2023年5月28日 主日礼拝説教「私たちと共におられる神」 東野尚志牧師

イザヤ書 第44章1-5節
ヨハネによる福音書 第14章15-24節

 私たちは、この朝、ペンテコステの記念の礼拝を行っています。「ペンテコステ」というのは、新約聖書が書かれたギリシア語で、「五十番目」を意味する言葉です。ペンテコステの日の出来事を描いた使徒言行録第2章の冒頭で、この言葉は「五旬祭」と訳されています。「五旬祭」の「五」は、数字の「五」です。「旬」というのは、一か月を三つに分けて上旬、中旬、下旬というように、十日を意味します。つまり「ペンテコステ」を日本語に訳した「五旬祭」というのも、五十日目のお祭りという意味をもっているのです。もともとは、過越祭から七週後に祝われた小麦の収穫のお祭りで、「刈り入れの祭り」と呼ばれていたようです。後には、ユダヤ教の教えの中で、モーセに導かれてエジプトの奴隷生活から解放されたイスラエルの民が、シナイ山で神から十戒を授けられたことを記念する日として祝われるようになりました。
 元来は農耕生活に結びついた季節のお祭りであったものが、宗教的な意味づけを与えられて、信仰共同体の絆を強めるための祭りとして祝われるようになったわけです。それにつれて、「刈り入れの祭り」という呼び名のままでは収まりが悪いからでしょうか、「七週祭」、「五旬祭」などと呼ばれるようになります。この五旬祭の日、主イエスの言葉を信じ、祈りながら待っていた弟子たちの群れに、約束の聖霊が降りました。それは、復活された主イエスが天に昇られてから十日後のことでした。十字架にかけられ、三日目に復活された主イエスは、四十日にわたって弟子たちに現れ、神の国について教えられた後、天に昇って行かれました。弟子たちの見ている前で、天に帰られたのです。その十日後ですから、主の復活の日から数えて五十日目に、約束の聖霊が降って、主の教会が生まれたのです。

 二千年前のペンテコステの日の驚くべき出来事は、使徒言行録の第2章に、実に感動的に描かれています。弟子たちが一つに集まって、心を合わせて祈っていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえてきて、一同が座っていた家中に響き渡りました。そして、小さな炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人ひとりの上にとどまりました。すると、一同は聖霊に満たされて、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出したというのです。そのとき、弟子たちは何を語ったのでしょうか。それを聞いた人たちが驚いて語った言葉の中に、はっきりと記されています。使徒言行録によれば、その場に居合わせた者たちは、言いました。「見ろ、話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうして、それぞれが生まれ故郷の言葉を聞くのだろうか。私たちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、リビアのキレネ側の地方に住む者もいる。また、滞在中のローマ人、ユダヤ人や改宗者、クレタ人やアラビア人もいるのに、彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(使徒言行録第2章7-11節)。
 弟子たちは、聖霊に満たされて、いろんな国々の言葉で語り始めました。しかし、言語は違っても、語っていた言葉の中身は同じでした。弟子たちは、さまざまな国の言葉で「神の偉大な業」を語ったというのです。神の偉大な業とは何でしょうか。それは、神から遣わされたナザレの人イエスにおいて、神が成し遂げてくださった救いの御業です。主イエス・キリストの十字架の死と復活によって成し遂げられた救いの出来事です。七週前に起こった出来事の意味について、弟子たちは語り始めたのです。聖霊を受けた弟子たちは、キリストの復活の証人として、聞いている者たちそれぞれに分かる言葉で、主の十字架と復活による救いを語り始めました。それは、驚くべき内容でした。けれどもまた、それこそは、主イエスをお遣わしになった神の計画に基づく救いの業であり、主イエスご自身が、十字架にかけられる前に、弟子たちに予告し、約束しておられた出来事が成就したのです。

