2023年3月5日 受難節第2主日礼拝説教「イエスを信じる者」 東野尚志牧師

ミカ書 第5 章 1-3 節
ヨハネによる福音書 第 7 章 40-52 節

 先週の日曜日から、週報の色が変わりました。いつもは、普通の白いコピー用紙に印刷しているのですけれども、先週から、少し緑がかった水色、薄い浅葱色(あさぎいろ)のような色に変わりました。私はあまり色の名前に詳しくないのですけれども、事務の方に尋ねれば、正式な色の名前を教えてもらえると思います。どうして、先週から週報の色が変わったのか、その訳はお分かりの方が多いはずです。2月22日の水曜日から、教会の暦が受難節に入ったからです。週報を開いた右の頁、礼拝順序の一行目には、「滝野川教会受難節第二主日礼拝」と記されています。受難節、主イエス・キリストの地上のご生涯のクライマックスとなる十字架への苦難の道を覚えて、悔い改めの祈りをもって過ごす季節です。古くは断食をしました。受難節には、肉を食べないという習慣もありました。受難節に入る前に、カーニバルというお祭り騒ぎをする地域があります。カーニバルは、日本語では「謝肉祭」と訳されたりしますが、もともとは、「肉を取り除く」という意味の言葉から来ており、肉食を断つことを意味します。肉食を慎む受難節を迎える前に、約一週間、食べて踊って楽しんだのです。

 受難節は、レント、四旬節とも呼ばれます。四旬節というのは四十日の期間を意味する言葉です。聖書の中で、四十という数字は特別な意味合いを帯びています。ノアの時の大洪水は、四十日四十夜続きました。モーセが神から律法を授かるために、シナイ山に登って過ごしたのは四十日間でした。そして、エジプトの奴隷生活から解放された民が、約束の地に入るまで、荒れ野で過ごした期間は四十年でした。まさに、神の民イスラエルの歴史を踏み直すようにして、主イエス・キリストは、悪魔の誘惑を受けるため、荒れ野で四十日四十夜、断食されたのです。四十日の断食を経て、空腹を覚えながらも、主イエスは悪魔の誘惑を退けられました。四十日という期間は、苦難と試練を表わします。それはまた、罪の悔い改めの期間であり、備えの期間でもあります。十字架へと向かわれる主のご受難を覚えながら、悔い改めの祈りを深くする時なのです。古くは、復活祭の前夜に洗礼を受ける志願者たちが、祈りと断食をしながら教理を学び、受洗に備える期間でもありました。
 レントの期間は、四旬節、四十日といいながら、実際に数えてみると四十六日あります。六回の日曜日が含まれているからです。この六回の日曜日、滝野川教会の週報の色が変わるわけです。たとえ、受難節の中にあっても、主の復活を祝う主の日は、喜びの日ですから、断食をしません。それで、復活祭の前、六回の主の日を除く四十日を数えて、七週前の水曜日から受難節は始まることになります。その始まりの日、悔い改めのしるしとして、額に灰をつける儀式を行ったことから、この日は「灰の水曜日」とも呼ばれました。受難節の最後の一週間は、特別に受難週と呼ばれます。共観福音書の記述に従えば、主イエスのエルサレム入城を記念する棕櫚の主日から始まり、聖晩餐が制定された洗足木曜日を経て、受苦日を迎えることになります。主イエスは、受難週の六日目、今日で言う金曜日に、十字架にかけられ殺されました。
 それはユダヤの過越祭の時のことでした。ヨハネによる福音書は、主イエスを過越祭で屠られる犠牲の小羊として証ししています。すでに第1章において、洗礼者ヨハネが、歩いておられる主イエスを指して言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(1章29節)。主イエスは、私たちすべての罪を背負って、罪を贖うために屠られた犠牲の小羊なのです。

 私たちの救いにとって決定的な意味を持つ、主イエスの十字架の時と深く結びついているからだと思います。私たちは、ユダヤ教の祭りの中で、過越祭については何度も聞かされており、深く心に留めているのではないかと思います。福音書の受難物語を読むと、何度も繰り返して、過越祭という言葉が出てくるのです。それに対して、同じ三大祭りの一つでありながら、仮庵祭のことは、あまり意識したことがないかも知れません。教会の暦と結びついていないからだろうと思います。けれども、ユダヤ教の祭りとしては、過越祭よりも、仮庵祭の方が盛大に祝われていたのだそうです。バビロン捕囚から解放された民が、最初に祝ったのも仮庵祭でした。秋の収穫祭と結びついて、翌年の春の雨を求める雨乞いの儀式が行われるようになりました。主イエスの時代には、仮庵祭を祝う一週間、毎日、泉から水を汲んで、エルサレム神殿まで運んで祭壇に注ぐという水の祭りが行われていました。ヨハネによる福音書の第7章が描いているのは、その仮庵祭のときに起こった出来事です。
 一週間、毎日水汲みの儀式が行われた後、祭りの最後の日のことです。主イエスは、神殿の境内を賑わしている群衆に向かって、大声で叫んで言われました。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる」(7章37-38節)。主イエスのもとに来て、主イエスが与えてくださる生ける水を飲むならば、ただ一時的に渇きが癒やされるだけではなくて、その水は私たちの内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出て、川のように流れ出るというのです。自分自身がその水に潤されてもはや渇くことのない者とされるばかりか、その水は私たちから溢れ出るようにして、私たちの周りにいる人たちも潤していくようになる。主イエスは、そう言われました。毎日、泉まで水を汲みに行かなくても良いのです。それは何と、魅力的な招きの言葉ではないでしょうか。この主イエスの招きの言葉を聞いた者たちは、いったいどうしたのでしょうか。聞いた者たちの反応が、40節以下、きょうの箇所に描かれているのです。

