2023年12月3日 アドヴェント第一主日礼拝説教「救い主が来られる」 東野尚志牧師

ゼカリヤ書 第9章9~10節
マタイによる福音書 第21章1~11節

 12月に入りました。教会の暦は、今日から、アドヴェントと呼ばれる季節に入りました。今日は、アドヴェント第一主日です。いつもお花が飾られているところに、一本のロウソクが立てられ、火が灯っています。来週は二本のロウソクに火が灯ります。一週ずつ、灯されるロウソクの数が増えて、三週目には三本、四週目には四本のロウソクに火が灯ります。今年は、12月24日の日曜日が、アドヴェント第四主日です。そして、教会では、その日に、クリスマス礼拝を行います。そして同じ日の夜に、クリスマスイヴの讃美礼拝を行うことになります。少々あわただしく思われるかもしれません。けれども、そうやって、アドヴェントの礼拝を重ねながら、クリスマスの喜びに備えていくのです。
 教会の暦は、アドヴェントから新しい一年が始まります。教会は、この世の暦よりもひと月早く、新年を迎えているのです。その意味では、先週の日曜日が、一年の最後の主日であったことになります。「終末主日」と呼ばれることもあります。収穫の季節と重なって、世の終わりの刈り入れ、すなわち、最後の審判のイメージと重なり合います。その終わりが、新しい始まりにつながっていくというのも、意味深いことであると、私は思います。私たちは、終わりの日に備える信仰の姿勢をもって、アドヴェントの時を迎えるのです。

 ところで、この「アドヴェント」という言葉は、多くのプロテスタント教会においては、日本語で「待降節」と呼ばれています。「待降節」、主の降誕を待つ季節、と書きます。クリスマスに備える心を良く現わしている言葉だと思います。けれども、もともとの「アドヴェント」という言葉には、「待つ」という意味は含まれていませんでした。「アドヴェント」は、ラテン語に遡れば、「到来」、「やって来る」「何か新しいことが始まる」「出現する」、そんなわくわくするような出来事を現わす言葉です。英語の「アドヴェンチャー」と語源は同じです。神の御子がお出でになる。それは、まさしく冒険でした。日本語の「冒険」という漢字が表しているように、危険を冒すことだったのです。
 神の御子は、今から2000年前、私たちと同じ人間の赤ちゃんとして、この地上に生まれてくださいました。「到来」というには、あまりにも控えめに、ひっそりとやって来られたのです。神の独り子としての栄光は、貧しく小さな幼な子の姿とみすぼらしい飼い葉桶の中に隠されていました。けれども、終わりの日、万物が新たにされるそのときには、御子は、誰の目にも明らかな、神の独り子としての栄光のうちに、再び降って来られます。初めの到来、初めの来臨は、ひっそりと隠されていました。しかし、二度目の来臨は全世界に輝きわたります。イエス・キリストの二つの来臨、二つのアドヴェントによって区切られた時、それが私たち教会の時です。だからこそ、教会はいつでも、待つという姿勢をもって、待ち望む信仰に生きているのです。

 待降節、それは、確かに、救い主メシアの来臨を待ち望む季節です。しかし、間違えてはならないと思います。私たちは、決して、幼な子イエスの誕生を待っているわけではありません。神の御子であるイエス・キリストは、既に2000年前、ひとたびこの世界に来られたのです。2000年前の最初のクリスマスの夜、神の御子は、幼な子の姿で、この地上に生まれてくださいました。イエス・キリストの降誕は、既に与えられた事実です。そして、その事実は、クリスマスの時からおよそ30年を経て、主イエスが十字架にかけられて死なれ、三日目に復活されたことによって、私たちにとって、さらに確かな恵みの出来事として示されました。十字架と復活によって、主イエスが何のために、この世界に来られたのか、クリスマスの意味と目的が明らかにされたのです。
 主イエスは、十字架にかかって死ぬために、この世に生まれてくださいました。ただひとり罪のないお方である神の御子が、私たちの罪をすべて背負って十字架の上で死なれました。御子イエスは、ご自分の命を犠牲にして、私たちの身代わりとなって、私たちの罪のための償いを成し遂げてくださいました。そして、父なる神は、御子を死人の中から復活させてくださいました。この主イエス・キリスト、十字架と復活の主を、私の救い主として信じ受け入れるならば、私たちは罪赦されて、新しい命を与えられます。キリストの死に合わせられて古い罪の自分に死に、キリストの復活に合わせられて神の子として新しく生まれるのです。
 復活された主イエス・キリストは、40日を経て、弟子たちの見ている前で、天へと昇って行かれました。そして、天の父なる神の右に座して、神のもとから、助け主としての聖霊を送ってくださったのです。聖霊なる神は、今も、私たちの内に力強く働きかけてくださり、私たちの内に信じる心を与えてくださいます。愛する勇気を与えてくださいます。そして、天に帰られた主が、再び来られる日、終わりの日の救いの完成の時を待ち望む忍耐と希望を与えてくださいます。英語で、The Second Adventというと、主の「再臨」を現わします。終わりの日、主はすべての者を裁く裁き主として来られ、信じる者たちの救いを完成してくださるのです。だからこそ、教会は、終わりの日、主の来臨を待ち望みながら、祈りを合わせて来たのです。

