉」、「必要な善い言葉」「人を造り上げる言葉」、そして悪魔ではなく神の聖霊を喜ばせる言葉となるためには、いったいどうすればよいのでしょうか。私たちの語り合う言葉が、恨みや憤り、悪意や敵意の滲んだ腐った言葉ではなくて、感謝と賛美のかぐわしい香りを放つ言葉となって、教会の空気をさわやかにし、さらに私たちの周りの空気をきれいにするようになるためには、いったいどうすればよいのでしょうか。

 第4章32節~第5章2節をお読みします。「互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。ですから、神に愛された子どもとして、神に倣う者となり、愛の内に歩みなさい。キリストも私たちを愛して、ご自分を宥めの供え物、また、いけにえとして、私たちのために神に献げてくださったのです。
 パウロは、こころを込めて、そして愛をもって、私たちにも語ってくれます。ここでも、実に多くのことが語られています。けれどここでも、集中的に語られていることがあると思います。それは、私たちは神に愛されている子どもである、ということです。神に愛されている子ども、すなわちキリストにあって一切の罪を赦していただき、この上なく深く愛されている神の子どもなのだから、その愛の内に歩み、キリストが示してくださった愛と赦しの中に生きなさい、ということです。
 「神に愛された子ども」と言うときの「子ども」ということが示しているひとつのことは、私たちは他のだれのものでもない、悪魔のものでも、自分自身のものでさえなく、神さまのものだ、ということです。3節には「聖なる者にふさわしく」とあります。「聖なる者」というのは神のものとして区別された者ということです。第4章30節後半の言葉で言えば、神の聖霊によって、神のものであるというしるしが刻印された者、ということです。私たちは、神さまのもの、神さまの子ども、神さまのもの、その印をつけていただいている者です。洗礼を授けられた者は、その証印を押された者です。洗礼を受けるということは、自分がもはや自分自身にさえ縛られない者、神に愛されている自由な神の子ども、神さまのものである、そのような「神に愛された子ども」であるということを喜んで受け入れ、言い表すことであるのです。
 「神に倣う者となり」という驚くべき言葉は、神さまのまねをしなさい、というような意味ではなくて、そのような神さまのもの、聖霊の証印を押された「聖なる者」にふさわしく、神さまの愛に、キリストによる赦しと救いに〈見合う者、ふさわしい者〉として生きなさい、ということです。神さまに愛されている、神さまの子ども、神さまのもの、聖なる者、そのような者としてふさわしく生き、そのような者に見合う、ふさわしい言葉を語りなさい、恵みを与える言葉を語りなさい、すなわち互いに赦し合いなさい、と言われているのです。ここでの「赦し合いなさい」という言葉は、文字通りには「恵みを与える」という意味の言葉です。赦すということは、相手に報復ではなくて恵みを与えること、神の恵みを祈り、恵みを与える言葉を語ることなのです。

 この神さまの愛を一番強く確かに知ることのできるところがあります。それは、キリストがご自身を私たちのためにいけにえとしてささげてくださった、そのキリストの愛の中です。
 エフェソの信徒への手紙の第3章14~19節には、パウロの素晴らしい祈りが記されています。「(あなたがたが)キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものかを悟り、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができ」るように、という祈りです。ある人が、この祈りはキリストの愛の中にすっぽりと入ってしまった人の祈りだということを言っていました。中に入った者でなければ、その「広さ、長さ、高さ、深さ」は分からない。この祈りは、キリストの愛を外から眺めている者の祈りではなく、キリストの愛の中にすっぽり入ってしまった者の祈りだと言うのです。パウロは、キリストの愛の中で、その広さ、長さ、高さ、深さに驚きながら、エフェソの教会の人たちもみんな、この愛の中に入って、この愛を知ることができるように、と祈っているのです。
 このキリストの愛の中に、すっぽりと共に、一緒に入って、私たちは神さまに愛されている神さまの子ども、私たちはすべての罪を赦していただいた者、私たちは神さまの者、その証印・しるしを刻印されている者、そのように互いに見つめ合うとき、そしてそのような者としての自分自身をしっかり見つめていくとき、私たちの口から吐き出される息は、たとえどのような不幸を吸っていたとしても、たとえ悪意や敵意を吸ったとしても、大きな感謝になって吐き出されるのです。赦しの言葉、恵みを与える言葉になって吐き出されるのです。

  「天の父さま
   どんな不幸を吸っても
   吐く息は感謝でありますように
   すべては恵みの呼吸ですから」

 私たちの呼吸はすべて恵みの呼吸。神さまの恵みを吸い、神さまの恵みを吐く呼吸です。キリストの愛の中でする呼吸です。私たちがそのようにキリストの愛の中に生き、神さまの恵みを呼吸するなら、教会の空気はすっかり恵みの空気でありましょう。そして私たちを通して、私たちの周りの世界の空気もきれいにされていくでしょう。まるで私たちは、神さまの恵みを、教会の中にも世の中にも、私たちの周りに吐き出していく空気清浄機のようです。恵みの息を吐き続ける、感謝と賛美の息を吐き続けるのです。どんな不幸を吸うときにも、そこで神の愛と恵みを吸い、恵みの言葉を、赦しの言葉を、語り続けるのです。