 皆さんの中に、自分の聖書を読んでいて、心に響いたところに線を引くという方もおられると思います。いつも捕らわれのない、まっさらな心で聖書を読むために、あえて、線を引かないという人もあるでしょう。しかし、ヨハネによる福音書の第7章の中で、恐らく、誰もが線を引きたくなるのは、先ほど読んだ、主イエスの招きの言葉ではないかと思います。毎月、教会から、受洗記念日にお祝いの葉書を送ることを続けています。4 年前、私が滝野川教会に転任してきて、それまで行われていたのを引き継いでいます。月ごとに聖書の言葉を選んで記すのですけれど、私は、その月の礼拝で読まれる聖書の中から、御言葉を選ぶようになりました。先月、受洗記念日を迎える方たちのために選んだのは、まさしく、ヨハネ福音書の7章の37節と38節の言葉でした。先ほど読んだ、主イエスの招きの言葉です。「祭りの終わりの大事な日に、イエスは立ったまま、大声で言われた。『渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。』」。ほとんど迷わずに、この箇所を選んだのです。
 新しい月を迎えました。この月、3 月に受洗記念日を迎える方たちのために選んだ言葉は、きょうの箇所の中にはありません。第8章の御言葉から選びました。きょうの箇所には、残念ながら、線を引きたくなるような言葉がなかったのです。そもそも、きょうの箇所には、主イエスの言葉が記されていません。いや、もっと言えば、主イエスご自身が登場していないのです。40節の最初のところを見ると、「この言葉を聞いて」とあります。「この言葉」というのは、あの主イエスの大きな叫び声です。招きの言葉です。きょうの箇所に描かれているのは、あの主イエスの招きの言葉を聞いた人たちの反応なのです。40節から44節までの段落には、群衆の間の反応が記されています。そして、45節から52節までの段落には、ユダヤ人の指導者たちの反応が記されているのです。

