2023年12月31日 主日礼拝説教「神の時に委ねる」 東野尚志牧師

コヘレトの言葉 第3章1~15節
マタイによる福音書 第13章24~30節

 主の年2023年の最後の主の日を迎えました。2023年の最後の日でもあります。明日は、2024年1月1日、新しい年を迎えることになります。一日24時間、同じ時間が流れているはずなのに、その時間の流れの中に、区切りが刻まれるのです。毎年、大晦日の夜には、紅白歌合戦から続いて、年をまたぐようにして「ゆく年くる年」という番組が流れていました。皆さんにとって、「ゆく年」はどのような一年であったでしょうか。また「くる年」はどのような一年になるでしょうか。

 この一年を振り返るとき、何よりも、丸3年に及んだ新型コロナウイルスの脅威がようやく収まってきた、ということが思い浮かびます。2020年の3月以降、突然、社会全体がパンデミックに巻き込まれました。最初の頃は、「不要不急の外出を控える」という言葉が呪文のように繰り返されました。教会もまた社会の一部として、教会に連なる人たちの健康と安全を守るため、集まって共に食事をすることを控えざるを得ませんでした。今年の5月8日から、新型コロナ感染症の位置づけが、2類相当から5類へと引き下げられ、ようやく長いトンネルを抜けた感があります。教会においても、さまざまな場面で4年振りという言葉が語られるようになりました。特に、私たち滝野川教会にとって、4年振りに愛餐会を行えるようになったのは、本当に喜ばしいことでした。
 社会に目を向ければ、WBCにおいて侍ジャパンが世界一を勝ち取り、その後も大リーグでの大谷翔平さんの活躍が、毎日のように報じられました。さまざまなスポーツの分野での日本人選手や日本のチームの活躍が伝えられました。また将棋界においても、藤井聡太さんが八冠を達成したことが大きく報じられました。そうかと思うと、ロシアとウクライナの戦争が長期化する中、生活必需品の値上げが続いて家計を直撃しています。平和を求める世界の願いを受けとめながら、5月にG7サミット、先進国首脳会議が広島で開催されたことは意義深いことでした。ところが、10月に入ると、イスラエルとイスラム過激派の間で、新たな戦争が始まりました。そのような混乱の中で、政治の世界はさらに混迷を深めています。政権与党の派閥ぐるみの裏金作りが明るみに出て、内閣支持率は23%まで落ち込んでいます。一昨年の10月に岸田内閣が発足してから最も低い数字です。
 2023年の世相を漢字一字で表す「今年の漢字」は「税」になったそうです。防衛力強化に向けた財源を賄うために所得税増税の議論が行われています。そうかと思うと、定額減税が話題になり、消費税に関わるインボイス制度が始まったことも報じられています。それほど大きな差が無く、2位に選ばれた漢字は、暑いの「暑」、確かに暑い夏でした。夏が過ぎても暑さが続きました。そして、3位が戦いの「戦」、4位は阪神優勝を受けて「虎」が入ったそうです。世界に目を向ければ、戦争といった人災だけではなくて、地震や山火事、ハリケーンの被害など、自然災害も続いています。地球温暖化が自然の調和をますます狂わせているのではないかと不安を募らせている人も少なくないと思います。

 世界や日本社会の出来事だけではなくて、皆さんそれぞれの家庭や身近な交わりにも、この一年、さまざまな出来事があったと思います。愛する家族を天に送った悲しみと寂しさを刻んだ家もあります。厳しい病との戦いの中で過ごし、あるいは、治療やリハビリに励んでいる人もいます。新たな命の誕生や、子どもや孫の進学、就職など、喜びに包まれた家もあると思います。この世の人たちは、そのような一年の歩みを振り返り、区切りをつけ、気持ちを切り替えて、新しい年を迎えようとするのかもしれません。けれども、私たちは、この一年の終わりに、クリスマスを祝いました。神の御子の来臨を喜び祝いました。この世界におけるすべての出来事を、クリスマスの恵みの中で受けとめることができるのです。
 この世界は、神の独り子が宿ってくださった世界です。歴史の中で、たとえどのようなことが起ころうとも、二千年前の最初のクリスマスのとき、神の御子がこの世に来てくださった、という事実を空しくすることはできません。クリスマスから始まる救いの御業によって、この地上に、そして、私たちの間に、神さまの大きな愛の支配が始まっていることを、私たちは知らされたのです。神の独り子である主イエス・キリストの十字架によって、私たちのすべての罪が贖われ、主イエスの復活によって、死を超える新しい命の祝福が始まりました。インマヌエルの主が、確かに、この一年も、私たちと共にいてくださいました。そして今も、私たちと共にいてくださり、来たる年も、主は私たちと共にいてくださるのです。
 私たちは、クリスマスの恵みの中で一年の歩みを振り返り、救いの光に照らされながら、新しい年を迎えます。喜ぶ者の傍らにも、悲しむ者の傍らにも、十字架と復活の主が共にいてくださいます。すべては神さまの救いのご計画の中で、主の御手を通して与えられたこととして受けとめて行くことができるのです。この世界は、決して、思いがけない偶然が重なり合うようにして進んで行くのではありません。運命や宿命といった、抗い得ない恐ろしい力に縛られているのでもありません。そうではなくて、すべてを見ておられ、すべてを支配しておられる神の御手の中で導かれている。そのように信じることができるのは、何と幸いなことであろうかと思います。私たちは、すべてを自分の思い通りに進めていくことはできません。思いがけないことが起こり、悲しみや挫折を味わうこともあるのです。けれども、そのすべてが、神さまの御手の中にあります。神さまの導きと守りの中にあるのです。主イエス・キリストを私たちに与えてくださるほどに、私たちを愛してくださる神さまを心から信頼し、また愛して、すべてを神さまの御手に委ねることができる。私たちをご自分のものとして守り、支え、導いてくださる救いの御手に、すべてを委ねることができるのです。

