2023年2月5日 主日礼拝説教「うわべで裁くのをやめよ」 東野尚志牧師

創世記第17章9-14節
ヨハネによる福音書第7章10-24節

 早いもので、年が明けてひと月が過ぎて、2月になりました。先週の金曜日、スーパーに買い物に行きましたら、入り口の所に、巻き寿司が積み上げてありました。思わず、買い物籠の中に二本、入れてしまいました。恵方巻きというのですか。節分の日に、その年の恵方、つまり、よい方角に向かって、願い事を思い浮かべながら丸かぶりして、最後まで黙って食べると願い事がかなう、というのだそうです。夕食のとき、食卓で妻と向かい合って、つまり方角など関係なしに、願い事もせず、おしゃべりしながら一本ずつおいしくいただきました。昔は、恵方巻きなんて、あまり言わなかったと思います。コンビニでパート勤務をした経験のある妻によりますと、どこかのコンビニが商魂たくましく、売り上げを増やすために始めたのが大当たりして広まったもののようです。もともと巻き寿司は好きなので、おいしそうな太巻きが並んでいるのを素通りできませんでした。
 実は、ついでに豆も買ってしまったのですけれど、家に帰ってから袋をよく見ると、「この商品は、川崎厄除弘法大師さまにおいて、ご祈祷をいただいたものでございます」と印刷してありました。おやまあ、と一瞬後ろめたい思いがよぎりましたが、私が出た高校は、空海・弘法大師が建てたという由来のある学校で、少々懐かしさも覚えながら、まあ豆に違いはありませんから、これもおいしくいただきました。改めて、私たちの身近なところに、いろんな宗教やまじないが絡みついていることを考えさせられました。季節のめぐりと祭りが深く結びついています。そして、祭りというのは、宗教的な意味合いが強いのです。

 節分、というのは、季節を分けると書きます。その翌日、つまり、昨日が「立春」でした。暦の上では、もう春です。冬の祭りであるクリスマスから四十日が過ぎました。今月の22日の水曜日には、「レント」を迎えることになります。主イエスが十字架にかけられ殺された、主のご受難を覚える季節です。「受難節」とも呼ばれます。そして、その受難節の最後に、受難週を過ごし、受難日から三日目の日曜日に、主の復活を祝うイースターを迎えることになります。主イエスの十字架と復活は、ユダヤ教の暦における過越祭の時に起こった出来事でした。過越祭は、かつて、エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民が、神から遣わされたモーセに導かれ、奴隷の生活から解放されて、救われたことを記念するお祭りです。ユダヤ教における過越祭が、キリスト教会においては、主の復活を祝うイースターの祭りによって上書きされたと言ってよいかもしれません。いにしえの奴隷生活からの解放の祝いは、主イエスの十字架の犠牲による罪からの解放の祝いとして、罪と死の力に打ち勝った復活の祝いとして、新たな救いの光に包まれたのです。
 過越祭の安息日の翌日から五十日目が、七週祭、五旬祭と呼ばれる祭りでした。もともとは小麦の収穫を祝う初夏の祭りであったようです。後には、モーセに導かれてエジプトから脱出し、荒れ野へと出て行ったイスラエルの民が、シナイ山で神から律法を与えられたことを記念する祭りとして祝われるようになりました。そして、まさにその日、主イエスの復活から五十日目、ペンテコステの日に、約束の聖霊が降って教会が生まれたことから、キリストの教会においては、この日を聖霊降臨祭として祝うことになったのです。