 主イエスの言葉記されていない。主イエスの姿も現れない。そうなると、少し、テンションが下がるのは仕方がないかも知れません。けれども、線を引きたくなるような主イエスの言葉も姿もないなら、あまり重要な箇所ではないのかと言えば、そんなことはないと思います。主イエスは、二千年前のユダヤ人たちに語りかけ、彼らを招かれただけではないのです。主イエスの招きの言葉は、それを読むすべての者たちに告げられていると言ってよいはずです。それならば、きょうのところに記されているのは、ただ二千年前の人たちの反応であるだけではなくて、主イエスの御言葉を聞いた私たち、主イエスの招きを受けている私たちすべての反応でもあります。ここには、私たちの姿が描かれていると言ってもよいのです。皆さんは、どこにご自分の姿を見いだすことができるでしょうか。
 主イエスは言われました。「私のもとに来て飲みなさい」。それは、私たちに語りかけてくる言葉です。この言葉を聞いたら、否応なく、何らかの応答をせざるを得ないのです。「来て飲みなさい」と言われているのですから、主イエスのところに行くのか、行かないのか、その決断を迫られます。もちろん、そんな決断をするつもりはなくて、聞き流してしまう人もいると思います。しかしその人は、主イエスの招きを聞き流して、主イエスの招きに答えないという決断をしていることになるのです。「来て飲みなさい」という主イエスの言葉に促されて、主イエスに注目し、主イエスのもとに出かけて行き、主イエスが与えてくださる水を飲むということは、主イエスを信じることです。主イエスの言葉に従って生きることを意味します。主イエスはいつでも、従うか従わないか、私たちの決断を求めておられるのです。私たちは、ただ、主イエスの教えの中で、自分の役に立ちそうな感動的な言葉だけを切り取って、慰められたり、励まされたり、ということで済ませるわけにはいきません。それは結局のところ、主イエスから離れたところで、主イエスの教えを都合良く利用しようとしているだけのことになります。しかし、主イエスは、私たちが主イエスの招きに応えて、主のもとに近づき、主が与えてくださる命の水を飲むようにと招いておられます。主イエスを信じて、洗礼を受け、主の食卓につくように、命のパンと救いの杯を受ける者になるようにと招いておられるのです。
 さて、主イエスの言葉を聞いた人たちの中には、祭りの興奮がさめやらないままに、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う人がいました。「この人はメシアだ」という人もいました。「あの預言者」というのは、旧約聖書申命記の中で告げられた「モーセのような預言者」を指していると考えられます。申命記18章15節で、モーセはイスラエルの民に向かって言いました。「あなたの神、主は、あなたの中から、あなたの同胞の中から、私のような預言者をあなたのために立てられる。あなたがたは彼に聞き従わなければならない」。主なる神も、モーセに言われます。「私は彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立て、その口に私の言葉を授ける。彼は私が命じるすべてのことを彼らに告げる。彼が私の名によって語る私の言葉に聞き従わない者がいれば、私はその責任を追及する」(18-19節)。「あの預言者」、つまり「モーセのような預言者」というのは、神がお遣わしになる救い主のことです。それは、言葉は違っても、続いて語られた「メシア」と中身はほぼ同じです。救い主です。確かに救い主ですけれども、その人が語る主の言葉に聞き従わない者は裁かれる、という意味では、裁き主でもあるのです。そもそも、「裁く」というのは、「分ける」ことを意味する言葉です。主イエスが、命の言葉を語られるとき、その言葉に聞き従う者と聞き従わない者が分けられることになるのです。
 しかしまた、主イエスの言葉を聞いて、こんなふうに言う者たちもいました。「メシアがガリラヤなどから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」。主イエスはメシアではない、メシアであるはずがない、というのです。その判断の根拠になっているのは、旧約聖書の預言です。先ほどヨハネ福音書と合わせて朗読したミカ書の5章1節です。「エフラタのベツレヘムよ/あなたはユダの氏族の中では最も小さな者。あなたから、私のために/イスラエルを治める者が出る。その出自は古く、とこしえの昔に遡る」。この箇所は、マタイによる福音書の降誕物語の中でも引用されていて、私たちには馴染みのある言葉かも知れません。東の国の博士たちが、不思議な星に導かれて、ユダヤ人の王として生まれた方を拝みにやって来ました。ヘロデ王はその話を聞いて、祭司長や民の律法学者たちを集めて、メシアがどこに生まれることになっているのか問いただします。それに応えて、学者たちが見つけ出したのが、ミカ書の預言の言葉でした。東から来た博士たちは、ベツレヘムを訪れて、そこで幼子イエスを見つけるのです。
 しかし、もちろん、ヨハネの福音書の中には、主イエスがベツレヘムでお生まれになったという記事は、どこにもありません。ヨハネには、いわゆる降誕物語は記されていないのです。主イエスについて知られていたのは、ガリラヤ地方のナザレの村の出身者であるということです。だからこそ、群衆の中のある人たちは、ミカ書の預言を根拠にして、ガリラヤ出身の主イエスがメシアであるはずはない、と判断したのです。しかもそこには、明らかに、蔑みの響きがあります。神殿のあるエルサレムから見れば、ガリラヤは北の果ての辺境の地です。そんな片田舎から、メシアが出るはずがない、というのです。いずれにしても、群衆の間ではいろんな意見が錯綜して、収拾のつかない混乱状態でした。福音書記者は、「こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた」と記します。中には、主イエスを捕らえようとする者もいたけれど、手をかける者はなかったといいます。まだ、主イエスの時は来ていなかったからです。

 一方、群衆の間に対立が生じただけではなくて、ユダヤ人の指導者たちの間でも、イエスとは誰なのか、ということをめぐって、混乱が生じます。45節に「下役たち」が登場します。神殿警護の役人たちです。この人たちは、主イエスを捕らえるために遣わされていた人たちでした。ところが、手ぶらで帰ってきたのです。これは、考えてみれば大変なことです。下役たちは、神殿警護のために、祭司長たちに雇われた身です。主イエスを捕らえてくるようにと命じられたのに、その命令に従わなかったのですから、下手をすれば懲戒解雇、あるいは罰を受けるかもしれません。なぜ、命じられた通りに、主イエスを捕らえて来なかったのでしょうか。主イエスを見つけられなかったというわけではありません。主イエスは、神殿の中で、大声を出して語るほどに、公然と教えておられました。捕まえようとしたけれど、うまく逃げられてしまったというのでもありません。雇い主から問いただされたとき、下役たちは、自分たちの怠慢の言い訳をしようとしたり、責任逃れをしようとしたりはしませんでした。包み隠さず、正直に答えました。「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えたのです。
 「今まで、あの人のように話した人はいません」というのは、なかなか面白い言葉だと思います。原文で見ると、「彼」でもなく、「あの男」でもなく、「あの人間」と書かれています。自分たちと同じ人間です。外見からしても、恐れるに足りない相手だと思われました。相手は一人、下役は複数いるのですから、取り押さえるのは簡単なことであったはずです。それなのに、主イエスが教えておられる、その語り方に圧倒されて、手出しができなかったのです。主イエスが語られた内容よりも、むしろ、その語り方に力があった、権威があったということだと思います。それはまさしく、神から遣わされた方、神の独り子としての権威です。「今まで、あの人のように話した人はいません」。これと似たような響きの言葉を、私たちはこの福音書のプロローグの中で耳にしています。同じ福音書の1章18節です。神の言が肉となって、私たちの間に宿られた。肉をとられた言なる神を指して、福音書記者は証ししました。「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。下役たちの言葉は、神の独り子としての権威に触れた信仰告白だと言ってよいのではないかと思います。

