2023年4月30日 主日礼拝説教「真理の言葉を聞こう」 東野尚志牧師

イザヤ書 第63章15-19節
ヨハネによる福音書 第8章39-47節

 主の日の礼拝において、ヨハネによる福音書の御言葉を読み続けています。今から4年前、私が滝野川教会に赴任して、最初に取り上げたのは、コリントの信徒への手紙一でした。もっとも、4年前のことですから、口語訳聖書を用いていました。コリント人への第一の手紙の連続講解説教を始めたのです。過去において、さまざまな混乱やつまずきを経て大きく傷ついた教会を、御言葉によって整えたいという願いがありました。それで、使徒パウロが、異教の地コリントに主の教会を建て上げるため、心を込めて書き送った手紙をとりあげて、教会の方たちと一緒に味わいたいと思ったのです。ほぼ2年の歳月をかけて、コリント人への第一の手紙を読み終えました。そのあとは、続けて第二の手紙へと読み進むと思った方が多かったかもしれません。第二の手紙は、教会再建の戦いを記しています。確かに、それも一つの選択肢でした。
 第一の手紙の終わりが見えてきた頃、役員会の中で、次に礼拝で読むべき聖書箇所について、意見を求めました。私は、滝野川教会に赴任して以来、この教会の中に、礼拝に関わることは、牧師の専権事項という考え方が強いように感じていました。牧師がこうすると言えばそれで決まる。それは、ある意味では、牧師に対する信頼が厚いということの現れであるかもしれません。牧師に任せておけば間違いはない。しかし、それは裏返して言えば、すべては牧師の責任ということにもなります。私自身としては、役員会が牧師と共に教会の課題と責任を担ってくださることを願って、一人で決めずに何でも相談をするように心がけてきたつもりです。
 そんな中で、礼拝で説く聖書についての意見を求めたところ、ある役員から、ヨハネによる福音書を説いて欲しい、という要望が出されました。一人で読んでいても難しくて分からない。ぜひ、説き明かして欲しいと言われたのです。振り返ってみて、私自身は、それまでの牧師としての歩みの中で、ヨハネ以外の三つの福音書については、連続講解説教で取り上げたことがありました。しかし、ヨハネ福音書だけは、まだ続けて説いたことがありませんでした。大いに励まされる思いで、ヨハネによる福音書を取り上げることにしたのです。2021年9月5日、2年前の振起日の礼拝から、この福音書を読み続けてきました。それから約1年半を経て、今、第8章の半ばまで読み進めてきました。

 これまで、ヨハネによる福音書を読みながら、難しいと思われるところがいくつもありました。福音書の中で、主イエスが語っておられる言葉を読むわけです。ところがそこに、福音書を書いているヨハネ自身と、ヨハネの教会が置かれていた時代の状況が重なり合います。主イエスが、ユダヤ人たちに語られる言葉に託すようにして、ヨハネの教会がユダヤ教の会堂に対して主イエスを証ししているのです。それゆえ、そこに描かれる主イエスは、十字架に向かって進んで行かれる主でありつつ、既に復活されたお方でもあります。そこにまた、終わりの日の栄光の主のお姿も重なり合うのです。そのお方が、今、福音書を読んでいる私たちに語りかけてこられる。読んでいるうちに、少々、頭が混乱してきます。確かに、ヘブライ人への手紙の中に記されているように、「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方」(ヘブライ13章8節)です。永遠なるお方ですから、私たちのように、時間の流れの中に縛られているわけではありません。イエス・キリストは、永遠のロゴスとして、初めから神と共におられた方であり、苦難を身に受けた方であり、栄光に輝くお方でもあるのです。
 さらに言えば、ヨハネの福音書に登場する人たちは、対立するユダヤ人たちだけではなく、弟子たちをも含めて、多くの人たちが、主イエスの言葉を正しく理解することができずに、誤解し、当惑し、ついには主イエスに敵対する者として登場することになります。私たちは、しばしば、福音書に登場する弟子たちや群衆のことをうらやましく思うことがあるかもしれません。二千年前、主イエスのお姿を直接自分の目で見て、主の声を直接自分の耳で聴いた人たちは幸せだと思うのです。私たちも、そんなふうに、実際に主イエスに接することができたら、もっと信仰が深まったのではないかと感じたりします。ところが、福音書を読むと、二千年前、主イエスと直に会った人たちが皆、主イエスの言葉を正しく理解したわけではないということが分かります。いやむしろ、誤解の方が際立っているのです。それは、現代に生きている私たちと同じなのかも知れません。主イエスが語られた言葉、さらに、主イエスの言葉を記した聖書は、私たちの知識や常識によって理解できるような言葉ではないからです。
 この先、ヨハネによる福音書の16章で、主はお語りになります。「言っておきたいことはまだたくさんあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである」(ヨハネ16章12~13節)。聖書は、神の霊の導きによって書かれた書物です。だから、私たちもまた、聖霊の導きによらなければ、主イエスの言葉も聖書の言葉も正しく理解することができないのです。きょうも、聖霊の導きを祈り求めながら、主イエスの言葉に耳を傾けて行きたいと思います。