 過越祭、五旬祭と並んで、ユダヤ人たちが大切に祝ってきたのが、仮庵祭でした。過越祭が祝われた第一の月から数えると第七の月、現在の暦に換算すると、9月の末から10月頃に当たります。もともとは秋の収穫祭です。そこに、エジプトから脱出したイスラエルの民が、荒れ野で天幕生活をしたことを思い起こすという歴史的な意味が加えられました。仮庵、というのは、耳で聞いただけではピンとこないかもしれませんが、仮小屋のことです。荒れ野で40年にわたって放浪の生活をしたのです。ちゃんとした家を建てることはできませんから、移動できる天幕、テントを張っての生活でした。そのことを記念し、思い起こすように、月の半ば15日から七日間、自分の家の中庭や屋上に造った仮小屋で生活をしました。しかも、立派な材木を用いたりせずに、自然の枝や葉っぱで小屋を造って、そこに足かけ八日間、生活したのです。
 それはただ単に、昔の人の生活や苦労を思い起こすためにするというのではありません。何よりもそこで神さまの恵みを思い起こすのです。厳しい荒れ野での生活においても、神さまがすべての必要を満たして、守り導いてくださった。その恵みを覚えて感謝をする。それは、神さまが与えてくださった収穫を感謝する心ともつながったのだと思います。過越祭、五旬祭、仮庵祭と続く、いわゆる三大祭りの中で、イスラエルの民は、いつも、神さまの恵みを覚えました。神さまが、不自由な奴隷の生活から救い出してくださった、神さまが、神の民として生きるための規範として、十戒を中心とする律法を与えてくださった。そして、神さまは、ただ神の恵みによって生きる者となることを、厳しい荒れ野のテント生活において教え導いてくださった。一年の内に巡ってくる祭りを通して、神の民として生きる祝福と恵みを思い起こし、記念して祝ったのです。三つの祭りの中で、最も盛大に祝われたのが、仮庵祭であったと言われます。

 ヨハネによる福音書第7章に描かれているのは、この仮庵祭のときの出来事です。私たちの聖書では、先ほど朗読した10節から25節までの部分に「仮庵祭でのイエス」という見出しが掲げられています。ユダヤ人の成年男子は、年に三度、いわゆる三大祭りのときには、エルサレムの都に上って、そこで祭りに参加することが定められていました。仮庵祭を迎えたとき、主イエスの兄弟たちは、いいチャンスだから、エルサレムに上って行って、そこに集まったたくさんの人たちの前で、教えを語り、業を見せてやればいいではないかと勧めました。田舎でくすぶっていないで、もっと人前に出て自分を売り込むようにと助言をしたわけです。けれども、主イエスご自身は、それを拒んで、ご自分はこの祭りには上って行かない、と言われました。そのとき、あの印象深い言葉を告げられたわけです。「私の時がまだ満ちていないからである」。
 ところが、いったんは拒んだにもかかわらず、兄弟たちが上って行った後、主イエスご自身も、人目を避けながら、こっそりエルサレムに上って行かれたと言います。エルサレムでは、すでに主イエスのことが噂になっていて、主イエスの姿を捜している人もいました。主イエスのことを「良い人だ」と言う人もいれば、「群衆を惑わしている」と言って非難する人もいたのです。しかし、ユダヤ人の指導者たちの手前、あまりおおっぴらに、主イエスについて話をする者はいなかったと言います。そういう中、主イエスは少し遅れて、エルサレムにお出でになりました。

 14節には、「祭りもすでに半ばになった頃」とあります。祭りは七日間続いたわけですから、その四日目くらいということになります。ようやく半ば頃になって、主イエスは神殿の境内に上って、そこで教え始められたのです。15節には、主イエスの教えを聞いて、ユダヤ人たちが驚いた、と記されています。驚いて言いました。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」。主イエスは、エルサレム神殿の中、人々の前に立って教え始められたのです。それは、ほかの律法の教師たちもしていることでした。ところが、ほかの教師たちとは違うところがありました。それを現しているのが、「学問をしたわけでもないのに」という言葉です。どうして、聞いている人たちに、主イエスは「学問をしたわけでもない」ということが分かったのでしょうか。
 当時、律法を学ぶというのは、自分で律法を読み込んで、理解を深めればよいということではありませんでした。律法を学ぶというのは、律法の教師であるラビに弟子入りして、そのラビの教えを伝授されるのです。つまり、律法を教える者は、その教えがどのラビの権威によるのかを問われました。主イエスが問われたのは、「この人はどのラビの弟子になったわけでもないのに」ということです。どの先生からも教わったことがないのに、どうして、専門家面をして、律法を説いているのか。あなたは誰の権威によって教えているのか、という問いなのです。