 使徒パウロが、コリントの教会に宛てて書いた第一の手紙の結びのところに、教会の祈りの言葉が記されています。「主よ、来りませ」(1コリント16章22節)。聖書協会共同訳は、日本語に訳してしまいましたけれども、原文では、アラム語まで遡る言葉が用いられています。かつての口語訳聖書も、また新共同訳聖書も、その言葉の音をカタカナで表記しました。「マラナ・タ」。「マラナ・タ」。日本語に訳せば、「主よ、来りませ」となります。教会は、「マラナ・タ」、「主よ、来りませ」と祈りながら、主の再臨を待ち望みました。世の終わり、裁きを通して救いを完成するために、主イエス・キリストが再びこの地上に来られるときを待ちつつ、主の来臨に備えたのです。
 その祈りは、新約聖書の最後の書であるヨハネの黙示録の中にも貫かれています。黙示録の結びの言葉はこうです。「これらのことを証しする方が言われる。『然り、私はすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来りませ。主イエスの恵みがあなたがたすべての者と共にあるように」(黙示録22章20~21節)。これがヨハネの黙示録の最後の言葉、すなわち、新約聖書の最後の言葉であり、聖書全体の最後の言葉です。主の再臨を待ち望みつつ、主の恵みがすべての者と共にあるようにと祈ることによって、聖書は閉じられます。いや、そのように閉じられることによって、主の再臨の望みへと開かれているのです。

 アドヴェントの季節に入り、主の来臨を迎える思いをもって、今日の聖書の言葉を読みました。聖書の朗読を聞きながら、どこか季節が違うように感じられた方が、多くおられたかもしれません。マタイによる福音書の第21章の記事は、今から四か月ほど後、受難週の初めに読まれることが多いのではないかと思います。「エルサレムに迎えられる」という小見出しがついています。主イエスは、地上のご生涯の最後、過越の祭りのときに、エルサレムに上られました。ろばの背に乗って、主イエスがエルサレムの都に入って行かれる場面は、エルサレム入城の記事として知られます。エルサレムの都は城壁で囲まれていましたから、入城という言い方をするのです。大勢の群衆が自分の上着を道に敷いて、ほかの人たちは木の枝を切ってきて道に敷いたとありました。ヨハネの福音書では、群衆がなつめやしの枝を持って迎えに出た、と記されています。このなつめやしが、口語訳聖書では、「しゅろの枝」と訳されていました。それで、「棕櫚の主日」と呼ばれるようになりました。主イエスが十字架にかけられる最後の週、いわゆる受難週と呼ばれる一週間が、この棕櫚の主日のエルサレム入城から始まるのです。
 合わせて朗読したゼカリヤ書の預言も、棕櫚の主日に、合わせて読まれることが多いと思います。福音書の記事の中で、このゼカリヤの預言が引用されているからです。ゼカリヤは言いました。「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。あなたの王があなたのところに来る。彼は正しき者であって、勝利を得る者。へりくだって、ろばに乗って来る 雌ろばの子、子ろばに乗って」(ゼカリヤ9章9節)。このゼカリヤの預言を成就するように、主イエスは、戦いに用いられる軍馬ではなく、ろばの子の背に乗って、まさに、平和の王としてエルサレムに入られたのです。しかしそれは、十字架へと続く道でした。主はそのために、この世に来てくださいました。その意味では、最初のクリスマスから始まった御子の地上におけるご生涯は、このときのためであった、と言ってもよいのです。「到来する」「来る」という言葉によって、最初のアドヴェントとエルサレム入城と、第二のアドヴェントはつながっているのです。