 けれども、知識のある人間、地位のある人間は、人となられた神の権威を、素直に認めることができません。律法についての学問を究めていたファリサイ派の学者たちは、主イエスの権威に圧倒された下役たちを小馬鹿にするように言いました。「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている」。ファリサイ派の律法学者たちは、自分たちだけが神の言葉である律法を正しく解釈して教えることができるとして、律法の知識を独占していました。自分たちの教えに反したり、その教えに依らずに勝手に聖書を解釈したりすることを禁じて、そのようなことをする者は「呪われている」と言って断罪したのです。律法を知らない群衆は、主イエスの言葉に惑わされたとしても、きちんと学問を修めている最高法院の議員たちやファリサイ派の学者たちは騙されない。無学な群衆とは違って、自分たちはイエスの言葉に惑わされたりしない、と啖呵を切ったのです。
 ところがそこに、ニコデモが再登場します。50節は次のように告げています。「彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。『我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。』」。ニコデモは、最高法院の議員であり、ファリサイ派に属する人でした。以前、主イエスのもとを訪ねて、水と霊によって新しく生まれる恵みについて、教えを受けた人です(第 3章)。さすがに、ひと目をはばかったのか、夜の闇に隠れるようにして、主イエスのもとを訪ねて教えを請うたのです。ファリサイ派の仲間たちが、主イエスの教えをちゃんと聞こうともせずに、一方的に、主イエスを断罪しようとするのを見て、黙っていられなくなったのかも知れません。律法の知識を誇る自分たちが、律法が定めた筋道を軽んじていることをたしなめたのです。ところが、自らを誇る者は、簡単に非を認めようとはしません。ニコデモに反論して言いました。
 「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者が出ないことが分かる」。こう言われると、ニコデモも黙ってしまいます。ニコデモの心も微妙に揺れているのです。

 ファリサイ派の学者たちは、自分たちの聖書解釈の伝統に立って、ガリラヤから預言者は出ないという先入観で主イエスについて判断しました。主イエスの招きに答えて、主イエスのもとに来て、主イエスの言葉を真心から聞こうとするのではなくて、異邦人の地と呼ばれたガリラヤを蔑み、ガリラヤ出身だと見なされた主イエスを切り捨てました。そして、その姿勢は変わることなく、主イエスを無き者にしようと機会を狙い、ついには主イエスを十字架につけて殺すのです。
 主イエスは、すべての人に聞こえるように、大声で招きの言葉を語っておられるにもかかわらず、人間的な誇りにこだわって、主イエスに背を向ける者たちがいます。それは、決して、ひとごとではありません。私たちもまた、自分の立場を守ろうとして、自分の利益を守ろうとして、主イエスの言葉に耳を塞ぐことがあるからです。あえて、反論はしなくても、聞き流すという仕方で、無視するという仕方で、神の言葉を殺そうとするのです。私たちの心の中にも、ファリサイが潜んでいます。自分に都合の悪い言葉は聞き流し、自分のために心地よい言葉だけを喜んで聞こうとするファリサイが隠れています。主イエスは、そのようなしたたかな罪の思いから私たちを解き放つために、ご自身の命を犠牲にして、罪の贖いを成し遂げてくださったのです。
 主イエスの招きを受けて、聞き流すのでもなく、背を向けるのでもなく、罪深い自分を抱えたままで、主のもとに来て、主の前にひれ伏すとき、主は十字架の傷を刻んだ両手を広げて、私たちに告げてくださいます。さあ、信じない者にならないで、信じる者になりなさい。私が与える水を飲みなさい。そうすれば、命の水があなたの内に満ち溢れ、あなたの内から溢れ出るようにして、あなたの周りにいる者たちをも潤していくようになる。そう言って、私たちを、聖餐の食卓へと招いてくださいます。悔い改めの祈りをもって、永遠の命の祝福に、共にあずかりたいと思います。