 もう今から30年以上前のことになります。私は、東京神学大学を卒業して、神奈川教区の横浜指路教会に伝道師として遣わされました。同じ神奈川にある長老教会の伝統に立つ教会が一緒になって、神奈川教会連合という集まりを作っていました。その当時は七つの教会が属していて、後には、この集まりが神奈川連合長老会を形成することになります。横浜指路教会の鷲山林蔵牧師、鎌倉雪ノ下教会の加藤常昭牧師、藤沢北教会の藤掛豊盛牧師、海老名教会の廣田登牧師、といった錚々たる牧師たちの中で、教会とは何か、どのようにして教会を形成していくのか、さらには、教会同士の協力伝道・伝道協力はどうしたら実を結んでいくのか、熱く議論されるのを聞いているだけで、とても豊かな学びになりました。私は長老教会とは異なる伝統の教会で生まれ、また育ちましたから、すべてが新鮮でした。私の伝道者としての基本は、あの神奈川教会連合の運営委員会の中で形成されたと言ってよいかもしれません。
 その交わりに加えられてすぐの頃、初めて会った当時の鎌倉雪ノ下教会の副牧師の先生から尋ねられたのです。「あなたは神学生のとき、どこの教会で奉仕していたの?」。私が、「はい、滝野川教会です」と答えると、即座に「ああ、大木シューレね」と言われたのです。私があっけにとられていると、その先生は、そのまま行ってしまいました。「大木シューレ」なんて、初めて言われたので、すぐには何を言われたのか、よく分からなかったのです。しばらくして、ああそうか、あの先生の中で、私はそういうふうに分類されたのか、と気がつきました。「シューレ」というのは、ドイツ語で、学校とか学派を意味する言葉です。「あなたは、大木シューレね」というのは、お前は大木英夫の弟子だね、ということです。そんなふうに言われれば光栄なことだと今では思いますけれども、そのときは、カチンときて、なに言ってんの、私はキリストの弟子だ、と思いました。しかし、たとえば、音楽の世界であれば、ピアノであれ、ヴァイオリンであれ、どの先生から学んだか、ということが大事な意味を持ちます。トゥルトゥリエという優れたチェリストは、自分はカザルスから来ている、と言ったことで知られます。けれども、私自身が、「そう、あなたは大木シューレね」と言われたときには、私たちとは違うね、仲間ではないね、と言われたような気がしたのです。

 恐らく、ユダヤ人たちが主イエスの教えに驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言ったときにも、それは、主イエスの学識の深さに驚いて舌を巻いたということではなくて、むしろ、自分たちの尊敬するラビの教えとは違う、あの先生の教えともこの先生の教えとも違う、つまり、自分たちの仲間ではないという意識が強く出たのだと思います。自分たちの仲間ではない者が、仲間である先生と同じように神殿の中で御言葉を説いている。どの先生の教えとも違う教えを自分勝手に説いている。しかも、大先生にも引けを取らず、むしろそれを凌駕するように立派に説いている。それが我慢ならないのです。23節には、「腹を立てる」という言葉が出て来ます。ユダヤ人たちは、主イエスに対して腹を立てているのです。怒りを感じた。そして、ついには、その怒りが、主イエスを十字架につけることになるのです。
 けれども主は言われます。「私の教えは、私のものではなく、私をお遣わしになった方のものである。この方の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである」。確かに、主イエスは、地上のどの教師にも学んではいないし、どの学派にも属しておらず、誰の弟子でもありませんでした。けれども、決して、自分勝手に話しておられるわけではなかったのです。そうではなくて、主イエスをお遣わしになった方、つまり、主イエスの父であり、イスラエルの神である方の教えにほかならないと言われるのです。もしユダヤ人たちが、律法を真剣に行おうとするなら、その律法に示されている神の御心が分かるはずです。そうすれば、主イエスが教えておられることが神から出たものか、自分勝手な思いからかが分かるはずだと、主は言われるのです。