 前回読んだ最後のところ、第8章の38節で、主イエスは言われました。「私は父のもとで見たことを話しているが、あなたがたは父から聞いたことを行っている」。ここで、主イエスがご自分の父と呼んでおられるのは、もちろん、父なる神さまのことです。主イエスは、ご自分が天におられとき、父なる神のもとで見たことを話していると言われるのです。それならば、あなたがた、つまり、主イエスの言葉を聞いているユダヤ人たちも、主イエスの父である神さまから聞いたことを行っている、ということなのでしょうか。実は、主イエスが言われた後半の言葉、「あなたがたは父から聞いたことを行っている」というところは、引照付きの聖書を見ると脚注がついています。底本以外の読みとして「自分の父親から」という読み方が示されているのです。かつての口語訳聖書はその読み方を採用していました。「わたしはわたしの父のもとで見たことを語っているが、あなたがたは自分の父から聞いたことを行っている」というのです。恐らく、この方が、意味がよく分かると思います。同じ「父」という言葉を用いていても、その「父」が違うということです。主イエスは、父である神のもとから来られました。しかし、あなたがたは、別の父の子になっている。だから、私を殺そうとしているのだ、と主は言われたのです。
 「父」の話が出たので、きょうの最初のところ、39節につながります。ユダヤ人たちは答えて、「私たちの父はアブラハムです」と言いました。ユダヤ人にとって、自分たちが信仰の父と呼ばれたアブラハムの子孫であるということは、何よりも大事な誇りであったと思われます。既に前の段落の33節においても、「私たちはアブラハムの子孫です」と語っています。誰の奴隷でもなく、アブラハムの子孫として自由な存在であることを誇らしげに語りました。確かに、主イエスも、37節で「あなたがたがアブラハムの子孫であることは、分かっている」と認めておられます。しかし、すぐに続けて言われました。「だが、あなたがたは私を殺そうとしている」。「だが」と結ばれているように、主イエスにおいては、彼らが「アブラハムの子孫である」ということと、その彼らが主イエスを「殺そうとしている」ということは、本来、つながらないはずのことなのです。なぜなら、アブラハムを選び、アブラハムを召し出したのは神であり、その同じ神が、ご自身の子である主イエスを遣わしておられるからです。