 主イエスは、十字架にかけられる前の晩、弟子たちと一緒に最後の食事をなさいました。その食事の席で、主は、十二人の弟子たちにパンと杯を分け与えながら、主の死を記念する聖晩餐を制定されました。福音書記者ヨハネは、その最後の食事の席で、主イエスが弟子たちの足を洗って、仕えること、愛することの模範をお示しになったと伝えています。そのように、目で見て、手で触れた体験を通して、主イエスがその手で足を洗ってくださった、まだその生々しい感触が残っている場面で、主は、弟子たちに、大切な教えを残されました。それはしばしば、「別れの説教」「告別の説教」と呼ばれます。遺言のような重みをもっていました。主イエスは、その言葉を、弟子たちの耳に、またその体に刻み込むように、一言一言、大切に語られました。恐らく、弟子たちは、一言も聞き逃すまい、と真剣に聞き入ったことと思います。主イエスがお語りになる、その言葉の力に圧倒されながら、しかしまた同時に、不安を覚えていたに違いありません。なぜなら、主は、まさに遺言を残して、自分たちのもとからいなくなってしまわれるように思われたからです。
 弟子たちは、主イエスが自分たちを後に残して、一人で旅立っていこうとしておられるように感じました。自分たちは、ユダヤ人の敵意の中に置き去りにされてしまうのではないか、そういう恐れを覚えたのだと思います。主イエスは、弟子たちの不安と恐れをよくわかっておられたに違いありません。だからこそ主イエスは、「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない」と約束されました(ヨハネ14章18節)。それは裏を返せば、弟子たちがそういう不安を感じていたということでしょう。主イエスが去って行かれて、自分たちはみなしごのように、放り出されてしまうのではないか、そんな不安と恐れを抱いたのです。その思いをくみ上げるようにして、主イエスは、再会の約束を告げられました。「あなたがたのところに戻って来る」と約束されたのです。

 主イエスはこの後、十二人の一人であったユダの裏切りによって、園の中で捕らえられ、大祭司の屋敷に連れていかれることになります。さらに、総督ピラトのもとに連れていかれ、死刑の判決を受けることになります。十字架にかけられ、死んで葬られて、そのお姿を目で見ることはできなくなるのです。愛する者の死は、残された者にとって大きな痛みと嘆きを引き起こします。しかし、主は言われるのです。確かに一度は死によって隔てられ、その姿を見ることはできなくなる。しかし、それで終わりではない。死の力を打ち破り、よみがえって、弟子たちのもとに戻って来る、と約束されたのです。主イエスは、「私が生きているので、あなたがたも生きることになる」と言われました(19節)。実に、力強い約束です。
 私たちの生きることは、いつも、死の陰によって脅かされています。愛する者の死、また自分自身の死。自分とは関わりがない、と思っている人の死については、同情はしても、それほどあわてることはないかもしれません。人は誰でもいつかは死ぬのだ、誰も死を免れることはできない、などと悟ったような見方ができるかもしれません。けれども、それが自分の愛する者、自分の家族であったら、どうでしょうか。ウクライナでは、今も多くの命が奪われています。ロシアの兵隊も命を落としています。テレビやネットの報道に接するたびに、私たちは胸が痛みます。一日も早くこの戦争が終わり、平和が実現することを祈っています。しかし、もしも自分の家族や友人が、あの戦火の中にいたらどうでしょうか。テレビを見ていることもできないのではないでしょうか。何とかして、連絡をとって、安否を確認しようと必死になります。犠牲者の数が何人、というような話ではなくて、かけがえのない一人の命のことで慌てふためき、恐れおののくのです。