 さらに続けて言われます。「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不正がない」。この言葉は、自分たちは神の律法を忠実に守り、神の御心を行っていると自任していたユダヤ人たちに、鋭い問いを突きつけていると言ってよいと思います。人間的な権威や誇りにこだわるユダヤ人たちが求めているのは、実は、神の栄光ではなくて、自分の栄光なのではないか。自分の栄光、自分の名誉を求めているだけではないのか。だからこそ、自分たちの誇りや栄光を曇らせるような主イエスの存在を認めることができないのです。もし本当に神の栄光を求めるなら、何よりも、神の御心を求めるはずです。その神の御心は、神がお遣わしになった方である主イエスにおいて、はっきりと現されているのです。
 この福音書を読み進めて行く中で、私たちが何度でも立ち帰らせられるのは、第3章16節に記されたみ言葉です。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。ここにはっきりと、神の御心が示されているのです。神さまの私たちに対する愛の御心は、何よりも、神が御子をこの世に遣わされた、という事実の中に現されています。神は、御子イエスを信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得ることを願っておられるのです。もしも、本当に神の栄光を求めているなら、この神の愛の御心が分かるはずです。御子において現された神の愛の御心を知り、その御心を信じて、主イエスを神から遣わされた独り子なる神、救い主と信じて、永遠の命を得ることができるのです。ところが、神の栄光ではなくて、自分の栄光、自分の名誉を求める者は、神がお遣わしになった独り子イエスを受け入れることができません。神の栄光を求めているつもりで、実は自分の栄光を求めており、神の御心を求めているつもりで、実は自分の思いが満たされることを求めているからです。

 果たして、私たちはどうでしょうか。私たちは、本当に神の栄光を求めているのでしょうか。私たちもまたユダヤ人の学者たちのように、神の栄光よりも、自分の栄光を求めているのではないでしょうか。神の御名があがめられることよりも、自分がほめられたり、認められたりすることの方が現実的な喜びになっているのではないでしょうか。神の国、神の支配が実現するよりも、自分の思い通りに振る舞うこと、自分の支配を求めているのではないでしょうか。そして、神の御心が成ることよりも、自分の思いが実現することを真剣に願ってしまう。それは、神の栄光を求めているのではなくて、自分の栄光を求めていることではないか、と主は言われるのです。ユダヤ人たちに問うておられるだけではなくて、私たち一人ひとりに、信仰の真実を問うておられるのです。
 私たちは、確かに、神を礼拝するために、ここに集っています。礼拝をするというのは、まさに、神に栄光を帰するということです。けれども、礼拝において、説教を聞き、献金を献げていることの中においてさえも、自分の栄光、自分の喜びを求めていることがありはしないでしょうか。いや、それを問うよりも先に、御言葉を語っている者自身が、本当に神の栄光を求めて、御言葉を語っていると言えるのか。むしろ、自分が褒められ、喜ばれることを求めていないか、と問われます。神の栄光を求める礼拝においてこそ、まず何よりも、私たちの罪が顕わにされるのです。その私たちの罪が、主イエスを十字架につけたのです。私たちは、ユダヤ人たちが主イエスを十字架につけたと言って、それを批判的に見ることはゆるされません。私たちも、そのユダヤ人と同じ罪を犯してしまうのです。礼拝の中でさえ、神の栄光よりも、自分の栄光を求めてしまう。神の喜びよりも自分の喜びを求めてしまう。そういう深く罪に染まった私たちのために、神の独り子は来てくださり、十字架にかかってくださったのです。