 主イエスは言われます。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をしているはずだ」。なるほど、血筋として、「アブラハムの子孫」であることは認められる。けれども、「子孫であること」と「子である」ことは同じではないと言われるのです。何か、言葉遊びのように思われるかも知れません。しかし、父なる神と主イエスのことを考えれば、よく分かると思います。父なる神と主イエスは一体なのです。主イエスは、父なる神によって遣わされ、この地上に来られて、父なる神の業を行っておられます。それが、父と子との絆であり、父の子であることの証しです。それに対して、主イエスを殺そうとしているユダヤ人たちは、アブラハムの子孫であると言いながら、アブラハムが「信仰の父」と呼ばれるほどに、主を信じ、主の言葉に従ったようには生きていない。それでは、アブラハムの子孫ではあっても、アブラハムの子であるとは言えないと言われるのです。
 主は続けて言われます。「ところが今、あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語っているこの私を殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたがたは、自分の父と同じ業をしている」(40節)。アブラハムは、神の言葉に対して、そのような反抗はしなかった。しかし、神の真理を殺そうとするようなユダヤ人たちの振る舞いは、アブラハムを「信仰の父」として誇り、自分は信仰に生きていると思っていても、実は別のところに父を持っていて、その別の父に従って、その父の業をしているのではないか、と厳しく問われているのです。
 そんなふうに言われて、ユダヤ人たちもむきになって、言い返します。「私たちは淫らな行いによって生まれたのではありません。私たちにはただひとりの父がいます。それは神です」(41節)。「私たちは淫らな行いによって生まれたのではありません」というのは、自分たちは、父親がはっきりしないような者ではない、という意味を含んでいます。これは主イエスが、確かにマリアから生まれたにしても、ヨセフと結婚する前に子を宿したということに対する皮肉が込められているのかもしれません。誰が父親か分かったものではない、ということです。あるいは、旧約聖書以来、イスラエルの神以外の神々を拝むことを「姦淫」と呼んで咎めた預言者の伝統に立って見れば、他の神々との交わりから生まれたのではなく、アブラハムを選びイスラエルと契約を結ばれた唯一の神から生まれた者であることを誇っているのかもしれません。福音書に合わせて朗読したイザヤ書の言葉にありました。「あなたは私たちの父です。アブラハムが私たちを知らず/イスラエルが私たちを認めなくとも/主よ、あなたは私たちの父です」(イザヤ63章16節)。主なる神こそが自分たちの父であり、自分たちは神の子であるという誇りを言い表しています。この信仰に立って、「私たちにはただひとりの父がいます。それは神です」と宣言したのです。

 しかし、主イエスは、そこに潜んでいる欺瞞を暴くように言われます。「神があなたがたの父であれば、あなたがたは私を愛するはずである。なぜなら、私は神のもとから来て、ここにいるからだ。私は勝手に来たのではなく、神が私をお遣わしになったのである」(42節)。神をただひとりの父として、神の子として生きようとするなら、神の御心に従うことが求められます。主イエスは、まさに、神の独り子として、父なる神の御心に従い、父なる神から遣わされてこの世に来られたのです。そして、神の御心に従って、私たちのすべての罪を背負って十字架にかかり、罪の贖いを成し遂げる犠牲の小羊として屠られるために、私たちと同じ人間のひとりとして、この世に生まれてくださいました。御子をお遣わしになった方を父として、父の御心を受けとめるならば、そのようにして地上に来られた主イエスを受け入れ、愛するはずだと言われるのです。それは、主イエスを受け入れず、殺そうとする者たちへの厳しい非難の言葉でもあります。けれどもまた同時に、神の独り子である主イエスを信じ、主イエスを愛し、主イエスにおいて現される神の救いにあずかって、主イエスの兄弟姉妹、神の子たちとして生きるようにとの招きの言葉でもあるのだと思います。しかし、その招きが通じないのです。
 主は続けて言われます。「私の言っていることが、なぜ分からないのか。それは、私の言葉を聞くことができないからだ」(43節)。主イエスは、言葉が通じないもどかしさを味わっておられます。確かに、主イエスが語られる言葉を、耳で聞くことはできます。けれども、主の言葉を真剣に、魂で受けとめることができないために、主イエスを遣わされた父なる神の御心、私たちに対する愛の御心を悟ることができません。言葉が通じないだけではなく、その言葉に込めた思いがすれ違い、ねじれてしまって届いていないのです。そしてついに、主イエスが言われた「別の父」とは誰であるのか、別の父の子として生きているとはどういうことであるのかが、明らかにされることになります。

 主は言われます。「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は初めから人殺しであって、真理に立ってはいない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、偽りの父だからである」(44節)。なんとも恐ろしい響きの言葉です。聖書の中で、最も激しい言葉の一つだと言ってよいかもしれません。本来ならば、神に選ばれたアブラハムの子孫として、さらには、アブラハムの子として、神の御心に従う神の子であるはずの者たちが、悪魔に支配されてしまっているというのです。悪魔に支配されているから、主イエスの言葉を聞くことができなくなっているのです。悪魔に支配されるとき、その人は悪魔の子として、父である悪魔の欲望を満たしたいと思うようになる、と言われるのです。
 それは、既に述べられた「自由」の問題ともつながります。悪魔の子、それは悪魔の奴隷であって、自由ではありません。主イエスは言われました。「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」(31-32節)。悪魔は神の御子に逆らい、神の御子を殺そうとします。だから、悪魔は真理に立ってはいないし、悪魔のうちには真理がないのです。真理を知り、真理によって自由にされるのとはほど遠く、悪魔の偽りに支配され、偽りの奴隷となってしまうのです。それはもはや、ユダヤ人だけの問題ではないと思います。かつては、この主イエスの言葉が利用されて、悪魔の子であるユダヤ人迫害の根拠にされたことがあります。しかし、これは、決して、ひとごとではありません。ユダヤ人であるかどうかという区別を超えて、私たちはいつも、悪魔の誘惑にさらされており、悪魔のささやきにのせられてしまうことがあるからです。魔が差す、という言い方があります。それは、私たちが悪魔の偽りに捉えられ、罪の奴隷となり、悪魔の子になってしまう瞬間だと言って良いかも知れません。