 旧約聖書、コヘレトの言葉は告げています。「天の下では、すべてに時機があり/すべての出来事に時がある」(3章1節)。新共同訳聖書では、「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と訳していました。ここでいう「時」は、いつ巡ってくるか分からないような不確かな時ではなくて、「定められた時」であるというのです。「定められた時がある」ということは、言い換えれば、時を定める方がおられるということです。私たちにとって、偶然と思えるような「時」も、あるいは、重苦しい宿命のように思える「時」も、実は、最もふさわしい「時」として、その時を定めておられる方がおられるというのです。
 もちろん、「定められた時がある」と言っても、いつ何が起こるか、ということが、初めからすべて決められているということではありません。2020年に、全世界で新型コロナの感染症が蔓延してパンデミックが起こるということが、歴史の初めに決まっていた、ということではありません。そうではなくて、時を定める方がおられ、すべては、そのお方の導きの中にあることを告げているのです。
 コヘレトの言葉は、神の御手の中にある「時」を、印象深い対句のような表現で列挙していきます。コヘレトの言葉の第3章2節から8節まで、「時」という言葉が28回も繰り返されています。しかも、その28の「時」が、対照的な言葉の組み合わせで14対の「時」として描かれます。「生まれるに時があり、死ぬに時がある」から始まって、最後は「戦いの時があり、平和の時がある」まで、ポジティブなこととネガティブなこと、肯定的なことと否定的なことが対になって描かれます。ヘブライ語の用法でいえば、「生まれるに時があり、死ぬに時がある」というのは、「生まれる時から死ぬ時までのすべて時」を捉えていることになります。つまり、人生の始まりから終わりまで、すべての時が神のご支配の中にあることを告げているのです。

 ヘブライ語で書かれた旧約聖書をギリシア語に翻訳した七十人訳聖書において、28回繰り返される14対の「時」という言葉はすべて、「カイロス」というギリシア語に訳されています。ギリシア語において、時を表すのに、「クロノス」という言葉と「カイロス」という言葉、二種類の時を現わす単語があることをお聞きになったことのある方は多いと思います。時計で計ることのできる量的な時を表すのが「クロノス」という言葉です。それに対して、時計で計ることのできない質的な時、決定的な時を表すのが「カイロス」です。それは、確かに決定的な一瞬の時ですけれども、永遠とつながっている時でもあります。つまり、神の時が、人間の歴史に介入した、そういう決定的な「時」を表すのです。
 神の独り子がこの地上にお生まれになった時、これこそまさに、カイロスの時です。主イエスが十字架にかけられ殺された時、これもカイロスの時です。さらに言えば、終わりの日、主イエス・キリストが再び地上に降って来られ、歴史に決着を付けられる裁きの時、これも究極的なカイロスの時と言えます。神が天地万物をお造りになり、この世界を造られたのは、時間を造られたということでもあります。天地創造は、空間の創造だけではなくて、時間の創造でもありました。そこからクロノスとしての時間が始まり、歴史の流れが始まりました。その地上の歴史の中に、永遠なる神が介入された時、それがカイロスの時です。そして、永遠なるお方である神が、歴史の中に決定的に介入されたのが、神の独り子が人間のひとりとしてこの地上に宿られた出来事だと言ってよいのです。神の御子である主イエス・キリストの生涯において、すなわち、その誕生から十字架・復活において、神ご自身が歴史に介入されたのです。そのままでは、罪と死の力に支配されて、滅びへと向かうほかはなかった世界と私たちを救うために、御子イエス・キリストにおいて、神さまが人間の歴史に介入なさり、救いの道を開いてくださったのです。