 愛する家族の死と同じように、主イエスの死は、弟子たちにとって衝撃的なことであったと思います。しかし、主は言われるのです。「私が生きているので、あなたがたも生きる」。主は、確かに十字架に引き渡され、殺されます。しかし、死の力を打ち破ってよみがえられました。そして、復活の体をもって、再び弟子たちに現れてくださったのです。だから、主の復活の命に結ばれて、私たちも生きることになる。主の命は、死を乗り越えた命です。その命につながっているならば、私たちにとっても、死は最後の言葉ではなくなります。私たちも復活の命を生きる者となるのです。
 弟子たちにとって、復活された主イエスがご自身を現してくださり、主イエスと再びお会いしたことは大きな喜び、また慰めであったに違いありません。しかしながら、そこにもまた、別れの時が来ます。ルカによる福音書と使徒言行録の記事によれば、復活された主イエスは、四十日にわたって、弟子たちと共に過ごされましたけれども、四十日の顕現の時を経て、天に昇られました。天に帰って行かれたのです。復活された主イエスと出会ったとき、弟子たちは、どんなに喜び、また心強く感じたことでしょうか。今度こそは、主イエスがいつまでも自分たちと一緒にいてくださって、神の国、神の支配が確立される。そんなふうに期待したかもしれません。ところが、復活から四十日を経て、主は弟子たちが見ている前で、天に昇って行かれました。弟子たちは地上にとり残されたのです。そこでこそ、弟子たちは、もう一つの主の約束を思い起こさなければならなりませんでした。あの食事の席で、主は言われました。「私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」(14章16-17節)。

 父なる神が、主イエスの願いに応えて、「もうひとりの弁護者」を送ってくださるというのです。かつての口語訳聖書では、「助け主」と訳されていました。もうひとり、別の助け主です。それまでは、主イエスご自身がいつも弟子たちと一緒にいてくださり、弟子たちを助けてくださいました。その主イエスがおいでにならなくなる。復活された主イエスとの再会を喜んだのもつかの間、主は天に昇ってしまわれます。やはりまた、自分たちは地上に見捨てられてしまうのか。不安がなかったと言えば嘘になると思います。けれども、主イエスは、ご自分の代わりに、別の弁護者を遣わすと約束してくださったのです。もう少し先に進むと、第16章ではこのようにも語られます。主は言われるのです。「今私は、私をお遣わしになった方のもとに行こうとしている。それなのに、あなたがたのうち誰も、『どこへ行くのか』と尋ねる者はいない。かえって、私がこれらのことを話したので、あなたがたの心は苦しみで満たされている。しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(16章5-7節)。
 口語訳の聖書で「助け主」と訳され、共同訳聖書で「弁護者」と訳されているもとの言葉は、「パラクレートス」という言葉です。「かたわらに呼ぶ」「かたわらで呼ぶ」という意味の動詞から生まれた言葉です。もとの動詞は、聖書のほかの箇所で、「慰める」とか、「励ます」「勧める」というふうに訳されています。かたわらに呼んで何をするのかと言えば、何よりも、落ち込んでいる者を慰め、つまずいている者を立ち上がらせ、助け励まし、勧めるのです。望みを失って道を外れてしまうことのないように、顔を上げさせるのです。主イエスが、父なる神のもとから送ってくださる聖霊は、主イエスご自身に代わって、私たちの傍らにあって、私たちを助け、慰めてくださるお方なのです。

 しかも、この弁護者である助け主は、「真理の霊」と呼ばれています。「真理の霊」について、16章において、主はこうも語っておられます。「言っておきたいことはまだたくさんあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる」(16章12-13a節)。「真理の霊」とは、真理を悟らせる霊、真理を証しする霊、真理に導く霊ということになります。しかも、「真理」という言葉には定冠詞がついていますから、「あの真理」ということにもなります。きょう、朗読をしたのは、ヨハネによる福音書14章の15節以下の段落でしたけれども、その直前の段落、弟子たちとのやり取りの中で、主イエスは弟子たちに告げて言われました。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」(14章6節)。つまり、ここで言う「真理」とは、抽象的な言葉ではありません。もっと具体的に、生ける主イエス・キリストご自身を指している、と言ってもよいのです。主イエスの言葉を重ね合わせて考えてみると、父なる神のもとへ行く「道」は主イエス・キリストであり、そのキリストご自身へと道案内するのが「真理の霊」である聖霊、ということになります。
 聖霊なる神は、確かに、三位一体の一つの位格として、独自に、自由に働かれます。けれども、そのお働きを、真理であるイエス・キリストを証しすること、キリストを告白させることに集中させておられます。そして、私たちが、主イエスを知り、主イエスに対する信仰を言い表し洗礼を受けて、キリストと一つに結ばれるとき、私たちは、聖霊のお働きによって、教会のひと肢として新しく生まれさせていただくことができる。それと共に、父・子・聖霊なる神ご自身の豊かな交わりの中に招き入れられるのです。