 先週の日曜日、12月の行事予定表を発行しました。12月一か月分の礼拝の計画が、そこにすべて記されています。実を申しますと、今日を含めて、12月の礼拝の聖書箇所は、「ローズンゲン」という名前で親しまれている『日々の聖句』の聖書日課をもとにして決めました。普段の礼拝においては、私はヨハネによる福音書の連続講解を続けており、ひかり牧師は、マルコによる福音書から説教をすることが多いのですけれど、アドヴェントは特別な期間ですから、普段の聖書から離れて、教会の暦を意識した聖書日課を用いることにしました。『日々の聖句 ローズンゲン』は、小さな赤い冊子として、毎年、刊行されている聖書日課です。ドイツのヘルンフート兄弟団が発行している聖書日課を日本語に訳したものです。ドイツでは、300年近くにわたって中断することなく出版されており、プロテスタント教会の間で、教派を問わず広く愛用されている聖書日課です。また約50の言語に翻訳されて、世界各地で広く用いられています。私たち夫婦も、鎌倉の教会にいた頃から、この「ローズンゲン」の日本語版に親しんできましたので、もう30年近く愛用しています。
 「ローズンゲン」というのは、「ローズンク」というドイツ語の複数形です。ローズンクは、「合い言葉」とか「くじ」という意味で用いられます。このローズンゲンは、一年365日、まず、それぞれの日のための旧約聖書の言葉がくじでひかれ、その旧約聖書の言葉にふさわしい新約聖書の箇所が選ばれているのです。日曜日については、それに加えて、「ドイツ福音主義教会」による主日のための聖書日課が掲載されています。12月のすべての主日、このドイツ福音主義教会の主日日課に基づいて、聖書箇所を選びました。このアドヴェントからクリスマスに向けての主日の日課が、どのようなことを語ろうとしているのか、私なりに、説教題に現わしてみたつもりです。今日の箇所は「救い主が来られる」、来週は「救い主を迎える」、第三主日はひかり牧師の担当で、マラキ書の言葉に基づいて「義の太陽が昇る」という説教題が掲げられました。そして、アドヴェント第四主日、クリスマス礼拝は「神の時が満ちた」、その翌週は「神の時に委ねる」としました。これからひと月の御言葉の流れが、これらの説教題から想像できるのではないかと思います。

 本日、アドヴェント第一主日は、アドヴェントという言葉が表している「到来」「来る」というところに思いを集めました。第一の来臨としての御子の誕生、そして、その誕生の意味が明らかにされる、エルサレム入城から始まる受難週の出来事、さらには、御子がこの地上で、ご自身の命を犠牲にして成し遂げられた救いの業が、私たち一人ひとりにおいて完成される終わりの日、第二の来臨としての終末の時。この三つの時をつなぐことによって、主イエスによる救いの御業がくっきりと浮かび上がってくるのではないかと思います。2000年前の最初のクリスマスの時、神の独り子である主イエスが、この地上に来てくださいました。そして、十字架にかかって罪からの救いを成し遂げるため、エルサレムへと来られました。さらに、終わりの日、救いを完成するために、主は再び来てくださるのです。

 預言者ゼカリヤは、ろばの背に乗る柔和な王の来臨を預言しました。そして、続けて語っています。「私はエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/この方は諸国民に平和を告げる。その支配は海から海へ/大河から地の果てにまで至る」(ゼカリヤ9章10節)。私たちのところに来られたまことの王である方、真実の支配者であるお方が、私たちに平和を告げてくださいます。主の言葉は決してむなしくなることはありません。主イエスは、ご自身の命を犠牲にして、引き裂かれた関係を癒やし、和解による平和への道を開いてくださったのです。私たちは、主イエスのゆえに、主イエスによって、神と和解させていただきました。神に背いて、神の御前から失われてしまっていた私たちが、神のもとに立ち帰ることができたのです。  そして、隣り人との間にも、主イエスのゆえに和解が与えられ、憎しみではなく、愛と平和の交わりを結んでいくことを望み見ることができる。さらには、神に造られたこの世界、自然世界とも和解して、自然を破壊し汚染する者ではなく、自らも自然の一部として調和して生きるようになる。それは、決して、夢物語ではなくて、主イエスによって開かれた救いの道、和解の道、平和への道なのです。霊なる主は、この朝も、私たちのところに来てくださっています。目には見えなくとも、私たちと共にあり、私たちを平和の道へと歩ませてくださるのです。「天には栄光、地には平和」と歌いながら、クリスマスの祝いに備えたいと思います。