 「悪魔の内には真理がない」。私たちは、そのことをよくわきまえていなければならないと思います。悪魔は、もっともらしい言葉をもって私たちを罪に誘います。悪魔のささやきを聞いていると、そうかなあ、と思えてくるのです。神さまに食べてはならないと禁じられた木の実が、知恵を与える特別な果実のように見えてくる。それを食べれば、目が開けて、神のようになる。そんな気がしてくる。確かに、食べると目が開けました。しかし、神のように自由な存在にはなれませんでした。むしろ、罪の奴隷になってしまったのです。悪魔の偽りの言葉に騙されたのです。悪魔の言葉に唆されて、悪魔の欲望を満たそうとするとき、正論には耳を塞いでしまいます。悪魔の子になってしまうとき、神の言葉を聞く耳を持つことはできなくなります。真理の言葉に耳を塞いで、悪魔に従ってしまうのです。そこには本当の自由はありません。あるのは、放縦であり、まやかしの自由です。そして、ついには、自分の罪の内に死ぬことになるのです。
 主イエスは、罪に支配された惨めな現実を、容赦なくえぐり出して行かれます。それは、私たちを絶望させるためではありません。私たちを本当に愛しておられるからです。私たちを本当に救おうとされるからです。私たちが、偽りの自由、偽りの平安に誤魔化されて、罪の内に死んでしまうことのないためです。その本性から、偽りを並べ立てる悪魔の支配下から、私たちを救い出すためです。主イエスは、ご自分を信じようとしない者たちのことを、深く嘆いておられます。その嘆きは、最後まで私たちのことを諦めず、なんとしても私たちを救い出そうとする、主イエスの熱い思いの裏返しだと言ってよいのではないかと思います。

 主は言われるのです。「しかし、私が真理を語っているので、あなたがたは私を信じない。あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私が真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである」(45-47節)。主イエスは、ユダヤ人たちの頑なさを嘆いておられます。いったんは、主イエスの言葉を聞いて、主イエスを信じたと言われながら、悪魔の言葉に耳を傾け、悪魔の業に捕らえられてしまう人間の弱さ、愚かさを嘆きながら、悪魔の支配下に置かれた私たちを、悪魔のもとから買い戻し、神のもとのするために、ご自身の命をささげてくださったのです。私たちは、主イエスの命という、これ以上ない尊い犠牲によって、神のものとして買い取られました。私たちが、悪魔の子ではなく、神の子となるように、主イエスは、十字架による贖いを成し遂げてくださったのです。
 悪魔を父として、悪魔から出た者か、神を父として、神から出た者か、そのどちらかしかありません。「悪魔である父から出た」という言葉が、動かしようのない事実であれば、救いはありません。けれども、「悪魔から出た」「神から出た」という言葉は、「悪魔に属する」「神に属する」と訳すこともできます。私たちは、主イエスの十字架の犠牲によって、悪魔の支配下から神の支配下へと贖われて、神に属する者とされたのです。だから今、主イエスを信じ、主イエスの声を聞き、神に属する神のものとして、神を心から喜びたたえ、私たち自身を神のものとして、神に献げることができるのです。真理の言葉に耳を傾け、主の言葉にとどまり、主イエスの本当の弟子として、主に従い行く者でありたいと思います。私たちを神の子として養い、形づくっていく命の糧が備えられています。主の食卓にあずかり、この主の食卓から、神の子たちとしての新たな歩みを始めたいと願います。