 復活された主は、天に昇られ、父なる神のもとから、助け主、慰め主、また弁護者である真理の霊、聖霊を送ってくださいました。実に、主イエスは、そのために天に昇られたと言ってもよいのだと思います。主イエスは、私たちを見捨てて、天に昇られたのではありません。むしろ逆に、聖霊において、私たちすべてといつも一緒にいるようになるために、主は天に昇られたのです。『ハイデルベルク信仰問答』は、使徒信条の言葉を解き明かしていく中で、聖霊については、ただ一つの問答を掲げています。問53「『聖霊』について、あなたは何を信じていますか」。それに答えて、まず「第一に、この方が、御父や御子と同様に永遠の神であられる、ということ」と言います。三位一体の神信仰を明確に言い表した後、さらに続けて言うのです。「第二に、この方はわたしに与えられたお方でもあり、まことの信仰によって、キリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ、わたしを慰め、永遠にわたしと共にいてくださる、ということです」。
 聖霊は、この私に与えられたお方でもある、と告げています。この私にも聖霊が与えられて、真理の霊である聖霊が支えてくださる「まことの信仰」によって、この私がキリストと一つに結び合わされ、キリストご自身とそのすべての恵みにあずからせていただく、というのです。私たち一人ひとりがキリストとつながり、キリストを頭とする一つの群れ、一つの体として生かされるとき、私たちは、キリストの体である教会の交わりに生きる者とされます。使徒パウロは言いました。「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です」(1コリント12章27節)。聖霊は、頭であるキリストと、その体の部分とされている私たちをしっかりとつないでくださる絆だと言ってもよいと思います。私たち一人一人が、キリストの体を造り上げる部分として生かされ、用いられるために、聖霊なる神が私たちを慰め、私たちと共にいてくださるのです。一つの体に一つの霊が満たされます。私たちは、あたかも、一人の義なる人、イエス・キリストの体の中にすっぽりと包まれるようにして、キリストの霊である聖霊に満たされるのです。

 父・子・聖霊なる一人の神、と言います。けれども、主イエス・キリストと父なる神に比べて、聖霊なる神については、なかなか捉えがたく、分かりにくいと感じる人が多いかもしれません。しかし、実際には、私たちにとって、最も身近なところにおられ、いや、私たちのうちに住んで、私たちを神の子として生かしてくださるのが、聖霊なる神です。ペンテコステの日に、小さな炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまったように、神の霊は、私たち一人ひとりのうちに宿ります。しかも、真理の霊である聖霊は、主イエスの言葉を聞いて信じるように、私たちを導いてくださり、私たちを、キリストの体である教会の中に結び合わせてくださるのです。
 主イエスは、この弁護者である聖霊について、このようにも言われます。「弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(14章26節)。聖霊なる神が働いてくださることによって、私たちは、主イエスの言葉を思い起こし、主イエスの言葉が分かるようになります。二千年前のペンテコステの日、それぞれの言葉は違っても、神の偉大な業を語る言葉が聞く者たちすべてに通じたように、聖霊なる神が働いてくださるとき、聖書の言葉が私たち一人ひとりに通じる言葉になるのです。
 主イエスは、この私のために十字架にかかってくださいました。この私のために復活してくださいました。この私のために天に昇られました。そして、この私のために助け主、弁護者である聖霊を送ってくださったのです。キリストの救いの御業を証しする霊、キリストご自身の霊である聖霊において、主はいつも私たちと共にいてくださいます。そして、主が栄光のうちに再び天から降って来られる終わりの日まで、私たちを、主の体である教会の部分として、養い導き、主ご自身の業のために、神の偉大な業のために、用いてくださるのです。

 きょうは、この後、礼拝に引き続いて、定期教会総会を開催します。聖霊なる神が私たちの間に力強く働いてくださって、主の御心に従い、主の体を造り上げていく会議を行うことができるよう、心から願います。