 もちろん、造られたものである私たち人間は、造り主である神の「時」を完全に知ることはできません。その最も明らかな例は、キリストの再臨の時を知ることができないというところに現れます。私たちが知らないだけではありません。主イエスは言われました。「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」(マタイによる福音書第24章36節)。私たちが知らないのは当然として、子である主イエスも知らないと言われます。それは、この世界と歴史を支配しておられる父なる神だけが知っておられることだと言われるのです。私たちは、主の再臨の時、最後の審判の時がいつであるかを知ることはできません。その時を定められるのは神であり、神だけが知っておられるのです。
 コヘレトの言葉も告げています。3章11節です。「神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない」。かつての口語訳聖書では、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と訳されていました。この表現の方が馴染み深いと感じられる方は多いと思います。「永遠を人の心に与えた」というところは、「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」と訳されていました。時間の中に生きている私たちに、「永遠を思う思い」が授けられているということ。それは、永遠なるお方であり、時を支配しておられる神さまのことを思う思いが与えられているということでしょう。だからこそ、私たちは、神を信じ、神を愛することができるのです。目に見える世界を超えて、目に見えない神を思うことができるのです。そして、御子イエス・キリストにおいて、私たちに対する愛を現わしてくださった父なる神を信頼して、神にすべてを委ねることができるのです。

 以前にお話をしましたように、今年の12月の主日礼拝はすべて、『日々の聖句 ローズンゲン』に記されたドイツ福音主義教会の主日の日課を用いています。本日の礼拝において、コヘレトの言葉の3章に合わせて選ばれているのは、マタイによる福音書第13章の記事です。「『毒麦』のたとえ」として知られている箇所です。どんなつながりがあるのかと不思議に思われた方があるかもしれません。しかし、良く読んでみると、これもまた、神の時に委ねることを教えているのだと分かります。良い種を蒔いたはずの畑に、毒麦が生えてきたというのです。どうやら敵の仕業だと分かります。夜の間にこっそり敵が来て、毒麦の種を蒔いて行ったのです。生えてきた毒麦を抜いてしまおうと言う僕たちに対して、主人は言います。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦のほうは集めて倉に納めなさい』と刈り取る者に言いつけよう」(13章29~30節)。毒麦を抜くのにも、ふさわしい時があるのです。先走って毒麦を抜こうとして、良い麦まで駄目にするようなことがあってはならない、というのです。
 もしかすると、直接的には、コヘレトの言葉第3章2節の言葉を意識して選ばれたのかもしれません。「生まれるに時があり、死ぬに時がある」と告げた後、続けて語ります。「植えるに時があり、抜くに時がある」。毒麦を抜く時、それは、終わりの日の刈り入れの時、すなわち、裁きの時に委ねられています。私たちは、敵対する者や悪しき者と一緒に過ごすことに耐えられないと思うかも知れません。すぐにでも、敵をやっつけて、悪しき者を根絶やしにしたいと思うかも知れません。しかし、それは、人間的な考えであって、神のなさり方とは違うのです。考えてみれば、もしも、今、成長している途中で、毒麦を抜き去るとなったら、真っ先に抜き去られるのは自分であるかもしれません。けれども、神の独り子である主イエスが来てくださったのですから、毒麦でさえも、終わりの日までに、良い麦に変えられることがないでしょうか。そんなことはあり得ないと誰が言えるのでしょうか。主イエスは、救われる資格のないものを救うために、この地上に来てくださり、ご自身の命を犠牲にして、悔い改めて新しく生まれる道を開いてくださったのです。一人でも多くの者が、悔い改めて、主に立ち帰り、救いのあずかるようにと、神は待っておられるのです。神が忍耐しておられるからこそ、私たちも忍耐して、悔い改めて救われるよう、すべての民に福音を伝えていくのです。自分自身も、この福音によって救われることを望み見ながら、福音を証しするのです。

 「コヘレトの言葉」と同じ知恵文学に分類される「箴言」は、教えています。「人間の心は自分の道のことに思いを巡らすが/主がその一歩を確かなものとする」(16章9節)。かつての口語訳聖書の方が、切れのよい表現でした。「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である」。言い換えるならば、自分で時を定めようとするのではなくて、神の時、神のご計画の中で生きて行きなさい、ということだと思います。自分で自分を裁くことも、神の時を奪い取ることになります。自分自身のことも、また私たちの周りにいる者たちのことも、すべてを裁く権能を持っておられる方にお委ねしながら、神の時を生きて行くのです。

 私たちは、「くる年」をどのように迎えることができるでしょうか。主の年2024年、私たちの教会の創立120周年を祝う年です。これまでの教会の歴史を振り返り、そこに注がれた神の恵みのまなざしと力強い導きの御手を確認しながら、神さまが、「くる年」にもご計画をもって導こうとしていてくださることを信じて、私たちの歩みを、主の恵みの御手に、神さまの時に委ねたいと思います。そして、神さまに委ねたところでこそ、神さまが私たちに見せてくださる祝福と恵みを、しっかりと受けとめていきたいと思います。神さまが私たちに与えてくださる労苦を喜んで担い、その労苦の内に幸せを見いだす。「これこそが神の賜物である」とコヘレトの言葉は告げているのです(3章13節)。自分の時、自分の計画に思いを注ぐ前に、神の時、神のご計画へと思いを高く挙げながら、望みと喜びをもって新しい年を迎えたいと思います。この世界に、神さまの御心が行われますように。滝野川教会の上に、そして、教会に連なる皆さまお一人びとりの上に、神さまの恵みと祝福が豊かに注がれますように。