 主イエスは、律法を重んじることをもって、自分たちの正しさを誇ろうとするユダヤ人たちに言われました。「モーセはあなたがたに律法を与えたではないか。ところが、あなたがたは誰もその律法を守らない。なぜ、私を殺そうとするのか」。ユダヤ人たちの敵意と殺意にさらされながら、律法についての問いを出されます。律法は、「殺すなかれ」と命じているのに、なぜ平気で殺そうとするのか。それに対しては、群衆が答えています。「あなたは悪霊に取りつかれている。誰があなたを殺そうというのか」。確かに、群衆の間では、主イエスに対する思いが殺意で固まっていたわけではありませんでした。人々の中には、主イエスを「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいたのです。主イエスの教えが、自分たちの常識で受けとめきれないために、「悪霊に取りつかれている」と感じたのかもしれません。モーセの律法をめぐる言葉の意味が分からなかったのかもしれません。
 そこで、主イエスは群衆に答えて言われました。「私が一つの業を行ったというので、あなたがたは皆驚いている」。ここで言われる「一つの業」が何を指しているのか、前後を読んだだけではよく分かりません。この言葉は、5章に記された出来事を指していると思われます。場所は同じエルサレムです。だから、ユダヤ人たちもよく覚えていたはずです。やはりユダヤ人の祭りのときでした。主イエスは、エルサレムに上って、北側の入り口近く、ベトザタと呼ばれる池のほとりで一人の病人を癒されました。三十八年間も病気のために歩くことのできなかった人を癒されたのです。それは安息日でした。律法には、安息日には何の仕事もしてはならないと記されています。病の癒やしも一つの業、仕事です。主イエスが、安息日の律法を破ったというので、律法を重んじるユダヤ人たちは、主イエスを厳しく非難しました。そして、5章18節には「このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと付け狙うようになった」と記されています。あからさまな殺意にさらされることになったのです。第7章の21節で「私が一つの業を行ったというので、あなたがたは皆驚いている」と言われたのは、そのときのことに触れておられるのです。

 主イエスは続けて言われました。「しかし、モーセはあなたがたに割礼を命じた――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――。だから、あなたがたは安息日にも人に割礼を施している」。これは、福音書と合わせて朗読した創世記17章の言葉に基づいています。その中に、こういう言葉がありました。「あなたがたのうちの男子は皆、代々にわたって、生後、八日目に割礼を受ける」。もしも生まれた日が安息日であれば、その一週間後、八日目も安息日になります。ユダヤ人たちは、安息日であっても、八日目に割礼を施すことは、きちんと守らなければならないと考えました。だから、安息日にも、割礼を施すという大きな仕事をしていたわけです。出血を伴うでしょうから、医者が呼ばれることもあったでしょう。大仕事です。割礼を施すというのは、神の民の一員であるしるしですから、救いに関わります。その意味では、安息日の規定よりも優先される事柄があったのです。
 主イエスは、そのことを指摘した上で言われます。「モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、私が安息日に人の全身を治してやったからといって腹を立てるのか」。これはなかなか面白い指摘です。割礼というのは、体のごく一部に手を加えることであるのに対して、主イエスの癒やしは、その人の全身を健やかにします。体の小さな部分に関わることで、安息日律法の違反が認められるなら、体全体を癒すというもっと大事なことが、どうして認められないはずがあるかというのです。
 
 ユダヤ人たちは、律法の言葉に捕らわれ、細かいことにこだわって、もっと大事なことを疎かにしていたということになります。だから主は言われるのです。「うわべで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」。うわべと捕らわれ、こだわって、もっと大事な救いの本質を見逃してしまう愚かさを指摘されるのです。大事なことは、自分の栄光を求めているか、それとも、真実に神さまの栄光を求めているかです。神さまの栄光を求め、神さまの御心を行っているつもりでありながら、自分の正義や自分の栄誉にこだわっているならば、私たちは、そのこだわりから解き放たれる必要があります。主イエスが語ってくださった言葉をしっかりと心に刻みながら、主は何よりも、私たちが解放され、癒され、救われることを望んでいてくださるということ、そのために、ご自身の命を献げてくださったという愛の御心を受けとめたいと思います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この神の御心が、私たち一人ひとりの上に、そして、造られたすべての者たちの上に、力強く働いています。目に見えるこの世の現実に惑わされることなく、私たちに対する主の御心を、しっかり受けとめたいと思います。